2016年1月21日木曜日

女人高野室生寺に雪が降った 〜土門拳の世界に迫る?〜



雪の鎧坂


桧皮葺五重塔

 この冬は暖冬傾向だったが、ここに来て急速に冷え込んで大阪もことの外寒かった。そして奈良にもようやく雪が降った。雪の大和路は美しい。その中でも雪景色といえば女人高野室生寺。この室生寺に通い詰めた土門拳が、どういうわけか雪景色だけは撮ったことがなかったという。しかし「全山白皚々(はくがいがい)たる雪の室生寺が一番」という当時の室生寺住職の言葉に触発されて一念発起。カメラ機材一式を持ち込み冬の橋本屋旅館でじりじりしながら雪を待ってあの写真を撮った。そのエピソードがあまりにも有名になり、室生寺の雪景色を狙うカメラ小僧が続々と現れるようになった。

 その日は私は東京から大阪に向かっていた。新幹線の車窓からは、雲ひとつない冬晴れの空の下、富士山が非常にクリアーに見えた。この分なら関西も快晴か、と思いきや、関ヶ原を通過するあたりから天気が怪しくなり始める。北陸地方は大雪で鉄道ダイヤが乱れているとの車内案内があった。窓から空を見上げるとその雪雲が北国街道から関ヶ原あたりに流れ込んでくるのが見えた。審査委員を務めさせてもらっている関西の大学発ベンチャーのコンペの表彰式に出席するため大阪にやってきた。1日の仕事を無事終えて、翌日東京へ帰る予定であった。しかし、朝起きると「天気晴朗なれど冬寒し」しっかり寒い。ネットでチェックすると室生寺あたりは雪とのこと。こりゃ行かずばなるまい!あの「雪の室生寺」へ。急遽予定を変更し、近鉄上本町を9時15分発の五十鈴川行急行で室生口大野へ向かった。電車が桜井を過ぎるあたりから車窓は雪景色に。こりゃあいいぞ! 室生口大野駅前で10時20分発のバスに乗り込んだのは三脚抱えたカメラ小僧(といっても平日のこんな時間だから私のような団塊世代(現役ご卒業)のオヤジ小僧)ばかり。少々おばさん軍団も電車から降りてきたが、こちらは皆タクシーで「お先に!」みんな雪の室生寺を目指す、さすが関西人は美意識が違う。

 室生寺は何度も訪れている大好きな大和古寺のひとつ。ことに新緑の頃や、シャクナゲの季節は美しい。秋の紅葉も魅力的で外せない。春や秋の観光シーズンには、桜井の「花の御寺」長谷寺とセットで回れるシャトルバスが走っていて、この山間に位置する、決して便利とは言えないロケーションの有名な二寺を効率良く参詣できる。普段は静寂な境内も、当然かなりの人出となる。しかし、この彩りのない人気の絶えた室生寺の冬の佇まいはどうだ。特に雪がうっすらと黒い景色を縁取るこの心象風景世界。この寂寞感。なんと哲学的であることか。本来の意味は違うが「色即是空」。色がないモノトーンの世界に仏の教えが浮き彫りになっている。そこでは目にも鮮やかな景色が如何程のメッセージを伝えてくれるというのか、という思いに浸ってしまう。季節の花々は大和路の寺を魅力的に彩る重要なエレメントである。だが仏の精神世界には、考えてみると、それほど鍵となる要素ではないのかもしれない。むしろこの世の眼に映る花々の彩りがない分だけ心の内面を静かに観照できる。

 学生時代最後の冬休みに一人で室生寺を訪れたことがある。この時はそれを見越したわけではなかったが、突然小雪まじりの寒風に見舞われ、薄暗い冬空の中、室生寺へ向かった。なんだか当時の私自身の気分を反映したような侘しい光景であった。あたりは残雪と枯れ木のモノトーン。訪れる人もなく誠に静寂な世界であった。室生寺デビューとしては最悪の一日だと思ったことを覚えている。実は「雪の室生寺」が最高だということを後で知った。そのタイミングに図らずも遭遇したのだが。ただただ寒かったことしか覚えていない。鎧坂の石段を一つ一つ踏みしめながら古色蒼然たる金堂にたどり着く。釈迦如来像を始め、内陣の諸仏像を拝観。その中にあの見覚えのある仏像を発見し、これが土門拳の写真で有名な十一面観音菩薩か、と観光客的な感動を覚えた記憶だけはある。不思議に国宝である桧皮葺の五重塔はあまり印象に残っていない。なぜなのかわからない。当時の私の心には響かなかったようだ。「昔はものを思わざる」である。

 大和路風景写真のマエストロ入江泰吉も室生寺の諸仏や四季の写真を多く撮っているが、室生寺の冬景色は意外に少ない。「吹雪く室生寺山内」という作品があるが、入江調にしては雪のボリュームが多くてどこか重苦しい。どのような心象風景を狙ったのだろう。一方、土門拳の作品は雪景色といってもうっすらとした雪が黒々とした景観を縁取るような効果を生み出し、あるいは山肌をモノトーンのグラデュエーションで表わして水墨画を見るような作品だ。土門の言葉を借りれば「さあーっと一刷毛、刷いたような春の雪」であった。むしろ室生寺住職がかつて絶賛した「白皚皚たる」よりももう少し白から黒への階調がある淡く薄い景観。こちらのほうが仏教的な心象世界を感じることができる。普段は入江調の圧倒的ファンである私も、室生寺の雪景色に関しては土門拳の作品の方が好きだ。

 この室生の仏の里には、静かな冬の雪景色こそふさわしい、との思いに至るまでには、結局40年ほどの時間が必要であったということになる。以下に、今回の訪問で撮った私の写真作品を掲載してみた。入江調、土門調のはるか足元にも及ばないことは言うまでもないが、両マエストロの作品に啓示を受けて、自分なりに感じた世界を精一杯表現してみた。しかし、「雪の室生寺」の精神世界を垣間見ることができたつもりでも、実はただ馬齢を重ねたというだけで、あの学生時代の私からどれほど人間として成長したのだろう。「日暮れて道なお遠し」だ。


鎧坂の石段を登り切ると金堂が
石段に重ねられた雪



五重塔と灌頂堂

室生山の雪景色
霊気すら感じる冬の佇まいだ

雪の地蔵尊
蓑笠をかけて差し上げたい

樹齢幾星霜、杉木立ちの中の五重塔

境内には神社
室生の神が守ってくださる仏の世界
日本人の精神世界を表す


室生山
山肌の白黒の階調が好きだ

奥の院に向かう参道


モノトーンの中の朱塗りの欄干
左は土門拳の定宿「橋本屋旅館」
「十一面観音菩薩像」などの作品が欄間に並んでいる。

室生川

 (撮影機材:SONYα7II+Vario Sonnar 24-240mm)





2016年1月17日日曜日

なぜ大和の三輪山には出雲の神が鎮座しているのか? 〜アマテラスとスサノヲの対立、国譲りのストーリーの意味は?〜



三輪山


 奈良の三輪山は不思議な伝承を今に伝える山だ。その山容は端正な神奈備型であり、悠然と大和国原を見守る聖山だ。三輪山山麓一体は箸墓古墳など巨大古墳が集中していおり、ヤマト王権発祥の地とされている。だがそこには「出雲」の大国主命の別神、和魂、大物主神が鎮座ましましている。なぜ出雲の神が大和に鎮座しているのか。それは何を意味するのだろうか。

 古事記・日本書紀の伝承によれば大国主命が弟の少彦命が常世に旅立ったのち、この国(葦原中つ国)をどうやって治めようかと悩んでいた時、大物主神が現れ、大和の三輪山に自分を祀れば安泰であると告げたという。以来三輪山の神は葦原中津国を見守る守護神・祖霊神となる。しかし、その後大国主命(国つ神)は天照大神(天つ神)に国譲りを迫られ葦原中つ国の政権交代を許す。かわって「筑紫の日向の高千穂」に三種の神器とともに降臨してきたアマテラスの孫のニニギの子孫がこの葦原中つ国を治めることになる。その子孫が筑紫から東征して大和の橿原に即位する。すなわち神武天皇に始まるとされる天皇家がこの国の支配者となるわけである。これが古事記や日本書記に描かれた日本の始まりのストーリー(出雲神話、日向神話)だ。しかし、天皇家は祖霊神天照大神を大和の三輪山に祀らず、遠く離れた東国の伊勢に鎮座させた。

 三輪山山麓に発生したヤマト王権(三輪王朝)とはどのような出自の王権だったのだろう?その大王とは誰なのか?祖霊神を大国主命・大物主神とする出雲から来た一族ということを暗示しているのだろうか? そしてのちに筑紫から入ってきた天孫一族に政権を奪われたということを暗示しているのだろうか。その政権交代の正当性を示すために、古事記は「国つ神」より上位の神「天つ神」天照大神を祖霊神とするストーリーを創出したのだろうか。

 古事記に描かれた神話のなかの神観念を整理してみよう。

 大和的神観念
天つ神:天照大神。高天原に存在する神(天神)
大王の祖霊神は三輪山の神、大物主神であった。しかしやがてより格の高い太陽神、天照大神を祖神とする。
天皇を中心とした支配体制を正当化するため地域の神/各氏族の神々の上位に太陽神、天上界の神を創出した。それが大王/すなわち天皇家の祖神だというストーリーを創出。神の体系化・序列化を行った(8世紀前半)
弥生的神概念:精霊信仰+祖霊神信仰が加わる

 出雲的神観念
国つ神:大国主命・大物主命。葦原中津国に発生した神(地祇)
大国主命は、天つ神アマテラスの弟で高天原から葦原中津国に降臨したスサノヲの子孫である。しかし大国主は国つ神とされる。
もともとは多数の地域ごとの豪族/氏族支配の神の観念。神々は平等。序列はない。八百万(八十万)の神々が存在。大王家の初期の祖霊神は三輪山の神、すなわち大物主神(出雲的神)であった。これは大勢の神々のワンオブゼムであった。
縄文的神概念:自然神・精霊信仰(アニミズム)


 古事記の神話に出てくる数多くの神々は、もともとはそれぞれの地域に存在していた自然神、氏族の神々(精霊・祖霊)であった。まさに八百万の神々であった。大王・天皇の優位性を示す最高神『皇祖神」を創出しようとする過程で、それらの神々が体系化、序列化されてゆく。すなわち、その神々はなんらかの形で最高神(天神、天つ神、天照大神)の下位に序列化されていることを記述している。一方、天皇家に従う氏族や豪族は最高神/天皇家となんらかの関係を有する神/氏族の子孫であることを記述してもらい、そうすることで新統治秩序の中での権威を保とうとした、さらには朝廷の中でより優位な地位・官職を得ようとした。すなわち地上界の八百万の神々が先にあって、そのなかから最高神が生まれたのではなくて、天上界に最高神がいてその系列下に八百万の神々が序列化されている、という整理がなされた。これが古事記神話が創出したメッセージなのだ。

 したがって出雲にいた地域の守護神、オオクニヌシもそうした体系化・序列化のなかで矛盾なく語られる必要があった。先述のように彼はスサノヲの子孫だと定義された。すなわち、天地が混沌としたカオスの状態だった時の神々、造化三神。その子孫の子孫がイザナギ/イザナミで、日本を生み出した(国生み神話)。そしてそのイザナギの禊から生まれた三貴子、太陽神(女神):アマテラス、月の神(女神):ツキヨミ、嵐の神(男神):スサノヲが生まれたとされる。このように昼と夜をそれぞれ司る二女神だけでなく、荒ぶる男神を設けたのには理由がある。すなわち出雲という強大な国の長である「オオクニヌシ」の位置付けを定義する必要があった。そこで次のようなストーリーを創出した。アマテラスはその弟であるスサノヲと対立する(天の岩戸伝承など)。スサノヲは高天原から追放され地上界(葦原中津国)へ(出雲ヤマタノオロチ伝承など)。やがてその子孫であるオオクニヌシが地上の国の支配者(国つ神)となる(因幡の素兎伝承など)が、その「国つ神」は高天原の「天つ神」へ「国譲り」をして従うこととなった。やがてアマテラスの孫のニニギが高天原から筑紫に降臨して、その子孫、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が葦原中つ国を支配する。すなわち出雲が大和に従うプロセスを神話的に解説したのがオオクニヌシの治世と国譲り、天孫降臨のストーリーなのだ。

 この「天つ神」と「国つ神」という観念は、ちょうど5世紀に大陸から渡来した原始的儒教思想の「天神・地祇」「礼」にもとずく神々の序列化の思想によるものとされる。古事記や日本書記の編纂時にこの考えが建国神話の記述整理に役立った。律令制下の重要官職である神祇官の名称もここから来ている。しかし、古事記にはこうしたいわば弥生的祖霊神の観念と、それ以前からある縄文的精霊・アニミズムの観念とが神話に並存しているのが特色だ。

 記紀神話の記述は、これまで述べたように、7世紀後半から8世紀初頭に創出された天皇の支配権のルーツを説明するストーリーであるが、特に「出雲神話」の部分は日本(このころはまだ倭国であったが)の支配権が出雲から大和へと移っていったことを暗示していると考える。あるいは出雲勢力が初期の大和を支配していたが(これが邪馬台国だ、とする研究者もいる)、やがて筑紫(天孫降臨神話)からやってきた勢力が大和に入り出雲勢力に変わって支配していったのかもしれない。出雲勢力の祖神たる三輪山(国つ神)はその後もヤマト王権、朝廷の重要な祭祀の場として存在し続ける。天照大神(伊勢大神)が皇祖神(天つ神)となり、東国伊勢に鎮座した後も、三輪山は「元伊勢」として皇室の崇敬を集める。現在でも、そのヤマトの地に聳える神奈備型の山容に畏敬の念を自ずと感じる三輪山が、縄文的アニミズム、弥生的祖霊信仰を問わず、時を超えて人々の心に響く存在であることは間違いない。



 ところで、ここからはいつもの私の疑問、すなわち、我が国の発祥に関わる倭国の中心の移動、すなわち筑紫から大和への変遷の問題に立ち返ってみよう。

 考古学的研究成果によれば出雲は強く筑紫の影響を受けていることから、倭国の中心が筑紫→出雲→大和と変遷していった歴史がうっすらと見えてくる。弥生的な稲作農耕社会であった倭国においては農耕器具にしろ武器にしろ鉄器生産能力の確保は不可欠だが、当時その鉄資源は朝鮮半島南部からしか入手できなかった。したがって倭国は半島南部の伽耶や百済との通交を重視したし、あるいは半島における鉄資源権益確保のために進出を果たそうともしただろう。また奴国には鉄製品を製造するいわばハイテクコンビナートがあった。その遺跡が集中して見つかっており(福岡市の比恵遺跡など)、北部九州は大陸の鉄資源権益を通じて倭国の中心であった。しかし後年、出雲で鉄生産の新しい技術が盛んになり(たたら製鉄は今も盛んであるし多くの遺跡が見つかっている)、鉄資源の獲得が直接大陸から出雲へと行われるようになると、国内の勢力図が変わっていった可能性がある。筑紫から出雲へ鉄をめぐる勢力の変遷が起こった。歴史の一時期ではあったかもしれないが、出雲が倭国の中心になった可能性がある。やがては大和に遷移してゆくのだが。

 古事記の神話部分には、この後の出雲から大和への遷移部分だけが描かれている。そこでは「国つ神」から「天つ神」への支配権の移譲というメッセージこそが重要であって、出雲以前の話は、天皇中心の国家体制確立プロセスには関係ない伝承である、いや日本のルーツは筑紫(北部九州)ではない、との歴史観表明に違いない。すなわち「筑紫の神」「筑紫神話」は意図的に創出されなかった。これは天武・持統天皇時代の天皇支配、律令体制国家を宣言した8世紀の時代、自ら名乗ったわけでもない倭国という国号を捨て、日本(ひのもと)を新国号とした時代背景と大きな関係を持っている。すなわち日本は中華皇帝に朝貢し冊封された倭国王たち(中国の史書の出てくる奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫中心の冊封国家の長たち)をルーツに頂く国ではなく、天から降臨した天神の末裔が(独自に)建国した国である。決して大陸から渡来した子孫やその末裔が建国し、大陸由来の文化から派生した国ではない。「日本」はその原初から「日本」であり、「天皇」はその初めから「日本」の建国者であり連綿と支配者である、という歴史観・国家観の創出・表明である。まさに「日本紀」である。「倭国記」ではない。

 古事記においては、我が国発祥の地、すなわち天孫降臨の地が「筑紫」(当時は九州全域を指した)であることは否定しないが、大陸に近い北部九州ではない「何処か」を暗示するに止めている。すなわち「筑紫の日向(ひむか)の高千穂」だとする。神武天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)の東征伝承も、その出発地点は日向美々津だとしている。この筑紫の「何処か」から東征した勢力が大和で出雲勢力を凌駕してヤマト王権を確立していった(これが「国譲り」「天孫降臨」「神武東征」「橿原即位」伝承の実態?)というのが古事記における建国ストーリーだ。

 その「何処か」は「日向国」である、としたのは江戸時代の「古事記伝」を著した本居宣長である。しかし、記紀編纂時(7世紀後期・8世紀前期)はまだ律令制が未完成の時期で、「日向国」は存在していない。それが記録に見えるのは奈良時代後期の8世紀後半。現に「日向(ひむか)」という地名は全国いたるところにあり、要するに太陽に向かう土地、という意味で、「高千穂(たかちほ)」は神々しくて高い峰だから、ますます特定はできない(ゆえに西日本全域に天孫降臨伝承や高天原伝承がある)。まして記紀編纂時期の南九州「日向地方」は隼人がまだヤマト王権・天皇に服属していない「夷狄」の地であった。むしろ弥生的神観念よりも縄文的神観念がまだ支配していた地域であった。こうしたことから我が国発祥の地が九州南部であることにはならない。この「筑紫」はやはり奴国や伊都国、さらには卑弥呼の邪馬台国が倭国の中心をなした弥生先進地域、北部九州にちがいない。しかし、上記の理由から、それを言いたくないのであえて「筑紫の日向の高千穂」という特定できない架空の地にした、というのが古事記の編者の(それを指示した為政者の)真意であったろう。しかし、編者は高天原から降臨してきたニニギに「この地は朝日の直刺す地、韓国を望む地、夕日の火照る地...」と言わせている。直接的表現ではないが、この地が南九州の山の中でないことは明らかだろう。はるか海の向こうに大陸を望む我がルーツの地を暗示して見せたように思える。

 さらなる疑問について考えてみよう。

 本来ならば既にオオクニヌシから「国譲り」を受けているのだから、ニニギは「葦原中津国」の中心、大和に直接降臨できたはずなのに、なぜ遠く離れた筑紫に降臨し、苦労してその子孫が東征をしなければいけなかったのか?しかも、大和に入ろうとすると、そこには既に別の降臨族ニギハヤヒ(物部氏の祖霊神だという)がいて、筑紫から遠征してきたニニギの子孫であるカムヤマトイワレヒコと争う。ニギハヤヒの部下のナガスネヒコとの戦いに苦戦し、結局兄の五瀬尊は戦死し生駒山越えを諦める。「太陽神の方向である東に向かって進軍したのがよくなかった」としてはるか熊野に迂回して吉野、宇陀を越えて大和に入る道を選ばざるを得なかった。熊野の神や八咫の鴉に導かれてのようやくの凱旋であった。国つ神から天つ神に譲られたはずの豊葦原中つ国には、それほどの抵抗勢力が居続けたと、言いたかったのだろうか。ならばあの「国譲り」とは一体何だったのか?古事記の建国神話のストーリーは複雑怪奇で色々なストーリーの矛盾が潜んでいる。なかなか一筋縄で理解できない。おそらく、アマテラスを最高神とする神々の序列化、すなわち天皇中心支配体制確立のプロセスはそれほど平坦ではなかっただろう。色々な地域豪族や大和の在地氏族の神々との整合性を「うまく」記述しなければならないという、編者にとってまことに厄介な政治的課題が複雑に絡み合っていたのであろう。古事記や日本書紀の編纂事業は大変な国家的事業であり、多くの政治的な妥協の産物でもあったのだろう。


 古事記・日本書紀が創出された時代は、上述のように7〜8世紀の天皇支配確立に向けた激動の時代(天武・持統天皇以降)であり、対外的には倭国大王から治天下大王、日本天皇という、中華世界(華夷思想)とは一線を画した独自世界(日本版華夷思想)を宣言したいわば「ナショナリズム」が横溢していた時代である。一方、国内的には有力氏族や地域豪族を支配下において行くプロセスは想像以上に困難なものであっただろう。記紀の記述、特に建国神話部分のストーリー理解には、それらが編纂された時代背景、意図を理解する必要がある。日本の古代史に関しては文献資料が乏しく、比較的新しい時代である8世紀に編纂された古事記・日本書紀が数少ない資料である。こうした資料は時の権力者が選定した「公式定本」、すなわち極めて政治的な意図を持って創出され、記述された文書である。しかも多くの勢力との政治的妥協の産物でもある。それを記述通り正しいものとして受け入れた江戸後期の国学や、その影響を強く受けた尊王攘夷思想、そして戦前の皇国史観。逆に戦後はその反動として、記紀の歴史を語る文献資料としての意義の全否定。そのような、時の政治情勢による主観的で意図的な取り上げ方、解釈・理解ではなく、考古学成果と合わせて客観的かつ批判的に読みこんでゆくという取り組みが必要であることを改めて痛感する。