2018年9月21日金曜日

筑前福岡藩はその時何をしていたのか? 〜大河ドラマ「西郷どん」を観て考えること〜

 今年のNHK大河ドラマは、明治150年を記念して「西郷どん(せごどん)」である。西郷隆盛役は鈴木亮平。若手の俳優だがなかなか好演している。登場するのはお約束の薩摩の島津斉彬、島津久光、大久保利通、小松帯刀、篤姫、長州の桂小五郎、土佐の山内容堂、坂本龍馬、越前の松平春嶽、橋本左内、水戸の徳川斉昭、幕府側の井伊直弼、将軍徳川慶喜、勝海舟、公家の岩倉具視などの幕末ドラマのレギュラーメンバーで、話の筋もわかっているので今更ではある。特に原作者の林真理子の新しい歴史解釈が披瀝されているわけでもなさそうだが、人物描写、特に鈴木亮平西郷のそれが魅力である。ところで、いつもこうした幕末、明治維新ものを見るたびに考えるのは、これだけ西南の雄藩が登場し、活躍しているのに、筑前福岡藩は、その頃何をしていたのか?ということだ。

 筑前福岡藩は明治維新に乗り遅れた藩である。薩摩、長州、土佐、肥前といった維新を担った西南の雄藩(徳川幕藩体制における外様である)の一角を占める位置に存在する外様大藩であるにも関わらず、なぜ筑前福岡藩はそんなことになってなってしまったのか。明治新政府には筑前福岡出身者の重鎮は少なく、かつての国府、福岡は明治以降、九州の中でも長崎や熊本、小倉、門司に比べて存在感の薄い通過都市の悲哀を味わうことになる(福岡がこんなに発展するのは戦後、しかもつい最近のことである)。

 そもそも幕末には福岡藩には家老の加藤司書を始め、月形洗蔵、平野国臣などの筑前勤王党の志士がキラ星のように活躍し、薩摩や長州に並ぶ「尊王攘夷」勢力の中心であった。長州征伐では幕府軍の侵攻を停めさせ、幕府寄りであった薩摩と、倒幕派の長州の仲を取り持つなど、薩長連合(坂本龍馬の功績であるとされているが)を画策するなど幕末激動の時代の主役の一翼を担っていた。また京都での八月二十八日の政変により倒幕派の公家達(七卿落ち)は長州藩へ落ち延び、そしてさらに筑前太宰府に身を寄せ、筑前藩に保護された。これに遡る安政の大獄の時期、勤皇派の月照を薩摩に逃がそうと奔走したのが、西郷隆盛と筑前福岡藩士平野国臣であった。そして月照とともに入水した西郷を助けたのも平野国臣であった。この辺りは今年の大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」にも登場する。

 しかし、一時期、勤王倒幕派が主流であった筑前福岡藩も、藩内の佐幕派の巻き返しに遭い、大政奉還を2年後に控えた1865年に、加藤司書はじめ、月形洗蔵など尊王攘夷派、倒幕派の錚々たるメンバーほぼ全員が粛正されてしまう。野村望東尼が姫島に流されたのもこの時だ。切腹7名、斬首14名、流刑15名を含む140名が処断された「乙丑(いっちゅう)の獄」である。また筑前藩出身の勤皇の志士として坂本龍馬や西郷隆盛とともに活躍し、後世にも名を残す平野国臣は、幕府側に捕らえられて京都六角の獄で殺害されている。こうして1867年までにはいわば尊皇攘夷運動第一世代がほぼ壊滅させられてしまった。

 黒田は外様とはいえ、関ヶ原合戦では徳川の東軍に組し、長政は東軍勝利に貢献したことで家康から筑前一国、52万石を与えられている。薩摩の島津や長州の毛利が西軍の主力で、関ヶ原で敗走し、後に徳川に赦免され、減封された「西軍の残党」であったのとは異なる。この点は同じ家康に土佐一国を与えられた外様の山内に似ている。筑前最後の藩主、黒田長溥(ながひろ)の幕末に置ける徳川幕府に対するスタンスは、山内容堂が最後まで佐幕で、倒幕を迷いに迷っていたそれと似ている。ちなみに尊皇攘夷、倒幕で活躍した武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎などの土佐勤王党は、そのほとんどが、かつて徳川家康に領地没収された長宗我部遺臣の子孫、山内レジームで虐げられていた下士、郷士である。考えてみれば怨念とは恐ろしいものだ。毛利も島津も長宗我部も、関ヶ原の恨みを260年後に晴らした訳だ。しかし山内家も黒田家もいわば「徳川恩顧」の外様大大名でである。幕末に多くの藩主が、倒幕などもってのほか、と考えたことにはそれなりの理由があった。島津斉彬、久光も、当初は倒幕というより、諸侯を交えた公議体による幕政改革で、徳川家中心の集団指導体制を志向していた。それだけに幕藩体制を崩壊させ、武家支配の時代を終わらせるには、徳川将軍家の上をゆく統治の「権威」を持ち出さねばならなかった。そこに外敵の危機を意識させ、天皇を中心とした王政復古を目指すという「尊皇攘夷」をいうスローガンを打ち出した理由があった。

 福岡藩にはこうした土佐藩のような旧領主の家臣たちとの軋轢はなかった。関ヶ原で西軍を裏切った小早川が一時筑前領主であったが、かつて筑前一国を支配する地場の有力大名はいなかった。山内家が新領主として土佐に入国した時のような前領主の遺臣の扱いに苦慮することはなかった。かといって薩摩や長州、肥前のように、代々地元に根を張った大名でもない、いわば生え抜きの「創業者社長」に対し、関ヶ原以降の「転勤族社長」である。領国統治には黒田如水(官兵衛)、長政父子を祖とあおぎ、いわば創業以来の君臣の結束で当たろうとした黒田家(黒田二十四騎に代表される)も、三代目忠之の時の黒田騒動(殿のご乱心に栗山大膳が主家を見限る)に象徴されるように、父祖の代から黒田家に忠誠を尽くしてきた古参の家臣団との間に亀裂が入り、徐々に結束力が弱まってゆく。また、後世には嫡子に恵まれず、官兵衛、長政の血脈は途切れる。こうして他家(徳川、京極、島津など)からの養子が藩主の座につくようになると、家臣、領民にとっても結束の証が揺らいで行ったと思われる。

 徳川幕藩体制下の最後の殿様、黒田長溥(ながひろ)は薩摩島津家からの養子、島津重豪の子で島津斉彬にとっては、年齢はさほど変わらないものの、大叔父という関係であった。蘭癖大名で、開明的な君主であった点では斉彬や肥前の鍋島閑叟と同じであったが、最後の最後まで倒幕には組しなかった。そもそも黒船来航時に幕府からの諮問に応えて幕府の開国方針を支持した開国派であり攘夷派ではなかった。勤王の志は示したものの、藩内の過激派、尊皇攘夷を進めていた筑前勤王党一派を持て余し、土壇場で粛正して徳川幕府に忠誠を示した。徳川慶喜の大政奉還の2年前のことである。この時に福岡藩はキラ星のごとくいた有能な人士をほぼ失ったと言われている。皮肉にも、同じく佐幕か倒幕かで逡巡していた土佐の山内容堂とは対照的な結果となる。土佐勤王党も武市半平太が藩により処刑されたが、坂本龍馬などの脱藩浪士をのちに赦免するなど、家老の後藤象二郎が藩政の流れを変えていった。その結果が「大政奉還建白書」起草につながり、寺田屋事件で坂本龍馬、中岡慎太郎を失うも、明治新政府への人材供給、岩崎弥太郎のような実業界への進出にも繋がっていった。人を失ったことがのちの両藩の明暗を分けたといって良いかもしれない。

 さらに、筑前福岡藩とともに長崎勤番を務めた肥前佐賀藩にも、開明的君主として知られる鍋島閑叟(かんそう)がいた。彼は長崎に出向き、自らオランダ船やイギリス船に乗り込み、直接、現場で西欧列強諸国の知識、技術、文化を吸収した。そして近代的な反射炉や製鉄所を藩内にいち早く作り、その鉄を用いた高性能な大砲を量産する。幕府が江戸湾に築いたお台場に設置された大砲は佐賀藩製である。やがて鳥羽伏見の戦いで用いられた新政府軍の大砲も佐賀藩製であった。鍋島閑叟は薩摩主導の四侯会議(島津久光、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城)にも招かれたがこれを断った。結局、四侯会議は慶喜の巧妙な政治手腕により機能を果たさず崩壊。結局、これ以降薩摩は先に締結していた薩長同盟を軸に、倒幕へと舵を切ることになる。鍋島閑叟はそうした混乱に巻き込まれることなく、次のフェーズに向けての佐賀藩の存在価値と役割を温存した。自ら突出せず成り行きを注意深く観測していた。この点で黒田長溥も同様であった。世間に「風見鳥」と揶揄されるのだが、それはそれで当時の藩主たちが一様にとった態度であった。各藩が旗幟鮮明にしたのは、文字通り戊辰戦争で新政府側が「錦の御旗」を掲げた時からであった。勝ち馬に乗るである。もっとも新体制を展望した福岡藩の立ち位置という視点がどのようなものであったのか明らかではない。少なくとも鍋島閑叟は藩内の人材の抹殺は行わなかった。これが土佐藩と同様、明治新体制になってから、江藤新平、副島国臣、大隈重信などの佐賀人の活躍の場を広げることとなった。佐賀藩は鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍側に参加していないが、関東以降の戦いに参戦し佐賀藩製の大砲が活躍、幕府の崩壊に貢献した。ちなみに福岡藩も、最後の最後になって、今度は佐幕派の家老たちを切腹させ、新政府軍側に兵を出したので「賊軍」にならずに済んだが、すでに相次ぐ粛清で有為の人材が残っておらず博徒や犯罪者をかき集めた烏合の衆であったという。新政府軍側からも厄介者扱いされ、最前線で弾除けにされたという。「筑前に人無し」と揶揄され屈辱を受けることになる。激動の時代にあって、先を見抜く眼力、大局的に時代を読む見識、時宜を得た的確な判断をすることの難しさを教えている。これは単なる運不運では語れないだろう。リーダーには運を掴む力も必要なのだから。そして人を一時の都合で切り捨ててなならない。これが大きな教訓だ。

 不幸はさらに続く。明治新政府になってから、版籍奉還後の初代福岡藩知事の黒田長知(長溥の養子)は、贋札事件の責任を問われ、廃藩置県を待たずに藩知事の地位を追われる。明治2年のことである。そこには寂しく父祖代々の領国、福岡をさる旧藩主の姿があった。明治以降も、旧藩主が福岡に戻り居宅を構えることはなかった。当時、新政府、各藩ともに財政逼迫から、福井藩の由利公正が資金調達手段として考え出した紙幣(いわば政府保証債権)が成功したのを見て、各藩では密かに贋札発行が行われていたようだ。この「どこもやっているじゃないか」が危険だ。「やるなら気づかれないようにやれ」という度を超えていた。新政府に発覚してしまい、いわば見せしめとして福岡藩が血祭りに上げられ処断されることとなった。関ヶ原以来260年続いた大藩の藩主が更迭されるという前代未聞の事態を招いた。しかも幕藩体制崩壊直後、かつ廃藩置県の直前。まさに最後の「改易」である。替わって皇族の有栖川宮熾仁(タルヒト)親王が藩知事となる。これが明治新政府における福岡藩の立ち位置を決定づけた。いやはや、先を読む眼力を備えた天才軍師と言われた藩祖如水(官兵衛)は、彼岸からどのような思いで、こうした子孫(といってもとうに血脈は途切れているが)の引き起こした「不手際」を観ていたのであろうか。不行跡の殿のご乱心による改易の危機を、身を捨てて切り抜けた忠臣栗山大膳も、黒田家末裔の「最後の改易」という不名誉をあの世で嘆いていることだろう。

 こうして西南の雄藩の一つであった筑前福岡藩は、幕末から明治新政権発足という我が国の歴史の大転換点にその足跡を残すことができなかった。こうした事態を嘆いたのは、他ならぬ最後の藩主長溥であった。責任も感じていた。彼は明治20年に旧藩校修猷館を再興して地元の優秀な若手人材の育成を手がけ、さらに中央へ出て、高等学校、帝国大学に進み、政財界で活躍する有為な人材の自律を支援する「黒田奨学会」を設立する。こうして明治維新に乗り遅れた福岡藩人士の中から、維新第二世代、第三世代ともいうべき金子堅太郎、団琢磨、栗野慎一郎、明石元二郎などの若手官僚、軍人、財界人たちを生み出し、やがては広田弘毅のような総理大臣を生み出して行った。

 一方で薩長藩閥政府当てにせずとする一団が現れたのも宜なるかなであろう。明治初期に各地で勃発した「不平士族の乱」は筑前でも起こり、福岡の乱、秋月の乱に散っていった人々も多かった。やがて新政府の方針に異を唱える自由民権運動が高まりを見せる中、福岡藩独特の結社、玄洋社が生まれる。下級藩士出身であった頭山満を首魁とし多彩な人士が結集し、肥後熊本の宮崎滔天とも連携して「大アジア主義」を主張。日本の独立国としての主体性だけでなく、目を海外に向けアジア各地域の植民地解放運動、独立運動を支持してゆく。孫文の辛亥革命やチャンドラ・ボースのインド独立を民間サイドで支援した結社である。当初は自由民権運動の中生まれ民権伸長からやがては国権の海外伸長へと変遷していった。そのためか戦後は「右翼運動の元凶」としてGHQにより解体されたが、今でもその評価は分かれていて確定していない。維新後の福岡藩、福岡人が置かれた立場が生み出した反権力、反体制のムーブメント。それが玄洋社である。ユニークなところでは川上音二郎も福岡藩士の家に生まれ、維新政府で活躍するのではなく、芸能で薩長藩閥政府批判を展開した。あのオッペケペー節だ。こうした体制側に立ち位置を持たない在野の精神が、今だに福岡人の底流に流れる「反中央」センチメントの基層をなしていることは間違いない。




草むす福岡城大手門

新しい世にでる事なく露と消えにし福岡の維新の志士

お城の外堀は睡蓮の名所に





2018年9月5日水曜日

猛暑の夏「自分史」初版刊行!

 今年の夏はひどい夏だった。六月の大阪の地震に始まり、七月の西日本の広域豪雨水害、六月末の梅雨明けとともに全国的に連日35度越えの猛暑、九月に入ってからの大型台風の関西直撃。何人の尊い命が奪われたことか。夏は災害目白押しの苛烈な日本列島という印象。2020年の東京オリンピックはこんな七月に開催される。本当に大丈夫なのか? そんな中、我が家ではニューヨークから娘夫婦が孫娘連れて里帰りしてくれた。ジジババ大喜びで孫と夏休みを楽しむはずが、娘一家が羽田についた翌日に母が転んで骨折、救急搬送、入院、手術。転院してリハビリの開始。連日病院通いすることとなった。予定していた夏休みの計画は全てパア。幸い母は順調に回復してくれリハビリに専念しているが、この猛暑に弱い定年男は精神的にも体力的にもへばってしまった。

 しかし、グッドニュースもある。ようやく懸案の「自分史」の初版が出来上がってきた。いわゆる「私家本」という非売品の限定出版だ。この歳になると、これまで過ごしてきた社会人としての自分の仕事人生を振り返り、過ごしてきた時間、経験したこと、感じたことを思い起こしながら記録しておきたい衝動にかられる。定年男が一度は夢見る「自分史」出版だ。私も3年ほど前から構想し、企画し、時間に余裕が出てきてからは原稿を書き貯め、編集して出版原稿にまとめる作業に取り組んできた。なかなかまとまらず苦労したが、ようやく出版にこぎつけた。編集が難物であった。プロの編集者のようなわけにはいかないが、商業ベースに乗っけるわけではない限定版の「私家本」なので自己流でやった。自費出版にしては体裁はなかなかの出来栄えとなった。これは印刷会社のデザイナーさんのお知恵を借りた次第。

 そもそもなんで「自分史」を纏める気になったのか?もちろん自分の人生の中で最も多くの時間を過ごした仕事世界を振り返り記録しておきたいという自分のためであることは間違いない。しかしもうひとつには、家族に家庭人としての私以外の「私」を知らせておきたいということがある。リタイアーエイジになると、非常勤の仕事を引き受けてはいるものの、以前に比べると自由な時間ができて家にいることが多くなる。と、家内と話す時間も増えた。しかし、家内は私の家庭人としての側面はともかく、社会人としての人生を知るよしもなかったことに気づかされた。人生をずっと寄り添ってくれた家内ですらそうなのだ。まして子供達はどうなのか? 気がつくと息子、娘はとっくに独立して家を出ている。それでも時折、家族が集まり話しをすることがある。しかし、私がどういう人生を送ってきたのか、なぜあんなに海外転勤が多かったのか、世界中飛び回って一体何をしていたのか。何に喜び、何に悔し涙を流したか。実は彼らは何も知らない。そのことに愕然とした。さらに今やそんな昔のことなぞ関心すらなくなっている。そりゃそうだよな。今や自分たちの家庭と人生で手一杯なのだから。家のことも顧みず、ただ企業戦士として外を駆けずり回り、時々家に帰ってきて寝そべっているオヤジのことを、なんで知らないのか、なんで関心がないのか、という方が無理というものだ。気づくと家にいて仕事のことや人生をじっくりと家族と話す機会もなかった。もっとも当時はあんまり仕事のことは家族に話したくもなかった。「会社レジャーランド」説を提唱した偉大な先輩がかつて我が社におられた。なぜオトーサン達は家に帰らないのか?会社に夜遅くまでいるのか?会社を出ても新橋を徘徊して家に帰らないのか?それは会社が楽しい楽しいレジャーランドだからだ。家に帰りたくないからだ。「でなきゃ、こんなに会社にいつまでも居る筈がね〜じゃね〜か!」と。私は当時このご高説に苦笑はしつつも、「なワケないよね」と。人々に敬愛される大先輩の独特の皮肉と受け止めていた。が、今振り返ると家に帰らない理由はそれだったのかもしれない。少なくとも会社がオトーサン達の居場所だったのだ。家は寝に帰るところ。私もそんな怠惰な昭和/平成のオトーサンだったのだろうか。「子は父親の背中を見て育つ」と言われるが、背中を見ている時間すらもなかったに違いない。あるいは垣間見た「背中」に嫌気がさして、父親とは違う道を選んだに違いない。

 人に語れるような大した人生を送ったわけでもないのだが、年取ると、せめて子供達、孫たちに、お父さんは、お爺ちゃんは、こんなことしてたんだよ、ということを知って欲しいという衝動にかられる。だからと言って今頃こんなもの書いても手遅れ感は否めない。多分これを読んだからといってそれがどうしたと言うのだ。急に父親を理解し、共感を抱くことはないだろう。私も父から研究者としての人生の集大成である退官記念論文集をもらった時、それを読んだ記憶はない。父もその論文集に関してなんの説明もしなかった。それよりも父は日常の生活の中で「親父の背中」を見せてくれたものだ。その「背中」が色々語ってくれた。父が亡くなり、父の思い出を家族で語ろうと、小冊子を企画した時に初めてこの論文集のページをめくった。本箱の片隅に埃をかぶって忘れられた存在然として並んでいる冊子を見つけて手に取り、ああこんな本があったのだと思い出す。それでいい。私は父のようにはなれなかった。今更後悔しても後の祭りというものだ。私のささやかな「自分史」もせめて本棚の片隅に残っていてくれれば良い。エンディングノートとして残ってくくれれば良い。


カバー写真はニューヨークマンハッタン42丁目の通り。
東側の陸橋から撮影した。