2023年4月23日日曜日

古書を巡る旅(32)Poetical Works of Lord Byron :バイロン詩集 全6巻 〜ロマン派詩人の詩集は工芸品だ〜

 



古書の楽しみの一つに、美しい装丁の本との出会いがある。もちろん原典に当たるという古書の本来の楽しみも大事ではあるが、その時代の装丁家(Bookbinder)による工芸品のような本に出会うとクラクラする。かつてロンドンの古書店街で目を引いたのはこのような「書籍という工芸品」であった。これで古書に目覚めたと言っても過言ではない。以前から、神田神保町の北澤書店のネットカタログに掲載されていた「バイロン全集」が気になっていた。バイロンの詩というより、そのロマン派詩人の全集のなんと美しいことか。そのルックス、佇まいにすっかり魅了されてしまった。書店で何回か手に取って見せてもらう機会があったが、その手触り、革装の風合い、香り、なんともいえない。緑濃いケントのマナーハウス(邸宅)のオーク調家具で埋め尽くされた書斎に並べればピッタリだ。「装丁で買う」ということにどこか後ろめたさがあって、しばらくは購入を躊躇っていたが、ついに、その美貌にフラフラと誘惑されてしまい我が家に連れて帰ることになった次第である。この全集の居場所がケントのマナーハウスでなくて、東京のマンションで良いのか、という問題はあるが。

そういえば、その昔ロンドンで「キーツ詩集」を手に入れたが、これもアール・ヌーヴォーの美しい装丁の背表紙が「手招き」していたからだった。今回も、明らかにこの6巻の背表紙が手招きしていた。キーツやバイロンの詩が好きだから、ロマン派の詩に憧れる文学青年であったからという訳でもないのに、彼らの「詩集」に魅せられてしまった。しかし、概してロマンチックな詩集がそれに相応しい美しい装丁を纏っているのは、ある意味で自然なのかもしれない。美しいデザインで装丁された詩集であれば、なお一層、蔵書としての愛着も深まる。私のこれまでの古書コレクションは、主にテーマが日欧交流史と英国史、経済学書関連が主体である。歴史的な資料としての価値はあるが、豪華というよりむしろ古色蒼然とした風合いの古書が多い。もちろん英国を代表する作家、シェークスピア、サミュエル・ジョンソン、チョーサー、ミルトンなどの歴史的な著作もあって、こちらは魅力的な外装デザインであるが、やはりロマン派詩集はもう一つ違う異彩を放っている。

ヨーロッパの出版文化において、歴史に名を残す著者はもちろん、出版社と、プライベート・プレス、装丁家の存在を忘れてはならない。イギリスの出版事業は、以前のブログでも触れたように16世紀には成立していた。出版文化には、その出版人の存在、役割が非常に重要であったことはそこでも述べた。しかし、出版事業の発展とともに製本技術も進化し、さらに蔵書としての価値を高める装丁に手間をかけることも盛んになっていった。活版印刷技術が普及して多くの人々が活字に触れることができるようになったとはいえ、書籍はまだ高価で誰でもが所有することができるものではなかった。一種のステータスシンボルでもあった。勢い、豪華な装飾を書籍に求める動きが出てきても不思議ではない。ところで、この全集の美しい装丁は誰がどのような経緯で手がけたのだろう。今回は少しだけ、この「バイロン詩集」をネタに、著者ではなく、出版に関わったプレーヤーについて考察してみたい。その一つがロンドン大手出版社ジョン・マレー社:John Murrayである。そしてもう一つが、地方都市カーライルのチャールズ・サーナム社:Charles Thurnam and Sonである。


バイロン卿:George Gordon Byron, 6th Baron Byron FRS (1788〜1824)

とはいえ、一応バイロンの紹介もしておかねばなるまい。あまりにも著名すぎて、改めてここで事細かく紹介する必要もないだろうし、今回はバイロン卿が主役ではなく、出版社、装丁家が主役であるから、ごく簡潔に。

19世紀イギリスの詩人。シェリー:Percy Bysshe Shelley (1792~1822), キーツ:John Keats (1795~1821)と同世代のロマン派詩人である。「今世紀最大の天才」とゲーテは称賛している。彼の詩は繊細でしかも、反世俗的、世の中に対する皮肉と批判精神に満ちたものである。またギリシャ文明に対する憧憬に満ちており。後述のように彼の地で短い生涯を終えた。その短い人生において多くの詩を書けたのは、非常に着想から書き起こしまでが早かったからだと言われている。日本でも明治以降、最も知られた西欧の詩人の一人である。与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」の4番に、その名が引用されていて、西欧文化のアイコンのような存在であったことが窺い知れる。

「ああ われダンテの奇才なく バイロン ハイネの熱なきも 
石を抱(いだ)きて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず」

ジョージ・ゴードン・バイロンは親戚の爵位と領地を相続し、第6代バイロン男爵となったが、ケンブリッジの学生時代から悪友と放蕩のかぎりを尽くし、その後も社交界でのスキャンダルに満ちた人生を送ったことで知られる。結局イギリスに居れなくなり出奔。スイス、ジェノア、ヴェネチアなどを放浪したが、変わらぬスキャンダラスな日々を送った。ギリシャ独立戦争に私人として参加し、軍団を率いることになるが、現地にて戦闘ではなく病死する。36歳であった。本書はそのバイロン卿の、「バイロン卿詩集」新版全6巻:Poetical Works of Lord Byron A New Edition,  6Volumes。出版者:London: John Murray, Albermarle Street、1855年の版である。





ジョン・マレー社:John Murray

この「バイロン全集」を出したジョン・マレー社は、1768年創立のイギリスの出版社。現在でもロンドンで出版事業(Hodder Headline社の傘下となったが)を行うイギリスを代表する出版社の一つと言っても良いだろう。ロンドンは今でも出版業界の世界的な中心の一つである。

同社は、初代ジョン・マレーが1768年ロンドン、アルパマール街に創設。その子のジョン・マレー2世:John Murray(1778~1843) はバイロンや、キーツ、シェリーなどの当代の若手の詩人やジェーン・オースチンなどの作家の良き理解者、支援者として彼らの作品を多く出版し、文芸作品の出版社としての地位を確立した。次のジョン・マレー3世はダーウィンの「種の起源」「ヴィーグル号航海記」などの重要な書籍を多数出版した。しかし、ジョン・マレー社を世界的に有名にしたのは、当時上流階級で流行していた旅行ブーム、グランドツアーに当てて、旅行ガイドブックシリーズ「Murray's Hand Book」(通称Red Bookとして愛された)を企画出版したことだ。ジョン・マレー3世自身、若い頃から世界を旅し、その経験からより正確で、実用的な旅行ガイドの必要性を痛感していたという。これがヒット商品となり、ドイツのべデカー社のガイドブックと共に2大ガイドブックの地位を獲得した。現在も、このRed Bookシリーズを古書店で目にすることも多い。これは日本にも大きな影響を与え、幕末から開国間もない明治期に、幕府や明治政府の遣欧、遣米使節などにとっては海外渡航必携のバイブルとなった。また一方で、マレー社は、いち早く開国まもない日本のガイドブックを出版し、訪日外国人の最初の信頼できるガイドブックとなった。初版は、アーネスト・サトウ執筆、編纂のサトウ版(1884)である。続編としてサトウから引き継いだバジル・ホール・チェンバレン版(1901、1903、1907、1913)が改訂シリーズとして出版された。また、チェンバレンの重要著作「日本事物誌」:Things Japaneseも同社の出版である。

話を戻すと、手元の「バイロン全集」は、1855年に出版された全6巻の全集である。ジョン・マレー2世時代に初版(1832年)が出版され、その後、幾度かの改訂、重版された人気のシリーズであった。本書はジョン・マレー3世になってから改めて新版:New Editionとして出版されたものだ。同社の代表的な全集であり発行部数も多いが、現在古書市場に出回っている装丁には様々なものがある。一つとして同じものが無いと言って良いほどのヴァリエーションがあり、それぞれに異なる装丁家が手がけたものであると考えられる。装丁デザインは出版元のマレー社の手を離れているように見える。




Murray's Hand Book Japan
Red Bookとして親しまれた






私家版出版:Privete Pressと製本/装丁家:Bookbinder

一方で、イギリスにおける出版、書籍文化において重要な役割を果たすプレーヤーには、前述のロンドンの大手出版社のほかに、私家版出版(Private Press)や製本/装丁家(Bookbinder)がいる。洋古書の装丁は、私家本として特注する場合のほか、出版時の装丁を蔵書家が、自分用に特注して改装することがある。あるいは、新刊でも仮綴、アンカット(ページが切られていない)のままで販売し、装丁は別注、という本もあった。自家の書斎に蔵書として保有するにあたって、より自分好みの美しい装丁にする、あるいは、貴重な古書に長期の保存に適した補修と改装を行う。こうした需要に応えるのが装丁家:Bookbinderの仕事であった。とりわけ19世紀ヴィクトリア時代の特注版、私家版で著名な工芸家のウィリアム・モリスのケルムスコット・プレスや1920年代のノンサッチ・プレスなどが知られている。あるいは、モリスのArts & Crafts運動に影響を受けたチジック・プレスなどが、比較的手に届きやすい限定出版を手がけた。これらは、本自体を工芸品、あるいは芸術作品として限定制作あるいは特注生産する、いわば本という工芸品を生み出す「工房」である。変わったところでは「豆本」というミニチュア版の書籍を専門にする工房もある。大量に印刷/製本する大手出版社とは異なる、いわばカスタムメイドの「高付加価値型」事業モデルである。このジャンルについては、書誌や芸術/工芸:Arts & Crafts運動に関する研究が出されており、また美術館などで企画展が開かれることも多い。

それ以外にも装丁、修復を専門とする「装丁家」(Book Binder)がある。この歴史は長く、中世の教会における羊皮紙に書写された祈祷書などに木製の表紙を取り付け、これに金属加工の装飾や鍵を施すなどの装丁があった。その後、活版印刷普及期に至ると、一種の職人技、手仕事による工芸品と言って良いような装丁を手がける工房が現れる。この頃になると木や金属ではなく、カーフ革やベラム革を貼った表紙が用いられた。現代でも新刊本の工場における量産型の印刷、製本とは異なる手仕事の装丁は人気もあり、出版文化の伝統継承一つとなっている。しかし、意外にもこうした「職人」達の名声が後世に残ることはなかなかない。その理由は、こうした本の装丁デザインが出版事業にとって(印刷、製本と違い)革新的な技術ではなく、装丁デザインが書籍にとって主流となる収益モデルとみなされなかったこと。一方で、装丁デザインは、名のある芸術家と言われる人たちの仕事ではなく、街のアルチザンの仕事とみなされていたこと。こういった背景があるとする研究者もいる(後述の参考書)。こうした工房は、もちろんロンドンやエジンバラのような出版文化の中心地にもあったが、地方都市における出版や書籍販売、巡回図書館といった事業と合わせて行われる場合もあった。イギリスには都市部とは別に、地方にはその土地の領主、地主やマナーハウス・オーナーなど、芸術文化のパトロンとなるような上流階級やジェントリーなどの富裕層が存在し、蔵書家需要があった。都市や地方に関わらずそれなりの市場があったことになる。そうした書籍の装丁にこだわる伝統と文化は現代まで引き継がれ、ヨーロッパ、特にフランスでは手作りの製本や、修復が必要な古書の改装を手がける装丁職人やそれを育成する学校まで出来ている。またイギリスでは大英博物館/大英図書館やオックスフォード、ケンブリッジなどには古書の保存、修復、改装の専門部門がある。美術品の保存、修復と同じ扱いである。Bookbinding領域の研究はまだまだ十分ではなく、製本技術史とともにデザインや工芸の技法の歴史についてもより詳細な研究が進められようとしている(参考となる研究書に、A History of English Craft Bookbinding Technique, authored by Bernard Middleton: Oak Knoll Press and The British Library 1996がある)日本にもこうした西欧流の技法を学んだ「装丁家」:Bookbinderが生まれているという。


チャールズ・サーナム社:Charles Thurnam and Sons

今回の美しいバイロン全集の第1巻の表紙見開きには、北イングランド・カンバーランドの州都カーライルのチャールズ・サーナム社:Charles Thurnam and Sons社のステッカーが貼られている。同社は19世紀に、この地域で書籍販売、書式などの文具販売。出版、装丁、巡回図書館などの事業を行なったファミリー企業であったようだ。それほど著名な事業者であった訳では無さそうで、古書市場に頻繁に登場する名前ではない。しかし、この当時の地方の書籍関係の事業者がどのようなものであったのかの一例として興味深い。このステッカーの意味は取次書店としてのそれなのかもしれないが、装丁を手がけた場合にも添付される。どちらなのか定かではないが、書籍販売にあたって、同社が地元の蔵書家の注文に基づいて、全集の外装をデザインし、材料を選び、装丁家に発注して仕上げた可能性もある。先述のように、もともと仮綴状態、アンカット状態で版元から出されていたものだったのかもしれない。いずれにせよ、この時代の出版物は、版元の出版社の装丁が、蔵書家のオリジナルデザインに仕立てられることが多い。例えば、初版本は簡素なクロス装であったものを、豪華な革装に仕立て直すなどである。貴重な書籍、歴史的に評価を得るような古書については特に、凝った装丁に替えて、愛蔵書として代々長く家宝とする。同社は。地元の蔵書家にそのような書籍取次販売と、装丁サービスを提供していたのであろう。このバイロン全集は、表紙、背表紙はイエロー・オーカー:Yellow Ocherのフル・カーフ(総革)にマーブル模様の裏地、Five raisedと呼ばれる背表紙(麻糸による五段綴じの堅牢な製本技法)、モロッコ革のタイトル、金箔押しという懲りようで、見事な仕上がりである。どこかのマナーハウス:邸宅の書斎に鎮座していたのかもしれない。ちなみに蔵書票は添付されていないので、元の所有者を知ることはできない。

話はそれるが、この事業者についてネットで調べて見ると、このバイロン全集の出版経緯とは別に、ヴィクトリア朝時代の地方の出版業界の事情を伺い知ることができるエピソードが見つかった。Charles Hutchinson Thurnam (1796~1852), Carlisle, Cumberland、 Bookseller, Printer, Binder and Publisher  Circulating Libraryに関する紹介論文である。出版事業がロンドンやエジンバラ中心であった19世紀の時代に、北イングランドの地方都市カーライルで出版、書籍販売を手掛けたCharles Thurnamの成功談なのであるが、こうした地方都市での出版事業の難しさと、それに伴う19世紀商業道徳の問題を提起したケーススタディーとして、地元の歴史研究家に取り上げられている。ロンドンの大手出版社との版権争奪争い、著作権をめぐる争い、地元の同業者同士の取次や版権をめぐるトラブル、訴訟問題の顛末である。このThurman氏は商売上手で、人格も円満とされている一方で、商業道徳にもとる手法を駆使して成功した人物として記憶される、という不名誉を背負った。この郷土史研究家は、市場競争においては私利私欲ではなく、アダム・スミスの言う他者への共感や、倫理観念の重要性に言及して、このThurnamケースを、ヴィクトリア朝時代における成金趣味への皮肉、商業道徳の向上という視点から取り上げているのが興味深い。ここで「アダム・スミス」が引用されるとは思っていなかったが、ヴィクトリア・バブルもそうなのであろう、「欲望の資本主義」が頭をもたげる時代にはスミスが登場して警鐘を鳴らす。時代は繰り返すのだろう。蔵書家向けの装丁サービス、まさに書籍を工芸品に仕上げる技(わざ)が光るこの逸品なのだが、その背景に、このような思わぬエピソードが隠れていたわけだ。これも古書にまつわるストーリー探訪の旅の面白さだ。


裏表紙の下部に「CHAS. THURNAM & SONS, CARLISLE」


総革(Full Calf)の豪華な仕様

伝統的な5段のレイズドバンド(raised band)
の背表紙(Spine)

モロッコ革のタイトル

金箔押の背表紙


綴じ部分の緻密な仕事ぶり


天井部分もマーブル柄
表紙/裏表紙の周囲にも金押し模様を施すこだわりよう
まさに工芸品


どこか日本の蒔絵を見ているような感覚になる...

見返し部分は、この時代にブームとなったマーブル模様



イエロー・オーカー(Yellow Orcher)の革装


コーナーまで緻密なデザインが施されている


アール・ヌーヴォー様式の「キーツ詩集」背表紙



2023年4月18日火曜日

根津神社の「つつじ祭」〜30年ぶりに権現様のつつじを堪能した!の巻〜

 



根津神社は1900年前に日本武尊が創祀した神社だそうだ。古事記や日本書紀の世界の話は別にして、時代は下り15世紀文明年間に太田道灌が社殿を寄進。さらに時代が下って第五代将軍綱吉が新社殿を寄進。これが現在の社殿である。敷地は綱吉の後継となる甲府宰相綱豊(のちの第6代将軍家宣)が献納した。社殿は、本殿、幣殿、拝殿が一つにまとめられた権現造である。つつじ園は旧甲府宰相藩邸時代に家宣が植えたのがはじめだとか。隣が東京大学弥生キャンパス(農学部)、そして本郷キャンパスである。本郷、根津、千駄木界隈は明治以降、森鴎外や夏目漱石のような文豪が住まった地区であるから、その小説によく根津権現が出てくる。私も白山に住んでいた時(30年ほど前だが)には、白山神社とともに根津神社にはよく参拝したものだ。白山神社はアジサイ、根津神社はツツジが有名で、子供を連れて散策するのに程よい距離であった。根津神社はこの季節になると「つつじ祭」が開催されて賑わう。といっても例年なら連休中のイベントのはずだが、今年は花の時期が全て前倒しのようだ。

「つつじ祭」は以前から開催されているのだが、久しぶりに訪れた根津権現の今年の人出は凄まじい。コロナ規制明けということなのか、「巣篭もり」の反動なのか、狭いつつじ山に入るのに鳥居の外まで人が並んでいる。白山時代にツツジ見るのに並んだ記憶など無かったが... それに外国人観光客が多いのも時代だ。東京人(総じて東京に住まう人という意味)は、列があるとその先に何があるかに関わらず、とりえず並んで見る人たちだ。並ぶのが嫌いな九州男児クンの私は、つつじ山に入らなくても美しい満開のつつじを鑑賞できることを知っているので外から見て回った。負け惜しみでなくこれで充分に堪能できる。さて久しぶりの権現様詣でなので、お参りしてゆこうと社殿に向かうと、ここも長蛇の列。楼門あたりまで人で埋め尽くされている。やれやれだ。平日の朝っぱらからどうしてこんなに人が多いのか!とビックリしていたら、周りにいたグループのオバサンが「今日はまだ良い方だよ。こないだの日曜日なんか根津駅の出口からズーッと人が並んでて、入場規制していたサ!」って。ホントかね? いやあ東京だねえ!

まあ、それはさておき、30年ぶりに根津神社の満開のツツジを堪能させていただいた。連休中がピークじゃなくて良かったのかもしれない。


表口の鳥居から人が並んでいる


それにしても色とりどりで美しい!



楼門
権現造の重要文化財

拝殿
こちらも重要文化財
参拝者の列が延々と...



乙女稲荷の千本鳥居




乙女稲荷

つつじ山は人がぎっしり





(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)

2023年4月10日月曜日

万葉歌人 大伴家持の人生とは? 〜「男はつらいよ 花も嵐も」の巻 〜

 

三十六歌仙の一人として描かれた
大伴家持
どう見ても平安貴族の出立ちだ
(Wikipediaより)
大伴家持
越中国司として赴任中の姿をイメージした像
こちらの方が平城京の官人らしい
(高岡万葉歴史館HPから拝借)

毎週楽しみにしていた、NHK ラジオの「古典購読」「歌と歴史でたどる万葉集」50回シリーズが3月で最終回を迎えた。東京大学の鉄野昌弘教授の解説は充実していたし、加賀美幸子アナウンサーの朗読は、独特の抑揚に品格を感じてなかなか面白かった。特に最終章に近づくにつれ、万葉集という歌集の性格が微妙に変化してゆく様子を感じ取ることができ、その中心にいたのが大伴家持であったことを知った。その歌とその時代背景を知るにつれて家持という人物に興味を持つようになった。そして万葉集という「謎の和歌集」の発する古代史メッセージを垣間見ることができた。


万葉歌人 大伴家持

大伴家持は、万葉集には長歌、短歌含めて473首(全体の約10%に当たる)が収録されている代表的な万葉歌人である。後に三十六歌仙の一人に選ばれ、後世に記憶される日本の代表的な和歌詠みの一人となった。万葉集は日本最古の和歌集であるが、その編纂経緯も編纂者も完成時期も解明されていない謎の多い歌集である。全20巻、飛鳥時代から奈良時代までの約4,500首が収録されている。舒明天皇から、天武/持統帝の時代の初期の巻には天皇やその宮廷への賛美の歌が多いが、後の時代になるに従って、恋や別れ、人生の喜びや悲しみなど詠み人の私的心情を歌ったものが断然多くなる。万葉歌人として登場する代表的な詠み人たちは、初期には額田王や、天武朝時代の柿本人麻呂、平城京遷都の後の山部赤人などもそれほど身分の高い貴族や高位高官ではなく、天皇行幸に付き従った中・下級官僚である。しかし彼らは、いわば歌のプロフェッショナル、「宮廷歌人」として天皇や朝廷、その治世を寿ぐ歌を多く歌った。中期になると大納言太宰帥の大伴旅人、筑前国守の山上憶良(遣唐使帰りの知識人であった)が、さらに後期になると旅人の息子の大伴家持が代表的な歌人として登場する。この頃になると「詠み人知らず」の歌も多く採られ、都だけではなく広く全国から歌が集められている。彼らは主に下級官僚や、名もなき庶民である。地元に伝わる伝承や物語を歌ったもの、東歌や、東国から徴発された「防人」の歌が登場するのもこの頃である。これらを採録したのは家持である。特に万葉集の巻17から巻20までは家持の「歌日記」と呼ばれているほどで、こうした撰録、編集に大伴家持の果たした役割は大きく、万葉集を最終的にまとめたのは家持であろうと言われている。その大伴家持は、718年(養老2年)生まれ。父は同じく万葉歌人として著名な大宰帥、大納言の大伴旅人である。母は丹比郎女。実際の養育は大伴坂上郎女。妻は大伴坂上大嬢。すなわち家持は名門大伴一族の出である。


大伴氏とは

大伴氏は、神代からの天皇側近で軍事部門の名門一族である。物部氏も軍事氏族であるが、大伴氏は天皇親衛隊、物部氏は国軍と役割が分担されていた。大伴一族は5世紀〜6世紀に活躍した大連大伴金村の時代が最盛期であった。皇統が武烈天皇で断絶したが、越前から応神天皇第5世孫であるヲヲド王を皇嗣として招請。継体天皇として樟葉宮で即位させた功労者とされている。512年、朝鮮半島任那4県を百済に割譲。さらに527年の筑紫岩井の乱では物部荒甲火とともに平定。しかし任那4県を喪失したことが倭国権益を害したとして物部氏により失脚させられ、政界の表舞台からは姿を消す。それ以降は物部氏と蘇我氏が権勢を振るう時代に。やがて廃仏/崇仏論争をめぐり物部氏が失脚、蘇我氏の時代に。しかし乙巳の変で蘇我宗家が滅びて以降は中臣氏、のちの藤原氏の時代へ。こうした飛鳥時代、奈良時代の政界勢力図変遷の中で大伴氏は政界の頂点に立つことはなかったが、朝廷を支える重要氏族として命脈を保ち続けた。


名門一族の長、官人、貴族そして政治家 大伴家持

奈良時代に、大伴旅人からその一族の当主を引き継いだのが大伴家持である。万葉集に最も多くの歌が収録された優れた万葉歌人であることは改めて述べるまでもないが、聖武、孝謙、淳仁、称徳(重祚)、光仁、桓武の六代の天皇に仕えた官人、貴族である。奈良時代の平城京政界にあって、権勢を振るう藤原一族の対局にある有力氏族の長として、影響力を有した政治家でもあった。それゆえに反藤原氏勢力からは大いに期待される存在であり、その結果として、本人が望むとの望まざるとに関わらず、多くの政治的な事件や陰謀に巻き込まれることとなった。このように家持は、万葉歌人としての顔とは異なる、官人、政治家としての顔を持つ。そこに、奈良時代の政治情勢、朝廷という大きな官僚組織の中で歴史に翻弄された一人の人間としての家持の姿が見えてくる。そうした立場からくる歌が万葉集にも多く含まれている。そう見ると万葉集を読み解く視点も異なってくる。文学作品としての和歌とは異なる、生々しい平城京政治情勢の歴史が、その和歌から読み取れる。

(経歴)下線部が家持の経歴

29歳の時、中務省の内舎人として官人(官僚)キャリアをスタート。 元正太上天皇、聖武天皇、 左大臣橘諸兄の部下として洋洋たるスタートであった。 

光明皇后、阿部内親王。藤原仲麻呂との対立 738年に天然痘大流行で藤原三兄弟没

越中守 従五位下(746年)地方勤務へ 万葉集に越中時代の歌多数

聖武天皇譲位、孝謙天皇(阿部内親王)即位(749年)聖武太上天皇に 光明皇后と藤原仲麻呂が政治の実権を握る

少納言(751年)帰京 巻19巻頭、巻末に秀歌、しかし越中時代に比べ数は激減

兵部大輔(兵部省の次官)(757年)この頃、難波で防人の管理の任に 防人の歌を他数選定

反藤原仲麻呂のクーデタ、「橘奈良麻呂の乱」に連坐 大伴一族の多くが流罪、追放 家持自身は罪には問われず(757年)

孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位(758年)孝謙上皇が親政

因幡守(758年)に左遷?大国の国司ではあるが 万葉集最後の歌

朝廷の重要ポスト信部大輔に復帰(762年) 仲麻呂の推挙による?

密告により藤原仲麻呂(恵美押勝)暗殺計画に連座 しかし放免(762年)

薩摩守に左遷(764年)

「藤原仲麻呂の乱」(764年)仲麻呂殺害サル

淳仁天皇廃帝 称徳天皇重祚(764年)

大宰少弐に留め置かれる (767年) 

称徳天皇の寵愛に取り入り皇位を狙ったと言われた「弓削道鏡事件(宇佐神宮御神託事件)」と道鏡の流刑(769~770年)

称徳天皇崩御 光仁天皇即位(770年)

再び中央政界に復帰 左中弁・中務大輔(770年)24年でようやく正五位下に昇進

式部大輔・在京大夫・衛門督、伊勢守、上総守、従四位下、従四位上、正四位下と順調に昇進(771〜778年)

参議(780年)従三位 公卿に列せられる 

桓武天皇即位(781年)皇統が天武系から天智系へ 渡来系の母という傍流 奈良仏教勢力の排除 藤原系、大伴系などの排除 百済王氏一族を重用 光仁天皇を始祖とする新王朝(中華風易姓革命)遷都企画

「氷上川継の乱」(782年)で解任、復帰

この頃、家持により万葉集20巻完成(782年)しかし、直ちには公にはならなかった

中納言(783年) 桓武の実弟 早良親王の春宮大夫 

長岡京遷都(784年)仏教寺院の移転を禁止

持節征東将軍・蝦夷征東将軍(784年)蝦夷の平定

陸奥接檫使鎮守府将軍として多賀城で死去(785年)遙任官として平城京で死去という説も

死の翌年(786年)、桓武天皇の寵臣で、造長岡京司である藤原種継の暗殺事件。早良親王は無実を訴え断食死。長岡京遷都に反対する反桓武天皇派の大伴系官人と早良親王の春宮大夫官人が関わっており多くが流罪。

一族の長である大伴家持の関与を否定できないということで、死後にも拘らず官籍除名、家財没収、埋葬不許可

平安京遷都(794年)長岡京廃都

家持没後21年、平城天皇即位に伴う恩赦で従三位に復す(806年:延暦25年)

この頃、万葉集が完成?とする説。あるいは発見?説。これは家持の死後、没収された家財の中に「万葉集」遺稿が見つかり、これを書写して公になった、とする説。この場合、誰が書写、公表したのか論争あり。いずれにせよ平安時代以前には万葉集は世の中には知られることはなかった。


皇位継承争いに翻弄された人生

それにしても見ての通りの「花も嵐も」の波乱に満ちた人生である。6代の天皇に仕え、その間、中央と地方を行き来し、皇位継承を巡る政争や反乱事件で連座、左遷、復帰を繰り返し、昇進が24年も塩漬けになったかと思うと、天皇が変わるとトントン拍子で出世し、公卿(貴族)になる。その間絶えず陰謀に巻き込まれて解任されたり復職したり。驚くほど浮き沈みの激しい人生を送った。挙げ句の果てに、死んでからも官位剥奪されるなど、まさに激動の時代に翻弄された。聖武天皇の皇位継承問題が尾を引いて、孝謙天皇、称徳天皇重祚の時代は密告、讒言が飛び交う混乱した時代であった。藤原仲麻呂(恵美押勝)や弓削道鏡のような皇位を窺うような人物が登場するなど、権力中枢に問題多発の時代に、大伴氏一族の名誉をかけての壮絶な家持の戦いがあったことが偲ばれる。絶えず藤原氏という(大伴氏からみると)新興の氏族が政敵として立ちはだかり、大伴氏の血脈を守り、家名を汚さず、朝廷におけるポジション確保をかけて家持は苦闘した。勇ましい武勇伝や、華々しく脚色された事績が記録されることもなく、ひたすら隠忍自重しながら天皇への忠節と家名を守る一生だった。そんな政治家家持が万葉歌人として秀歌を生み出し、その編纂に重要な役割を果たしたのである。家持の没後、平安の時代になって万葉集がようやく世に現れ、家持も歌人として「三十六歌仙」の一人として列せられることで後世に記憶されて、ようやく平和な名誉を回復したと言えるのかもしれない。

このように名門氏族の長であったから、いやでも政争に巻き込まれ、藤原氏への対抗軸、皇位継承争いの一方の勢力に担ぎ出される運命にあった。密告により4回もの「反逆事件」に悉く関連付けられたのは、家持自身の本意ではなかったかもしれない。しかし、多くの大伴一族が事件に連坐し処罰されたこともあり、家持は一定の距離をとって政争に巻き込まれることを警戒していたし、密告、讒言に巻き込まれて大伴氏を危機に巻き込まないよう、一族に言動に気をつけるよう諭してもいる。しかし、それでも敬愛する上司である左大臣橘諸兄を讒言で辞任に追いやった阿部内親王、藤原仲麻呂に対する怨念は燃やし続けた。ただ、やはり、かつての大伴氏の長であったの古麻呂、安麻呂などの大物に比べると、家持にそれだけの政治的な影響力を発揮する力量はなかったとの評価もある。しかし、彼の父である旅人も、遠く太宰府にいて中央政界の激震(長屋王事件)に何らの影響力を行使できなかったことを嘆いたように、権勢を振るう藤原一族の前には、いかに大伴一族が古来からの名門とは言え、すでに政界をリードする力はなく、反藤原抵抗勢力として担ぎ出されることはあっても、家持に「政権交代能力」を求めるのも無理であろう。むしろ大伴氏が滅亡の道を歩まぬようその命脈を保ち、後世に一族を存続させた功績は評価されるべきかもしれない。物部氏や蘇我氏と異なり、中世、近世まで一族の系譜が連綿と続いたのだから。


家持から見える万葉集の性格

万葉集の歌の中に、家持の置かれた政治的な立場や心情に根ざした歌も多くみられる。歌人としての家持の繊細な感性と評価と、官人、政治家としての能力と評価とは必ずしもリンクしないが、彼の歌の背景には生々しい政治の世界に身を置く家持の官僚、政治家としての姿があったことは否定できない。聖武帝退位ののち孝謙帝時代の歌は、必ずしも天皇に奏上された歌ではなく、むしろ遠ざけられていたことを示す歌が多い。越中時代の歌は、友が去り、都を思う「孤独」の歌が多いが、望みかなって帰京してからは、家持の代表的な秀歌(巻19の巻頭、巻末の歌群)が現れるものの、これまでと比べ数が減り、むしろ「孤立」を歌ったものとなる。これは家持の都における政治的な立場の表れと見られている。万葉集にはそうした朝廷における様々な政治抗争にまつわる歌、特に無実の罪で死に至らしめられた皇子(大津皇子のような)への挽歌も多く集録されており、万葉集が読み人の心情をおおらかに歌う文学書、歌集としての性格だけでなく、政治抗争の世界が反映された「歴史書」としての性格を持っていることを示している。しかし他の歴史書と異なるのは、万葉集が「勝者による歴史書」ではなく、いわば家持という政治的な「敗者による歴史書」である点だろう。正史として編纂された日本書紀や、古事記、続日本紀からは読み取れない、ある意味で生々しい歴史の鼓動が和歌という形で表現されているのである。家持の歌は「橘奈良麻呂の乱」で左遷された因幡国時代の歌が最後で、それ以降、中央復帰してからの歌は採録されていない。おそらく歌は多く詠んだに違いないのだが、むしろ称徳帝崩御、代替わりによって中央でようやく順調に出世階段を昇り始め、公卿にまで至った時期の歌が見えない。また、家持が事実上の万葉集の編者であり、彼が公卿となった後、782年に完成したと言われているにも関わらず、実際には彼の死後の平安時代に入った806年まで世に出ることがなかった。なぜこのいわば国家的事業としての歌集編纂が頓挫したのか。藤原種継暗殺事件の影響を指摘する説もあるが、万葉集の成立経緯の背景に横たわる政治情勢がこの長い雌伏の時間を産んだと考えられるだろう。万葉集に採録されなかった(ないしは削除された)家持の歌があったのかもしれない。万葉集の謎の一つである。そもそものちの時代の古今和歌集や新古今和歌集が、勅撰和歌集であり、選者も撰録経緯もはっきり記録として残されているのに対し、万葉集は序文もなく選者や撰録の経緯を知る手立ても残っていない。「万葉集」という名前の由来すらはっきりしていない。国家的な詩歌編纂事業として舒明帝の時代に遡って和歌の選定が始まったのだが、奈良朝末期には、ややそうした企画が放棄された嫌いすら感じる。結局、家持が過去に遡って再編纂を手がけ、現在残る形にまとめたと考えられている。平安時代になってようやく歌集として日の目を見ることができ、そしてそのことが皮肉にも(意図せず)政治的敗者の側から見た歴史書として残ることとなった。万葉集はこのように日本書紀や古事記のような正史とは異なる歴史的メッセージが込められているのだ。それは偶然の出来事であった。このように「政治家家持」の生きた時代背景を知ることにより、「万葉歌人家持」の実像が描き出せるとともに、それが万葉集という、謎の多い日本初の和歌集に、意図せず歴史的なメッセージが込められていることに気づくことつながる。


「泣くな家持くん!」

家持の人生を現代のサラリーマン社会に準えるならば、毛並みの良い名家出身の御曹司が、社内派閥による社長レースに巻き込まれ、社長が変わるたびに上司が変わり、栄転、左遷を繰り返す。ライバルにチクられては辺地の支店に飛ばされ、ライバルが失敗して蹴落とされされると、再び本社の陽の当たるイスに復帰するという転勤人生。花も嵐も踏み越えて、その苦労、その悲哀。でもなんとか最後は取締役まで上り詰め、画期的な全社あげての文化事業?も完成させた。こうして大伴家の名誉を守り、後世に名を残した苦労人、と勝手なアナロジーを妄想すると、まるでサラリーマン小説を読んでいるようではないか。身につまされる現代サラリーマンも多いことだろう。いや「事実は小説よりも奇なり」である。しかし、人はあなたを優れた歌人として記憶している。権謀術数に翻弄され切歯扼腕、涙した「サラーリーマン」としてではなく。大伴家持 偉大なり!


最後に、家持の代表的な歌は多数あるが、聞き覚えのある長歌の一部を紹介したい。

「...  海行(ゆ)かば、水漬(みづ)く屍(かばね)、山行(ゆ)かば、草生(くさむ)す屍(かばね)、大君の、辺(へ)にこそ死なめ、かへり見はせじ...  」

戦時中、ラジヲから盛んに流れたこの歌は家持の歌だったのだ。命を賭して天皇に忠節を誓う武門の氏族、大伴氏の心情を歌ったものだ。しかしこの部分は、聖武天皇の大仏建立事業に必要な金が陸奥で発見されたことを寿ぐ長歌の一部である。戦時中はこの部分だけが切り取られて天皇への忠誠と戦意高揚に利用されたというわけだ。



2023年4月5日水曜日

花と新緑の競演 日比谷公園は春爛漫 〜そしてちょっと皇居外苑散策〜


チューリップ
ネモフィラ

桜が今年は長持ちした。それも終わりに近づき、花吹雪が舞う頃、今度は一斉に春の花が咲き始める。日比谷公園は私にとっては毎年の季節の移り変わりの定点観測地点。例年、春になると日比谷公園の花壇にはチューリップが植えられ、そして続いてネモフィラが植えられる。コロナ規制が緩和された今年の日比谷公園はネモフィラとチューリップが同時に植えられている。藤棚には早くも花房が枝垂れ、ハナミズキも開花した。そして新緑が目に眩い。今日は快晴の空が気持ちが良く暖かいので、ウォーキングを兼ねて日比谷公園からお堀沿いに足を延ばす。ソメイヨシノは散って、皇居乾通りや千鳥ケ淵の桜も終わってしまったが、皇居外苑は八重桜が満開。海外からの観光客も増えて、この辺りは賑やかだ。かつては日比谷と霞ヶ関と大手町の間をよく歩いたものだ。この界隈は我がテリトリー、生活圏だった。日本が「Japan As Number One」などともてはやされて調子に乗っていた頃だ。そして日本企業の海外進出が盛んであったころだ。経済が停滞して30年。給料も物価も上がらないデフレの日本。頭脳流出、技術流出が始まった日本。海外から買い叩かれる日本。少子高齢化で生まれる人の数より死ぬ人の数の方が上回る様になり、人口減少が止まらなくなってしまった日本。本当に30年の思考停止、茹でガエル状態が現在の縮小日本の産んだ。この春爛漫の日比谷公園に佇み、脳内を巡るネガティブな妄想。日本経済の春の息吹はいつなのか? かつて我々が闊歩した日比谷、大手町界隈もすっかり街の様相が変わってしまい、なんだか見知らぬ街に変貌しつつある。街を歩いていても昔の仲間にも商売敵にも出会わない。日比谷公園を彷徨いていても知り合いに声をかけられることもなくなってしまった。行き交う人は知らない人ばかり。新橋の馴染みの店も今はない。長年住み慣れた日比谷ビルは着々と解体工事が進んでいる。毎年この季節になると日比谷公園を訪ねて「あの頃の時間」を探す。やれやれ「今浦島」感が漂う。ふと見回すと、街ゆく外国人の姿の多さに気づく。そうだこれだ!縮んだ日本が再生するトリガーは「外」だ!本当の意味でのグローバル化だ。均質化ではなく多様化である。あの頃のバブリーな過去に戻ることではない。ホラーストーリーをドリームストーリーに変えたあの時の決断と行動を思い出しながら、春の息吹を感じた。


春爛漫の日比谷公園!












フジ






ハナスオウ
シャガ






新緑の日比谷公園






皇居外苑の八重桜





ギョイコウ桜


ハナミズキ


お堀端、日比谷通りのイチョウ並木も芽吹き始めた


(撮影機材:今回はLeica M11 + Heliar Classic 50/1.5、Leica Q2 28/1.7。ズームレンズではなく単焦点レンズの威力を!)