2018年6月16日土曜日

「月こそかかれ吉田山」 〜茂庵、吉田神社、京都大学〜


カフェ茂庵

カフェ茂庵



紅(くれない)萌(も)ゆる丘の花
早緑(さみどり)匂う岸の色
都の花に嘯(うそぶ)けば
月こそかかれ吉田山(よしだやま)

旧制第三高等学校逍遥歌


 先月、用事があって久しぶりに京都大学を訪ねた。その機会に以前から行ってみたいと思っていた、吉田山にある話題のカフェ「茂庵(もあん)」を訪ねることにした。吉田山といえば、この旧制第三高等学校逍遥歌で知られる山である。正式には神楽岡とよばれた標高105mの独立丘である。東山三十六峰の一つに数えられている。南北に細長い丘で、西斜面は吉田神社の境内、さらにその麓は京都大学(旧制第三高等学校)が広がり、東斜面は対面に如意ヶ嶽(大文字山)を展望する古くからの高級住宅街、別邸地である。大正時代に谷川茂二郎が。ここにいくつもの茶室を設け、一種のサロンを形成した。この度訪れたカフェ茂庵はこの東側の旧茶室群のあるエリアにある。静かな木立に囲まれた趣のある木造二階建の建物だ。最近人気のいわゆる古民家カフェであるが、古材の列柱が圧倒的な見事な建築物だ。これだけでも近代建築遺産として観に来る価値がある。こんな閑静な山の中にもかかわらず大勢の客で賑わっている。場所柄、京都の文化人の憩いの場的な空間で、京都大学の先生や学生も語らいの場として利用する人気のカフェだ。最近はSNSで話題になってきたことから観光客も増えて結構満席になるようだ。大学の近くの鬱蒼たる森に覆われた丘。そこに京都数寄者文化の歴史の面影を留めるカフェ。なんと京都ならではのしつらえではないか。


 京都に来るたびに、ここは学生生活、研究生活を送るには最も適した街であると思う。高校生の頃、なぜ私は京都で学生生活を送ろうと考えなかったのか、今は不思議である。あの頃はとにかく東京であった。田舎の少年の東京志向という以外の何物でもなかったのだろう。悪友の一人が、京都に憧れていて、何かというと京大、京大とウザかったことも影響しているんだろうか... 私の敬愛するオジの一人が京大出身であった。もっと話を聞いておけばよかった。日本には大学都市は少ないが、京都はまさに大学都市である。吉田山が旧制三高生、京大生の学生生活のシンボル、のちに心のふるさとであることがよく分かるし、羨ましくも思う。


 この「吉田山(神楽岡)」は「船岡山」「双ヶ岡」とあわせて平安三山、葛野三山と呼ばれている。ちょうど京都盆地の北寄りの三角形上に配置される独立峰である。といっても標高はせいぜい100m。山というより丘といったほうがいい。しかし、なんとも良い塩梅で三つ並んでいる。京都のランドマークとしては理想的な配置だ。


 かつて大和の藤原京は大和三山「畝傍山」「耳成山」「香具山」に囲まれたところに造営された。この大和三山も見事に三角形をなしている。飛鳥古京と異なり、都城設計に初めて「天子南面す」という中華天帝思想を導入し、これを元に、北、東西、が山に囲まれ、南は広く空いている地形が選ばれたという。のちに平安京造営の地が「四神相応」の地という地理的風水の思想で選ばれ、設計されたということは知られているが、その時にも「三山に囲まれた地」という都城設計の思想があったのであろうか。確かに平安京遷都の詔に「三山鎮をなす地」という表現がある。船岡山が平安京の中心線朱雀大路の北の基準点だと言われているが、ちょうど吉田山と双ヶ岡を結んだ東西軸上に平安京大極殿があった。大和三山に比べるとすこし狭い範囲にまとまっているが、「四神相応」とは別の「三山鎮めの地」を意識した都城設計が為されたように思える。このあまりにも美しい収まり方には説得力がある。


 ちなみに平城京造営時はどうであっただろうか。「四神相応」の地という風水の考えはあったが、やはり三山を意識したのだろうか。そのような記録は残っていない。確かに平城京は三方を春日山、平城山、生駒山に囲まれた地であるが。何かしら遷都の地の意思決定に影響したのだろか。


 吉田山の東斜面には吉田神社が鎮座している。もともとは吉田山(神楽岡)全域が神社の神域であったそうだ。平安時代、859年に藤原一門が奈良の春日大社から4柱の神を勧請して奉斎したのが始まりと言われる。平安京における一門の氏神社として創建された。鎌倉時代になると代々神官を卜部氏(のちに吉田氏)が勤めるようになり、室町時代に入ると吉田兼俱が唯一神道を唱導して、神道界に大きな影響力を持つようになる。江戸時代には吉田家が、神官の任命権を幕府から認められ、いわゆる吉田神道の中心として明治の頃まで権勢を振るった。


 この吉田山山麓に1894年に開校されたのが旧制第三高等学校(三高)、のち京都大学の前身の一つである。現在の京都大学正門付近が三高があったところである。1898年に京都帝国大学が開校したことに伴い、吉田南にキャンパス移転した。東京の旧制第一高等学校が向ヶ丘にちなんで「向陵」と称したのに対し、三高は神楽岡(吉田山)にちなんで「神陵」と称した。冒頭の歌詞が旧制第三高等学校逍遥「紅燃ゆる」の1番である。ちなみにこの歌詞は11番まであり、最後の11番に再び「吉田山」が登場して終わる。吉田山山頂には、その歌碑がある。


 吉田山の東山麓は如意ヶ嶽(大文字山)を望むことができる風光明媚な地である。むかしから人気のエリアであったようで、明治以降は財界人の山荘や茶室が設けられ、その名残の一つが先ほどの茂庵。大正から昭和初期に、八瀬大原出身の谷川茂次郎という、運輸業で成功した実業家が、茶席や月見台、楼閣などからなる広大な茶苑「茂庵庭園」を吉田山の山頂に築き、たびたびお茶会を開いて多くの人々と交流を楽しんだ。数寄者の極みだ。彼の没後、当時の食堂であった建物をカフェとして改装オープンしたのが今ある茂庵だ。茂庵という名は谷川茂二郎の号からとったそうだ。元の「茂庵庭園」に八席あったという茶席は現在は二席しかのこっていないが、辺りは往時の茶苑の佇まいをよく残している。また茂庵から少し下った山麓には銅ぶき屋根の瀟洒な家屋が立ち並んでいる。茂二郎が高級借家住宅街として開発した所だ。京都大学の先生方もこの辺りに住まったという。 同じ頃、東伏見宮邸跡に「吉田山荘」が開かれている。


 どれを取っても何か惹かれるエリアである。




吉田山登山口
吉田神社参道口
今出川通り側から入る北口になる

北からの登り道は結構な坂だ

茂庵庭園の茶席の一つ

谷川住宅街

如意ヶ嶽(大文字山)を望む

吉田山山頂から市内西方を展望する

吉田神社
吉田神社表参道
京都大学側

吉田神社参道の紫陽花

京都大学本館

京都大学正門
旧制三高正門があった場所

京大では立て看景観論争の真っ最中!

法経一号館

































iPS細胞研究所



2018年6月3日日曜日

伊豆半島ジオパーク探訪(東伊豆編)〜なぜ高原リゾートが海岸べりにあるのか?〜

 伊豆半島は1100〜1400m級の天城連山と、温泉と、美しい海岸線に恵まれた半島である。今年、2018年4月17日ユネスコ世界ジオパークに認定された。静岡県の三島、沼津側から太平洋を望むと、海の中に峨々たる山容を誇る伊豆の山々が見える。伊豆半島は山がちな半島なのだ。かつては半島先端に向けて南下し下田へ行く主要道路は三島(律令時代の伊豆国国府)から半島の中央部の山あい(修善寺、天城峠越え)を抜ける下田街道一本しかなかった。明治になって天城トンネルが出来て、三島と下田が陸路で容易に(以前に比べれば、だが)通行できるようになった。川端康成の「伊豆の踊子」の旅路はまさにこのルートである。それまでは下田は山塊に阻まれ、周囲を海に囲まれた隔絶地であった。律令時代以降、長く伊豆諸島とともに遠流の地であったわけがわかる。今でこそ相模湾沿いの東伊豆に国道135号線が開通し、昭和35年には難工事の末、伊豆急行線が伊東から下田まで開通。東伊豆の海岸線を走る鉄道絶景路線となっているのだが。一方で江戸時代には、伊豆は幕府天領であった。韮山に代官所があった。下田には太平洋沿岸を航行し江戸湾に出入りする船の通行を管理する関所、大浦番所が設けられていた。伊豆半島石廊崎沖は黒潮の大蛇行が発生する海上交通上の難所であり、避難港、潮待ち港としても下田は重要な港湾都市であった。後のペリー来航、開国に伴い、下田が初めての開港の地として選定された所以である。

 さて、この海と山が絶妙にブレンドされた不思議な地形はどのようにして形成されたのか? 2000万年前、日本列島が大陸から切り離された時にはまだ伊豆半島は日本列島の一部ではなかった。その後、60万年前頃、太平洋を南からフィリピン海プレートに乗ってやってきた海底火山列島が徐々に隆起を始め陸地化し、やがて日本列島に衝突して伊豆半島が出来た。さらに20万年前頃になると、天城連山などの陸上大型火山が出現して噴火を繰り返し、造山活動が活発になる。このころ山国、伊豆の姿の原型が形成された。その後、大型の火山活動が収まり、地表が侵食を受けなだらかな山容となってゆく。やがて伊豆半島東岸に単成火山活動が起こり大室山、小室山、一碧湖など、スコリア丘、溶岩ドーム、爆裂口など60を超える単成火山群が出現する。その噴火、溶岩流出により形成されたのが今の伊豆高原である。すなわち伊豆高原は天城連山の東側にできたなだらかな溶岩台地なのである。その溶岩流が海中に没するところが城ヶ崎海岸である。溶岩流が海中に流れ込むと急速に冷やされることで、柱状節理の岩肌を持つ独特の景観を形成することになる。伊豆高原という、まるで信州の高原のような山岳リゾートっぽいイメージの景勝地が、相模湾に面した海岸にある理由はこうした事情による。また、こうした成り立ちから、伊豆は玄武岩や安山岩などの石材の産地としても注目され、江戸城の石垣用石材の切り出し地となった。東海岸にはあちこちに石切場跡があり、海中には江戸への運搬途中に沈没した切り出し石が多数検出されている。また、下田の街の家屋の壁面を飾る海鼠壁とともに、独特の佇まいを生み出している伊豆石の産地ともなっている。だいぶ少なくなったとは言え、ペリーロード沿いの伊豆石作りの古民家や蔵が立ち並んでいるのを見て歩くのは楽しい。伊豆石には安山岩系の硬質岩と凝灰岩系の軟質岩があるそうで、こうした古民家には加工しやすい軟質岩が利用されているという。

 そして伊豆といえば温泉だ。特に伊豆半島東海岸には熱海に始まり、伊東、赤沢、大川、北川(ほっかわ)、熱川、片瀬/白田、稲取、河津、下田と、伊豆急沿線ほぼ各駅にバラエティーに富んだ温泉がある。火山性の温泉であるが、泉質は単純泉、酸性泉など、無色、無臭のさらりとしたお湯だ。特に熱川温泉は湯量が豊富で、100度を超える熱水を櫓で組み上げ、そこから噴気が吹き上がる様が温泉街独特の風景となっている。熱川まで来ると、先ほどの伊豆高原の溶岩台地から外れ、伊豆はまた別の顔を見せる。断崖絶壁連なる海岸線ではなく、温泉街のウォーターフロントには白砂の海岸線が続き海水浴場が広がる。そのすぐ背後には天城山系の山々がそびえる。山麓の谷筋には。かつて都から配流され、落ち延びてきたやんごとなき一族の末裔の隠れ里が点在する。鄙ではあるがどこか雅な香りを今に残す穏やかな風景。こうした伊豆半島の成り立ちを振り返ってみると、多様な地理的特色を持つ「ジオパーク伊豆半島」という新たな視点からの伊豆の楽しみ方があることに気づかされる。


北川温泉から望む伊豆高原
大室山から流出した溶岩流が形成した地形であることがよくわかる。

城ヶ崎海岸駅から海岸へ向かう桜並木道
この辺りは別荘地である。

城ヶ崎海岸
溶岩流が相模湾に落ちるところだ
大室山の溶岩流の先端。その先に伊豆大島が

柱状節理の岩肌


城ヶ崎吊り橋と門脇灯台



伊豆海洋公園
伊豆海洋公園のアジサイ園
伊豆大島

橋立吊り橋あたりの景観

柱状節理

柱状節理が見事だ

磯釣りのメッカだ
大室山山頂火口壁から伊東市内、相模湾を望む

大室山山頂から眼下に伊豆高原、海中に大島を展望する。
伊豆高原が大室山から流出した溶岩台地で出来ていることがよくわかる。
緑の中に点在するのは別荘

大室山山頂から一碧湖を望む
一碧湖も爆裂火口の跡である



(撮影機材:Leica SL + Vario Elmarit 24-90,  Leica CL + APO Vario Elmar 55-135)








2018年6月1日金曜日

伊豆下田は今年も紫陽花の季節に

 例年6月1日から下田公園にて紫陽花まつりが開催される。去年は6月中旬にここを訪れ、全山カラフルな紫陽花に覆われた下田公園を堪能した。今年も少し早めではあるが、いつもの「隠れ家」からに足を伸ばしてみた。やはりまだ少し早いようだ。開花は始まっており、色付いている株もあるが、これからが全山満開!という感じだ。ペリーロード沿いの紫陽花も開花はしているがまだ色づいていない。紫陽花は色の移ろいが美しいし、様々な種類の花が咲き乱れる様は圧巻なのだが、しかし、新緑と相まって若々しい息吹を感じる紫陽花の群生である。

 いつころからこんなに見事なあじさい苑ができたのか、地元の方に伺うと、紫陽花を植え始めたのは最近の話じゃないかとのこと。自分が子供の頃には見に行った覚えも聞いた覚えもないと。もっともその方は70代後半というお年頃であった。下田公園のあるところはは城山と呼ばれている。戦国時代、北条氏の出城だったところで、豊臣秀吉の北条攻めの時に奮戦した関東一円の出城の一つであった。




下田公園あじさい苑

ペリーロード




まだまだ色づきが...





写真の祖、下岡蓮杖記念碑



下田公園あじさい苑


下田の街

伊豆独特の海鼠壁の民家


寝姿山を背景に



下田富士を背景に



下田港全景

豆州下田古写真


















(撮影機材:Leica SL + Vario Elmarit 24-90 ASPH, Leica CL +  Apo Vario Elmar 55-135 ASPH)