2010年4月29日木曜日
奈良七重七堂伽藍八重桜 ー平城遷都1300年記念祭のにぎわいを避けるとー
「時空トラベラー」ブログは、文章が長くて、教科書みたいで読む気がしない、と評判が悪い。あまり自分以外の読み手を想定していないのと、時空旅すると、故事来歴、うんちくを記録したくなってしまうのとで、ついつい...
今回はいたって短く。
2010年の今年は、710年の平城京遷都からちょうど1300年。
広大な平城宮跡には立派な大極殿が再建され、ここをメイン会場に「平城遷都1300年祭」が盛大に催されている。
人出でにぎわうことを想定したイベントは苦手なので、すこし落ち着いたら大極殿の建物を見に行くつもりだ。
今回は、その喧噪を近鉄電車の窓からのぞきながら(平城宮跡を横切って走っているので、大極殿も朱雀門もよく見える)パス。春日大社の森を若宮へ抜け、高畑町から新薬師寺、白毫寺を散策。
白毫寺からの奈良の都の展望は、まさに「奈良七重七堂伽藍八重桜」。
帰りはいつもの奈良町をぬけ、たまたま開いていた今西家邸宅を拝見(公開日時が限られている)。庭園の大輪のあでやかな牡丹を楽しんだ。
雨が上がり、よく晴れた静かで穏やかな一日を過ごすことが出来た。
以上、おしまい。
2010年4月26日月曜日
田村圓澄先生の「飛鳥の時代 倭から日本へ」を読む
書店で田村圓澄先生の「飛鳥の時代 倭から日本へ」(2010年4月1日第一版)を見つけた。買っておいてから、なかなかまとまった時間が取れなくて読むことが出来なかったが、この週末、一気に読んだ。
明快で、説得力を持った飛鳥の時代の新たな解釈に引き込まれた。
田村圓澄先生は1917年のお生まれだから、今年93才。失礼ながらこのお年で新たな著作を世に問われた事だけでも舌を巻く。この古代史、仏教史の巨人の、衰えぬどころか益々研ぎすまされた歴史を見る眼。新たな視点に基づく飛鳥時代研究のアップデートが明解に展開されていることに驚嘆するとともに、まさに尊敬の念を禁じ得ない。
学生時代、法学部の学生だった私も、時々先生の講義を聴講させていただきに出かけたが、私のような未熟な学生には難解な講義であったような印象が残っている。この著作では、先生の永年の脈々たる研究成果が、最新の研究でアップデートされており、その解説に目から鱗の感動を頂いた。時に部分部分の事象にこだわって全体の流れが見えなくなるのは私のような浅学非才の徒の陥りがちな傾向だが、この著作では繰り返し全体の俯瞰図を示していただいており、非常によく歴史のトレンドを理解することが出来た。
「やっとわかりました、先生」。「いやいやまだ君はわかっとらん」? 浅学非才を恥じるばかりだが...
さて、この最新の著作では、新たな次の二つの視点で日本の古代史、特に聖徳太子(厩戸王)以降の飛鳥時代の考察を試みておられる。
(1)飛鳥時代の「倭」が、隣の朝鮮半島、中国の動向と深く関わっていること。
(2)この時代に出現した、人民の集団としての「百姓」と「仏教」の役割。
この2点を新たな視点として、厩戸王の仏法を基礎とした政治改革から「大化の改新」、「壬申の乱」を経た後の天武天皇の時代、すなわち「倭」から律令国家としての「日本」への成立過程を説明している。
特に、厩戸王、天智大王の歴史的役割の再解釈を問うた上に、壬申の乱で勝利した天武天皇の歴史における役割の新たな評価に、あらたな興味を持って読ませていただいた。東アジアの「倭」地域に統一国家「日本」が成立したいきさつが明解に解説されている。
私は日本の歴史の中で、統一国家として成立する過程に、大きく3つのマイルストーンあったような気がする。一つは明治維新。二つは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続く天下統一。そして三つが、この「倭」から律令国家「日本」の成立。
この3番目の解釈評価はまだ十分に定まっているとは言えないが、先生の考察で私の頭はかなり整理された気がする。
ちなみに、日本が経験した直近の大きな対外戦争での「敗戦」の事実がもう一つの大きなターニングポイントであるが、長い歴史の中で、これから客観的に分析され評価されて行くことと思う。まだまだ感情が煮えたぎっていて、歴史の時間の中での熟成と「歴史認識」の客観化が出来ていない。まだ生々しいのである。
さて、いかに「倭」が「日本」になったかだが、そもそも「倭」と「日本」とはどのように違うのか?
「倭」
(1)「倭」は一世紀の奴国や3世紀の邪馬台国のように弥生時代以来の農耕集落がクニとなり、クニグニの連合体 となったもので、国王が国土と人民を統一支配する「国家」ではない。
(2)自ら名乗った国号ではなく、大陸の中華帝国の王朝が名付けた、東の海に浮かぶ島々を中心とした「地域」の 名称である。
(3)4世紀に成立したであろうヤマト王権後も地域の氏族・豪族(物部氏、蘇我氏などの)が分割支配。
(4)地域の氏族・豪族が土地と人民を領有・支配する「私地/私民制」。
(5)「八十万の神々」という多神教の世界。それぞれの神はそれぞれの地域の氏族・豪族とその土地(私地)、人 民(私民)加護する。
(6)神々には姿形はなく、教えも説かない。
(7)「連合王国」の首長は「大王」であって「天皇」ではない。皇祖神を持たない、神につながらない存在。
(8)仏教伝来後も氏族仏教(蘇我氏の法興寺、厩戸王の法隆寺など)。
「日本」
(1)天皇が国主として全土の土地と人民を統一・支配する「国家」である。
(2)政治制度としての律令制を取り入れた。
(3)氏族・豪族に代わり天皇が生産手段としての土地と人民を支配する「公地・公民制」。
(4)この天皇の支配を権威づける皇祖神の創出。氏族ごとの神(八百万の神々)の体系か。すなわち「大王」は「天皇」を名乗り「神」となる。
(5)これまでの「八十万の神々」の上に立つ最高神、皇祖神としての天照大神を設定。
(6)これは金光明経(仏教)の「帝王神権説」に基づき創出された国家理念。
(7)姿形を有し、言葉を持ち、教えを説く神、仏教を国家理念の中心に据える。
(8)国家仏教(大官大寺建立、地方にも寺院建立)へ。仏教による中央集権化。
この「倭」の「日本」化を進めたのが天武天皇(大海人王)である。初めて「大王」から「天皇」となり、国号も外来の「倭」を嫌い「日本」とした。天武天皇が事実上の初代の「日本」の「天皇」となる。
時代背景としては、天智大王が中大兄王時代から飛鳥で繰り返した、血なまぐさいクーデター(のちに「大化の改新」とよばれ、最近は「乙巳の変」と呼び直されている)や、権力内部での殺戮の連鎖。さらには人民「百姓」をも駆り出して挑んだ対外戦争の大敗(660年の白村江で唐・新羅連合軍との戦いの敗戦)。大王家の故地である飛鳥とその民の放棄(難波宮への遷都、さらに孝徳大王を見捨てての飛鳥帰郷。さらに近江京遷都)などから、人民「百姓」の心は大王からはなれ、「百姓」の集団での抵抗にあった時代であった。
天智大王亡き後の「壬申の乱」は、ただの皇位継承争いではない、とする。すなわち倭の「軍国」化を進めた天智大王の近江王朝を廃して、新たな「国家」造りに挑んだのが天智大王の弟、大海人王であった、という解釈である。
氏族・豪族の「私地・私民制」を天皇の「公地・公民制」に変革するイデオロギーとして、「八十万の神々」の上に最高神「天照大神」を置き、天皇家の皇祖神とし、「大王」が「天皇」すなわち、氏族/豪族に共立された権威ではなく、神に繋がる権威としての天皇となって「国家」を統一・支配するという、新しい国家像を創出した。ここに国家の統治制度としての律令制を導入して国家の形を整えた。この基本になる理念が仏教の「金光明経」の帝王神権説であるというわけだ。そしてこの天皇を中心とする新しい国家像を権威づける為に「天照大神」を皇祖神とする系譜を表した古事記、その天皇が支配する倭国に変わる「日本」起源をまとめさせたのが国史としての「日本書紀」である。
この天武天皇の国家理念は、皇后であり皇位を継承した持統天皇に引き継がれて、日本という国家の礎が出来上がったとされる。この時代、天武天皇は自ら政治を執り行う天皇親政を行ったと言われる。ちなみに明治維新の時の「王政復古」の大号令は、この天武親政時代の国体を復古せよということなのだ。また持統天皇の時期まで遣唐使の派遣を取りやめている。新しい「日本」の体制固めを優先したのだろう。従って「日本」という国号が唐に認められるのは遣唐使が再開されて粟田真人が長安の則天武后に謁見を許されるまで待たねばならない。
この意味では、歴史のターニングポイントは我々が習った645年の「大化の改新」ではなくて672年の「壬申の乱」と、天武・持統天皇の時代を待たねばならないのかもしれない。また「日本」という国号を用いた最初が、聖徳太子(厩戸王)の遣隋使小野妹子が随の皇帝に持参した「国書」にいわく「日の出る國の天子...」だとされている解釈にも修正が必要、ということになる。
まだまだ新たな事実の発見、異なる考察があり続けるだろうが、先生が93才にしてアップデートされた飛鳥の時代のイラストレーションは、私にとっての永年の疑問に対する明解な回答を示してくれた。先生の益々のご健勝と歴史の謎を解明する新たな考察を期待しております。
未知の世界への扉の一つがまた開けられたことに感謝。これから明日香を訪ねる時の一つの「歴史認識」が出来た。この本は時空トラベラー必携のガイドブックという訳だ。時空旅はますます佳境に入ってゆく。
(先生は2013年7月10日に福岡で永眠されました。これからというときに残念の極みです。ご冥福をお祈り申し上げます。)
明快で、説得力を持った飛鳥の時代の新たな解釈に引き込まれた。
田村圓澄先生は1917年のお生まれだから、今年93才。失礼ながらこのお年で新たな著作を世に問われた事だけでも舌を巻く。この古代史、仏教史の巨人の、衰えぬどころか益々研ぎすまされた歴史を見る眼。新たな視点に基づく飛鳥時代研究のアップデートが明解に展開されていることに驚嘆するとともに、まさに尊敬の念を禁じ得ない。
学生時代、法学部の学生だった私も、時々先生の講義を聴講させていただきに出かけたが、私のような未熟な学生には難解な講義であったような印象が残っている。この著作では、先生の永年の脈々たる研究成果が、最新の研究でアップデートされており、その解説に目から鱗の感動を頂いた。時に部分部分の事象にこだわって全体の流れが見えなくなるのは私のような浅学非才の徒の陥りがちな傾向だが、この著作では繰り返し全体の俯瞰図を示していただいており、非常によく歴史のトレンドを理解することが出来た。
「やっとわかりました、先生」。「いやいやまだ君はわかっとらん」? 浅学非才を恥じるばかりだが...
さて、この最新の著作では、新たな次の二つの視点で日本の古代史、特に聖徳太子(厩戸王)以降の飛鳥時代の考察を試みておられる。
(1)飛鳥時代の「倭」が、隣の朝鮮半島、中国の動向と深く関わっていること。
(2)この時代に出現した、人民の集団としての「百姓」と「仏教」の役割。
この2点を新たな視点として、厩戸王の仏法を基礎とした政治改革から「大化の改新」、「壬申の乱」を経た後の天武天皇の時代、すなわち「倭」から律令国家としての「日本」への成立過程を説明している。
特に、厩戸王、天智大王の歴史的役割の再解釈を問うた上に、壬申の乱で勝利した天武天皇の歴史における役割の新たな評価に、あらたな興味を持って読ませていただいた。東アジアの「倭」地域に統一国家「日本」が成立したいきさつが明解に解説されている。
私は日本の歴史の中で、統一国家として成立する過程に、大きく3つのマイルストーンあったような気がする。一つは明治維新。二つは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続く天下統一。そして三つが、この「倭」から律令国家「日本」の成立。
この3番目の解釈評価はまだ十分に定まっているとは言えないが、先生の考察で私の頭はかなり整理された気がする。
ちなみに、日本が経験した直近の大きな対外戦争での「敗戦」の事実がもう一つの大きなターニングポイントであるが、長い歴史の中で、これから客観的に分析され評価されて行くことと思う。まだまだ感情が煮えたぎっていて、歴史の時間の中での熟成と「歴史認識」の客観化が出来ていない。まだ生々しいのである。
さて、いかに「倭」が「日本」になったかだが、そもそも「倭」と「日本」とはどのように違うのか?
「倭」
(1)「倭」は一世紀の奴国や3世紀の邪馬台国のように弥生時代以来の農耕集落がクニとなり、クニグニの連合体 となったもので、国王が国土と人民を統一支配する「国家」ではない。
(2)自ら名乗った国号ではなく、大陸の中華帝国の王朝が名付けた、東の海に浮かぶ島々を中心とした「地域」の 名称である。
(3)4世紀に成立したであろうヤマト王権後も地域の氏族・豪族(物部氏、蘇我氏などの)が分割支配。
(4)地域の氏族・豪族が土地と人民を領有・支配する「私地/私民制」。
(5)「八十万の神々」という多神教の世界。それぞれの神はそれぞれの地域の氏族・豪族とその土地(私地)、人 民(私民)加護する。
(6)神々には姿形はなく、教えも説かない。
(7)「連合王国」の首長は「大王」であって「天皇」ではない。皇祖神を持たない、神につながらない存在。
(8)仏教伝来後も氏族仏教(蘇我氏の法興寺、厩戸王の法隆寺など)。
「日本」
(1)天皇が国主として全土の土地と人民を統一・支配する「国家」である。
(2)政治制度としての律令制を取り入れた。
(3)氏族・豪族に代わり天皇が生産手段としての土地と人民を支配する「公地・公民制」。
(4)この天皇の支配を権威づける皇祖神の創出。氏族ごとの神(八百万の神々)の体系か。すなわち「大王」は「天皇」を名乗り「神」となる。
(5)これまでの「八十万の神々」の上に立つ最高神、皇祖神としての天照大神を設定。
(6)これは金光明経(仏教)の「帝王神権説」に基づき創出された国家理念。
(7)姿形を有し、言葉を持ち、教えを説く神、仏教を国家理念の中心に据える。
(8)国家仏教(大官大寺建立、地方にも寺院建立)へ。仏教による中央集権化。
この「倭」の「日本」化を進めたのが天武天皇(大海人王)である。初めて「大王」から「天皇」となり、国号も外来の「倭」を嫌い「日本」とした。天武天皇が事実上の初代の「日本」の「天皇」となる。
時代背景としては、天智大王が中大兄王時代から飛鳥で繰り返した、血なまぐさいクーデター(のちに「大化の改新」とよばれ、最近は「乙巳の変」と呼び直されている)や、権力内部での殺戮の連鎖。さらには人民「百姓」をも駆り出して挑んだ対外戦争の大敗(660年の白村江で唐・新羅連合軍との戦いの敗戦)。大王家の故地である飛鳥とその民の放棄(難波宮への遷都、さらに孝徳大王を見捨てての飛鳥帰郷。さらに近江京遷都)などから、人民「百姓」の心は大王からはなれ、「百姓」の集団での抵抗にあった時代であった。
天智大王亡き後の「壬申の乱」は、ただの皇位継承争いではない、とする。すなわち倭の「軍国」化を進めた天智大王の近江王朝を廃して、新たな「国家」造りに挑んだのが天智大王の弟、大海人王であった、という解釈である。
氏族・豪族の「私地・私民制」を天皇の「公地・公民制」に変革するイデオロギーとして、「八十万の神々」の上に最高神「天照大神」を置き、天皇家の皇祖神とし、「大王」が「天皇」すなわち、氏族/豪族に共立された権威ではなく、神に繋がる権威としての天皇となって「国家」を統一・支配するという、新しい国家像を創出した。ここに国家の統治制度としての律令制を導入して国家の形を整えた。この基本になる理念が仏教の「金光明経」の帝王神権説であるというわけだ。そしてこの天皇を中心とする新しい国家像を権威づける為に「天照大神」を皇祖神とする系譜を表した古事記、その天皇が支配する倭国に変わる「日本」起源をまとめさせたのが国史としての「日本書紀」である。
この天武天皇の国家理念は、皇后であり皇位を継承した持統天皇に引き継がれて、日本という国家の礎が出来上がったとされる。この時代、天武天皇は自ら政治を執り行う天皇親政を行ったと言われる。ちなみに明治維新の時の「王政復古」の大号令は、この天武親政時代の国体を復古せよということなのだ。また持統天皇の時期まで遣唐使の派遣を取りやめている。新しい「日本」の体制固めを優先したのだろう。従って「日本」という国号が唐に認められるのは遣唐使が再開されて粟田真人が長安の則天武后に謁見を許されるまで待たねばならない。
この意味では、歴史のターニングポイントは我々が習った645年の「大化の改新」ではなくて672年の「壬申の乱」と、天武・持統天皇の時代を待たねばならないのかもしれない。また「日本」という国号を用いた最初が、聖徳太子(厩戸王)の遣隋使小野妹子が随の皇帝に持参した「国書」にいわく「日の出る國の天子...」だとされている解釈にも修正が必要、ということになる。
まだまだ新たな事実の発見、異なる考察があり続けるだろうが、先生が93才にしてアップデートされた飛鳥の時代のイラストレーションは、私にとっての永年の疑問に対する明解な回答を示してくれた。先生の益々のご健勝と歴史の謎を解明する新たな考察を期待しております。
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飛鳥時代 倭から日本へ 価格:¥ 2,415(税込) 発売日:2010-03 |
2010年4月20日火曜日
空のシルクロードは大混乱
アイスランドの火山噴火の影響でヨーロッパ各国の航空当局が空港閉鎖を決めて、もうかれこれ6日。
我が家のゲスト、娘の友達で、イタリアから来たフォトグラファーも昨日ミラノへ帰る予定が、完全にスタック。
連日、電話とウエッブサイトで運行状況を確認するも全くフライト再開の見通しは得られず。電話は全くつながらないので、成田まで出かけてカウンターに並びようやく得た回答は一番早くて30日のフライト予約なら受け付ける、と。
まあ、10日間のエクストラホリデーだとポジティブに考えて、日本の写真撮りまくってください。
おかげでニューヨークへ明日、帰る予定だった娘も、出発延期してこの友人に付き合うことに。
困った時の助け合いは大事。友情を確認し合うことができるのも怪我の功名かもね。
彼女もたくましい。さすがマルコポーロの子孫にして、西ローマ帝国の首都ミラノから来たイタリア人だからか、どんな辺境地域でも旅するフォトジャーナリストだからか。
代替ルート検討のオプションが面白い。モスクワまで飛び、そこから鉄道でミラノまで帰る。いやいやウラジオストクからシベリア鉄道でモスクワまで行こう。やはりこの際、釜山か上海までフェリーで行ってそこからバスや車乗り継いで陸路ミラノまで帰る。まさにシルクロードの旅ではないか。
ようはユーラシア大陸は地続きなのだから、という発想。私もそんなシルクロードの旅を学生時代に夢見たことはあったが...
そんな検討している間にも時間とともにモスクワ便も満席。しかも運賃が跳ね上がっている。シベリア鉄道だと一週間かかる。結局はかかる時間と資金とを勘案して、黄金の国ジパングで30日まで待って直行便で帰る、という選択肢を「今時点では」とったようだ。考えることは型破りだが、選択は極めて合理的。ううん...
しかし、異常事態だ。9.11テロ事件以来の大規模な空港閉鎖。ヨーロッパ域内のトラベラーは鉄道や船やバスに換えて、大混雑とはいえなんとか目的地に到達できるものの、遠くアジアやアメリカやアフリカに旅し、帰途につくヨーロッパ人、ヨーロッパに旅して帰途につくアジア人、アメリカ人は、異国の空港に取り残されてなす術もなし、の状況。いわば難民化しているわけだ。
泊まる所もなく、カネも底を付き...何時帰れるかもわからない。こういう時一番困るのは、的確な情報を得られないこと。もっとも合理的な選択肢を検討しようにも判断の材料がない。あきらめようにもあきらめる根拠がない。見通しがつかないというのが一番フラストレーションが溜まる。
私もアメリカ時代、航空機での移動にはいつもこの不安がつきまとっていた。今でも悪夢のように思い出されることがある。出張で行ったミネアポリスから、NYラガーディアへ戻る最終便がチェックイン後に突如キャンセルになったときが一番腹立った。
カウンターのおねえさん(オバさん、か)たちはキャンセルになった、といって、居並ぶ客を尻目にカウンターにPosition Closedの札を無造作に置くと、どこかへいなくなってしまった。
なぜキャンセルなのか、何の説明もない。突然すべてのプロセスが止まり、情報のない世界に取り残される。
客に丁寧なサービスなんてハナから期待してないアメリカ人の客達もさすがに、イラッとしてたが、そのうち誰もいなくなってしまった。どこへ行ったのだろう?みんなの後をついて行きたいけど、クモの子散らすようにちりじりにいなくなった。航空会社がホテルの手配してくれる気配など全くない。自力本願の世界だから。
最終便だから、乗り換えは翌朝だ。その手続きしたくても他のカウンターは電気が消えてて誰もいない。ホテル予約しようにも、だだっ広いコンコースにいるのは掃除のおじさんと警備員だけ。quality of serviceも、CRMも、CSRも、accountabilityも、ビジネススクールで教えてもらったキーワードなどどこにもこの場には存在していない。「途方に暮れる」とはこのことだ。
結局、別の航空会社のNJニューアーク行きの最終便が出発遅れで待機中との情報をキャッチ。このウエイティングの最後の一席をなんとか確保して乗り込んで帰った(私が乗るとドアが閉まり出発した)。捨てる神あれば拾う神あり、とはこのことだ。
夜も白み始める未明のニューアークに降り立ち、タクシーでラガーディアまで飛ばす。だって車をラガーディアのパーキングに置いて来たんだもん。
成田でスタックしているトラベラー達も同じ経験してるんだろうなあ。日本のサービスは少しはいいのかな?寝袋や水や、ハンバーガーを配っている所がTVニュースに流れている。「こんなうまいハンバーガー食ったことない」とフランス人ツーリストがNHKのインタビューに答える。ここではフランス人が冷笑するアメリカ食文化の象徴ハンバーガーに舌鼓をうっている。ほらみろ、世界にはボルドーやトリュフよりもうまいものがあるだろう...ってか。
まあ、パニクってる人には、食い物、寝袋も大事だが、的確な情報を流してもらって、見通しを得ることが優先だが。空港でこれから暮らそうって訳じゃあないんだから。
そういえば日本人女性宇宙飛行士を乗せて帰還予定のスペースシャトルも、地上の天候回復待ちで、まだ地球の軌道を周回しているとか。なかで残りの寿司でも食ってるのかな?
いつの時代も遠方へ出かけるときは、「風待ち」はつきもの。遣唐使も長安にたどり着く前には那の津や坊津で何日も「風待ち」をした。鑑真和尚も何度も「風待ち」「漂流」したあげく日本に漂着した。オランダ船リーフデ号もロッテルダムから沿岸沿いに「風待ち」を繰り返しながら、九州大分の府内に漂着同然にたどり着いた。どんなに交通手段が高度化しても自然の力にはかなわない。それを謙虚に受け入れて、人はdisaster recovery, risk management, contingency planningに意を尽くすことだ。そういった事態に即してもじたばたしない鷹揚さを持って。
(読売他日系各紙より)
我が家のゲスト、娘の友達で、イタリアから来たフォトグラファーも昨日ミラノへ帰る予定が、完全にスタック。
連日、電話とウエッブサイトで運行状況を確認するも全くフライト再開の見通しは得られず。電話は全くつながらないので、成田まで出かけてカウンターに並びようやく得た回答は一番早くて30日のフライト予約なら受け付ける、と。
まあ、10日間のエクストラホリデーだとポジティブに考えて、日本の写真撮りまくってください。
おかげでニューヨークへ明日、帰る予定だった娘も、出発延期してこの友人に付き合うことに。
困った時の助け合いは大事。友情を確認し合うことができるのも怪我の功名かもね。
彼女もたくましい。さすがマルコポーロの子孫にして、西ローマ帝国の首都ミラノから来たイタリア人だからか、どんな辺境地域でも旅するフォトジャーナリストだからか。
代替ルート検討のオプションが面白い。モスクワまで飛び、そこから鉄道でミラノまで帰る。いやいやウラジオストクからシベリア鉄道でモスクワまで行こう。やはりこの際、釜山か上海までフェリーで行ってそこからバスや車乗り継いで陸路ミラノまで帰る。まさにシルクロードの旅ではないか。
ようはユーラシア大陸は地続きなのだから、という発想。私もそんなシルクロードの旅を学生時代に夢見たことはあったが...
そんな検討している間にも時間とともにモスクワ便も満席。しかも運賃が跳ね上がっている。シベリア鉄道だと一週間かかる。結局はかかる時間と資金とを勘案して、黄金の国ジパングで30日まで待って直行便で帰る、という選択肢を「今時点では」とったようだ。考えることは型破りだが、選択は極めて合理的。ううん...
しかし、異常事態だ。9.11テロ事件以来の大規模な空港閉鎖。ヨーロッパ域内のトラベラーは鉄道や船やバスに換えて、大混雑とはいえなんとか目的地に到達できるものの、遠くアジアやアメリカやアフリカに旅し、帰途につくヨーロッパ人、ヨーロッパに旅して帰途につくアジア人、アメリカ人は、異国の空港に取り残されてなす術もなし、の状況。いわば難民化しているわけだ。
泊まる所もなく、カネも底を付き...何時帰れるかもわからない。こういう時一番困るのは、的確な情報を得られないこと。もっとも合理的な選択肢を検討しようにも判断の材料がない。あきらめようにもあきらめる根拠がない。見通しがつかないというのが一番フラストレーションが溜まる。
私もアメリカ時代、航空機での移動にはいつもこの不安がつきまとっていた。今でも悪夢のように思い出されることがある。出張で行ったミネアポリスから、NYラガーディアへ戻る最終便がチェックイン後に突如キャンセルになったときが一番腹立った。
カウンターのおねえさん(オバさん、か)たちはキャンセルになった、といって、居並ぶ客を尻目にカウンターにPosition Closedの札を無造作に置くと、どこかへいなくなってしまった。
なぜキャンセルなのか、何の説明もない。突然すべてのプロセスが止まり、情報のない世界に取り残される。
客に丁寧なサービスなんてハナから期待してないアメリカ人の客達もさすがに、イラッとしてたが、そのうち誰もいなくなってしまった。どこへ行ったのだろう?みんなの後をついて行きたいけど、クモの子散らすようにちりじりにいなくなった。航空会社がホテルの手配してくれる気配など全くない。自力本願の世界だから。
最終便だから、乗り換えは翌朝だ。その手続きしたくても他のカウンターは電気が消えてて誰もいない。ホテル予約しようにも、だだっ広いコンコースにいるのは掃除のおじさんと警備員だけ。quality of serviceも、CRMも、CSRも、accountabilityも、ビジネススクールで教えてもらったキーワードなどどこにもこの場には存在していない。「途方に暮れる」とはこのことだ。
結局、別の航空会社のNJニューアーク行きの最終便が出発遅れで待機中との情報をキャッチ。このウエイティングの最後の一席をなんとか確保して乗り込んで帰った(私が乗るとドアが閉まり出発した)。捨てる神あれば拾う神あり、とはこのことだ。
夜も白み始める未明のニューアークに降り立ち、タクシーでラガーディアまで飛ばす。だって車をラガーディアのパーキングに置いて来たんだもん。
成田でスタックしているトラベラー達も同じ経験してるんだろうなあ。日本のサービスは少しはいいのかな?寝袋や水や、ハンバーガーを配っている所がTVニュースに流れている。「こんなうまいハンバーガー食ったことない」とフランス人ツーリストがNHKのインタビューに答える。ここではフランス人が冷笑するアメリカ食文化の象徴ハンバーガーに舌鼓をうっている。ほらみろ、世界にはボルドーやトリュフよりもうまいものがあるだろう...ってか。
まあ、パニクってる人には、食い物、寝袋も大事だが、的確な情報を流してもらって、見通しを得ることが優先だが。空港でこれから暮らそうって訳じゃあないんだから。
そういえば日本人女性宇宙飛行士を乗せて帰還予定のスペースシャトルも、地上の天候回復待ちで、まだ地球の軌道を周回しているとか。なかで残りの寿司でも食ってるのかな?
いつの時代も遠方へ出かけるときは、「風待ち」はつきもの。遣唐使も長安にたどり着く前には那の津や坊津で何日も「風待ち」をした。鑑真和尚も何度も「風待ち」「漂流」したあげく日本に漂着した。オランダ船リーフデ号もロッテルダムから沿岸沿いに「風待ち」を繰り返しながら、九州大分の府内に漂着同然にたどり着いた。どんなに交通手段が高度化しても自然の力にはかなわない。それを謙虚に受け入れて、人はdisaster recovery, risk management, contingency planningに意を尽くすことだ。そういった事態に即してもじたばたしない鷹揚さを持って。
(読売他日系各紙より)
2010年4月8日木曜日
ライカか? ニコンか? それが問題だ...
なんと贅沢な選択肢だ。
しかし、それは「問題」なのか? 趣味人にとっては、そういう二択問題はナンセンスだ。
自分で設問しておいて、いきなりナンセンス、か。
昔、「ライカ、コンタックス論争」というのがあって、写真家や技術者の間でどっちが優れたカメラか、大論争になったことがあったそうだ。「降りかかる火の粉ははらわねばならぬ」などと、挑戦を受けた側も、最初静観の構えだったのに論争の渦中へ飛び込んで行った。
結論がどうなったのか知らないし、気にもならないが、そういう論争があったことが後世に語り継がれている。
ましていわんや、ニコンか?キャノンか?ならまだしも、ライカとニコンでは狙う市場が違うんだろうから、どっちか?というのは極めて個人の趣味の世界の話で公に論争する話ではない。それを聴かされる人の迷惑を知りつつ、ついついつぶやきたくなった。ちょっと長いツイートだ。
Twitterには収まらないのでBlogで興奮を少々...
というのも最近、ニコンのフラッグシップデジタル一眼レフカメラ、D3S+ナノクリスタルコートズームレンズ24−70mmを使う機会を得た(ちなみにブログ添付の大和路の桜巡りスライドショーに使ったカメラだ)
ライカと別の意味で、「違い」を感じた。これがカメラというものか、と衝撃が走った。
現時点で手に出来る完璧な道具と言ってよい。ホンマモンのカメラや。デジタル一眼もここまで完成して来たか、と思った。とても私のようなド素人がこんな超弩級の道具を使いこなせるとは思えないが、その道具としての完成度と存在感にうっとりしてしまった。
これぶら下げてお散歩ブラパチするなんて、ベンツSクラスに乗ってコンビニへ買い物に行くみたいなものだが、その「コチ亀リョウさん」的なミスマッチがまたたまらん。
数字上のスペックもさることながら、手にしたときのずっしりとした重量感、剛性感、レンズとのホールディングバランス(かなり重いが)、ひんやりした感触、かちっとしたクリック感。なのに軽快なシャッター音。適度なトルクがありながらスムーズな回転。デジタルカメラに求められる処理速度の心地よさ(俗にいうサクサク感)。
私は道具は見た目と質感で好きになったり嫌いになったりするので、ちょっと他の人とは違う評価視点かもしれないが、すっかり心を奪われてしまった。ペンタ部に中途半端なリトラクタブルライトなどが仕組まれてないのがまたいい。ペンタ部はパカッと開いたりしてはいけない。ソリッドでなくてはいけない。
もちろん「超」高感度域でのノイズのない画質はこれまでカメラでは観ることの出来なかった世界を写し出すことが出来るし、9コマ/秒連写はストレスなく使える(私はあまり連写を使わないが)。レンズのナノクリスタルコートはニコンの誇る最新技術で、フレアーやゴーストの大幅な減少を実現していて、素人の私にもデジカメ写真にありがちな薄い幕をかけたようなぼんやり感が、このレンズでは一掃されていることに感動する。
NASAがD3Sをメイン機材として採用した、というがその意思決定は十分合理的だ。
しかしそれも大事だがやはり質感だ。スペック上の数字に心は動かされない。写真はある意味自分の感性とマッチしなくては撮りたくならないたぐいのものである。したがって道具にこだわる。分不相応な道具を使いこなせなくてもそれを楽しむ。だんだん底深い道具にハマって行く感覚がいい。所有欲というのでもない。ライカはどっちかと言うと所有欲の対象かもしれない。バグが多くても、こりゃライカだぞ、と言いながら愛でる。
「弘法筆を選ばず」の名人じゃないから道具に酔いしれるのだ。プロが盛んにNikon(ナイコン)を形容する時に使うDurable, Dependable...という形容詞がこれほど良く当てはまる道具もない。
カメラはそういう底深さがあるかどうかで善し悪しが決まる。私にとっては...
このニコンはいい。このレンズはいい。
結局、全くライカと比較してないね。一方的にニコンD3Sにほれた、と言ってる。バカバカしいくらい。
だから趣味人は他の人から見ると理解に苦しむ。全然論理的、合理的でない。それでいい。
しかし、それは「問題」なのか? 趣味人にとっては、そういう二択問題はナンセンスだ。
自分で設問しておいて、いきなりナンセンス、か。
昔、「ライカ、コンタックス論争」というのがあって、写真家や技術者の間でどっちが優れたカメラか、大論争になったことがあったそうだ。「降りかかる火の粉ははらわねばならぬ」などと、挑戦を受けた側も、最初静観の構えだったのに論争の渦中へ飛び込んで行った。
結論がどうなったのか知らないし、気にもならないが、そういう論争があったことが後世に語り継がれている。
ましていわんや、ニコンか?キャノンか?ならまだしも、ライカとニコンでは狙う市場が違うんだろうから、どっちか?というのは極めて個人の趣味の世界の話で公に論争する話ではない。それを聴かされる人の迷惑を知りつつ、ついついつぶやきたくなった。ちょっと長いツイートだ。
Twitterには収まらないのでBlogで興奮を少々...
というのも最近、ニコンのフラッグシップデジタル一眼レフカメラ、D3S+ナノクリスタルコートズームレンズ24−70mmを使う機会を得た(ちなみにブログ添付の大和路の桜巡りスライドショーに使ったカメラだ)
ライカと別の意味で、「違い」を感じた。これがカメラというものか、と衝撃が走った。
現時点で手に出来る完璧な道具と言ってよい。ホンマモンのカメラや。デジタル一眼もここまで完成して来たか、と思った。とても私のようなド素人がこんな超弩級の道具を使いこなせるとは思えないが、その道具としての完成度と存在感にうっとりしてしまった。
これぶら下げてお散歩ブラパチするなんて、ベンツSクラスに乗ってコンビニへ買い物に行くみたいなものだが、その「コチ亀リョウさん」的なミスマッチがまたたまらん。
数字上のスペックもさることながら、手にしたときのずっしりとした重量感、剛性感、レンズとのホールディングバランス(かなり重いが)、ひんやりした感触、かちっとしたクリック感。なのに軽快なシャッター音。適度なトルクがありながらスムーズな回転。デジタルカメラに求められる処理速度の心地よさ(俗にいうサクサク感)。
私は道具は見た目と質感で好きになったり嫌いになったりするので、ちょっと他の人とは違う評価視点かもしれないが、すっかり心を奪われてしまった。ペンタ部に中途半端なリトラクタブルライトなどが仕組まれてないのがまたいい。ペンタ部はパカッと開いたりしてはいけない。ソリッドでなくてはいけない。
もちろん「超」高感度域でのノイズのない画質はこれまでカメラでは観ることの出来なかった世界を写し出すことが出来るし、9コマ/秒連写はストレスなく使える(私はあまり連写を使わないが)。レンズのナノクリスタルコートはニコンの誇る最新技術で、フレアーやゴーストの大幅な減少を実現していて、素人の私にもデジカメ写真にありがちな薄い幕をかけたようなぼんやり感が、このレンズでは一掃されていることに感動する。
NASAがD3Sをメイン機材として採用した、というがその意思決定は十分合理的だ。
しかしそれも大事だがやはり質感だ。スペック上の数字に心は動かされない。写真はある意味自分の感性とマッチしなくては撮りたくならないたぐいのものである。したがって道具にこだわる。分不相応な道具を使いこなせなくてもそれを楽しむ。だんだん底深い道具にハマって行く感覚がいい。所有欲というのでもない。ライカはどっちかと言うと所有欲の対象かもしれない。バグが多くても、こりゃライカだぞ、と言いながら愛でる。
「弘法筆を選ばず」の名人じゃないから道具に酔いしれるのだ。プロが盛んにNikon(ナイコン)を形容する時に使うDurable, Dependable...という形容詞がこれほど良く当てはまる道具もない。
カメラはそういう底深さがあるかどうかで善し悪しが決まる。私にとっては...
このニコンはいい。このレンズはいい。
結局、全くライカと比較してないね。一方的にニコンD3Sにほれた、と言ってる。バカバカしいくらい。
だから趣味人は他の人から見ると理解に苦しむ。全然論理的、合理的でない。それでいい。
2010年4月6日火曜日
桜を巡る旅 大野寺の枝垂桜
この週末ついに桜が満開に。
歴史の舞台の花の旅、第二弾は室生の里、大野寺。近鉄室生口大野駅から歩いて5分程で大野寺。
ここは宇陀川の対岸の磨崖仏が有名。室町時代初期から修行の一環として彫り続けられたとされる高さ11.5mの弥勒菩薩立像。
河岸からも拝むことが出来るが、寺内に遥拝所が設けられている。
そして春は枝垂桜の寺としても知られる。
普段は室生寺へ向う人々が立ち寄る静かな寺が、今日は大勢の花見客で賑わう。
見事な桜花の滝にしばし時が経つのを忘れる。
能書きをヤメて、とにかくスライドショーでお楽しみ下さい。
歴史の舞台の花の旅、第二弾は室生の里、大野寺。近鉄室生口大野駅から歩いて5分程で大野寺。
ここは宇陀川の対岸の磨崖仏が有名。室町時代初期から修行の一環として彫り続けられたとされる高さ11.5mの弥勒菩薩立像。
河岸からも拝むことが出来るが、寺内に遥拝所が設けられている。
そして春は枝垂桜の寺としても知られる。
普段は室生寺へ向う人々が立ち寄る静かな寺が、今日は大勢の花見客で賑わう。
見事な桜花の滝にしばし時が経つのを忘れる。
能書きをヤメて、とにかくスライドショーでお楽しみ下さい。