2021年10月26日火曜日

古書を巡る旅(16)ケンペル「日本誌」History of Japan 〜その書誌学的な考察を少々〜

 

1906年再版のグラスゴー版



在連合王国林大使のはからいによる菊花紋

英語版「日本誌」初版に貢献したSir Hans Sloan肖像と表紙

日本の歴史の中で、西欧文明とのファーストエンカウンターは、欧米の歴史家が言う「大航海時代」の16世紀末のポルトガル人との種子島における偶然の出会いに始まる。その後、イエズス会宣教師が布教に訪れ、ポルトガル、エスパニアとの交易、交流が始まったことは歴史で習ったとおりだ。やがて、これまた偶然にも新興国のオランダ船が豊後に漂着しウィリアム・アダムスなどイギリス人、オランダ人がやってきた。ヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントの争いを反映して、極東の日本でも両者の争いは止まるところを知らず、これをうまく利用した家康の外交戦略により、布教優先のカトリック国:南蛮人が駆逐され、交易優先のプロテスタント国:紅毛人が残った。その平戸と長崎のオランダ商館にやってきた歴代のカピタン(商館長)や医師などの館員が、日本をヨーロッパに紹介した。中でも、後世に「出島の三学者」と呼ばれた、ケンペル、テュンベリー、シーボルトは三人とも商館付の医者であり、植物学者であった。しかもオランダ人ではなくドイツ人や、スウェーデン人であった。彼らが見聞し、心に響き、後世に残した鎖国日本の観察研究記録は、西欧文明とのセカンドカウンターともいうべき幕末のペリーの来航、開国、明治の近代化の前史として語り継がれてきた(2017年5月30日「出島の三学者」ケンペル、テュンベリー、シーボルト)。なかでもケンペルが著した「日本誌」は、鎖国政策下の未知の国、日本の状況を、日本に滞在し詳細かつ体系的に記録した最初の書として、当時のヨーロッパで重用された。これまでも、オランダの歴史学者で作家のモンタヌスの「東インド会社遣日使節紀行」1669年、ポルトガルの冒険家メンデス・ピントの「遍歴記」1663年や。平戸オランダ商館長フランソワ・カロンの「日本大王国誌」1661年があるが、モンタヌスは日本に一度も来たことがなく、ピントは日本に来たことはあるがその冒険譚はかなりの誇張やフィクションが含まれ、カロンの記録は、長く日本に滞在した経験による初めての記録で貴重であるが、鎖国体制以前から移行期にかけての記録である。オランダ東インド会社のバタビア総監への報告書という位置付けである。ケンペルは、このカロンの「日本大王誌」を参考にしている。「日本誌」が特に画期的であるのは、その後長く日本に関するほぼ唯一の体系的情報源として活用され、当時の「百科全書」に引用されて、啓蒙思想家に大きな影響を与えた。さらに幕末、アメリカのペリー提督の来航に際し、彼はこれを熟読し研究してから日本にやって来た。日本の近世から近代へという歴史の転換に果たした役割がここにも見える。こうして「外国人が見た日本」と言う視点よりも、江戸時代の日本を研究する貴重な歴史的資料とし、その重要性は今なお色褪せていない。また、それまでの日本見聞録は、宣教師や、商館長、商人や旅行者などのいわば業務執行上の体験に基づく記録となっているが、ケンペル以降、テュンベリー、シーボルトの記録は、学者/研究者としての、より客観性を重視した研究的な視点で記録された点が異なる。

まずはケンペルとはどういう人物で、かれは日本で何を見たのか。彼が残した「日本誌」The History of Japanはどのような経緯を辿って現代に読み継がれているのか。少し振り返ってみたい。今回は書誌学的視点で「日本誌」を追って見るのも興味深いと考え、恥ずかしながら専門家ならぬ私的な考察をご披露してみたい。


エンゲルベルト・ケンペル:Engelbert Kaempfer (1651~1716) 略歴


ケンペルの肖像
確定的なものが現存していない
(Wikipediaに掲載されているもの)

ドイツ、レムゴー生まれ 牧師の息子 医師、植物学者、博物学者

ドイツは宗教改革に伴う三十年戦争(1618〜1648年)がようやく終わり混乱の時代であった。1651年に生まれ、幼少期のハーメルンの学校を皮切りに、少年・青年期にはヨーロッパ各都市のギムナジウムで基礎的な教養を身につけ才能を磨いた。大学はダンチヒ、クラカウで哲学や言語、歴史を学び、キーニヒスベルグでは薬学を学ぶなど、母国ドイツではなく、各国を旅行しながら多様な科目に挑戦するという、この時代の若者としては稀有な学びの機会を得た。最後にはスウェーデンのウプサラ大学(後のテュンベリーはこの大学の教授、学長になっている)で学び、高名な学者の知己を得て、その才能を発揮して頭角を現す。ついにはスウェーデン王朝の外交使節としてロシア、ペルシャに赴く。こうしたキャリは、決して多くはないが、この頃の知識階級エリートの一典型である。若い頃から各国を旅し、学問を修め、さらに新たな未知の領域に挑戦するという人生を歩んだ。その延長線上に、極東の見知らぬ王国「日本」への旅があった。「日本」はこうして「未知の王国」として、ケンペルのような知識欲旺盛な気鋭の若者の目的地になった。このように江戸期、幕末期、明治期を通じ優秀な人物が、大きな好奇心を持って日本を目指したことは特筆に値する。そしてその日本での見聞、経験を更なるキャリアップにつなげていった。有能な若者は常に未知なるものに憧れ、挑戦する。

1681年 スエーデン ウプサラへ

1683年 サファビ朝ペルシャへのスウェーデン王朝の使節団に加わり、ロシア経由で。

1690年 オランダ東インド会社の船医としてバタビアへ。さらにバタビア本部所属となり、シャム経由で日本へ。

1690〜92年長崎オランダ商館付きの医師として出島滞在(2年間)

第3代将軍綱吉の時代で、オランダ商館長崎出島移転(1641年「鎖国」政策の完成)から50年が経過している。1687年「生類憐れみの令」発布。井原西鶴、松尾芭蕉などが活躍する元禄文化真っ只中。赤穂事件(赤穂浪士討ち入り)の10年前(1702年)という時代である。

基本的には出島の外へ出る機会は稀で、日本の情報は商館付きの通詞を通じて得たという。しかし、この間、二度 商館長江戸参府に同行して将軍綱吉に拝謁。その旅路で見聞した事物を旅行記として残した(「日本誌」の重要なパート)。

1692年離日 バタビアへ

1695年 ヨーロッパへ戻る オランダ、ライデン大学で医学博士号取得

1712年 故郷レムゴーで執筆活動に勤しむ。「廻国奇観」Amoenitates Exoticae出版 ペルシャ中心の記述で日本は一部

1716年 「日本誌」のもととなる草稿執筆するも出版未完のまま死去

1727年 英語版「日本誌」初版 ロンドンで出版


1727年の初版表紙

初版本(いわゆるスローン版)
フォリオサイズで革装は後世のもの


ケンペル「日本誌」The History of The Japanとは? 

彼の著名な著作である「日本誌」The History of The Japanは、彼の死後、実は母国のドイツやオランダではなく、イギリス・ロンドンで1727年に初版が出された。王室付きの医師で、古文書資料収集など、文化財コレクターで大英博物館コレクションの創始者であるハンス・スローン卿:Sir Hans Sloanが、ケンペルの遺族からほぼ全ての遺稿を買取り、スイス人医師Scheuchzerにドイツ語から英語に翻訳させた。こうして英語訳の「日本誌」The History of The Japan(スローン版)が出版され、1731年に重版された。このロンドン初版本がケンペル「日本誌」のいわば定本となっている。この初版本はフォリオサイズで、地図や装画は巻末にまとめて収納されるなど、読み物というよりは、いわば国王と王室指導層向けに献上された(配布先リストが掲載されている)報告書の体裁となっている。

さらにこの英訳初版本からは、フランス語訳、オランダ語訳が相次いで出され、特にフランス語版はディドロ「百科全書」に引用されて、以降長く日本関係の一次資料となっている。カントやゲーテなどの啓蒙思想家たちの日本研究の基礎資料となり、のちのジャポニズムの底流となった。さらには、先述のように120年後のアメリカのペリー艦隊の日本渡航の際の事前研究資料として、シーボルト資料とともに重用された。一方、オランダ語版は日本に入り、江戸後期の志筑忠雄(1801年享和元年の「鎖国論」)、黒澤翁満(1850年嘉永3年「異人恐怖伝」後に発禁書となる)などに引用、抄訳され、幕府天文方翻訳局において、箕作阮甫などの蘭学者達による全訳がある。このように英訳版ケンペル「日本誌」は、日欧双方にとって、18世紀から19世紀前半の日本の開国以前の日本を知る定本として位置付けられる。

一方で、英訳版出版の後、ケンペル自筆ではないがドイツで新たな草稿発見。これはケンペルの甥の手になる、いわば書写原稿で、これをもとに「日本誌」Geschichte und Beschreibung von Japan(ドイツ語版)が 1777〜79年に出版された。ドイツの啓蒙思想家、ドーム:Christian Willhelm von Dohmによるものであるため「ドーム版」とも呼ばれる。当時の特定地域特有のドイツ語で書かれていた草稿を、標準ドイツ語に翻訳したものである。1964年に復刻版が出された。何故か日本における近現代のケンペル研究、「日本誌」の日本語訳はこのはドイツ語(ドーム版)が定本となっているようだ。参考に戦後の翻訳を三冊紹介。

    「ケンプエル日本史(抄訳)」長崎県史編纂委員会 吉川弘文館 1966年

    「日本誌(上下)」今井正 訳 霞が関出版 1973年 ドーム版の翻訳

    「江戸参府旅行日記」斎藤信 訳 平凡社東洋文庫 ドーム版の1964年の復刻版の第二巻第五章の抜粋 1976年

しかし、ケンペル「日本誌」は、英語版、ドイツ語版では内容に違いがある。英語版刊行後に新たに発見されたとするドイツ語原稿には散逸が多く、地図や図版の欠如や差し替えがある。しかもケンペル本人の自筆原稿ではない書写であることから誤記が多いことが懸念されている。一方、初版の英語版は、ドイツ語そのものが当時使われた地域が限られたもので誤訳が多いとされる。現在では大英博物館収蔵のオリジナル原稿(スローン卿が入手した原稿)と、ケンペル自身の手になる別原稿「今日の日本」Das Heutige Japanを中心とした原典批判研究がケンペル研究の主流となっているという(現代におけるケンペル研究者、ミヒャエル・ウォルフガング九州大学名誉教授の指摘)。

今回入手したのは1727年初版本(英訳スローン版)のリプリント版である。1906年にグラスゴーで復刻出版(いわゆるグラスゴー版)されたもので、初版から180年ぶりの版となる。全部で1000冊ほど印刷された限定版で、大学関係者や研究者中心に配布されたようだ。豪華革装丁の限定版(100冊)もある。巻末には1673年のイギリスによる日本への航海を記述した追補版(Appendix)が挿入されている。これは1613年のイギリス東インド会社によるジョン・セーリス:Captain John Sarisの日本への航海と、イングランド国王(ジェームス1世)から日本国王(徳川家康)への親書奉呈、イギリス商館の平戸開設とその後の活動に関する記述である。1727年の初版本には、この追補が入っているものとそうでないものがあるようだが、この1906年のリプリント版には巻末に掲載されている。オランダだけではなく、当時のイギリスの対日交流の歴史を付記し強調したのだろう。イギリス王室に献上された英訳版ならではである。The Second APPENDIX to Dr. Engelbert Kaempfer's History of Japan being part of an Authentick Journal of A Voyage to Japan, made by the English in the Year 1673

しかし、なぜ180年ぶりに英語版が復刻されることになったのか。グラスゴー大学でのケンペル「日本誌」研究が進められるきっかけとなった背景は何なのか。長い間、大陸諸国ではこの英訳版が定本として、再翻訳、重版、引用され、これまで、先述のようにフランス語版はデュドロ「百科全書」に引用されることでヨーロッパ諸国の啓蒙思想家の重要な日本関連情報源となったし、オランダ語版は、日本において、蘭学の貴重は参考書として江戸時代を通じて日本語翻訳が試みられ重用された。にもかかわらずイギリスでは再版本も出されなかった。こうして1906年に英語版ケンペル「日本誌」が再び脚光を浴びて、限定版とはいえ復刻されることになった訳だが、この版の出版社による巻頭言では、特に再版に至った経緯には触れられていない。私的な推測ではあるが、明治維新以降の近代化を急いできた日本は、このころ「富国強兵」「殖産興業」「条約改正」の一定の到達点に達していた。とくに1904,5年の世界を驚かせた日露戦争勝利を契機に、イギリスにおける日本への再評価。日英同盟(1902年)を基軸とした大英帝国における日英関係の再評価機運が勃興していたことと符合するのではないだろうか?今後の対日戦略研究の一環としての資料価値が高まっていったとも考えられる。もちろんこの頃にはアーネスト・サトウやバジル・ホール・チェンバレン、ウィリアム・アストンなどのイギリス人ジャパノロジストが多くの近代日本関係の論文や著作を発表しているわけだが、彼らイギリス人にとって空白の領域を埋めるべく、すなわち明治近代化以前の近世江戸期、「鎖国日本」の時代に遡って研究する機運が高まったのであろう。ローカルな視点で見るとグラスゴーの造船業にとって明治日本は重要な顧客でもあったことから、本書出版への関心も高かったのではないか、という推測は少々考えすぎだろうが。


ハクルート協会(Hakluyt Society)

ところでイギリスにはハクルート協会;Hakluyt Societyという、歴史的な航海、旅行、探検の記録を発掘し、収集研究し、復刻して書籍として残してゆく活動を行っている団体がある。1846年設立である。こういう団体が存在するのはさすが大航海時代以来、世界に雄飛した大英帝国ならではである。名前のハクルート(Richard Hakluyt 1552?~1616)はエリザベス朝時代に活躍した地理学者で、外交官で、聖職者であった。あのウィリアム・アダムス:William Adamsが生きた同時代の人間である。彼を顕彰する意味で名付けられた。この協会は数々の歴史的な大航海:Great Discovry時代以降の記録を後世に残す仕事をしており、現代にまで続くハクルート協会叢書を刊行している。主としてイギリス関連の記録が中心であるせいか、ケンペル、テュンベリー、シーボルトなどの著作は収録されていないようだ。また17世紀鎖国時代の日本との関係ではオランダに遅れを取りイギリスは影が薄いせいでもあろうか。1900年に出版されたアーネスト・サトウのThe Voyage of John Saris To Japan, 1613はハクルート協会から出されているが、概して日本関係は少ない。大英帝国の発展、植民地経営の拡大に呼応して設立されたロンドン大学のアジア・アフリカ学院:SOASなど、大学研究機関においても、基本は大英帝国の旧植民地の開発研究(Development Study)が中心である。しかし、19世紀末から20世紀初頭における日本の近代化と台頭、東アジア情勢の変化を鑑みるに、こうしたアジア/アフリカの植民地やインド/中国中心の歴史認識を更新することが必要になってきたとも考えられる。そういう事情から対日交流史研究が大学を中心に進められたとも考えられる。それにしてもイギリスの大学は日本関係研究が比較的に弱いと感じる。大英帝国「治天下」ではない、「版図外」の話だと言わんばかりの扱いに見える。この件については、話がどんどんそれていくのでこの辺にしておこう。


「日本誌」掲載の図版、地図など

本書に掲載されている図版、地図をいくつか紹介したい。当時は日本に関する地図や文書の国外持ち出しはご法度で(後のシーボルト事件でも明らかなように)、獲得には苦労したであろう。いわば出島監禁状態であったケンペルがどのように日本に関する情報を得たのか。後に、今村源右衛門という若い長崎留学生がいたことがわかっている。彼はオランダ商館の通詞としてケンペルとも親しかったようだ。彼を通じて様々な情報を入手していたことが示唆されているが、彼の立場を慮って、ケンペル自身は彼の名を公開していないが、他の資料からそれが窺い知れる。今村は後に新井白石などの幕府の西洋事情研究のアシスタントも務めた一級のオランダ語通詞として活躍した。彼の名前を記憶しておく必要がある。一方で、「オランダ風説書」など幕府への公式報告書を始め、オランダ商館がもたらす外国情報は大変貴重で、これ等を得んがために、長崎奉行所や、長崎勤番の筑前藩、肥前藩、長崎遊学の蘭学者、商人から内々に情報提供するなど、相互の情報交換があったようだ。それにしてもケンペルの帰国に際し、バタビアに向かう船が出島を出港するにあたっては、日本地図や得られた図版、書類の船内積荷はかなり慎重に扱われたものと思われ、無事出港できるまでハラハラしたようだ。また先述の今村源右衛門の名前の秘匿はじめ、関係者に迷惑がかからないよう極めて用心深く行動したようだ。そのあたりの模様が「日本誌」にも記述されている。


日本全図
よく持ち出せたものだ
守護神として恵比寿、布袋、大黒が描かれている

長崎・出島図

参考ブログ。2017年5月23日大航海時代と日本 〜「長崎出島」は「鎖国」の「象徴か? 以前のブログで紹介した1750年のベランの「出島図」の原典はドイツ語ドーム版の出島図(簡略版)ではなく、英語スローン版のこの図であった。おそらく英語版から翻訳されたフランス語版からの引用であろう。


長崎街道図

みやこ:Miaco

東海道図

品川宿周辺

江戸図

オランダ商館カピタン一行参府行列図

江戸城三の丸謁見図


14番はケンペル
ケンペルが右手御簾奥の将軍と奥方の要求に応じて踊りや歌を披露させられたとある

日本の通貨


生物学者らしく様々な植物や鳥、昆虫の観察している

ケンペル旅姿





2021年10月16日土曜日

街からカメラ屋が消える日 〜数寄屋橋のランドマーク「ニコンハウス」閉店〜


数寄屋橋交差点の不二家ビル一階に目立つ黄色い看板。
一等地に店を構える「ニコンハウス」
(2020年2月撮影)





看板が外され店がなくなってしまった。
(2021年10月撮影)





最近街で見なくなった商売にカメラ屋がある。かつてカメラ屋はその街の、いわば文化度の象徴であった。地方の小さな町にもカメラ屋があって、誇らしげな店構えであることが多かった。そこには生活必需品ではないが日常生活に彩りを添え、ワクワク感を与えてくれる商品であるカメラが並んでいた。カメラ小僧にとって気になる憧れの店であったものだ。ニコンなんて高嶺の花。ライカなんて無縁の世界。オリンパスペンで撮るのがせいぜいであったが。大体DPEもやっていた。と言っても最近の人はなんの事かわからないだろう。写真フィルムのD:Development(現像)、P:Print(プリント)、E:Enlargement(引き伸ばし)のこと。安価な同時プリントはよくお世話になった。街の古写真を見ると必ずと言っていいほど、繁華な通りに「〇〇カメラ」「✕✕写真店」「DPE」の看板が写っている。最近はとんと見なくなった。カメラ屋の集積度が高い街は、だいたい都会である。もちろん東京にはカメラ屋が多かった。特に銀座、数寄屋橋界隈は日本でも有数のカメラ屋街で、銀座のブランド、ステータスにふさわしい高級カメラを並べる店が多かった。銀座が外国人観光客のあこがれの街であった理由の一つは、ニコン、キャノン、ペンタックス、マミヤなどのメイドインジャパンのカメラのメッカであったことがある。

緊急事態宣言解除で、久しぶりに数寄屋橋交差点を歩いてみて驚愕した!不二家ビルの一階に去年まであった「NIKON]の看板が無くなっているではないか。なんと... 数寄屋橋のランドマークとも言うべき黄色のニコンの看板が.見えない...どうしたことなのか?ここにはスキヤカメラのニコンカメラレンズの専門店「ニコンハウス」があったはずだ。ネットで調べると去年の8月に閉店してしまったのだそうだ。そういえば、私自身、コロナのせいにするわけではないが、最近、銀座界隈の中古カメラ屋巡りしなくなっている。ニコンハウスが閉店したことすら知らなかったわけだから。

東京の数寄屋橋といえばNIKON。海外からのニコンファンが必ず立ち寄る店だったのに... 狭い店であったがショーウィンドウにずらりと垂涎の交換レンズが並んでいて、店内に入らなくても外からじっくり品定めできた。ウィンドウにニコンファンがへばりついていて、数寄屋橋交差点にちょっとした人だかりができていたものだ。私も通りがかりによく立ち止まってウィンドウを覗き込んだ。店内にはこれまたチトうるさい名物店長が居て、素人には近寄りがたい存在であった。話すと意外に気さくな人だったが...ここで美品のNikon F Photomic(露出計完動!)をゲットした。ちなみにこの「ニコンハウス」、ニコンの直営店ではない。先述のように銀座の老舗カメラ店「スキヤカメラ」の支店である。ブランドの利用に関してニコン本社と悶着もあったようにも聞くが、結果的に、数寄屋橋交差点といえば「ニコン」というニコンブランドの極めて有効なPRになっていたので、双方にメリットがあったのではないか。

デジカメ全盛時代。しかもスマホでかんたんに写真が撮れる時代。カメラは家電製品化して、量販店や、ネットで手に入れる物となってしまった感がある。街からカメラ屋が次々と姿を消して久しい。あのころのフィルムカメラがまた人気を取り戻しつつあるとはいえ、フィルム時代の中古カメラは基本的には消え去るのみなのだろう。さらに流通チャネルの激変もこれあり、カメラ屋が街の文化のシンボル、憧れの商売であった時代は過去のものになってしまった。そしてついに「ニコンハウスよおまえもか!」こうして銀座界隈に残るカメラ屋は三原橋の三共カメラ、晴海通りのカツミ堂、そして数寄屋橋のスキヤカメラ本店だけになってしまった。あとレモン社、清水商会はどうなっているのだろう。コロナで巣ごもってるうちに、すっかり様変わりしてしまった。

カメラが高価で輝いていた時代。いつかはニコン!いつかはライカ!あれはもう過ぎ去りし日のことになってしまったというわけか...時代の流れと言ってしまえばそれまでだが。

惜別


(撮影機材:永遠のライバルNikonへのレスペクトをこめてLeica Q2 Summilux 28/1.7で撮影。もちろんデジカメ!)

2021年10月11日月曜日

古書を巡る旅(15) 〜「時空トラベラー」のお勧め 読んで楽しい「旅行案内書」は?〜




19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは旅行がブームとなった。特にイギリスではフランス、イタリア、ギリシアなどの大陸諸国を巡る旅行が上流階級の子弟の教育的カリキュラムとしてもてはやされた。この頃の旅行は貴族階級や、ジェントリー層、都市ブルジョワジーなどの富裕層や知識人層がもっぱらその主役である。さらに大英帝国が世界にその版図を広げ、アジア、アフリカ向けの航路が開設され、鉄道網が整備され、現地の宿泊環境が整備されていくと、未知の世界を廻る(探検する)旅行がステータスシンボルになっていった。いわゆるグランドツアーである。この頃である、開国されたばかりの未知にしてエキゾチックな極東の島国「日本」が、時宜を得た憧れのデスティネーションとして脚光を浴びたのは。旅行がブームになったとはいえ大衆がこぞってツアーに出掛けるようになるのは、ずっとのちのことである。この頃は個人旅行が中心で、それができるためには経済力と自由になる時間とともに、高い教養レベルや知的好奇心が大いに求められた。そうした欲求に応えうる「信頼に足る情報」が重要であった。それが「旅行案内」や「ガイドブック」である。

この頃の旅行案内書といえば、ドイツ・ライツヒのべデカー版旅行案内(カール・ベデカー:Karl Baedekerが1828年初版刊行)とイギリス・ロンドンのマレー版旅行案内(John Murrayが1836年初版刊行)が著名でもっとも権威あるガイドブックであった。どちらも赤い表紙に金文字のタイトルという小型本で、競争相手である両社のガイドブックがなぜこのような相似形みたいな装丁の書籍になったのか不思議だ。こうした旅行案内書に関しては両社でノウハウを交換し共有していたとも言われるがよくわかっていない。これを研究している人もいるくらいだ。内容はかなり詳細かつ正確。幾度かの改訂をを重ねることによりより正確で信頼できる情報が追補されていった。旅程や交通手段、宿泊情報だけでなく、地図や図版も豊富(特にベデカー版は定評がある)。その国や地域、都市の歴史、文化芸術、宗教、政治制度、産業、食事、建築物、特産品などが網羅され、ある程度の教養のある人向けのガイドブックである。取材、情報収集にも現地在住の本国人を駆使して、半ば帝国主義的版図拡大と情報支配力の成果物であるかのようであった。ベデカー版はドイツ語の他にも英語とフランス語版がある。ちなみに「日本」の旅行案内は、横浜在住の英国人が日本ガイドを執筆してはべデカー社に売り込むが成功せず、結局最後までベデカー版「日本」は刊行されなかった。一方で、イギリスのマレー版旅行案内には、1884年に「日本」旅行案内が追加された。あのアーネスト・サトウとアルバート・ホーズの共編著。さらに改訂版がバジル・チェンバレンとウィリアム・メイソンに引き継がれて共編著された。これでわかるように、現地在住の外交官や大学教授といった社会的に権威のある専門家による監修、編著というレベルの高いガイドブックである。単なる名所巡り、物見遊山ガイドというより、最新の現地情報を網羅した「地理事典」に近い。ちなみに夏目漱石が英国留学するに際して入手して研究したのは、べデカー版「ロンドンガイド」「グレートブリテンガイド」であった。

このべデカー/マレー版はフランスのミシュラン( Michelin Guideが1900年初版刊行)されるまでは圧倒的な人気を誇った。のちにイギリスのブルーガイド(ベデカーのイギリス人編集者が始めたBlue Guide初版1918年)が、またアメリカのテリー版 (Phillip Terry's Guideが1914年〜1933年まで刊行)が刊行された。また英国のトーマス・クック:Thomas Coock社が大衆向けのツアーを企画して、海外旅行を楽しめる層の裾野を広げていったのも画期的であった。このころからだんだんべデカー/マレーが廃れて消えてゆく。現在では観光学の研究書として古書店の本棚に希少書並の扱いで並ぶのみである。特にマレー版の「日本」旅行案内は、サトウ版もチェンバレン版も入手がなかなか難しい。古書店でも最近見かけなくなっているようだ。日本語に翻訳されたものは東洋文庫「明治日本旅行案内・東京近郊編」アーネスト・サトウ編著、庄田元男訳がある。

このほかにもイギリスにはブラック版旅行案内(Black's Guide)、レイ版旅行案内(Leigh's Guide)があった。前者はスコットランド・エジンバラのAdam and Charles Black社刊行。そのカバレッジはイングランド、スコットランド、ウェールズなどブリテン島内に特化。国内旅行だけに内容も比較的平易で、マレーやベデカーとは異なる旅行者層を狙ったようだ。各所に詳細な旅程が組まれていて、船便、鉄道、辻馬車の料金や時刻表まで詳細に記述されていて、初めてでもその行程に従って旅行すれば効率的に回れるという親切さである。後者はロンドン・ストランドの書店であったLeigh & Son社(Samuel Leigh ?~1831設立、その息子に引き継がれた)の刊行で、1830年に刊行されたロンドンガイド。この本はユニークだ。文章による情報だけでなく、ロンドン庶民の生活を生き生きと描いたカラー版のイラストが前半に54枚も挿入されていている。これらはイギリスの人気イラストレーター、トーマス・ローランドソン:Thomas Rowlandson(1756~1827)による貴重な挿画集である。日本の幕末の北斎の浮世絵を彷彿とさせるようなリアリティーを感じさせられる。他のガイドブックと一線を画するユニークポイントだ。さらに本文中にはロンドンの建物や橋などの著名な建造物のエッチングによる挿画が豊富だ。当時のクリストファー・レンの歴史的建築や、大英博物館やロンドン大学がどんな建物だったのかわかる。誰をターゲットにどういう編集方針でまとめられた旅行案内なのか不思議なガイドブックだが、面白さにおいては右に出るものはない。

同時代の、有名なイザベラ・バード:Isabella L. Bird (1831-1901)のような個人の旅行記や紀行文が作品として評価される一方、旅行案内書・ガイドブックは実用書や物見遊山の書として軽視されるきらいがある。しかし、これらの時代に編纂された一連の旅行ガイドブックを侮ってはいけない。産業革命の進展や海外進出期のヨーロッパにおいて、旅行が大人への通過儀礼の一つで、教養人の人生形成過程の必須科目であった時代の、いわば世界を知るための教科書であり、指南書であった。その充実ぶりは、今読むと、当時の英国、ロンドンを、あるいは彼らが観た日本をビビッドに描き出してくれているし、また旅行者から観た(アウトサイダー視点の)その国、地域、街の姿が垣間見える。旅行者が何に関心を持っていたのかも見えてくる。個人の紀行文や旅行記のような筆者の独自の観察眼、視点による興味深さは無いものの、豊富なデータや情報がより客観的視点(いや標準的視点というべきか)を与えてくれる。また、一方で歴史書や地理書からは見えてこない生の現地記録としても貴重である。改訂版を重ねることで時系列的な推移、変遷の観察もできる。何よりも読んで面白く、自分も旅をしているような独特のワクワク感がなんとも言えない。「時空トラベラー」にとっては手放せないのも不思議ではないだろう。


ここで紹介するのは、神田神保町の老舗洋古書店「北沢書店」で折々に入手した「旅行案内」本である。


1)ベデカー版:Handbook for Travellers by Karl Baedeker

出版元:Leipzig: Karl Baedeker, Publisher

Karl Bedaeker (1801~1859)創設のドイツ・ライプチヒの出版社。旅行案内書の草分け的な出版社で、イギリスのマレー社とともに「近代旅行ガイドの始祖」と呼ばれた。現在も続いている。第二次世界大戦のときにドイツがイギリス各都市を爆撃したときには、このベデカーの案内書に基づいた正確な爆撃が可能となったといわれ、これを「ベデカー爆撃」と称していたという。


ドイツ語版ロンドンガイド
1905年第15版

英語版グレートブリテンガイド
1910年第7版

英語版ロンドンとその郊外ガイド
1923年第18版


図版はカラー


セントポール寺院の解説
以前の持ち主の書き込みがある

巻末に地名インデックスと地図が収められている
ちなみに広告は入っていない



2)マレー版:Murray's Hand-book for Japan

残念ながら現物は未入手なので、ネット検索した写真(青羽書房HPより借用)を掲載する。

John Murray III (1808~892)が創設したマレー出版社は、バイロン卿の文芸作品や、ダーウィンの「種の起源」などの重要な出版物を世に出した著名な出版社であった。イギリスで大陸旅行ガイドブックを手始めに、世界旅行案内のシリーズを手掛け、ベデカー社とともに「近代旅行ガイドブックの始祖」と呼ばれた。このシリーズは1836年から1913年まで刊行された。日本版はアーネスト・サトウやバジル・チェンバレン編著により1884年から第9版まで改訂を続けた。


チェンバレン、メイソン編著の第4版、1894年ロンドン、東京で出版




東京の都市地図は江戸を彷彿とさせる鳥瞰図





3)レイ版:Leigh's New Picture of London 9th edition, 1839 London

出版元:London: Samuel Leigh and Son, Strand

Samuel Leigh (? ~1831)が設立し、ロンドンの出版、マスメディアの中心地であるストランドの書店であったが、出版も手掛けた。アデルフィー劇場の近くにあったと言われる。ちなみに同じストランドに居住した、ロマン派の詩人で画家のウィリアム・ブレイクがこの本屋に入り浸っていたという。後に書店は息子に引き継がれた。


1839年版
黒革装のしっかりした作り


人気のイラストレータ、トマス・ローランドソンのカラー挿絵が54葉挿入されている

当時のロンドンブリッジなど橋の記録も貴重

当時のロンドンの建築の記録が充実している



4)ブラック版:Black's Picturesque Tourist of England 15th edition,1883 Edinburgh、Black's Pictureque Tourist of Scotland 17th edition, 1865 Edinburgh

出版元:Edinburgh: Adam and Charles Black

スコットランドのエジンバラの出版社。ブラック家は現代までスコットランドを代表する地元の名士として子孫が活躍しているという。巻末の鉄道会社、船会社、ホテルなどの広告を入れて、利用者の利便性と価格を抑えることを図っている。


イングランド・ウェールズガイド
1883年版


丁寧な旅程プランが記述されている

詳細な地図



航路、鉄道、ホテルの広告が巻末に掲載されている。
当時の交通手段が「蒸気機関」であったことがわかる


スコットランドガイド
1865年版


旅先で使う切り絵地図が収納されている
開いたり畳んだりしても破れないように裏打補強された地図で実用的

左は、実際の旅行に携帯することを前提に小型化されている