2017年6月19日月曜日

伊豆下田は紫陽花に埋もれていた!





 6月は伊豆下田が紫陽花に埋もれる季節。今年は梅雨入りしたにもかかわらず、快晴の爽やかな日が続く。紫陽花には雨が似合う、とはいうもののやはり晴れるにこしたことはない。ここ下田公園は全山紫陽花に覆われる。いつものペリーロードの川沿いにも見事な紫陽花が。下田は歴史と自然と人情が絶妙にブレンドされたの街なので、「時空トラベラー」の大好きな街トップリスト上位にいつもランクインするのだが、不思議に紫陽花で有名なこの街をその最盛期に訪れたことがなかった。

 下田公園は下田市街地の南のはずれにある。海に突き出した小高い山全体が公園になっている。ここは戦国時代には北条氏方の出城、下田城があったところで、豊臣秀吉軍と激戦が繰り広げられた。したがって下田城址公園とも呼んでいる。ペリーが上陸した港から少し坂を上がると開港記念広場がある。この背後に控える山が全山紫陽花山になる。山を覆い、谷を埋め尽くす色とりどりの紫陽花。なんと15万株あるそうだ。一目で「おおっ、すご〜い!」とおもわず感嘆の声を上げてしまう圧巻の光景。東京近郊の有名な紫陽花の名所でこれほどのボリュームと密度を誇るところはあるだろうか。そして一番は人出。いや、すごい人出なのではなく、人影もまばら。広いせいもありゆったりと時間を過ごせることに感動。こんなマッシブなアジサイ山を独り占めに近い状態で堪能できるとは。鎌倉の明月院の紫陽花は2500株だそうだが、紫陽花よりも見物客のほうが多いじゃないかというあの混雑ぶりを考えると嘘のような贅沢さだ。紫陽花の手入れをしてくれている公園管理の人もとてもフレンドリーで、かつ観光地にありがちな押し付けがましくもなく気持ちよい。この景観に感動の声を上げていると、「ゆっくり楽しんでいってください」と声をかけてくれた。聞けばまだ全てが満開ではないそうだ。むしろ満開期よりも、開花間近のの花芽も混じるこの時期が一番フレッシュで、色も鮮やかなのだそうだ。確かに。

 ただ、これだけの景観をファインダーで切り取るのは思った以上に難しい。どこを撮れば良いのか、キョロキョロしてしまいカメラが「迷い箸」状態だ。広角で狙うか、望遠でアップするか。快晴なので手前の紫陽花と遠景の下田富士や寝姿山と街並との明暗コントラストが大きく苦労する。遠景に露出を合わせると、花は暗くなり、花に露出を合わせると遠景は飛んでしまう。結局手当たり次第撮りまくって駄作を重ね、そうして選びきれないもどかしさ。圧倒的な景観を目の当たりにして興奮し、視座を失ってしまう。何を表現しようというのか。そこに情感は写し出されているのか。綺麗な花を綺麗に撮ることは、現代のデジタルカメラを持ってすればそれほど難しいことではない。花が綺麗であればあるほど、景色が「すごい」ならすごいほど、そこに何を読み取るのか。まだまだ腕とセンスと選択眼を磨かねば。今回は満足のいくベストショットがない。


いくつかのショットをご紹介。まずはペリーロード沿いの紫陽花














次は、いよいよ下田公園の紫陽花たち

開国記念碑







寝姿山遠望















下田港



下田富士遠望















(使用機材:Leica SL + Vario Elmar 24-90)



2017年6月4日日曜日

東山魁夷の京都 その今は...

東山魁夷「年暮る」
1968年(昭和43年)
山種美術館蔵

2016年(平成26年)2月同じアングルで撮影
ホテルオークラ京都(旧京都ホテル)から


 川端康成が「今のうちに京都を描いておいて欲しい。そのうち京都は無くなる」とある画家に懇願したのが昭和30年代後半1965年頃だと言われている。その画家とは東山魁夷である。東山魁夷は大自然の中の静寂と優しさの世界をモチーフとする風景画家としてその名声を博していた。その代表作がこの1982年に描いた「緑響く」。東山魁夷といえば思い浮かべるのがこの作品だろう。川端康成はその世界に陶酔し、ぜひ東山魁夷に古都の情緒を後世に残して欲しいと思った。

東山魁夷「緑響く」
1982年
長野県信濃美術館蔵


 一方で、東山魁夷はその「国民的風景画家」としての名声に反して自分の中では葛藤に苛まれていたという。川端康成が「懇願する」、人の手が入った都市、日本の文化のエッセンスに満ちた京都を描くことに逡巡していたという。結局、心を決めて京都へロケハンに出かけ、幾つかの名作を生み出すことになる。新しい東山魁夷ワールドを開くことになるわけだ。その旅の最後に描いたのがこの「年暮る」。町家の甍に深深と降り積む雪。晦日の京都は歩く人の姿もなく、わずかに町家の窓から漏れる明かりと、道路端に駐車する一台の車が、この静かな雪の大晦日を過ごす人々のこの町にあることを示唆している。町に漂う静けさ。こういう京都という町の描き方もあるのか、と。東山ブルーの極致である。ただよく見ると軒下の壁は青緑で描かれていて、雪景色と町家の甍のコンビネーションから来る雪あかりの町にほどよい引き締め効果を与え、全体に独特の落ち着きを醸し出している。東山魁夷は、この界隈の風景を描くにあたって江戸時代の与謝蕪村の描いた「夜色楼台図」に着想を得たのではないかと言われている。しかし、その構図には空もなく、山もない。ただ雪降りしきる町屋の甍が連なる光景が切り取られている。

 私も京都での定宿にしているホテルオークラ京都、かつての京都ホテル。その東山側の部屋からは賀茂川を隔てて東山一帯が展望できる。カメラのファインダーで覗くと、まさに「年暮る」に描かれた要法寺を含む町の一角を切り取ることができる。東山魁夷もこの旧京都ホテルの屋上(旧館)からスケッチしたと言われている。「年暮る」を見た途端、京都ホテルからの景色を思い出したのも宜なるかな。

 「年暮る」が描かれてから半世紀。今、同じ場所に建つホテルの窓から東山界隈を見回すと、川端康成がいみじくも予見した通り、京都はその伝統的な町の景観を失ってしまった。時代の流れと言って仕舞えばそれまでだが、東山魁夷が描いた京都の町屋のとうとうたる甍の波は消え去っていた。わずかに要法寺の甍にその痕跡を残すのみだ。東山魁夷は、川端康成が危惧したように家並みは失われても、この寺は残るのだろうと予想して画の上部に据えたのかもしれない。

 京都はその1200年の歴史の中で、度々の戦乱や災害で町が焼かれ、破壊され、荒廃した。しかし、その度に再建され、日の本のミヤコ、ミカドの住まう帝都として繁栄を維持してきた。そしてその伝統的な街並み、景観は、つい最近まで継承されていた。しかし、先の大戦(といっても「応仁の乱」ではないぞよ)で戦火に巻き込まれることもなく、生き残ったこの町が、平和と繁栄を謳歌した時代に、これほどまでに破壊されるとは。戦争も騒乱も人間のなせるワザであるが、カネで地上げするのも人間の業なのだ。物欲煩悩止まるところを知らず、か。



与謝蕪村「夜色楼台図」
1778年(安永7年)〜1783年(天明3年)頃の作品
京都賀茂川の西岸三本木町の茶屋から眺めた雪の夜景だとか。
しかし実際の風景を写実的に描いたのではなく、蕪村の心象風景を描いたのだろう。


2016年2月
夜景
一本の光の道は南禅寺参道

2016年2月
翌朝
東山三条は曇っている