2014年1月29日水曜日

伊豆逍遥 〜今も昔も「愛の流刑地」〜

 この週末はいつもの伊豆の隠れ家へ。吹きすさぶ都会の寒風を避け、ここは東京からも行きやすい避寒地だ。加茂郡東伊豆町奈良本、といっても知らない人が多いだろうが、伊豆熱川温泉といえばその名を知らない人は居ない。伊豆熱川駅からだと、温泉街は急な坂を下った海岸ベリだが、奈良本の里は、急な坂を上らねばならない。天城山系の東側の山麓に佇む集落で、みかん園やイチゴ園などの広がる農村地帯である。

伊豆と言えば海を思い浮かべるかもしれないが、伊豆半島は娥娥たる山に覆われた平地の少ない半島。小さな尾根や谷間に隠れ里のような集落が点在している。この山里に築300年の豪壮な古民家がある。かつては奈良本の名主の家であり、一時は奈良本村の役場であったこともあるそうだ。伊豆独特のナマコ格子塀の土蔵や、黒光りした大黒柱、太い梁といった骨格のしっかりした母屋。内装は板戸を改修して組子を入れた障子、へっついのあった台所を改装して玄関とするなど、多少の改装はあるが、江戸時代中期の庄屋建築の特徴を今にとどめる。縁側からは庭が楽しめるし、居間には昔ながらの囲炉裏があり、なんとも心和む空間になっている。また年季の入った立派な組子細工の作り付けの仏壇があり、ご先祖様と一緒に家族で食事をするのだそうだ。

地元の新鮮な海の幸、山の幸をあしらった食事を囲炉裏端でいただきながら聞く、ここの女将の話が興味深い。元々旧名主である名家に嫁いできたのだが、今は我々のような隠れ処族に和みの場を提供してくれている。女将は熱川から南に行った、蓮台寺の生まれで、ここ奈良本に嫁いできたのだそうだが、自分の実家は山の中の隠れ里のような所にあるそうだ。子供の頃から祖母や母から、下田の人は、みやこにいにしえのルーツを持つ高貴な家系の人が多くて、嫁入りや嫁取りはなかなか大変、と聞かされてきたという。奥さんのことは「お方様」と呼ばなくてはいけない、など、何かと「みやこ風」だ、と。この女将もとても風格があり、言葉使いにも品があって、どっしりとした存在感がある。奈良本にも落人伝説があり、下田ほどではないが、やはり古くからの風習や言葉に、どこか鄙にはまれな雅が残っていると言う。

そもそも「奈良本」という地名で想像するのは、やはり「奈良」に関係あるところなのだろうか?ということだ。奈良本の真ん中にある水神社には、その昔、奈良からやってきた人々により開かれた里であることから「奈良本」という地名がついた、と由来が記されている。やはりそうなのか。ではどういう人々がどういう理由でここ伊豆の天城山の東にやってきたのか?

伊豆(伊豆諸島を含む)はいにしえより、流刑の地であったことが知られている。源頼朝が伊豆の蛭が小島に流され、のちに挙兵、源氏再興の決起した話は有名だが、そのずっと前、奈良時代、平安時代から流刑地であった。律令制の時代の724年、配流地として、伊豆(静岡)、安房(千葉)、 常陸(茨城)、佐渡(新潟)、隠岐(島根)、土佐(高知)が 遠流の地と定められた。以降、江戸時代にかけて、伊豆諸島(大島や八丈島など)が遠流(しまながし)の地としては有名だが、伊豆半島にも多くのみやこ人が流されたという。多くは罪人というよりは,政治的な敗者。無念の思いを抱いて送られた人々が多かったのだろう。じっさいに流刑になった人々で、記録に残っているものは少ないようだが、天城山の南、下田にトキノミツクリ(石偏に蠣のつくり+杵、道作)を祀る小さな祠、箕作八幡宮がある。かの壬申の乱後に、大津皇子が謀反の疑いをかけられ非業の死を遂げているが、その舎人であったトキノミツクリが668年に、伊豆に流され、この地で果てたのだそうだ。記録に残る伊豆最初の流刑者だといわれている。
「箕作八幡宮」
伊豆急稲梓駅から下田街道沿いに進むと、
田んぼの脇の山中にある
発見するのは容易ではないが。

この他にも天城山の北、伊豆市の善名寺には館山薬師如来という、流刑者の霊を鎮める仏像が祀られている。小さなものでは路傍に塞の神様やお地蔵様などが、地域の守り神として今も祀られている。1300年以上も前の出来事と、その一族の記憶が受け継がれているのも、その子孫が地元に血脈を受け継いでいるために他ならない。同時に非業の死を遂げた人々が怨霊となって祟りをなす、という奈良時代、平安時代の怨霊信仰によるものでもあろう。みやこにも数々の怨霊鎮めの社や寺があることは既知の通りであるが、こうした遠くはなれた伊豆にも、疫病や、天変地異は、こうした怨霊のなせる技、という考えがあったのだろう。

今は首都圏から簡単に訪れることの出来る温泉地、避寒地で、夏場は海辺や高原のリゾートとしてにぎわう伊豆であるが、こうした歴史を知るのもまた楽しい。まして地元の人から聞く話は、時空を超えていにしえ人と直接会話しているようでワクワクする。女将は、最近は温泉地が寂れて、熱川の駅前も閑散としているし、老舗旅館も二代目、三代目になって人手に渡り、変わってしまったと嘆いていた。それでも、熱川駅で見ていると、電車から降りてくるのは年齢に関係なくカップルが多いようだ。なるほどここは「愛の流刑地」なのだ。私も「温泉付き流刑地」で女房とのんびりするのも悪くないな。



(下田の港。1854年米国ペリー艦隊(黒船)がここに停泊し、ペリー一行が上陸。了仙寺で幕府と下田条約が締結された)



(築300年の古民家のいろりが心和む時間をくれる)



(奈良本の水神社のご神木。ここに奈良本の地名の由来が記されている)




(奈良本の里の路傍には、このようなお地蔵様や,塞の神様が祀られている。お供えが蜜柑というのが伊豆らしい)


スライドショーはこちらから。春を告げる花の写真がイッパイです。⇒

2014年1月16日木曜日

旧前田侯爵邸 〜東京の近代建築を巡る〜

 旧前田公爵家邸宅跡を訪ねた。現在はその広大な屋敷跡は駒場公園となっており、都心では貴重な緑濃い閑静な公園である。英国チューダー様式の洋館(昭和4年竣工)と書院造りの和館(昭和5年竣工)が並立している。和洋並立は明治期以来の大名華族家の邸宅の特色の一つである。洋館の方は関東大震災の後の建築なので鉄筋コンクリート造り。翌年完成した和館は純和風木造建築である。当時は東洋一の豪邸と称されたそうだ。

既知の通り加賀前田家の江戸本邸は本郷にあった。現在の東京大学本郷キャンパス、通称「赤門」のあるところである。その後明治に入り、前田家はこの本郷本邸の土地を東京帝国大学に提供、駒場農学校の土地の一部と交換し、邸宅を構えたのが現在の駒場公園となっている場所である。ちなみに駒場には現在、東京大学の教養学部と先端科学技術研究センター(いわゆる先端研)がある。これらはもともと農学校であったが、後に東京帝国大学農学部となる。さらに本郷キャンパス北の旧水戸邸あとに設立されていた旧制第一高等中学校と交換し、農学部は本郷に、旧制一高が駒場に移った。これが現在の教養学部である。

この建物や加賀前田家については、様々な書籍や案内で説明されているので、ここでの説明の繰り返しは避けるが、興味深いのは、この建物の隣に前田育徳会の建物と書庫がある。特に、ここの尊経閣文庫は日本の古文書、古美術など、国宝、重要文化財の宝庫である。歴史研究でたびたび登場する日本書紀の最古の写本はここに保存されている(残念ながら研究者以外には非公開だが)。前田の殿様は文化芸術の保護、育成、振興に歴代尽くしてきたことは、既知の通りだし、加賀百万石の城下町金沢を訪ねればその馥郁たる文化の香りが街にみちみちていることがすぐに理解出来るが、ここ東京においてもその片鱗を窺い知ることが出来る。関東大震災や戦時中の空襲にも関わらず、また明治維新時の混乱、戦後の混乱の中でもこれらの「文化財」が残ったことは、人類にとっての幸運であろう。これも前田家当主利為侯爵が早くからこれらの文化財を保護するために公益法人を設立して財団に移管し、私有物として散逸を防ぐ努力をしてきたことによる。名家には名家としての文化財保護に役割を果たして来た歴史と、それに伴うなみなみならぬ努力があったことの証だと思う。敬意を表したい。

なお、駒場公園内には日本近代文学館がある。また一角には柳宗悦の民芸運動の拠点、日本民芸館と柳の自宅であった北館がある。散策に楽しみの多いところだ。

目黒区の駒場公園のサイトに建物の詳しい説明がありますのでご覧ください。
http://www.city.meguro.tokyo.jp/shisetsu/shisetsu/koen/komaba.html



(チューダー様式の洋館)



(書院造りの和館)



(二階の書斎)



(テラスから庭園を望む)



(階段室のステンドグラス。)


























































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(撮影機材:Leica M240, Elmarit 28mm, Summilux 50mm, Tri-Elmar 16-18-21mm)

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