2026年10月8日木曜日

古書を巡る旅(83)『サミュエル・ジョンソン書簡集』へスター・リンチ・ピオッツィ編 〜スキャンダルと確執が生んだ書簡集?〜

 

BathのPeriod Bookbinderによる美しい装丁

表紙

2巻に300通の書簡が採録されている



『サミュエル・ジョンソン書簡集』: "Letters to and from the Late Samuel Johnson, LLD. " by Hester Lynch Piozzi 1788年初版 全2巻

(以下、生成AI(Google Gemini) によるデータ収集、解説を基に編集した。なお写真は全て筆者の撮影による)

サミュエル・ジョンソンとスレイル夫人:Mrs. Thrale(ヘスター・リンチ・スレイル、後のピオッツィ夫人)との書簡集である。ジョンソンの没後まもなく、スレイル夫人(ピオッツィ夫人)自身が編集し、ロンドンのA. StrahanとT. Cadellから1788年刊行された。

ジョンソンと最も親しかった彼女自身が、手元に残されていた300通以上の往復書簡や、これまで未公開だった詩などをまとめ出版したもの。当時の批評家から、公の著作とは異なる「ジョンソンの素顔や本音」が垣間見える貴重な資料として大きな反響を呼んだ。ジョンソンの伝記作家であるジェームズ・ボズウェルよりも早く出版されたため、ボズウェルはこれに対抗心を燃やしたと言われている。18世紀の文学界・社交界を知る上でも極めて重要な第一級の歴史的資料である。


スレイル夫人(ピオッツィ夫人)とは?

ロンドンの裕福な醸造家、ヘンリー・スレイルの妻で、へスター。教養あふれる社交界の花ともいうべき人物。ジョンソン博士の熱烈なファンであり支援者。ジョンソンはスレイル家に17年もの間(家族同様に)居候していた。ジョンソンとの出会いは1765年1月。友人の紹介でスレイル家を訪問して以来。しかしスレイル夫人は夫との死別した後に、娘の音楽教師であったイタリア人のガブリエル・マリオ・ピオッツィと再婚。これが世間を騒がすスキャンダルに発展する。

スレイル夫人にはこの書簡集の他に、『スレイル日記:Thraliana』、『ジョンソン逸話集:Anecdotes of the Late Samuel Johnson』1786がある。


なぜジョンソンとの「書簡集」を公表、出版したのか?

1788年の「書簡集」出版の背景には、当時のロンドン社交界を揺るがしたスキャンダルと、ジョンソンとスレイル夫人の20年におよぶ深い絆の崩壊という劇的なドラマがあった。

1781年に裕福な醸造家であった夫ヘンリー・スレイルが亡くなった後、スレイル夫人は娘たちの音楽教師であったイタリア人音楽家ガブリエル・ピオッツィ(Gabriel Piozzi)と恋に落ち、1784年に再婚した。

当時のロンドン社交界は「名門の未亡人が、格下の外国人音楽家と結婚するなど恥知らずだ」と猛反発し、彼女の長女や、ジョンソン自身もがこの結婚に猛反対した。

敬愛するジョンソンからも非難され、世間から冷遇され、イタリアへ逃れるようにハネムーンに出かけた彼女は、そこでジョンソンの訃報を聞く。彼女は自分を「恩知らずの悪女」として描き出そうとする世間の風評(特にジェームズ・ボズウェルらの動き)に対抗するため、ジョンソンが自分にどれほど深い信頼と愛を寄せていたかを証明しようと、手元にあった膨大な往復書簡の出版を決意した。これが1788年の『書簡集』である。

彼女はこの『書簡集』刊行に先駆けて1786年に『ジョンソン逸話集:Anecdotes of the Late Samuel Johnson』を出版している。これは、発売3日目には書店から在庫が消えるほどの大ヒットを記録した。国王ジョージ3世が一晩中読み耽ったという逸話が残っている。そして1788年に書簡集が、この大ヒットの延長線上で世に送り出された。


ジョンソンとの関係が一変した「最後の手紙」

ジョンソンとスレイル夫人の関係を決定的に引き裂いたのは、1784年7月、彼女がピオッツィとの結婚を正式に決意した直後である。そのやりとりが二人の間で交わされた手紙に現れている。

彼女から結婚の報告を受けたジョンソンは、嫉妬や裏切りへの怒りから、これ以上ないほど冷酷で感情的な手紙を送りつけた(ジョンソンからスレイル夫人への手紙。1784年7月2日)

「マダム、もし私があなたの手紙を正しく解釈しているのなら、あなたは恥ずべき結婚をされた(あるいはされようとしている)ということになります。……もしあなたがまだ破滅していないのなら、私にその悲惨な歩みを止めさせてください。あなたがすでにその道を進んでしまったのなら、これ以上、私をあなたの手紙で苦しめないでほしい。神があなたを許されますように」

長年、彼女の家庭の精神的中心であり、彼女を深く愛していたジョンソンにとって、この結婚は耐え難い拒絶であった。ジョンソンはは彼女からの過去の手紙を焼き捨て、彼女を心から締め出そうとした。

しかし、スレイル夫人(ピオッツィ夫人)もこれに黙ってはいなかった。即座に、ジョンソンとの絶縁を辞さない毅然とした返信を送っている(ピオッツィ夫人からの返信。1784年7月4日)。

「あなたが私に宛てられた手紙の文面は、私のこれまでの行いや、これから予定している結婚の相手に対して、決してふさわしいものではありません。……私のこれからの夫となる人物は、公の場でもプライベートでも、誰からも非難される筋合いのない人間です。……私たちがこれ以上お互いを苦しめないよう、お望み通り文通はこれで終わりにいたしましょう。ですが、あなたがいつか私を必要とされるなら、私はこれまで通りの私であり続けることを忘れないでください」

この誇り高い反論を受け、ジョンソンは自分の行き過ぎた態度を恥じたのか、最後に、これまでの20年間の交誼への感謝と、彼女の幸福を祈り別れを告げる優しくも悲痛な手紙(1784年7月8日)を送る。二人の関係は完全に終わりを迎えた。そのわずか数ヶ月後、ジョンソンはこの世を去る。

1788年の『書簡集』は、こうした「かつての深い愛」と「あまりに劇的な決別」のすべてを知る彼女が、自らの名誉とジョンソンへの思慕を込めて編纂、出版した、人間味あふれる歴史的ドキュメントであったと言える。ただ、上記2通の手紙は『書簡集』には掲載されておらず、結婚を知らせる手紙(1784年6月30日)の後に、ジョンソンからの結婚を祝福する最後の悲痛な手紙(1784年7月8日)だけが掲載されている。書簡の選択の過程で彼女は掲載を見合わせたのであろう。毅然として抗弁したが、やはりジョンソンからの感情的な手紙はショックであったに違いない。その逡巡が見て取れる。


ピオッツィ夫人とジョンソンの最後の手紙


名著『ジョンソン伝』の背景にあったボズウェルとスレイル夫人との確執

サミュエル・ジョンソンの文学史において、ジェームズ・ボズウェルとヘスター・スレイル(ピオッツィ夫人)の激しい確執は、18世紀ロンドン文学界の最大のゴシップの一つであり、歴史に残る「伝記作家同士の主導権争い」であった。二人は共にジョンソンを深く敬愛し、その側近として数え切れないほどの交流の機会と時間を共有したが、お互いを激しく嫌悪し合っていた。

ボズウェルとスレイル夫人は、ジョンソンを巡って常に「一番のお気に入り」の座を争うライバル関係にあった。ボズウェルはスコットランド出身の熱狂的なジョンソン崇拝者であったが、ロンドンに常にいるわけではなく、ジョンソンに会えるのは1年のうち限られた期間であった。一方でスレイル夫人は、裕福な夫ヘンリー・スレイルと共に、ロンドン郊外のストリータムにある大邸宅にジョンソンを(実質的な家族として)居候させており、ジョンソンは16年もの間、彼女の家で彼女の知的で細やかな気配りに癒やされていた。ボズウェルにとって、彼女は「自分が決して入れない聖域」を持つ、嫉妬の対象そのものだったに違いない。

1784年にスレイル夫人がイタリア人音楽家ピオッツィと再婚し、世間から大バッシングを浴びると、ボズウェルは、彼女の再婚を「偉大なジョンソンを裏切り、見捨てた悪女の行い」として辛辣に批判する世論を煽った。ボズウェルにとって、彼女の社会的失脚は、自分が「ジョンソンの一番の理解者・正統な伝記作家」としての地位を確立する最大のチャンスだと考えたのであろう。

ジョンソンの死後、二人の戦いは「出版」という形で火花を散らす。まず先陣はスレイル夫人。先述の通り、1786年に『ジョンソン博士の逸話集:Anecdotes』を、1788年に『書簡集』を素早く出版した。これらは大ベストセラーとなり、彼女は「ジョンソンの素顔を誰よりも知る女性」として一時的に名誉を回復。これにボズウェルは激しい焦りを感じた。

これへのボズウェルのいわば逆襲が、満を持して出版した、のちに英文学史上最高峰の伝記とされる『サミュエル・ジョンソン伝(The Life of Samuel Johnson)』である。この著作の中で、ボズウェルはスレイル夫人(ピオッツィ夫人)の名前を何度も挙げ、彼女の記憶違いを執拗に訂正したり、彼女がジョンソンの晩年をいかに冷遇したかをこれでもかと書き連ねている。

この他にも、二人が残した日記や手紙には、お互いへの生々しい嫌悪感が記録されている。ボズウェルは、「スレイル夫人は虚栄心が強く、おしゃべりで、話の内容は不正確だ。ジョンソンの高潔な精神を理解せず、ただのサロンの飾りとして扱っていた」。スレイル夫人は、「ボズウェルは、ジョンソン博士が少しでも口を開けば、すかさずノートを取り出す薄気味悪い男(a biped with a notebook)。彼の執拗な質問攻めは、博士をうんざりさせていた」

云々

以上が、生成AI (Google Gemini)によるデータ収集、解説を基にした『サミュエル・ジョンソン書簡集』にまつわる顛末のまとめである。


ピオッツィ夫人『ジョンソン書簡集』1788初版(左の2巻)とボズウェル『ジョンソン伝』1811第6版(右の4巻) 因縁の全集の揃い踏み


考察:伝記と書簡集の読み方

以前のブログで紹介した、ボズウェルの『サミュエル・ジョンソン伝』(古書を巡る旅(8)サミュエル・ジョンソンとジェームズ・ボズウェル)の背景に、このようなスレイル夫人とジョンソンとの長年の関係があったことが、今回の『書簡集』で分かった。さらにボズウェルとスレイル夫人との間に先述のような確執があり、これが「出版合戦」を引き起こしていたことも明らかになった。

しかし、こうした確執と競争心だけがボズウェルの名著を生み出したとは考えにくいし、どこまでこのようなセンセーショナルなやりとりが当時の文学界を沸かせたのかは、まだ生成AIの情報収集と分析だけでは不十分だ。さらなる文献資料の収集と研究が必要である。

確かに、文学的な評価としては、ボズウェルの『サミュエル・ジョンソン伝』は不朽の名作とされたため、後世の人々は、ボズウェルの視点を通してスレイル夫人を「スキャンダラスな裏切り者」と見なしがちであった。しかし20世紀以降、彼女の日記や、1788年の『書簡集』の存在が注目され再評価されると、「彼女こそジョンソンの最大にして最良の理解者であり、過酷な鬱病に苦しむ彼を文字通り生き永らえさせた恩人であったのではないか」という評価が広がったことも事実。これはこの『書簡集』を通じた新たな解釈である。

今回のAI調査で、この時代の「文壇の大御所」Dr.ジョンソンを巡る「三角関係」とも見まごうばかりの、ボズウェル、スレイル夫人の確執と競争心が背景にあったことは分かったが、それでジョンソンの偉業と魅力がいささかも減じるものではない。もちろんボズウェルの『ジョンソン伝』は相変わらず、伝記文学の最高峰であり。スレイル夫人(ピオッツィ夫人)の『ジョンソン書簡集』は、ジョンソンのもう一つの側面を映し出す鏡である。いずれの書籍も、文学作品としてだけでなく、「Dr. ジョンソン的宇宙」を鮮明に描き出す文学史的にも貴重な史料である。

しかし、ことほど左様に本人の没後に、関係者によって出版される伝記や書簡集というものは、書き手や出版人の思惑が先行し、本人の遺志とは無関係に一人歩きするものであることを、読み手は心せねばならない。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の伝記、書簡集でも同様な確執とその顛末を見た気がする(古書を巡る旅(72)Yone Noguchi " Lafcadio Hearn in Japan")。本人の業績や人となりを表現する方法としての「伝記」や「書簡集」には批判的である人も多い。特に本人の私信を公開することには、今も昔も、洋の東西を問わず慎重であるべきであろう。後世の読み手は公開にまつわる事情を知った上で読み進めるべきことを肝に銘じたい。「史料批判」は歴史学研究のみならず文学研究においても重要である。


参考:

Samuel Johnson (1709-1784)

James Boswell (1740-1795)

Edmond Malone (1741-1812)

Hester Lynch Piozzi (1741-1821)


謝意

今回もこの『ジョンソン書簡集』初版を入手するにあたって、神保町「北澤書店」に多大なご尽力いただいた。末尾ながら長年の古書指南に感謝の意を表したい。