2014年4月22日火曜日

お台場散策

 東京臨海副都心のお台場は、週末ともなれば多くの家族連れ、若者達で賑わう人気エリアだ。外国からの観光客も多く、観光地としての魅力も増している。かつて世界都市博覧会を当て込んでこの一体は埋め立てられ、広大な土地が造成開発されたが、バブル崩壊直後の1996年、青島知事時代に博覧会は取りやめ。会場予定地はぺんぺん草が生える空き地のままだったが、しかし、あれから18年、今や東京都心にしてはスペーシャスな、いわばアーバンリゾートとして復活した。さらに2020年にはいよいよ第二次東京オリンピックが開催されることになり、晴海、豊洲地区と並んで更なる発展が期待されるエリアとなっている。怪我の功名、あの時の開発が24年後に生きようとは。ロングスパンで見ると何が起こるか分からない。

 そもそも、「お台場」という地名は、江戸末期1853年のペリー来航(黒船来航)に驚愕した幕府が、一年後の第二次来航に備えて、江戸防備のために急遽突貫工事で設けた八つの砲台(台場)から来ている。実際に肥前佐賀藩が鋳造した西洋式大砲が据えられた。地図のように、品川御殿山沖の海中に一列に並んだ砲台であった。現在は第三台場と第六台場が当時の形を保って残されている。他は撤去されたり、埋め立てにより内陸に取り込まれたりしている。、元々陸続きに設けられた御殿山下台場は、その痕跡を地図上に残すのみである。品川区立台場小学校の敷地がそれである。


しかし、この砲台は砲火を交えること無く、幕府は開国した。ただ、この海上防衛線のおかげで、ペリー提督率いる第二次アメリカ東印度艦隊は江戸湾深く侵入することは無く、神奈川(横浜)に上陸することとなる。かろうじて首都防衛抑止力が功を奏したのだろう。明治以降は帝都防衛のラインとして、東京湾入り口富津沖に新たな海堡が建設され、品川台場の役割は終わった。昭和2年には、東京市に払い下げられていた第三台場が、台場公園として整備される。

 今や近未来的な都市景観の中に点在する台場跡。日本の近代化に向けた「苦悩の第一歩」は、辺りの近代的構造物群の中に、時の動きが止まったように佇んでいる。160年の時間のギャップが、その不思議なコントラストを演出している。グラスアンドスチールの街並、東京タワーと東京スカイツリー、巨大な吊り橋レインボーブリッジ、いずれも草生した台場とは異空間の光景である。「お台場よ、あなたが守ろうとした江戸は、こんなになりました」と。

 台場建設にあたっては、当時、品川の御殿山、八つ山を切り崩して、その土砂を採り埋め立てた。御殿山は江戸時代初期には徳川家康の別邸、品川御殿があったところ。のちに将軍家のお鷹狩り休息所となり、吉宗の時代には、多くの桜が植えられ、江戸の桜の名所の一つ(飛鳥山、墨田堤などと並び庶民の遊興が許された桜名所)であった。広重、北斎などの浮世絵にも描かれた景勝地であった。隣の八つ山も武家屋敷が建ち並び、明治以降も城南五山(島津山、池田山、花房山、御殿山、八つ山)と呼ばれた高級住宅地であった。今もここには、島津家別邸(清泉女子大本館)や、岩崎家別邸(三菱開東閣)などの洋館が建ち並び、閑静な住宅街である。

 こうして江戸屈指の景勝地は、黒船来航ショックのなかで消滅した。桜を愛でる名所どころではなかったのだろう。今では、さらに御殿山を南北に分断する形でJR新幹線、東海道線、京浜東北線、山手線、横須賀線が通っている。わずかな跡地にはホテル、マンション、教会が建っており、きれいに整備された庭園があるが、往時の桜の名所の面影は無い。八つ山は、その名を京浜急行の踏切と第一京浜の「八つ山橋」に残している。ここから南が東海道品川宿。ちなみに東京湾に現れたゴジラが上陸したのはこの八つ山橋である。ゴジラも黒船も外からやって来た破壊的イノベーションだった。

 激動の幕末から明治にかけて、この街はその都市景観を「江戸」から「東京」へと激変させてきた。その時代の要請で取り組まれた国家プロジェクトの遺構は、都市の栄枯盛衰のなかで歴史の痕跡として海中に取り残されることとなった。しかし近代国家の首都のウオーターフロントは、新たな国家プロジェクトの舞台として三たび注目されることとなる。我が国の近代化のドアをこじ開けた「黒船来航」、それへの抵抗というファーストリアクションを象徴する台場。これからも次々と新たな「蒸気船」、すなわち時代のイノベーションが押し寄せてくることになるだろう。つわものどもが夢の跡... ウオーターフロントは常に新しい時代の波に洗われ続ける。第二、第三の「開国」という。



(第三台場。石垣と黒松が美しい。昭和2年に公園として整備されている)



(高い土手に囲まれた内側には、陣屋跡、弾薬庫跡、砲台跡などが保存されている。今年最後の八重桜が咲き誇っていた)




(旧防波堤、鳥の生息地になっているので、通称鳥の島と呼ばれている。)



(彼方側と此方側の景観コントラスト。時空の隙間が見える感じだ)




(レインボーブリッジ。左が第六台場、右が第三台場)




(第三台場の黒松の間からの光景。まるでタイムカプセルの内側から未来を覗くように)

2014年4月10日木曜日

あおによし寧楽の京師は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

 春爛漫、奈良散策に良い季節がやって来た。奈良公園散策コースには幾つかあるが、私のおすすめお散歩コースは次のとおり。一日で定番スポットを見て回れて、しかも緑豊かな公園都市を満喫できる。

 近鉄奈良駅からスタートすると、登大路通りを歩いて県庁屋上(意外に知られてないが、一般開放されていて景色が良い)へ。東大寺南大門へは登大路を通らず、吉城園、依水園経由で、戒壇院を左手に見ながら、東大寺南大門、参道へ。大仏殿からは、裏の大仏池散策へ(ここは紅葉の季節は穴場スポット)。そこからは大和路写真の巨匠、入江泰吉氏おすすめの二月堂へ石畳の上り道。二月堂から、修復なった三月堂、手向山八幡、若草山へと歩を進める。さらに春日大社への小道を進む。春日大社からは若宮、春日の杜の禰宜の道(この辺までくると観光客はパタリといなくなる)を通って高畑町へ抜ける。新薬師寺、白毫寺、入江泰吉写真美術館(ここのカフェで一休み)。斎藤茂吉旧宅、高畑町を散策しながら、奈良町方面へ。今西家住宅、福智院、元興寺、奈良町を散策。なら工芸館に立ち寄り、西御門通り、餅飯殿商店街、猿沢池、興福寺、と回って、東向商店街を抜けて、近鉄奈良駅へ戻る。

 奈良観光の定番コースではあるが、一万歩を軽く超える徒歩散策である。一部観光客でごった返すところもあるが、概して静かな杜の小径、花を巡る散策コースであることがうれしい。昔の興福寺境内、春日大社の神域が、明治以降そのまま奈良公園として保存されている。このコースを4月の桜の頃歩くと、桜はもとより、色とりどりの花々と新芽の出始めた新緑の樹木が美しく輝いている。「奈良七重七堂伽藍八重桜」という芭蕉の句が浮かんでくる。


奈良散策と言っても、ここは平城京の東に張り出した「外京」であったところである。かつての平城京をすべて巡る訳ではない。平城京は遥かに広い。しかし、なぜこのような張り出し部分が平城京に設けられたのであろうか? ここには権勢を誇った藤原一族の氏寺である興福寺、産土神である春日大社。飛鳥古京から移設した蘇我氏ゆかりの元興寺(なぜ藤原鎌足が滅ぼした蘇我氏の寺を平城京に移すことを許したかはもう一つの歴史の謎であるが)、そして藤原不比等の孫娘、光明子の夫である聖武帝発願の東大寺などの壮麗な建築物が並んでいた。いわば藤原氏の権勢を偲ばせるエリアである。そのためにわざわざ外京を設けた、といっても過言ではないだろう。

 この外京部分が現在の奈良公園、奈良市の中心になっている。かつての平城京の中心、平城宮大極殿は現在の西大寺駅と大宮駅の間に広がっている平城宮跡にあり、平安遷都後は農地になってしまっていた。薬師寺、唐招提寺は西ノ京駅付近。ここものどかな田園地帯になっている。大官大寺(大安寺)はJR奈良駅の南に位置する。都の南の門、羅城門は大和郡山市との境界辺りだ。かつての奈良の都、平城京の中心的な施設は、現在では町外れになってしまっている。平安遷都後の奈良は、こうして外京が町の中心となり発展する。これには、興福寺や春日大社の存在が大きかった。平安時代から鎌倉時代の初めには「南都北嶺」すなわち、南都奈良の興福寺、北嶺比叡山の延暦寺が力を持ち、興福寺の僧兵は春日大社の神輿を押し立てて朝廷や幕府に強訴するようになる。戦国乱世にもこうした僧兵勢力の力は織田信長の叡山焼き討ちに象徴されるように、時の権力者を脅かした。江戸時代に入ると徳川幕府は奈良を直轄地とし、奈良奉行所を置いた(現在の奈良女子大学)。明治維新後の廃仏毀釈で興福寺が廃れたが、その結果、広大な興福寺の寺域が残り、公園として整備されることになる。江戸・東京で、上野寛永寺跡や芝増上寺が公園整備されたのと同じような経過だ。しかし、そのおかげで、このような緑豊かな公園都市が生まれた。世界遺産にも登録されている。

 「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり 」(『万葉集』3-328)


太宰府政庁跡に建つ小野老の歌碑
小野老(おののおゆ)が太宰府で詠んだ歌である。時は聖武天皇の御代、天平文化華やかなりし時代である。平城京はその最盛期を迎えていた。小野老はそのころ筑紫の太宰府に赴任。当時、太宰府には太宰大弐大伴旅人や筑前守山上憶良、観世音寺別当沙弥満誓らが居り、都から赴任してきた官人を中心に筑紫歌壇が全盛を誇っていた。着任したばかりの小野老もその仲間として、天さかる鄙に赴任した気持ちを和歌に託してを詠んだであろう。その一首がこの歌である。太宰府政庁跡(都府楼跡)と平城宮跡の双方に歌碑がある。やがて「長屋王の変」が起こり、皇族である長屋王が藤原不比等一族によって抹殺され、藤原4兄弟中心の権力基盤が確立すると、それにつながる宮廷官僚が昇進する。藤原氏に近い小野老も順調に昇進し、太宰大弐に叙任されるする。ちなみに小野老は太宰少弐小野毛野の子、先の遣隋使小野妹子の孫である。

 上の写真は、太宰府政庁跡に建つ小野老の歌碑である。大野城を背後に壮麗な太宰府政庁の建物が建ち並んでいたのも古のこと。今は巨大な礎石に往時を偲ぶのみである。太宰府は当時は「遠の朝廷」と呼ばれ、中央から高官が赴任し、先ほどの「筑紫歌壇」のような華やかな文化サロンが繰り広げられていたのだが、やはり、遠い都の今を盛りのさんざめきが懐かしかったのであろう。ため息が聞こえるようだ。太宰府、九州と言うと、後世平安時代の菅原道真を待つまでもなく、左遷の地というイメージがつきまとう。なんとも「中央目線」だ。都から転勤して来た官人には、ことさらに「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)」が心の中で美しく輝いていたことであろう。

 こうして今、あらためて奈良を散策すると、確かに美しい。小野老や芭蕉ならずとも、この美しさを何らかの方法で表現したくなる。私の場合、写真で巧く表現出来れば良いのだが。京都よりも古い古都は、滅びの美と栄華の残影が、よけいに時間と空間の中で熟成され、えも言われぬ歴史の香りを醸し出す町となっている。美しく咲き誇る季節ごとの花々が、その古色の風景に彩りを与えてくれる。という訳で、スライドショーには選びきれないほどの大量の写真がアップされている。なかなか、ベストショットを選ぶ眼力と感性と決断力が培われてないのが悲しい。



(若草山から東大寺大仏殿を望む)





(大仏殿の裏手から二月堂へと続くの石畳の道。奈良写真の巨匠入江泰吉氏お勧めのエリアだ)



(新薬師寺への道。季節ごとの花々が美しい高畑町界隈)


スライドショーはこちらから→



(撮影機材:Nikon Df+AF Nikkor 28-300mm)

2014年4月7日月曜日

大宇陀に又兵衛桜を愛でに行く 〜阿騎野の里散策〜

 桜の季節だ。都会の桜は一斉に咲き誇り、華やかにボリュームを競う。そうして大勢の人を呼び、喧噪の中に散り始めた。見事な咲きっぷりだが、この時期は何となく気ぜわしい。開花は何時なのか?天気はどうだ?どこが見頃か?混雑ぶりは? そういってるうちに、早くも散り始める。開花から一週間という短い間に見所を回らねば、という強迫観念がそうさせるのだろう。そうした慌ただしさが「お花見」なのかもしれないが、もう少しゆったりと桜を愛でることは出来ないものか。

久しぶりにこの季節、大和路を散策することが出来た。しかも、大阪にいたときに訪れることの出来なかった、奈良大宇陀の「又兵衛桜」(本郷の瀧桜)を、ついに訪ねることが出来た。大宇陀は美しい佇まいの街並の織田氏の城下町。何度か散策に訪れたことがある町だ。城下町といっても、織田松山藩3万石という小藩の町で、壮大な縄張りの城下町とはかけはなれた静けさだ。むしろ商家が軒を連ねる在郷町の雰囲気の方が強いように感じる。

又兵衛桜は、この大宇陀の古い街並の西、1kmほど離れた阿騎野の里にある。大宇陀川沿いの山の斜面に樹齢300年超の古木が、孤高の古武士のように屹立している。車でないとなかなか行きにくいところだが、最近は有名になって観光バスで団体さんが押し掛けるようになった。また、前を流れる本郷川の河川敷の整備が進み、観光客用の広場や見物スペースも用意され、山間にひっそりと佇む老木のイメージが薄れてしまった。周辺があまりにもきれいに整備されると、まるで場違いなステージに立たされた老優のようでもある。それでもその風格と時空を超えた存在の重さを十分に感じさせる。

この日はあいにく天気が不安定で、晴れていたかと思うと急に雨が降り始めるという、花見にはあまりよろしくない一日であった。近鉄榛原駅からバスに乗って大宇陀高校で下車。日頃の行いが悪いせいか、よりによってバスを降りると、いきなり雷様のお出迎え。激しい雷雨にしばし万葉公園の体育館の軒先で雨宿り。小降りになってから雨の中を1キロほど歩くと、雨にけぶる山肌に又兵衛桜が見えてきた。なんとドラマチックな出会いではないか。そして雨上がる...

「又兵衛桜」の名前の由来は、江戸時代初期の剣豪、後藤又兵衛にちなんでいるそうだ。後藤又兵衛は、今年のNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場しているが、黒田官兵衛に育てられ、官兵衛の子で筑前52万石の当主となる黒田長政の家臣となる。勇猛ぶりで名を馳せた黒田24騎の一人として活躍する武将である。後に諍いがあり黒田家を出奔する。最後は大坂夏の陣で、豊臣方の武将として大坂城に入り、道明寺の戦いで壮絶な戦死を遂げたといわれている。講談などで登場する剣豪として人気の有名人だ。ある意味、黒田官兵衛や長政よりも人気があったかもしれない。その又兵衛、実は大坂城を抜け出して生き長らえ、ここ大和の宇陀の地に隠遁、静かな余生を送ったのだと。その屋敷跡に桜の古木が残った、と地元では伝えられている。この他にも、「その後の又兵衛」の伝承が残っている地域がある。大分県の豊前中津にも彼が晩年を過ごした地というのがあって、耶馬渓には墓まである。源義経伝説のように、人々に愛された英雄の生存伝説はあちこちに語り伝えられている。

この辺りは古くから阿騎野(あきの)と呼ばれ、飛鳥、奈良時代には宮廷の狩り場であったところだ。推古天皇の時代、「薬狩り」が催されたことが『日本書紀』に記されている。「薬狩り」は宮中行事でもあったとされ、男性は猟を、女性は薬草を摘んだ。天武・持統天皇の時代にも阿騎野で行われたと文献に残る。万葉歌人・柿本人麻呂も草壁皇子、軽皇子(のちの文武天皇)に随行し、この地に秀歌を残した。大宇陀の町と阿騎野の里を見渡すことの出来る「かぎろいの丘」に登ると柿本人麻呂の万葉歌碑が建っている。

「東の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ 」(万葉集 巻1-48)

まさに春爛漫、本当に美しい風景だ。桜、桃、梅、椿、レンギョウ、ユキヤナギ、ハナスオウ、モクレン、コブシが一斉に咲きほこり、青紅葉や、樹々の新芽が浅葱色に芽吹く。田んぼにはレンゲやスミレが咲き誇る。先ほどまでの雨で山肌には煙霧がかかっている。ああ美しい。なんと心癒される時間と空間であることか。いつまでもここに佇んでいたいものだ。

山懐に抱かれた里の曲がりくねった田舎道を歩いていると、本郷川に沿って杜に囲まれた古社に出会った。いかにも古神道の原風景を見るような鎮守の森だ。阿紀神社である。現在の社殿は安土桃山時代に現在地に建立されられたのもだという。伊勢神宮と同じ神明造の社殿で、りっぱな能舞台を備える。創建の歴史は不明である。、現在の杜のすぐ隣の丘に「高天原」の標識があり、元々はここに鎮座ましましていたのだと言う。ご祭神(主神)は天照大御神。この神社も幾つかある「元伊勢」の一つだ。しかし、その佇まいは、天武・持統治世の皇祖神創出に先立つ、田の神、山の神、といった自然神、地元の産土神のそれである。この地元の神も、後に天照大御神を頂点とする皇祖神システムに組み入れられていったのだろう。

また、記紀には、神武天皇が熊野から大和国中を目指して進軍するとき、阿騎野から菟田野(うたの)を八咫の鴉(やたのからす)に導かれ、無事に通過することが出来たと記されている(近くに八咫鴉神社がある)。背後には、神武軍の大和侵攻の司令塔の役割は果たしたと言われる伊那佐山も、その秀麗な甘南備の山容を誇っている。ここ宇陀では地元の「荒ぶる神々」に行く手を阻まれて苦戦するが、ついにはこれらの抵抗勢力を破り、大和国中に進駐。橿原宮にて初代天皇として即位した。記紀が語る「日本建国」物語のクライマックスの場面である。また674年の壬申の乱では、吉野を出た大海人皇子がここ菟田野で狩人たちに導かれて東国伊勢へ脱出、やがて体制を立て直して近江京を落とし、大和に凱旋して天武天皇として即位する。何やら似たような展開だが、この壬申の乱の話が、記紀編纂のなかで参考にされ、「神武東征」物語の原型になったのだろうともいわれている。今は穏やかな山里、阿騎野、菟田野は、熊野、吉野、伊勢と大和国中を結ぶ回廊として、たびたび歴史に登場する重要な舞台であった。

阿紀神社をさらに先へ進むと、やや小高い丘の上に天益寺(てんやくじ)がある。この寺は真言宗の寺で鎌倉時代創建の古刹である。阿紀神社の神宮寺として建てられたという。ここの枝垂れ桜がまた絶品だ。不幸にも平成11年の不審火により堂宇は消失したが、この桜の巨木は残った。又兵衛桜からは徒歩で5分ほどの近さであるにもかかわらず、訪れる人も無くひっそりと里を見下ろしている。しかし、その伸びやかな枝振りと、輝く花弁の美しさは,又兵衛桜とは別の趣を醸し出しており、その風景を独り占めするという贅沢を楽しむことができる。

都会でのにぎやかで慌ただしい桜三昧で、やや「桜酔い」の眼に、人知れず山里に咲き誇る桜の古木の立ち姿。又兵衛桜は有名になりすぎてしまったが、それでもその孤高の品格が心に沁み入る日本の桜の風景であることは間違いない。


(「又兵衛桜」(本郷の瀧桜)。あいにくの雨であったが、それはそれで風情がある)


(孤高の古武士のような風格を感じる)


(阿紀神社の杜)


(結界を示す注連縄と紙垂が美しい。紙垂は稲作の神である雷の形を表したものと言われる)


(天益寺の枝垂れ桜。ここからは阿騎野の里、大宇陀松山の街並が展望できる)


(下から見上げるとまた見事)



(甘南備の山、伊那佐山)


(大宇陀松山の街角。重要伝統的建造物群保存地域に指定されている)



(撮影機材:Nikon Df+AF Nikkor 28-300mm。ブラパチ風景ハンティングにほぼ万能のセット)


「又兵衛桜」の場所を見るには「Google マップで見る」をクリックしてください。


アクセス:近鉄大阪線「榛原」駅下車。奈良交通バス「大宇陀」行きで「大宇陀高校」下車。そこからは徒歩で15〜20分。県道に沿って歩くのが分かりやすいが、一歩脇道に入って里の景色を楽しみながら散策するのがおすすめ。案内標識はよく整備されている。