2019年1月31日木曜日

仏教伝来とキリスト教伝来 〜グローバル化の受容と拒絶(第二章)〜






時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 仏教伝来とキリスト教伝来 〜グローバル化の受容と拒絶〜: (未定稿) 「仏教伝来」:538年/552年、(百済聖明王より仏像、仏典が倭欽明大王に。仏教公伝) 「キリスト教伝来」:1549年(イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸。布教開始) 1000年の時を隔てて日本に伝来した二つの世界宗教。その時代の世界文明の波を...

 前回、未定稿で終わった考察、まだまだ結論めいたまとめにはいたらないが、第二弾の考察を整理してみた。最近、話題のスコセッシ監督の映画「沈黙」を見ることができた。そこで学生の頃読んだ遠藤周作の原著「沈黙」を読み返してみた。また、熊井啓介監督の映画「天平の甍」を観た。そして井上靖の原著「天平の甍」を読み返してみた。どちらも今の私にとって、歴史書とは別の意味で色々と示唆に富む作品である。特にスコセッシ監督の「沈黙」はキリスト教会では論争があるようだが、日本におけるキリスト教受容/拒否の歴史を映像として可視化して見せた点だけでも大いに印象深い。むかし遠藤周作を読んだ時には「神はなぜ沈黙しているのか」と棄教した主人公の宣教師が天に向かって叫ぶ姿が印象に残っていたが、スコセッシ監督作品では、キリシタン弾圧者側の長崎奉行井上筑後守の「日本の土地はキリスト教の根を腐らせるのだ」という言葉が心に残った。それにはどのような含意があるのか。そのメッセージの意味を考えさせられることとなった。歴史書が取り上げることのない個人の心情や苦悩から、本来人間の心に関わるはずの宗教の受容の歴史を読み解いていくこともできるのではと感じた。


 16世紀半ばにポルトガル人が日本人に接触し、日本に一歩を踏み入れ、やがてザビエルが布教に訪れた時の日本と、その一千年前の6世紀に百済の聖明王が倭国に仏教をもたらした時の倭国とは大きくその時代背景や列島を取り巻く国際情勢、周辺環境が異なっている。また倭国(日本)のその時その時の世界における発展段階的な立ち位置と、対外戦略にも大きな違いが見て取れる。換言すれば、異国の神の来訪がグローバル化の契機となるかその逆か。そのきっかけ、シンボルとなる世界宗教の伝来という見方ができるのではと考えた。


キリスト教伝来の時代背景

 16世紀はヨーロッパにおけるいわゆる「大航海時代」である。ヨーロッパにおける国々の海外進出競争の中でポルトガル人がまず日本にやってきたとき、日本は戦国時代。まさに列島は群雄割拠状態で戦国の英雄たちが国の覇権を争っていた。高度に訓練されたサムライによる軍事勢力が国土を覆っていた。民衆は戦乱のなかで疲弊し貧乏であり、まるで道義が地に堕ちたかのような有様であった。国としても対外的に魅力のある産物を生み出す国でもなかった(やがて石見に銀を産出し状況が変わるが)。マルコポーロが書いた「黄金の国ジパング」とは程遠い国であった。東アジアの超大国、明帝国は海商政策として鎖国しており(倭寇対策がその原因)、日本の海外交易はむしろ琉球を仲介とするか、安南、呂宋などの東南アジアとの交易が盛んであった。天下統一は道半ばではあったが、各地に強力な軍事力を有する有力領主が競っていた。そこへ鉄砲が伝来し、戦争のパラダイムが変わった。その新兵器を巧みに戦力化し、戦術化した織田信長が天下統一まであと一歩というところまで来ていた。その野望はすんでのところで崩壊し(本能寺の変)、やがて豊臣秀吉が天下統一を果たし列島はようやく戦乱状態から出する。しかし戦乱の火種はまだくすぶっていて徳川家康による豊臣勢力の一掃により、ついに戦国時代が終わった。すなわち武士の政権、軍事政権による内戦終結・国土掌握/天下統一が完成した。日本はとんでもない軍事大国となっていた。一方のポルトガルは、せいぜい本国の人口100万ほどの小国であった。そんなユーラシア大陸の西端の、イスラム世界に圧迫された辺境国が、ようやくイベリア半島からイスラム勢力を駆逐し(レコンキスタ)、アフリカ西岸に進出し始めた。バーソロミューディアスによるアフリカ南端希望峰周回、さらにはバスコダガマによるインドカリカット到達、やがてはマカオ進出と、インド/アジアに進出できたのは国力や軍事力のせいというよりも、イスラム勢力による圧迫という中世キリスト教世界が置かれていた逼迫した状況と、やがては飽くなき物欲(奴隷、金、香料)探求と、その物欲を比較的受け入れるインド洋自由交易圏の存在であった。こうしてポルトガルははるばる極東まで進出してきたとはいえ、のちの新興オランダ、イギリス海洋帝国のような西欧列強勢力とはいえなかった。そもそもスペインの新大陸におけるアステカやインカ、マヤなどの現地文明を破壊して収奪するような略奪帝国主義的な野望を持って日本にやってきたわけではなかった。むしろ、現実は種子島「漂着」という偶然による日本との遭遇であった。鉄砲を伝えたが当時の軍事大国日本にとって、マカオから流れ着いたポルトガルは軍事的な脅威となるような国ではなかったはずだ。国力、軍事力という点では対等、ないしはむしろ日本の方が優っていた。その時点では外部勢力による列島侵略といった危機感を抱く状況ではなかったはずだ。スペインに至っては当時フィリピンに進出したものの、ポルトガル人によって「発見された」日本との交易には全く関心を示さなかった。そこへキリスト教が入ってきた。フランシスコ・ザビエル率いるイエズス会である。これとてマカオで出会った日本人の話に興味を持ち、信者獲得が行き詰まっていたカトリック教会にとっては、蛮夷の地での布教という実績を見せる良いチャンスであった。こうして未知の国日本への布教を試みた。一方で、彼らの動機はどうであれ、ポルトガル人来航もキリスト教布教も、当時の日本に南蛮の珍しい風俗、文物、文化をもたらし、大名たちはこぞってキリスト教徒(キリシタン)になるなどして新しい文化の受容に走った。そうした支配階級とは別に、戦乱に苦しむ庶民の間では「来世での救い」を求めて信仰が一気に広まり、信者は30万に達したと言われている。しかしオランダ人やイギリス人が東洋に現れると事態に変化が起き始める。カトリック教国と新教国との争いがはるか極東にも及ぶことになる。後発海洋進出国オランダ・イギリスの帝国主義的な領土進出競争と相まって、プロテスタント国としての反カトリク(反スペイン、反ポルトガル)プロパガンダ(スペイン、ポルトガルはキリスト教布教を通じて日本を征服しようとしている)を強力に推し進めた。これに乗った徳川政権は、キリスト教禁教令を出し、司祭等の国外退去、信者の国外追放を行なった。カトリック教国ポルトガルを締め出し、布教に関心を有しないプロテスタント国オランダにのみ交易権を認めた(長崎における江戸幕府による管理統制貿易体制。この時点でイギリスは自ら日本市場から撤退していた)。これがいわゆる徳川幕府の「鎖国政策」の実態である。もちろん禁教令の背景には、イエズス会以降やってきたドミニコ会、フランシスコ会などの教条主義的教団の布教方針への反発や、日本人司祭を認めないなどの差別的方針への不信感、行き過ぎた仏教寺院の破壊行動(大友宗麟のような日本人の領主によるものが多かったが)への抵抗、キリシタン大名による教会への領土寄進などへの警戒があったが、何よりも反カトリック勢力(オランダ、イギリス)の讒言が大きな要素であった。こうしてキリスト教(カトリック)は拒絶された。


仏教伝来の時代背景

 一方、6世紀の倭国の状況と東アジア情勢は如何に。まず中原の統一王朝である漢帝国(前漢/後漢)が滅びたのち、3〜4世紀は魏呉蜀三国時代からさらに五胡十六国の時代という王朝の分裂、混乱の時代にあった。この混乱の中、中華王朝の亡命貴族や難民とともに中国から様々な形で中華文明が周辺諸国に流出していった。朝鮮半島にあった漢や魏の植民地(楽浪郡、帯方郡)が崩壊し、4世紀末には新たに朝鮮三国(高句麗。新羅、百済)が成立する。そしてその朝鮮三国が絶え間なく抗争する時代へと突入する。具体的には高句麗と百済の戦争があり、のちには新羅の台頭があり、こうした半島の不安定な情勢が、海を隔てた倭国に大きな影響を与え始めた。すなわち倭国を後方の同盟国とし、半島内の闘争を優位に進めようとする動きである。とりわけ百済は高句麗との戦争に倭国からの傭兵の調達を要請し、実際に高句麗戦に倭人が参戦している(好太王碑文)。以降、倭国は朝鮮半島における戦乱への介入をきっかけに、鉄資源という戦略物資確保という動機から半島への軍事的支配権を企図するようになる(5世紀倭の五王の上表文)。当初、まだ文化的にも軍事的にも、経済的にも未開の倭国を軍事的なアライアンスに引き入れるため、とりわけ百済は積極的に倭国に中華文明を注入し、軍事的な面での戦闘要員の徴発にとどまらず、国としての倭国の軍事的同盟コミットメントを求めて行った。そのためには倭国が未開な蕃国のままでは困る。七支刀や文明の証を次々に倭国に与えた(後世の日本の歴史書「日本書紀」には、三韓からの「朝貢」と記されている)。その一つが、6世紀に百済の聖明王が贈った仏像と仏教典である。すなわち東アジアにおける世界文明であった仏教の勧め(仏教公伝)だ。庶民の救済と信仰をひろめるための布教という視点は薄く、倭国支配層の統治の根本思想(金光明経)や、儒教や道教とともに思想哲学的なバックグラウンドとしての仏教であった。いわばちゃんとした「文明国」として同盟国になることが求められた。ちなみにこのころ中国は前述のような王朝混乱の只中で、その未開国倭国に大きな文化的な影響を与えたのは中華文明のフロンティアーたる朝鮮三国であった。やがて6世紀後半〜7世紀になると中国に随、唐という強力な統一王朝が誕生し、朝鮮半島情勢は新たな混迷の時代を迎える。7世紀中には百済が唐/新羅連合軍に滅ぼされ、倭国が同盟出兵して白村江の戦いで敗れるという大事件が起こる。仏教が取り持った百済との縁はここで途絶える。しかし倭国(のちに日本)において仏教が現世利益、庶民の救済としての信仰の対象になるのは、ずっとずっとのちの時代の話である。平安時代の貴族による阿弥陀信仰、鎌倉時代の武士による八幡大菩薩信仰などを経て、ようやく室町時代になってからのことである。要するに仏教伝来時には、キリスト教伝来時と異なり、戦乱に苦しむ庶民に信仰として普及した形跡はなく庶民には無縁の難解な思想哲学であった。古来の「惟神の道(かんながらのみち)」を守ろうとする既存勢力(物部氏や大伴氏、中臣氏等)からの抵抗はあったが、渡来系豪族や、それを背景とした蘇我氏らの対外戦略に乗った形で仏教が新思想として導入された。何よりも大王家(のちに天皇家)が仏教を受容した。また当時は、のちのキリスト教がカトリック国とプロテスタント国とに別れて抗争するような事態もなく、ましてカトリック国が列島を侵略して植民地にしようとしているといった外部勢力からの侵攻プロパガンダもなかった。朝鮮半島三国間の抗争、背後に強大な中華帝国を抱える当時の朝鮮半島三国は列島侵攻どころではなかった。こうしたことから仏教は支配者層の、倭国「近代化」「グローバル化」に向けた統治の思想、理念として受け入れられていった。


グローバリスム・反グローバリズム

 いずれの場合も、6世紀では東アジアスケール、16世紀には世界スケールという違いはあれ、異国の神(蕃神)の伝来の背景に当事国の政治的闘争、経済的闘争という国内の騒乱や国際情勢の緊張関係があったことは共通である。しかし、6世紀の仏教伝来は倭国にとって鎖国どころか、朝鮮半島諸国に積極的に介入する「海外進出の証」、「文明国の証」とさえなった。いわばグローバル化の証であった。その後、朝鮮半島からの撤退を余儀なくされた後は、むしろグローバルな脅威に対抗できる中央集権的な「近代国家」の創建という新たな理念の中心的な統治思想として仏教を取り入れた。一方、16世紀、キリスト教伝来は、当初は新たなグローバル文明の受容として歓迎されたが、天下統一の思想的バックボーンや、日本が海外進出する際の「文明国の証」にはならなかった。逆に、日本人の海外進出を禁止し、キリスト教禁止(正確にはカトリック禁止だが)、幕府統制の貿易体制を敷く「鎖国」のきっかけとなった。いわば反グローバリズムの方向に舵を切った。むしろ国内統治体制の強化のためにキリスト教を締め出した。これは際立った相違だ。


信仰としての異国宗教

 国際情勢や、国内政治情勢の差はそうなのだが、なぜ信仰としての仏教は日本に受容され、キリスト教は受容されなかったのか。先述した様に、本来宗教とは個々人の心にまつわるものであるはずなのだ。「沈黙」のキリシタン弾圧者側として登場する長崎奉行井上筑後守の言葉をかりれば「日本の土地は沼のようなものでキリスト教の根を腐らせてしまう」。棄教キリシタンであったという彼の言葉としてメッセージされている。八百万の神々という多神教世界に根を下ろした仏教の根は腐らなかった。神仏習合して根を張り、庶民に浸透して行った。行基、鑑真、空海、最澄など難解な教義を解説し仏教を倭国/日本に根付かせたの初期の聖人、庶民の信仰を広めたのちの各宗派の創始者/聖人たち。日本に入ってきた仏教は大乗仏教で厳格な一神教でなかったことが幸いしたのだろうか。それでも庶民の日常の信仰として定着するのに500年ほどかかっている。いっぽう、「世界を創造した唯一絶対神」としてのキリスト教は、権力者や有力諸侯だけではなく、初期には先述のように戦乱に苦しも庶民の間で信仰が広がり、一気に30万の信者を獲得したが、たちまち為政者に根絶やしにされてしまった。したがって日本に根付かせるために教義を解説し、既存の宗教である仏教や古来からの自然神、祖霊神との融合(あるいは現地化)を解くキリスト教の指導者/聖人は生まれなかった。いや生まれる前に禁教により追放されてしまった。仏教が行基や鑑真、空海、最澄などの先駆的な仏教伝道者、日本化への解釈者を持ち、そこからのちに多くの宗派の指導者を輩出していったのとは大きく異なることとなる。いわばキリスト教を日本化する歴史を持たないまま明治維新を迎えることとなる。「根を腐らせる」前に刈り取られてしまった。たしかに、今我々が見ることができる聖人像についても、唐僧鑑真和上の無私の犠牲的精神を体現した姿(鑑真和上坐像)と、イエズス会の戦闘的布教集団を率いるフランシスコザビエルの野心的な眼差し(ザビエル像)とのあいだに垣間見える違い。これが時代背景と相まってこの歴史上の結果の相違を象徴しているのかもしれない。キリスト教はその後、指導者がいなくなってから潜伏キリシタンがほそぼそと信仰を守りつづける苦難の歴史を歩むこととなり、やがて復権するのは禁教から250年を経た明治維新以降の明治5年のことである。根絶やしにされたはずが根を張って生き延びたのだ。根は腐らなかった。庶民の信仰の強さを物語るものだ。これからのキリスト教がさらに人々の信仰を集め、生活に根ずくにはどのような道を歩むのか。長い歴史を振り返るとキリスト教の受容のプロセスは、まだ始まったばかりなのかもしれない。信教の自由が認められた現在でもキリスト教信者は日本人の1%ほどだという。

 次回は是非、潜伏キリシタン関連世界遺産を訪ねてみたい。いずれ近いうちにご紹介出来ることを乞うご期待。


フランシスコ・ザビエル像
鑑真和上坐像






















 


 今回の考察の参考に下記の書籍、映画作品を紹介したい。

「バテレンの世紀」渡辺京二
「沈黙」遠藤周作
映画「沈黙」スコセッシ監督
「天平の甍」井上靖
映画「天平の甍」熊井啓介監督



2019年1月8日火曜日

年の初めは放談で!「未来を推し量る時に陥りがちな三つの誤り」とは?

 
みんな急ぎ足でどこへ行くのか?

 2019年の年が明けた。「めでたさも中くらいなりおらが春」これからの世の中はどうなってゆくのか。先行き不透明な「不確実性の時代」の始まりのようでなんとなく元気が出ない。そう思いながら新聞各紙に目を通していたら日本経済新聞(2019年1月7日月曜)のOpinion欄に目を惹く記事を見つけた。Financial TimesのChief Economics Commentator, Martin Wolfの寄稿、「中国 世界一になれぬ理由」である。欧米諸国のインテリが思ってはいてもなかなか口には出さない、潜在的な「願望」にズバリと答えるようなタイトルなので興味を引いた。ジャーナリスティックな見出しであるがその指摘は示唆に富むものである。記事の筆者は近年の状況から未来を推し量ってはならないと冒頭に書き、中国が近年目覚ましい経済成長遂げているからといって、数年内に世界の覇権を握ると結論付けられるとは思わない、としている。彼は80年代に日本が世界の「ナンバーワン」になるとみられていたのにそうはならなかったことや、56年に旧ソ連のフルシチョフ共産党第一書記が西側諸国を「葬る」としていたのに実際にはその逆になったことの2例を挙げ、「未来を推し量る時に陥りがちな3つの誤り」を指摘している。

 誤りその①  未来を近年の経験から推測すること。
 誤りその②  経済の急成長がいつまでも続くと考えること。
 誤りその③  競争原理が働く経済の仕組みより中央集権体制の利点を過大評価すること。

 これにいくつかの事象をあげて解説し、だから中国は世界一になれないと結論づける。これもまた「近年の経験」を持って未来を推し量っている感もあるが、中国が世界一になれるかどうか、覇権を握れるかどうかは別として、彼の指摘にはいくつかの大事な共感ポイントが含まれている。

 ① 未来を近年の経験から推測すること。
 近年の中国の目覚ましい経済成長の経験をもって、未来永劫そうなると考える必要はない。日本だってそうなならなかったと。その日本の例の適否はともかく、人は身近な経験から物事を判断しがちで、それが時としてわかりやすく見えるが、必ずしも正しい評価でないことは多い。人は歴史をなぜ学ぶのか、歴史認識がなぜ大事なのか。それは過去は現在と未来に続いているからである。未来を予測するだけでなく、未来を創造するためにも歴史から学ぶことが重要である。とりわけリーダーとなる人間は正しい歴史観を持っていることが重要である。しかし短いタームの出来事から、未来を見通すことは危険である。まして個人の経験はそれだけでは歴史にならない。トランプのようにニューヨークの地場の不動産商売による「ディール」やアトランティックシティーでの大損といったの経験で、歴史や世界を見渡し判断する危険、愚かしさについていまさら言うを待たないだろう。人類が共有する様々な経験はそれらが蓄積されある時間軸を経たのちに評価をへて歴史になる。そこに歴史の法則が見えてくる。20世紀後半の冷戦時代、日本の高度経済成長時代といった3〜40年の出来事だけでは十分とは言えないだろう。あるいは19世紀後半から帝国主義と戦争の時代、日本の西欧的な近代化から数えてもせいぜい150年くらいの出来事、それだけで中国の未来を見通すことはまだできないであろう。中国はなにしろ4000年の歴史が重層的に折り重なった国である。いや王朝興亡と異民族との攻防を繰り返す中で生まれてきたひとつの文明である。現在の中国共産党による独裁支配体制はようやく発足から70年ほど経過したが、漢、唐、明、清歴代王朝の支配体制に比べるとまだまだだ。その行く末も含めてもう少し巨視的、通史的に俯瞰してみる必要がありそうだ。しかも資本主義そのものが産業資本主義からいわば「デジタル資本主義」へと大きく転換しつつあるいま、ますます短期的な経験だけでは見通せないし創造することもできない。ビスマルクは言う「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。

 ② 経済の急成長がいつまでも続くと考えること。
 これは日本の「ジャパンアズナンバーワン」の例を見ずとも間違いであることは明らかだ。イギリスがそうであった、アメリカがそうであった、日本もしかり、中国もそうであろう。技術革新により新しい産業が生まれ、産業構造は輪廻転生し、一定のライフサイクルで脱皮し転換してゆく。そのサイクルの長さには違いがあるにしても経済大国の興亡は歴史の理である。問題はアメリカのように鉄鋼や造船、電機、自動車といった重厚長大な製造業から脱皮して、あたらしいサービス産業やはハイテク産業に転換できるかどうかである。日本の問題はそこにある。歴史的な使命を終え、海外へ移っていった過去の成長産業から、次のフェーズへ転換できていない。過去の成功体験に酔いしれてビジネスモデルイノベーションが起きていない。むしろ中国の方が後から成長してきて、早くも「成長の罠」に気づき、ビジネスモデルイノベーションと産業構造のフェーズ転換の必要性に気づき始めている。後発の方が気づきも早いし、転換も早い。これが成功すれば中国のさらなる成長はありうるだろう。もちろん日本にもチャンスがある。

 ③ 競争原理が働く経済の仕組みより中央集権体制の利点を過大評価すること。
 これが実は一番大きな誤りだ。日本も戦後の高度経済成長期には、欧米諸国の経済学者や経済史家から「社会主義的資本主義国」とみなされたものである。すなわち国家主導(その中心は官僚だが)による経済成長だ。「神の見えざる手」による市場主義経済モデルからみると、英国の厚生経済や福祉政策などのケインジアンモデルとも異なる、異質な「資本主義的経済成長モデル」が日本であった。私が79〜81年に学んだLSE: London School of Economics and Plitical Scienceで、ハーバード大学から来た教授が、「日本は官僚主導の経済体制で、産業分野規制や、輸出政策を立案し効率よく実行している。その優秀なエリート官僚のリーダーシップは、がやがては民間企業トップに天下って官民一体となって「護送船団方式」で世界に打って出るかじ取り役を担うことによってさらに発揮される」と評していたことを思い出す。経済や産業が未成熟、あるいは戦後の荒廃からの立ち上がり途上で、金融資本市場から十分に資金が調達できない、賃金水準が低くて消費が活発でない、社会的インフラが未整備といったフェーズにおいては国の役割が重要となる。公共事業や国営企業による雇用の創出、インフラの整備。助成金、規制による保護政策が産業の成長を助ける。しかし、やがてそうした方式はその歴史的役割を終える。日本は80年代にはいり、高度経済成長、グローバル経済体制の時代に入ると、次のフェーズに向けて成長しなくてはならなくなる。新自由主義経済イデオロギーによる手法を取り入れて、あらたな経済成長をめざす。すなわち国営企業の民営化、規制緩和、官僚の天下り規制、資本市場の開放を進めていった。90年代に入ると情報/マネーのボーダレス化が一層進み通信産業や金融サービスなどの規制産業領域のさらなる規制緩和を進めていった。

 日本が高度経済成長を遂げていた78〜92年、中国は鄧小平が毛沢東時代の経済政策の失敗、文化大革命による国内の混乱という深刻な事態から立ち直るべく改革開放路線に舵を切った。共産党一党独裁のもとでの資本主義的な自由競争導入という、前代未聞の成長戦略を取っていった。さらに92年からは「社会主義市場経済」を標榜し、安い労働力とコモディティー化されたプロダクトの大量生産というフェーズにおいてこれが成功し、かつてイギリスが、日本が、世界の工場となって経済成長したように、中国が世界の工場となった。そうして現在の中国の経済成長につながっている。しかし、先の日本の経済成長が「国主導」で安い労働力と大量生産による高品質低価格か路線のモノつくり中心の経済成長であったことで戦後未曾有の成長を遂げたが、やがては「自由主義市場経済」という資本主義ロジックの元での成長に切り替えていった。ただその過程で次世代の産業への構造転換に手間取っているわけだが、そのことも含め、中国が日本の経験に学ぶとすれば、共産党一党独裁という政治体制下でいつまでも「共産党主導」の経済成長が保証されることはないという気づきであろう。逆に言えば、経済成長無くして共産党一党独裁体制維持はありえないという自己矛盾が見て取れる。技術イノベーションが、ビジネスモデルイノベーションを促し、自由な経済活動が経済システムの柔軟な変換を促してゆく。それが成長の原動力となる。そんなサイクルを共産党一党独裁体制下で実現できるのか。いくら官僚や党幹部の腐敗を無くしても、国営企業と党官僚が主導する経済システム(いわば擬似資本主義体験)を終息させなければ次の成長フェーズへは転換できない。そもそも、ドグマ的言い方をすると、カール・マルクスの主張する共産主義は、アダム・スミスが主張する資本主義をの矛盾を批判して「打倒すべきもの」として登場してきたはずである。失うものは「鉄の鎖」しかないはずの労働者が資本家になる。それはすなわち資本主義への移行である。共産主義の終焉である。それは経済システムにおいてのみならず、政治システムにおいてもである。共産党が最大の資本家として労働者を「搾取」する。この中国の現状こそ歴史上の大いなる「矛盾」である。経済政策の失敗で崩壊したソビエトという実験国家の運命とは異なる、歴史的出来事が近い将来に起こりそうだ。これこそ「中国が世界一になれるか否か」より大きな問題だし、それができれば「中国は世界一になれる」かもしれない。独裁体制は確かに効率が良い。民主主義は手間がかかる。自由主義市場経済は無駄が多い。独裁体制は独裁者への信頼に基づくシステムである。民主主義は王様であれ独裁者であれ、民主的に選出された指導者であれ、彼らへの不信に基づくシステムである。「信頼の政治」はナチが喧伝したスローガンである。これは我々人類が経験し、やがて歴史の教訓に昇華されようとしている記憶である。民主主義的な政治体制と自由主義的な経済システムは表裏一体である。結果的には自由主義経済体制、民主主義政治体制が、手間暇かかって、無駄が多く時間がかかろうとも持続的な成長を保証する。もはや日本も中国もかつてのような資本主義的自由主義経済の発展途上段階ではないのだ。将来、もっと長期的に見れば、自由民主主義を止揚するあたらしい思想、仕組みが生まれてくるかもしれないが、自由民主主義に絶望してはならない。少なくとも中央集権的で独裁的な政治思想やナショナリズムがそれに取って代わることがあってはならないし、そうなることはない。

 こう考えてくると、これからの「不確実な」世界の問題の一つが、共産党の独裁政治体制にコントロールされた中国の経済成長と覇権の問題であるにしても、さらに大きな問題はこうした自由民主主義体制を疑い始め、不安視しているアメリカやEUなどの西欧諸国の「ゆらぎ」「自信のなさ」の方である。特にアメリカの「トランプリスク」は看過できない。この流動的な世界において少なくとも4年間もアメリカがうちに爆弾を抱え不安定で疑心暗鬼の状況に置かれることは世界の大きなリスクである。そんな中で日本は、それこそ近年の経験に基づく歴史認識だけではなく、よりスパンの長い「正しい歴史認識」に基づき、ぶれない立ち位置で政治と政策の見直しに全力をそそがなくてはならない。それが成熟社会における安定的、持続的な経済成長の条件である。