2015年4月28日火曜日

古代筑紫三海人族の謎(2) ー住吉大神の故地を訪ねて博多住吉神社へー

 前回書いたように、住吉三神(表筒男神、中筒男神、底筒男神)は、ニニギの禊で、安曇族の祖神である綿津見三神(上綿津見神、中綿津見神、下綿津見神)と同時に生まれた海神であるとされている。しかし「住吉族」とはどのような人たちであったのか?そもそも「住吉族」という一族はいたのだろうか? いや、住吉三神を祖神と仰ぐ一族の末裔ではなく、綿津見三神と一体(ペアー)の神であったので、安曇族と同族(むしろ同一神)、ないしは分家していったのではないかとも言われている。このように「住吉三神」の祭祀氏族は不明なのだ。のちに各地の沿岸の港「津」を守る男の神(筒男神。綿津見神は女神であるとする)を祀るために、それぞれ筑紫、長門、摂津と地域ごとに朝廷により氏族が配置されたという。やがては摂津の津守氏が、その名の通り各地の港津を守るための国家祭祀を行う住吉大社宮司として力を持ち、徐々に瀬戸内海を西遷し(安曇族が東遷してきた道を戻って)、ついには故地である筑紫那の津の住吉神、さらには壱岐,対馬の住吉神祭祀にも及ぶようになったという。

こうして見ると海人族のルーツはやはり弥生の海を縦横無尽に行き来した、最も古く、かつ大きな勢力を持っていた筑紫の安曇族であったであろう。その後に安曇族は筑紫を離れ、信濃の国に移り,あるいは全国に離散して行く。ヤマト王権/大和朝廷に仕えた阿曇連も衰退してゆく訳だが、そういう一族の栄枯盛衰のなかで、それを継ぐ海人族が生まれて来た。すなわち安曇族から派生した一族の中から住吉大神や、宗像三女神・道主貴(みちぬしのむち)の神をいただく海人族が生まれたと考える。

飛鳥時代から奈良時代にかけて、住吉大神は朝廷の航海守護神として、前述の津守氏の一族が神主として遣唐使船などに乗りこみ航海安全を守るようになった。飛鳥古京、平城京の外港たる難波津や住吉津を守る住吉大神が重要な役割を果たすようになる。しかし、津守氏は地元摂津の豪族田蓑宿禰の子孫と言われている。すなわち筑紫の安曇氏との血縁関係などは全くない。筑紫の海人族によってもたらされた綿津見三神とそのペアー神である住吉三神の祭祀は、この時代には地元の豪族にまかされるようになっていったのだろう。いやむしろ住吉神はヤマト王権/大和朝廷により、各地の港津を守る守護神として創出された神であると言ってよいかもしれない。

記紀の記述では、神功皇后の三韓征伐では住吉大神が神功皇后を助け、新羅を平定して無事帰還させたとする。こうした経緯から全国の住吉神社には住吉三神の他に神功皇后が祀られていることが多い。大阪の住吉大社には4つの社があり、それぞれ「表筒男神」「中筒男神」「底筒男神」そして「息長帯比売命すなわち神功皇后」が祀られている。大和朝廷にとって重要な航海守護神を祀る社として位置付けられていった。その一方で安曇一族の綿津見神はいつの間にか大和朝廷の国家祭祀の舞台からは消えてしまった。

博多の住吉神社は那の津(博多)に鎮座している。博多古地図(鎌倉時代の図で住吉神社に絵馬として奉納されている)によれば日本第一住吉大明神とある。現在では大阪の住吉大社が全国の住吉神社の総本宮とされているが、古書には博多の住吉神社が「住吉本宮」とあり、住吉大神祭祀のルーツである事を物語っている。現在は博多駅に近い内陸部に鎮座する神社となっているが、博多古地図を見るとわかるように、元々は深く湾入した冷泉の津の南岸、那珂川が流入するところに鎮座していた(ちなみに現在の地名「蓑島」は文字通り島であったことがわかる。)。神社は西向きで、一の鳥居の前に現在も残る竜神池は、当時の湊、冷泉の津の名残である。応神天皇を祀る箱崎八幡宮とともに筑前國一宮である。

参考:日本三大住吉とは、筑前博多の住吉神社、長門下関の住吉神社,大阪の住吉大社をいう。また日本三大八幡とは、豊前宇佐八幡宮、筑前箱崎八幡宮、山城石清水八幡宮をいう。



住吉神社に奉納されている絵馬
鎌倉時代の博多古図
南北が逆さまに描かれている
住吉神社境内に掲げられている博多古図の説明図
上記の絵馬を解説している。
深く湾入した冷泉の津のほとり、那珂川の河口に鎮座していた
左が博多浜、沖の浜


江戸時代に描き起こした博多古図
南北を戻した図になっている
住吉神社が下半部のやや右に詳細に描かれている。

現在の博多中心部
上部には福岡空港、博多駅、左にはキャナルシティー、手前は渡辺通
真ん中の緑の部分が現在の住吉神社境内
かつて住吉宮の門前に広がっていた「冷泉の津」はすっかり失われてしまった。
日本第一住吉神社


一の鳥居の前に位置する龍神池
「冷泉の津」の痕跡と言われている。

大阪の住吉大社本宮

住吉大社の太鼓橋