2017年9月9日土曜日

究極のニコンデジタル一眼レフ登場〜NikonD850という痛快さ!〜

 創業100周年の記念の年だというのに、経営危機だ、リストラだ、高級コンパクトデジカメ開発中止だとか、パッとしない話題続きのニコン。しかしやるときゃあやる!前々からそのデビューが噂されてきたNikon D850。遅れもなく満を持しての登場だ!これぞニコンの底力。待ってました!日本一!いや世界一!ニコンファンとしてはこんな嬉しいことがあるだろうか。そもそも人気のD800、D810の後継機種だが、その完成度と突き抜け方が半端ではない。

 9月8日ついに発売。しかしすでに予約でいっぱい。バックオーダー抱え生産が追いつかない状況だという。当日手にできた人はラッキー!そりゃあそうだ、デジタルカメラが今備えることができる最新技術、最新のスペックてんこ盛りの究極のデジタル一眼レフだ。その割には価格がぐっと抑えられていて、こんなんでいいの?と言いたくなる。CanonやSONYの同等クラスの競合機種に比べても明らかにNikonの気合を感じプライシング。すごいカメラが出てきたもんだ。デザインも、D800,D810時代のペンタ部のリトラクタブルフラッシュが廃され、小顔で知的なシェイプの頭部と、少しスリムになったボディー。剛性感がグッと増してDurable and Dependable Nikonの名にふさわしい道具に進化した。可動式の背面液晶モニターはタッチパネル式になり、ミラーレスを意識しているのだろう。ちょっと余計な気もするが、まあいいことにしよう。

 こうなるとLeica SL、M10とついつい比べてしまう。Leicaも良いけど、なんか高いカメラなのにバグが多くて、レスポンスがスロー、デジタルカメラとしての基本機能にも制約のあるカメラになんで大枚を払わねばならんのか? と少々嫌気がさしているところへこの新ニコンフラッグシップD850登場だ。Leica SL、M10一台買う金額でNikonD850が二台買える!どっちがいい?ブランドバリューは互角。性能はニコン。そしてコスパは圧倒的にニコン。なんでライカを選ぶのか?確かにレンズには惚れ込むのだが、ボディーの選択に合理性はあるのか? M10はカテゴリーの違うカメラだとしても結局は趣味の世界?いや病気? 実用性ならやっぱりニコンでしょう。すっかりライカ病患者になっていた私の、ハイソなのにパワー不足という、ライカに対するモヤモヤしたフラストレーションを、スッコ〜ンと吹っ飛ばしてくれる痛快さがこのD850にはある。

「王様の耳はロバの耳!」「裸の王様!」。あっ、ライカファンが言っちゃいけないことをついに言ってしまったあ。これで「ライカ王国」お出入り禁止になるかな。

 Nikon D850の撮影体験、自分なりの使用評価はまた別途報告予定。

参考:
2012年5月のブログ「Nikon D800E登場」
ペンタ部のリトラクタブルストロボが廃され、小顔で知的な顔になった。
ボディー厚も若干薄くなりホールド感、剛性感が増した。

液晶パネルは可動式、タッチセンサー式となり、ライブビュー撮影が便利になった。
ボタン類の配置、メニューは従来通りで操作に迷うことはない。
小さいがジョイスティックが付き操作性が向上した。


 試し撮り。あまりに夕景がきれいだったので、ゲットしたてのD850で一枚!

JPG 撮って出し
Nikkor 24-70/2.8

LRプリセットポジフィルムで現像


2017年9月3日日曜日

臼杵を散策する 〜大友宗麟の夢の王都=

臼杵城下二王座の街並み



 大分県の臼杵といえば国宝の臼杵石仏がすぐに思い浮かぶが、実は、その城下町のユニークな歴史的景観がもう一つの特筆に値する魅力であると思う。昨年は時空トラベラーの「日本の美しい街並み」探訪で、同じ豊後国杵築の城下町を散策した。こちらも行ってみたい城下町のトップファイブにはいる街であったが、もうすこし足をのばした所にある豊後臼杵も、以前から行ってみたい城下町の一つであった。博多から日帰りで杵築と臼杵を両方巡るのは少々タイトスケジュール過ぎるので、前回は杵築のみの訪問にとどめておいた。これは正しい判断であった。どちらも1日かけてゆっくり探訪するにふさわしい魅力をたたえた町であったからだ。臼杵は、杵築から別府、大分を挟んで日豊線特急で30分ほど離れている。またこの辺りには宇佐神宮や国東半島の六郷満山仏教史跡があり、「時空旅行人」が避けて通ることを許さない。さらに足を伸ばせば「荒城の月」で有名な豊後竹田の城下町もある。「豊の国」はじっくり泊付きで歩き回るのが本当は良い。


 臼杵城は、九州六ヶ国の守護大名で九州探題の大友宗麟の居城、丹生島城がその始まり。1562年に豊後府中大友館(大分市)から統治拠点を臼杵に移し、臼杵湾内の丹生島に城を築いた。これは当時としては珍しい陸から離れた海城であった。現在は街中の小山に築かれた平山城のようにみえるが、江戸時代末期、さらに明治以降、城の周辺の埋め立てが進んだためこうなったわけだ。 しかし臼杵の城下町は宗麟の1562年の築城以来、450年にわたり当時のままの町割りと道幅を残している稀有な街だ。基本的には城の西の大井戸がある「辻」を要とし、西に八丁大路の中心街、北、南に主な通りが扇のように広がる構造となっている。もっとも整然としているというよりは城下町らしく、大きな道を一歩入ると狭い路地が複雑に入り組む構造になっている。ちなみに先の大戦でも空襲を受けていない。

 臼杵市は現在人口4万。農業、漁業のほか、造船や酒、醤油、味噌醸造が主産業の地方都市となっている。しかし16世紀後半、大友宗麟の時代には臼杵は九州六ヶ国を治める中心都市であった。さらにここでは明やポルトガルとの交易が盛んに行われた。臼杵の港には南蛮船が入港。明の商人を始め多くの外国人が住んだという唐人町という地名が今も残る。また宗麟は晩年キリスト教の洗礼を受け、キリシタン大名として城下での布教を広く進め、教会や修練所(ノビシャド)を設けた。イエズス会のフランシスコ・ザビエルとも引見した。ルイス・フロイスの記録によると宗麟を「豊後の王」と呼んでいる(以下引用)
ルイス・フロイスが臼杵(うすき-大分県)からポルトガルのイエズス会に送った書簡。
豊後の王は今四八、九歳なるが、日本に在る王侯中最も思慮あり、聡明叡智の人として知られたり。始め一、二箇国(豊後・豊前)※を有するに過ぎざりしが、今五、六箇国(豊前・豊後・肥後・筑前・筑後・日向)※を領し、その保有に心を尽し、ほとんど戦うことなくしてこれを領有し、また統治せり。彼は、日本において我等に好意を示したる最初の王にして、当地方のコンパニヤ(イエズス会会員)の父のごとし。しかしてパードレ(伴天連、神父)およびイルマン(伊留満、修道士)等がその領内に居ること二十七年なるが、たえず領内において我等を庇護せるのみならず、不幸に遭遇せる際我等を保護し、パードレ等の求に応じて免許状を交付し、またパードレ等がデウスの教を弘布せんと欲する都、その他異教徒の諸国の王侯大身等に書翰を贈り、教化の事業を援助せんことを請い、また好意を得んため進物を贈れり(村上直次郎訳注『耶蘇会士日本通信豊後編』雄松堂出版刊 1982年)

 また、当時国際貿易港として繁栄を極めた博多の貿易利権を周防の大内氏と争っていた。博多の豪商、神谷宗湛、島井宗室などとの交流があり、博多沖浜には「大友館」があった。博多の繁栄を支えたのも宗麟であった。

 いっぽうで、九州の覇権を巡って繰り広げられた薩摩島津氏との戦いの中でも、1578年の「耳川の戦い」は激戦であった。ここで宗麟は島津義久の薩摩勢を撃退したものの、多くの重臣を失うなど大友氏は大打撃を受けた。以降、島津との九州覇権争いで豊臣秀吉の支援を受けることとなり、特に秀吉の九州征討軍の軍師、黒田官兵衛の島津攻めで大友氏は窮地を救われる。宗麟の死後、その子義統は秀吉への臣従を誓い、領国を減らされたものの豊後一国を統治する大名として命脈を保つ。しかし、文禄慶長の役で義統は敵前逃亡の罪で改易。領地を失い流浪の身となる。太閤秀吉が死に、やがて関ヶ原の戦いで徳川の東軍が勝利すると、その機に乗じて、義統は旧領を実力奪回しようと杵築城に攻め入るが、黒田如水に阻まれやがて大友家は滅ぶ。かつての九州の大戦国大名大友氏は、一度は黒田如水に救われ家名を残したものの、結局黒田に命脈を断たれるという皮肉な結果となった。

 江戸幕府開府により、1600年、美濃国郡上八幡より稲葉家が臼杵に入府する。臼杵藩5万石となった。稲葉家はあの春日局のおふく時代の嫁ぎ先であった一族。稲葉家の領国統治は明治まで続く。キリシタン関連の施設はすっかり一掃され、南蛮貿易の栄華の面影も、今それとわかる痕跡は何も残っていない。教会跡と想定される場所にわずかに標識が立っているだけだ。先述のように、臼杵の城下町の町割りと道幅は宗麟時代のものであるが、今残る城跡も家並みもこの稲葉家統治時代に整備されたもの。堅実な臼杵人気質も江戸時代に形成されたものと言われている。美濃国郡上八幡から稲葉氏とともに移ってきた商人が創業した店が八町大路の大店として軒を連ねている。

 江戸時代、杵築藩もそうであったが、大友氏改易の後、豊後国、大分には一国を治める大名は置かれず、5万石ほどの小藩が分立した。どこも徳川譜代大名で、黒田や細川、加藤、島津といった外様の大大名を監視しする役目を持っていた。臼杵城下町も、こうして九州六ヶ国の守護大名、九州探題にして、キリスト教の理想の国を作ろうとした大友宗麟の「王都」の面影は払拭され、徳川幕藩体制下の稲葉色を色濃く残す城下町になっていった。

 ちなみに1600年4月19日、臼杵湾佐志生沖に浮かぶ黒島にオランダ船リーフデ号が漂着。のちに徳川家康に仕えるイギリス人ウィリアム・アダムス、オランダ人ヤン・ヨーステンが上陸した。当時の臼杵藩主太田氏の保護で、江戸の徳川家康に謁見することになるわけだが、日本という異国の地でのその数奇な人生の第一歩となった地である。ルイス・フロイスやフランシスコ/ザビエルの残した記録をもとに、当時の南蛮人、紅毛人は大友氏の豊後府内(当時の地図にはBungo Funaiと記されている。)をめざして航海してきたのだろう。


(参考)去年6月に豊後のもう一つの城下町「杵築」を訪ねた時のブログ。

杵築を散策する 〜高低差ファン垂涎の城下町〜




写真集:


1)二王座の街並み。

 武家屋敷と寺院の混成地域。「二王座歴史の街」としてこの地域一帯が修景保存がなされていて臼杵城下町独特の景観を形成している。城下町の南の高台に位置しており、阿蘇溶岩流で出来た起伏のある地形を開削し、切り通しを作って寺院と上級武士の屋敷を配置した。武家屋敷も長屋門や石垣に囲まれた立派なものがよく残っているが、寺院の方も、堂々たる白壁の大伽藍が軒を連ねている。起伏のある地形に石畳の路地が迷路のように走っており、地理が分かりにくい一角となっている。やはり防衛上の理由だろうか。高台に上級武士屋敷、下町を商家街に、という構造は、先に訪問した杵築城下町と共通しているが、杵築城下町が南北の高台に整然と上級武士の邸宅や藩校が並んでいるのに対し、臼杵は寺町と武家屋敷を混在させ、かつ複雑な地形と迷路のような町割りにしている点が特色だ。


ここは二王座

二王座
旧稲葉家長屋門

二王座の寺院街
善正寺


珍しく洋館がポツンと
映画のロケ地になったことがあるとか


二王座の武家屋敷街




旧真光寺の二階から二王座の家並みを展望することができる


旧真光寺本堂


本堂の梁



二王座に残る堅固な石垣でできた武家屋敷
現在も人が住んでいる
石垣と石畳の景観


寺町の景観

堂々とした伽藍が並ぶ
善法寺

稲葉家土蔵

旧稲葉家長屋門

長屋門の一部がカフェになっている


サーラ・デ・うすき
宗麟が建てたキリスト教修練所「ノビシャド」をイメージして建てられた文化施設
キリスト教の王都臼杵の面影が一掃された城下町にあって異彩を放っている



2)八町大路の街並み。

 古い商家がずらりと軒を連ねる八丁大路の景観は圧倒的なものがある。この通りは宗麟の時代に城下町の中心通りとして設けられた。現在でも「中央通り商店街」として臼杵市一番のメインストリートとなっている。1600年創業の可児醤油は美濃から稲葉氏に従って臼杵に移り開業した老舗。黒漆喰の建物は築350年というから驚きだ。通りに沿って生活に必要なものを商う店がずらりと並んでいるが、いずれも歴史を感じさせる昔ながらの商家の建物ばかり。新しくできたスーパーも周りの景観に配慮した町家風の落ち着いた建物である。このほかにも酒、醤油、味噌などの醸造業が盛んで、老舗の小手川酒造、小手川商店の分銅金(フンドーキン)醤油工場が臼杵川の中州にある。また久家酒造の蔵も歴史的建造物として保存されている。作家の野上弥生子は小手川家の出。実家の小手川酒造の建物の隣に記念館がある。どれも現役の商家、商店、工場として今も商売、製造を行なっているところが凄い。

八町大路に店を構える可児家
創業慶長五年、築350年の老舗だ


辻からみた八町大路
手前は可児家商店









川筋方面から見た八町大路(現在の中央通り商店街)の家並み


分銅金醤油工場
臼杵川の中州にある


醸造業の老舗が立ち並ぶ掛町/浜町/横町あたり

小手川酒造

フンドーキン醤油


野上弥生子文学記念館
実家の小手川酒造の建物に連なっている

久家の蔵
江戸時代末期の久家本店の蔵
現在は南蛮文化交流施設として利用
壁面にはポルトガルの伝統タイル「アズレージョ」で飾られている。




3)旧藩主稲葉家臼杵下屋敷。

 明治維新以降、東京に移った旧藩主稲葉家の臼杵下屋敷として建築。隣接して平野家武家屋敷もある。旧藩主が明治の版籍奉還ののち華族となって東京に移り住むこととなったが、やはり地元に住みたいと、旧藩主邸に戻ったり、新たに邸宅を構えた殿様が多かったようだ。各地の城下町にはこのような明治以降の旧藩主屋敷(しばしば洋館もある。伊予松山久松家や筑後柳川立花家のような)が見られる。臼杵の場合、地元の有志でこの屋敷を建てて殿様をお迎えしたという。殿様と地元との絆が今に生きる様が見て取れる。


稲葉家下屋敷


屋敷を取り巻く掘割には鯉が
この日は見えなかった



廊下
玄関


大書院から庭園を望む




大書院内部

大書院外観



旧平井家住宅
武家屋敷



 お居間と大書院




4)臼杵城

 先述のように、大友宗麟が大分府中から、ここ臼杵湾に浮かぶ小島、丹生島に城を築いて移り住んだのが始まり。その後稲葉家の居城となり、明治維新まで続いた。その間、城の周りは徐々に埋め立てが進み、特に明治以降、大規模な埋め立てが行われて、いまや街中の小山のそそり立つ城、といった風情になっている。維新以降、城の大半が破却され、天守も残っていない。幾つかの門、櫓や石垣の一部が復元された。現在は城跡公園となっており、そこからは西に二王座や八丁大路などの古い城下町が、北と南と東には埋め立てられてできた新しい市街地が望める。


臼杵城全景
辻からの景観


大手門

大門櫓

畳櫓
大門






畳櫓越しに八町大路を望む



二王座方面


二王座方面

畳櫓の甍

八町大路の甍の波

宗麟がポルトガルから入手したフランキ砲
レプリカ

天守櫓あと

城跡公園から望む「臼杵造船」
昭和63年の創業



5)臼杵の石仏

 駅からバスで20分ほどのところに有名な臼杵の石仏群がある。国宝である。大正期に発見されたのだが、いつ誰がどのような目的でこのような石仏群を築いたのか今だに明らかになっていない。おそらく平安末期から鎌倉時代のものだろうという。国東半島には富貴寺の阿弥陀堂や真木大堂など多くの仏教史跡、寺院、国東塔がある。いわゆる六郷満山と言われる信仰の山である。こちらは宇佐神宮の神宮寺であったり、山岳宗教との融合があったと言われている。このように豊後国には豊かな仏教世界が広がっていたようだ。宗麟が築こうとしたキリスト教の神の国は夢と消えたが、この地は人々の心の安らぎを求め続けた土地だったのだろう。臼杵石仏は今回は訪問できなかった。臼杵駅前のレプリカの写真でご勘弁。



大日如来のレプリカ

(撮影機材:SONYα7RII + 24-70/2.8)



 江戸時代の臼杵の古地図。城が海中にあったことがわかる。現在のJR日豊線臼杵駅は右下方向(南東)の海中に位置する。臼杵市役所は上方(北)の埋め立て地に、また臼杵造船所は城の右(東)の海中に位置する。

江戸時代の臼杵城下町図
城は海の中の丹生島にあった。
現在は周辺が埋め立てられ街中の丘の上にあるように見える
町割りは当時のまま
(臼杵市観光案内より)
観光案内図