環濠集落とは何か? 防御的な観点から家々が固まって集落を形成し、周囲を水をたたえた掘割ないしは、空堀(この場合は環「壕」集落という)で囲み、外敵の侵入を防ぐ集落のことを言う。こうした居住形態は古代中国にそのルーツがあるとされ、農耕文化の発展に起因する居住形態である。日本には大陸からの稲作技術の流入に伴って、弥生時代の前期辺りから出現した。さらには中世、特に応仁の乱以降の戦国時代にかけて、土豪や領主の城や居館、寺院を中心とした集団防衛集落としての環濠集落が出現したと言われている。
弥生時代前期には、既に、福岡県糟屋の江辻遺跡で環濠集落跡が見つかっている。弥生中期になると、初期の稲作遺跡である福岡市の板付遺跡が、環濠集落であった事が確認されている。さらに弥生中期以降になると、佐賀の吉野ケ里遺跡のような、三重の壕の取り囲まれた極めて大規模な集落、いや都市が形成さるようになる。大和地方の唐古・鍵遺跡や、大阪の池上・曽根遺跡が環濠集落跡として有名だ。このころから大和地方には次々と環濠集落が発生して来たとされる。富の生産と保存管理、生産手段である土地と鉄、人民の支配、戦いの時代を象徴する集落形態である。その後,ヤマト王権の確立とともに、公地公民制や班田収授法による土地/人民が公有化されると、徐々に「自衛するムラ」は姿を消して行き、さらに平安時代に入るとの貴族の荘園へと変質して行く。
時代を下ると、再び大和にはさらにその時代の要請に応じた多くの環濠集落が形成される。現存する町として著名な例は今井町。一向宗の寺院を中心に形成された寺内町で、河内の富田林、平野郷などと同様に、戦乱の時代に自治権を持ち、富を集積した自治都市としての集落が生まれた。奈良盆地にはこの他にも、天理、山辺の道の萱生集落、竹之内集落などが環濠を今に残す集落として知られている。それ以外でも地図を見ると,盆地の田園地帯に散在する小さな集落には、かすかに掘割や空堀の趾が確認出来る集落があちこちにある。
その中で,今回は、大和郡山の稗田環濠集落、若槻環濠集落、番条環濠集落を訪ねた。最初は歩いて廻るつもりであったが、JR郡山駅前の観光案内所で道筋を伺うと,とても歩くと時間がかかる事が分かり,急遽自転車を借り、巡った。三カ所を訪ねて(途中、道に迷って別の集落へも寄り道してしまったが)約2時間半の行程であった。
1)稗田環濠集落
観光ガイドブックにもでてくる比較的有名な環濠集落だ。もともとは地元の豪族の居館の周辺に集落が集まって出来たのでは、といわれている。ここは環濠がよく修復されており、集落がコンクリート製の護岸で囲まれている。今はもちろん防衛的な意味合いは無いが、濠は農業用水として利用されているという。チョット立派すぎて想像力を働かす余地が無くなっているカンジだ。しかし、環濠越しに眺める,大和棟の民家や、土蔵の風景は画になる。写真を撮っていると地元のご老人が声をかけてくれて「このアングルから撮ると写真展に入賞出来ますよ」と、立ち位置を教えてくれたりする。やはり訪問者が多いのだろう。優しいお顔立ちのこの方は「ここは有名な環濠集落ですからね...」と自慢しながら,ユックリと集落の中に消えて行った。
集落に入ると、狭い地域にびっしりと人家が林立している。車一台がやっと通れる細い通りは所々鉤の手に曲がっていて、防衛都市の名残を見ることが出来る。古い板塀、本瓦屋根の民家も多いが、かなり改修されてわずかに原形をとどめる家や、完全に今風に立て替わっている家もある。基本は今も生活の場なのだから、現代的な生活の質を手に入れようとすると、駐車場や、エアコンや、サッシ窓は必需品だろう。「TOTOのリフォーム」作業中、などというのぼりがはためく家もあったりする。旅人のノスタルジアだけで町を眺めてはいけない。
この地は古事記の口承者として歴史に名を残す、稗田阿礼の縁の地である。稗田集落には賣太(めた)神社(航空写真の右下に見える杜)があり、稗田阿礼を祀っている。ここに語り部の碑というのがある戦前の創建によるものだと書いてある。いかにも... 記憶力抜群の阿礼にあやかって、この神社は学問の神様として地元の敬愛を受けているそうだ。
もともと稗田阿礼の一族、猿女族が古来より居住する土地であり、猿女族のルーツは古事記に出てくる天照大神を天岩戸から引き出す場面で活躍するアメノウズメノ命(漢字変換不能)だと伝承されている。ちなみに稗田阿礼は女性だったのでは、という説があるが、これはこのルーツ伝承に由来していると考えられる。
この稗田集落は古代の官道である下ツ道沿いに位置している(航空写真で、集落の左端を縦に走る道が「下ツ道」趾)。下ツ道は南の旧新益京(あらましのみやこ)藤原京から、北は平城京の朱雀門に直結する大道である。この辺りは朱雀門までわずかの距離である。奈良盆地を平城京のスケールでながめ直すと現在の奈良市だけでなく、大和郡山市が平城京内に入るので面白い。
2)若槻環濠集落
稗田集落から南へ下ると、大規模なアパート群、戸建住居群(県営稗田団地。濠は無いが現代の環濠集落だ)にぶつかる。これを通り抜け、中学校の真南に、若槻環濠集落がある。集落の入口に標識と立派な土蔵が立っているのでそれと知るが、掘割は確認しづらく、コンクリート製の細い水路となっている部分がそうであったのであろう、と推測する。それ以外は、田園にこんもりとした天満神社の杜と古風な家並が続く集落にしか見えない。もう一つ、変わった屋根の寺が見える。西融寺という真言宗の寺院だという。一向宗の寺院でない所が何を意味するのか... 謎解きは次回に。
この集落のルーツについてはあまり資料が残っていないようであるが、稗田集落と同様に、豪族の居館を中心に形成された環濠集落であったのだろうと言われている。集落に入ってもほとんど人に会わない静かな地域で、農村風景のなかの添景と言った風情だ。こういう所こそ探検し甲斐があるというものだ。
3)番条環濠集落
さらに南へ下ると番条集落がある。最初間違えて別の集落に迷い込んだ。こちらも古い民家と狭い道の集落であった。農作業している方に、「ここは番条集落ですか?」と伺うと「いや、番条はもっと西へ行って下さい,あそこに見える集落がそうです」と教えてくれた。しかし、ここもかつては濠に囲まれた環濠集落であったのだろう。いたるところにそういう雰囲気の集落がある所が大和らしくてよい。
ようやく番条に入る。稗田、若槻と違って、何処にもそれと知らしめる標識は無い。なぜなのだろう? こちらは南北に細長い集落で、佐保川を西に、菩提仙川を北に(航空写真参照)、かなり防御効果の高そうな位置取りである。と同時に、両方の河川を通じて難波から情報や物資やカネが集まる商流拠点ともなる地の利だ。良い所を押さえたものだ。
東から集落に入る一本道からは、かつての濠趾が確認できる。稗田集落のような、立派なコンクリート製護岸ではなく、細い水の流れが自然のまま残されている。こちらの方が想像力をたくましくして時空を超えるた中世の景観を心の中で再現するに都合がいい。集落に入ると、すぐ右手(北側)に造り酒屋がある。中谷酒造という。歴史を感じさせる佇まいだ。立派な門構えの建物と大きな酒蔵を配した造り酒屋である。利き酒が出来る、と書いてあるが、下戸の私には全く猫に小判。新酒を示す杉玉でそれと分かる。北のブロックはこの他に熊野神社がある。ここはかつての番条氏の居館趾とも言われている。しかし、南側のブロックの方が細長い道の両側にかなりの集積度で古民家が連なり雰囲気がある。
集落の中は、典型的な狭隘さと鉤の手になった見通しの利かない道筋で、防御性能を遺憾なく発揮している。建物は古風な大和棟や板塀、白壁の土蔵、立派な門構えに見越の松、といった、昔ながらの景観がよく残されている。西に佐保川の土手がそびえていて、街を見下ろす位置にあることに気付く。土手に登り、番条の町を望むとよく町割りが確認出来る。かなり大きな集落である事が目視出来る。
番条は中世に形成された番条氏の居館を中心とした、いわば城塞都市であったようだ。奈良時代から平安時代にかけては奈良の大乗院の荘園であったが、戦国時代に入って、大乗院方の番条氏が筒井順慶などと対立したり、和合したり、群雄割拠の歴史を刻んだ痕跡だ。いまはのどかな農村集落であるように見受ける。それにしても立派な家々にあらためて驚かされる。豊かな農村だ。
環濠集落は魅力的なタイムカプセルだ。その歴史を辿れば、権力者の著した「正史」や、壮麗な城郭や寺社などの建造物の遺構から知る大和とは異なり、歴史の流れを別の角度から垣間みることが出来る。しかも、それは遺跡ではなく、現代に生きる生活の場として継承されている。一方、古墳や、神社仏閣と異なり、なかなか保存運動の対象になりにくい文化遺産でもある。消えてしまわないうちに、これからも機会を作って,さらに環濠集落への時空旅を続けたくなってきた。
やはり奈良は奥深い... 私の時空旅に終わりは来そうにない。
(撮影機材:NikonD3s Nikkor AF Zoom 24-120mm f.4)