2011年9月25日日曜日

友泉亭探訪 ー「城下町」福岡に大名文化は残っているか?ー

 筑前福岡は、関ヶ原以降に豊前中津から筑前国主として入府した黒田長政が開いた城下町だ。筑前藩52万石という外様の大藩の藩府だ。しかし、発展著しい現代の福岡市を尋ねて、福岡が城下町であったというイメージが希薄なのは何故だろう?黒田官兵衛(如水)の軍師としての活躍や、その忠臣、母里太兵衛がモデルとなっていると言われる「酒は飲め飲め...」の黒田節(黒田武士)を聴いて「ああそうだよね,黒田は福岡だよね」という事になるが... 町を歩いてみると,他の城下町と比べて福岡には城下町の痕跡があまり残っていないような気がする。もちろん舞鶴城は如水(官兵衛),長政父子が築いた名城であるが、平城で熊本城のような壮麗さはない。極めて実用的な合理性重視の縄張りだ。城下町は城の北の博多湾に面した細長い狭い土地に形成されていて、山城中心に城下町が四方八方に広がる他都市とも異なる。。金沢の兼六園や、岡山の後楽園、高松の栗林公園、熊本の水前寺公園,鹿児島の嚴仙園、水戸の偕楽園といった、名園といわれ今日まで残る大名庭園もない。高取焼のような藩用窯はあるが、隣の肥前鍋島藩の藩用窯ほどの規模ではない。金沢の能などの芸能、金箔などの工芸、松江の茶道のような文化の痕跡も薄い。博多織、博多人形はお隣さんの博多のもの。祇園山笠、どんたく、松囃子などのお祭りもお隣さんのもの。

黒田の殿様は歴代どのような殿様だったのか。豊臣秀吉の名軍師黒田官兵衛(如水)、関ヶ原で東軍に勝利をもたらした、その子長政。この藩祖父子の軍師、知将のイメージから、質素堅実を旨とし、あまり文化芸能にうつつ抜かす家系の匂いはしない。しかし、かといってただ無骨なイメージもない。江戸期の長く続いた天下太平の時代には何をしていたんだろう。加賀前田の殿様のように武力に金を使わず文化芸能に金を使い徳川幕府への忠誠心の証にしていた,という風でもない。薩摩島津の殿様のように密かに琉球を通じて海外の文物を取り入れ、国力を蓄えていた様子もない。

隣の博多が商人の街としての長い歴史と文化を継承しているのに比べ、城下町福岡は関ヶ原以降に建設された新興都市で、祭りも芸能も、工芸も食文化も,博多の商人文化に飲み込まれているような気がする。他藩のような壮麗なお城や有名な大名庭園もないので、今となっては城下町としての観光資源にも乏しいということになる。金沢や熊本や松江を見て,そのように感じていた所、福岡市が黒田家ゆかりの友泉亭趾を公園として整備し市民に公開している、という話を聞いた。こりゃ是非行ってみよう,という事で出かけた。

友泉亭。懐かしいその「地名」に、まず反応した。私が小学校5年生から高校3年生まで過ごした福岡市別府。その南、樋井川を隔てた田島に友泉亭という所があった。油山を望み、樋井川に面したのどかな半分住宅地、半分農地といったエリアだった。実は黒田家の別邸があった所であり,その名称「友泉亭」が「地名」として残ってきた事を今頃になって知った。

その友泉亭は黒田家六代藩主継高公が宝暦四年(1754年江戸時代中期)に、この樋井川東岸の田島村にもうけた別邸であった。当時の敷地は現在の友泉亭公園の敷地の約10倍を有する広大なものであったようで、樋井川東岸の別邸に続く道路は、領民の通行が禁止されていたと言う。しかし屋敷は、割に質素で実用的な建物が池畔に並んでいくつか建っていたようで、豪壮な大名御殿を想像するとがっかりするようなものだったらしい。

この友泉亭趾は、その後の歴史の流れの中で様々に変遷し、明治維新後は一時小学校になったり、樋井川村役場になったりしている。その後は荒廃の危機に瀕していたが、筑豊炭坑御三家(貝島、麻生、安川)の一つ貝島炭坑の創業者貝島太助翁の息子健次郎氏が敷地を買い取り,ここに邸宅を建てた。今残っている邸宅と庭園はその貝島邸の遺構をもとに昭和56年に福岡市が公園として再整備したものだ。

敷地には池泉廻遊式庭園が整備されており見事。一見の価値有りだ。四季折々の花や樹木が広い敷地に適度な密度で配されており心地よい。池に面した書院造りの大広間でいただく抹茶は美味しい。東京の黒田家から寄贈され、移設された庭園池畔の根府川石の一枚岩が豪壮だ。室内には筑前福岡出身で、中央政府で活躍した官僚、政治家である、金子堅太郎、広田弘毅が揮毫した「友泉亭」の額も残っている。庭園内には茶室如水庵がしつらえられているが,これは昭和56年公園として開園時に建てられたものだそうだ。由緒を感じる素晴らしい邸宅と庭園である。しかし、此れ等はいずれも貝島家によって整備されたもので、残念ながら黒田家友泉亭を彷彿とさせる遺構らしいものはほとんど見当たらない。

福岡の都市景観の中で、黒田家ゆかりの藩主邸宅や武家屋敷よりも、炭坑王の残した「御殿」の方が有名なのは、明治期以降の福岡という街の成り立ちを示しているような気がして面白い。この友泉亭公園も先述の通り、貝島別邸が原型となっている。かの有名な筑豊の伊藤伝右衛門邸は大名屋敷よりも立派な門構えを持ち、飯塚に現存している。再婚離婚劇で名を馳せた妻、柳原白蓮の為に、福岡天神町に建てた伊藤別邸(通称あかがね御殿)も武家屋敷を圧倒する構えであったそうだ。そういえば、天神町から大名町、赤坂門にかけての旧電車通り沿いに延々と続く築地塀のお屋敷街があったのを記憶している。いまはその気配すら残っていないが。現在も高級住宅街とされる福岡の山の手、薬院、高宮、浄水通辺りのお屋敷街も元の住人はたいがい炭坑主であった。その炭坑も高度成長期に入ると廃れ、石炭御殿も次々取り壊されて消滅... マンション街になってしまった。時の流れを感じずにはいられない。

このように城下町の武家屋敷的景観は炭坑主達によってある時期まで継承され,石炭産業の衰退、炭坑の閉山とともに消滅して行ったと言っても良い。福岡はこうして城下町としての景観や佇まいを失ってきた。黒田家が戦前まで福岡に有していたと言う浜の町別邸も戦災に遭い、福岡城の武具櫓を移設したという豪壮な邸宅とともに様々な家伝来の文物、品々が焼失したそうだが、いくつかは福岡市博物館に収蔵展示されている。しかし福岡という街全体を見渡すと、「城下町」「大名文化」の痕跡はあまり残っていない。敢えて探すと、藩校東学問所「修猷館」が現在も九州を代表する名門県立高校としてその歴史と伝統を継承している事だろうか。

友泉亭公園は、福岡市の城下町としての福岡復活プロジェクト(そのようなものがあるのかどうか知らないが)の一環なのだろう。その試みは舞鶴城内の病院、裁判所、平和台球場の転居移転。城跡公園としての再整備。大濠公園の能楽堂、日本庭園などの建設(これも立派な庭園だが、歴史的な由緒はなく、全く新規に企画設計された現代の庭園だ)と連動するものなのだろう。その努力は多とするが、何とも武家文化、城下町文化の残存率が低過ぎるのがいかんともしがたい。一方で舞鶴城に創建当時あったとされる「幻の天守閣」再建、などという構想もあるそうだが、あまり大きな市民レベルの運動にはなっていないようだ。藩祖黒田孝高(官兵衛/如水)長政父子、その家臣団で勇名を馳せた母里太兵衛、栗山善助、井上九郎右衛門、後藤又兵衛の黒田二十四騎などが、筑前入府時期に名を残した割には、城下町としての福岡のプロファイルはあまり高いものとはいえず、最後は、明治維新に乗り遅れてしまうなど「悲劇の城下町」なのかもしれない。