すっかり秋も深まった大阪へ戻ってきた。薄暗くて寒い昨日に比べ,今日は久しぶりの晴天。しかし,大阪は何とも季節感のない町だ。緑地面積が少ないせいか?東京の方が季節の移ろいを感じることが出来る。大阪城公園では紅葉が始まっていることがオフィスの窓から分かるが。
今日の日経新聞に中之島のダイビル建て替えの話が出ている。大正14年(1925年)竣工の大大阪を象徴する8階建ての堂々たる洋風建築のビルだ。設計は当時の関西を代表する建築家渡辺節。他にも神戸の商船三井ビルなどを手がけている。外装はスクラッチスタイルの茶褐色のレンガ造り。内部はにはアーケードを設けるなど、発展する大阪を象徴する代表的なビルである。結局はこのビルの取り壊しを惜しむ声に応えて、2013年完成を目指す新ダイビルは低層部に現在の外観を復元し,上に高層棟を継ぎ足した地上22階建てのビルとすることで決着した。外装のレンガや石材を保存して復元し、内装も床タイルを再利用する。
東京でもこのような「保存」措置がとられた新ビルが数多くみられる。第一生命ビル、農林中金ビル、明治生命ビル、銀行協会、丸ビル、新丸ビル、みな眼の高さは近代建築としての景観を残したが,見上げると高層のグラスアンドスチールビルだ。しかも高さがどれも異なるので町並みが不揃いになってしまった。私が記憶するお堀端から丸の内辺りの景観は昭和の首都東京にふさわしいものであった。皇居前の高さが統一された整然とした町並みは美しかった。
ロンドンやパリの中心街のような歴史的景観はもはや東京や大阪には残されていない。地震や戦災にあって破壊を受けたことを考慮しても、せめて破壊を免れた歴史的な建造物を保存して欲しいものだ。「景観」の持つ価値そのものがあまり重視された形跡がないのが残念だ。日比谷の三信ビルなどのように無惨にも跡形もなく取り壊されてしまったのではどうにもならない。
そうは言っても、最近は経済合理性優先の町づくりへの反省と、日本人がようやく少し成熟した大人の市民に近づいてきたのとで、こうした景観保存、修復への動きが出てきているのは歓迎すべきことだ。丸の内に三菱一号館が復元されたことも朗報だ。ここに展示されている昔の「一丁倫敦」の写真を見ると、当時の東京はこんなに美しい町並みだったのか、と驚いてしまう。そしてこれらの赤煉瓦の建築群が時代の流れの中で消滅してしまったことを改めて知らされた。三菱一号館に続いて東京駅の赤煉瓦駅舎のオリジナル復元工事も始まった。少しずつ伝統的な建造物が復活することが楽しみだ。
そう思って大阪の町を歩いてみると、街中には大大阪時代の素敵な建築物や土木構造物が数多く残っていることに気付く。先ほどのダイビルのある堂島、中之島あたりは無論のこと、堺筋を歩くと、ここがかつての船場の中心街で、東洋のマンチェスター、東洋一の商工都市,と呼ばれていた大大阪のメインストリートへ発展していったことが分かる。今でこそ大阪のメインストリートは御堂筋になっているが、戦前の道幅6mの淀屋橋筋の拡幅工事や地下鉄工事などの大胆な大阪都市改造計画の成果が花開いたのは戦後のことだ。
ライオンの難波橋、北浜の大阪証券取引所、道修町の薬屋街、高麗橋、備後町、安土町の証券、銀行街.....多くの全国的な企業が本社を構えた。そしてかつての堺筋には大阪の主だったデパートも軒を連ねていた。三越大阪店が北浜に8階建ての高層ビルを建てたのもこの頃だ(いまや日本橋の高島屋別館(かつての松坂屋)を除いてデパートは一軒もない)。その大大阪の香りが随所に今も残されている堺筋周辺には今も往時を思い起こさせる近代建築が破壊を免れて現存している。東京のようにこれらの景観を惜しげもなく壊してしまって欲しくはない。いや皮肉なことに今の大阪は東京みたいに元気がないので、町が破壊されるスピードも緩やかだろう。
戦前の大阪は大正14年には人口200万を超えて,東京をしのぐ世界第6位の大都会であった。その繁栄の痕跡が町のいたるところに残されている訳だ。しかし、大阪はその戦前の活気と栄光を取り戻すことが出来るのか?堺筋は「歴史の道」になってしまうのか?産業革命の面影を残す現代の「マンチェスター」になってしまうのか。町は時代とともに変貌を遂げる。もはや御堂筋ですら、心斎橋辺りのデパートはそごうが再生の努力も虚しく閉店し、残るは大丸のみとなってしまった。南北軸の両端である梅田や難波が賑わいの中心となり、今日の大阪府議会で決着がつくはずだが、橋下大阪府知事が躍起になっている大阪府庁のWTC移転が決まれば,今度は東西軸の町の発展が見込まれるのだろうか。
江戸時代から続く天下の台所大坂、日本の資本主義の発展とともに歩んできた大阪。歴史的な建造物の残し、歴史と伝統の重みを感じる景観を保護しつつ、新たなエネルギーを放ち発展する「新・大大阪」を時空を超えて旅してみたいものだ。