久々に近代建築遺産を巡る旅に出た。と言っても都内の地下鉄三田線白金台から徒歩1分の旅。閉館となった旧国立公衆衛生院の建物が、最近リノベされて市民に開放されたと聞き出かけてみた。白金から目黒にかけては東京都庭園美術館や自然教育園があり、その目黒通り沿いに古色蒼然としたアカデミックな建築物が並ぶ一角があることには気づいていた。東京大学医科学研究所が白金にあることも知っていた。しかし公衆衛生院が隣接していたことは知らなかった。白金台駅を出ると、左の門が東大医科学研究所、右が旧公衆衛生院だ。緑濃いキャンパスに分け入ると改めてこんなすごい建物があったのかと感動する。さすが東京だ。開発著しい都心とはいえ、江戸以来の歴史を持つ帝都東京の建築遺産は豊富だ。そしてそれを貴重な都市の記憶、建築遺産として保存し、修復して現代の都市生活に生かそうとしている。東京が未来に向かって文化的にも成熟した豊かな街になるには、古いものの破壊ではなくこうしたリノベーションと持続的な活用が必要だ。
中心に高層の塔屋を置き、左右両翼に研究棟が広がる旧公衆衛生院の建物。隣接する東京大学医科学研究所と対をなす近代建築遺産である。両方とも東京帝国大学建築学科教授内田祥三(よしかず。第14代東大総長)の設計になる。連続アーチを用いたゴシック建築(内田ゴシックと呼ばれている)。どこかで見たことあると感じた方も多かろう。そう本郷の安田講堂、東大付属総合図書館、医学部本館も内田の設計だ。この他にも法文経一号館、工学部一号館、旧制第一高等学校本館(駒場旧教養学部1号館)など数多くの東大の建築物を設計した。関東大震災後のキャンパスの再設計を行い設けられた正門と安田講堂を結ぶ銀杏並木もこの時に内田教授の手になるもの。そして、これらの建築物のほとんどが現存し、日本のアカデミズムを象徴する建物として現在でも使用されている。東大本郷キャンパスのアカデミックな佇まいを演出しているのは内田ゴシックの建築物群だともいえる。
この白金台の建物は、アメリカのロックフェラー財団の寄附/支援のもと、保健衛生に関する調査研究、公衆衛生の普及活動を目的として国が設立した公衆衛生院のために、昭和13年(1938年)建設された。その後、平成14年(2002年)に公衆衛生院は国立保健医療科学院に統合され、埼玉に移ったため、この歴史的建物はその役割を終えた。この敷地と建物を平成21年(2009年)に港区が買い取り、歴史的建造物として保存し、そのオリジナルの意匠等を生かした修復、耐震補強等の改修を施した上で、「ゆかしの杜」「区立郷土歴史館」として平成30年(2018年)にリニューアルオープンした。
連続アーチを正面に配したファサードの重厚さに感動しつつ、エントランスを一歩中に入ると、そのロビー中央ホールの円形の吹き抜けが目に入ってくる。高級な石材やレリーフがふんだんに使われ、オリジナルの姿をよくとどめている。圧巻は4階の旧講堂である。340席を有する大講堂で、懐かしい階段教室である。天井材と座席のクッション以外はオリジナルの部材をそのまま使用しているという。この他に、旧院長室、図書室、食堂、6階の居住空間である寮が往時のまま修復保存されており、研究機関としての風格を今に残している。2階3階4階の教室や研究室であったところをうまく「港区郷土歴史館」の展示室として活用しており、建物ツアーと同時に、縄文時代から明治維新、昭和の高度成長期までの港区の道のりを振り返ることができる。こうして白金台に新たなお散歩ポイントができた。この辺りは、一時は「シロガネーゼ」などとハイソでお洒落ななエリアとして鳴らしていたが、最近はそういった言葉は流行らなくなったようだ。それでも、目黒通りに沿って、聖心女子学院、八芳園(旧大久保彦左衛門邸)、自然教育園 (旧白金長者屋敷)、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)とかつてのお屋敷を転用した素敵スポットが多い。そこにこの少々お硬いイメージの研究所がリノベして、素敵な仲間に加わった。大歓迎である!
こうした建築遺産保存とその現代都市生活への活用。それを見るにつけわが故郷、福岡は残念な街になってしまったと悲しい気分になってしまう。貴重な近代建築遺産、倉田兼設計のセセッション様式の旧九州帝国大学法文系本館があっけなく解体されてしまったショックも冷めやらぬ間に、またしても福岡に残された最後のネオゴシック建築の日本銀行福岡支店の建物も間も無く解体のニュース。これまでも市内にあった近代建築遺産が次々と破壊されてきた。なんという文化感度なのか。東京、大阪に比べると高層ビルがないことがどうも悔しいようで、やたらに高層ビルを建てたがる。そのための航空法による高さ規制を緩和してもらうことに躍起になっているが、歴史を紡ぐ建築遺産にはほとんど注意が払われていない。まるでバブル時代の発想だ。急速に人口が増え、最近、神戸を抜いたとさわいでいるが、街にはどこか歴史の厚みというか風格が感じられない。中世の博多の黄金の日日も、江戸時代の城下町福岡の佇まいも、明治以降の経済都市福岡の繁栄も忘れ去られてしまい、奴国以来2000年という我が国屈指の歴史を有する都市の面影、痕跡はどこかへ消え失せてしまい、人々の記憶からもかき消されていっているようだ。今回の旧公衆衛生院建築ツアーで、学芸員の誇らしげな説明を聞き終えて真っ先に考えたのは、こうして破壊されず見事に保存修景された施設の存在と、その文化的遺産をも守ろうとする市民の意識へのレスペクトと、我が故郷の不甲斐なさであった。
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壮麗なゴシック建築 |
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連続アーチのエントランス |
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内田ゴシックの象徴だ |
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2階にエントランスホール |
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円形の吹き抜け天井 |
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レリーフデザインが素敵だ |
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3階吹き抜けから2階エントランスホールを見下ろす |
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さらに吹き抜けが |
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旧院長室 |
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大講堂 |
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懐かしい階段教室 |
隣接する東京大学医科学研究所(旧伝染病研究所)と付属病院。こちらも内田ゴシックの建物。公衆衛生院との関係がよくわかっておらず、建物も似ているので、地元では両方合わせて東大関係の研究所だと思っていたようだ。それも致し方ない気がする。どう見ても一体的な東大白金キャンパスにしか見えない。医科学研究所の方も都心には貴重な緑濃い杜の中にあり、アカデミックで静謐な環境だ。元はドイツから帰った世界的な医学者/細菌学者である北里柴三郎が初代所長として迎え入れられた私立の伝染病研究所(伝研)(福沢諭吉、森村市左衛門などが資金を出した)であったが、1914年、内務省所管から文部省所管に変わることとなり、東京帝国大学に統合されることとなった。これに反対した北里柴三郎始め志賀潔などの研究者が大挙辞職した(いわゆる伝研騒動)。北里柴三郎は同年11月には私財を投じて北里研究所を創設する。こんな歴史を持つ研究施設だ。ちなみに北里研究所も白金にキャンパスを有している。
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本館建物
これも内田ゴシックの東大建築 |
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ここにも連続アーチが |
(撮影機材:Leica CL + Super Vario Elmar TL 11~23 ASPH。建築写真に最適な広角ズームレンズ。歪曲収差も周辺光量も良く調整されていて気持ちよく撮影できる。)