「曇のち雨」という天気予報に反して、良い天気になった週末。法隆寺の夢殿の秘仏、救世観音菩薩像の春の御開帳に出かけた。法隆寺は何度も行っているが、救世観音像のお姿を拝観するのは初めてだ。
この日は、観光客は意外に少ないものの、全国からの修学旅行生の団体でバス駐車場は満杯。山門前は各校の集合記念写真を撮る順番待ちで混雑していた。季節だし、定番コースなのだからまあ... しかし、これじゃあ秘仏公開も拝観者の長蛇の列で大変だろう、と少し引いていた。しかし、夢殿の救世観音の厨子を覗く小さな格子窓の前はそれほどの参拝客も居らず、やや拍子抜け。あんまり今日の秘仏開扉を知らない人も多いのだろう。特段「秘仏公開中」といった標識もなく、覗き込んでるオバちゃん達も「これが聖徳太子サンやて!なんやよう見えへんけど...」「アッチの桜がきれいやわ〜」と、わいわいにぎやかに通り過ぎてくれる。お蔭でユックリと拝観出来た。修学旅行の団体さん達は、ガイドの旗に従って,お行儀良く列を作って、夢殿の階段を上り、救世観音像の前に来ても立ち止まりもせず、チラ見で通り過ぎるだけ。渋滞無し。しかし、修学旅行ってなんなんだろう。多分、彼らは、法隆寺に来た事も、ましてや救世観音像をチラ見した事も、キット記憶となって残りはしないだろう。バスの中でガイドさんと歌った事や、宿で枕投げして騒いだ事は覚えていても。まあ修学旅行ってそんなもんさ。
救世観音菩薩像。それは法隆寺の寺僧すら拝む事の出来なかった絶対秘仏であった。法隆寺東院伽藍の八角仏殿、夢殿の本尊として祀られたのは、622年の聖徳太子の死後、約100年後の奈良時代の739年の事である。太子の死後,一族はことごとく滅ぼされて、太子によって607年に創建された法隆寺も,太子の居住地であった斑鳩宮も荒れ果ててしまっていた。これを嘆いた行信僧都が、法隆寺の再建と、太子の斑鳩宮の跡地に、東院伽藍夢殿の創建、救世観音像を祀ったというのが公式見解である。
しかし、この時代は、藤原不比等全盛の時代。時は平城京聖武天皇の治世で、不比等はその外戚として権勢を振るった。しかし、同時に、時の権力者藤原氏一族は、未曾有の災いに見舞われていた。一族の有力者が天然痘によりことごとく病死した。これは聖徳太子とその一族の呪いであるとして、これを鎮めるべく建立したのが東院伽藍であると言う。救世観音像は聖徳太子のお姿を映したものと言われている。仏というより生身の人間を写し取った立像、それを、祟りを封じるために八角堂である夢殿に押し込めたというのだ。以後1000年以上に渡って一度も開扉されない絶対秘仏として堅く「封印」されてきた。
そして、明治の時代、1884年になり、フェノロサ、岡倉天心による厨子の開扉を迎える。460mにも渡る白布でぐるぐる巻きにされて厳重に封印されて来た救世観音像が、いよいよ1000年の時空を超えて姿を現した。厨子の鍵を開けると天変地異が起こると言い伝えられ、恐れられていたので、開扉の時には僧侶が一斉に逃げ出したとのエピソードが残る。しかし1000年も封印されて来ただけに、保存状態がよく,最後の一巻きを払うと,そこからは観た事も無いようなまばゆい金色の観音菩薩が姿を現したという。今観ても金箔がよく残っている。フェノロサは、その神秘的な表情を「東洋のモナリザの微笑」と賛美した。
しかし、救世観音菩薩像は神秘のベールにつつまれた、むしろ不気味な存在として語られる事が多いようだ。その理由は,前述のような、東院伽藍創建にまつわる伝承や、1000年後の秘仏開扉時のエピソードによるところが多いが、その他にも、次のような救世観音菩薩像自体の特異性にもある。
救世観音菩薩はそもそも観音菩薩の中には列せられていないという。すなわち仏ではない、というもの。確かにその顔立ちは柔和で俗世離れした慈悲に満ち満ちた観音菩薩のそれではなく、鼻が高く、唇が厚く、生々しく人間くさい表情である。聖徳太子の姿を模したものではないかと言われる所以である。また、よく指摘されるように、その光背が直接救世観音の頭部に釘付けされている事も異様さを感じさせられる。当時の仏師がこのような工法を通常としていたのか? そこに呪いを封じる意味合いを読み取ろうとする解釈がうまれる。 飛鳥時代の創作(一説に634年?)であると言われているが、その由来や制作者についての伝承がない不可思議な観音菩薩像である。そして、聖武天皇の時代に、藤原氏によって創建された東院夢殿に安置されたといわれているが、それまでの100年間はどこに祀られていたのだろう。ちなみに、夢殿の八角形は天皇陵墓にも見られるように墓を表すといわれる。そのようなところに拝礼のために仏像を安置する事はないと言われている。
聖徳太子とその一族そのものが、神秘のベールにつつまれている事もあり、そこから、太子ゆかりの救世観音像にも様々な謎めいた解釈、想像、言い伝えがつきまとう。その代表が梅原猛氏の「隠された十字架」である。救世観音像は太子信仰のためではなく、聖徳太子の怨念を封印するために創造されたというのが氏の論点である。
確かに、救世観音は我々が慣れ親しんでいる後世の菩薩や諸仏の心安らぐ御姿、表情とは異なる。しかし、これは飛鳥仏に共通の、アルカイックスマイル、杏仁型の眼、厚めの唇、すらりとしたやや猫背の姿体である。法隆寺御本尊の釈迦三尊像や百済観音像とも共有するこれらの表情には,今の感覚からすると異様な印象を持っても不思議ではない。だからといって、それが直ちに「怨念」の表情に結びつくものだといえるのだろうか。
それにしてもなお、何故、太子没後100年余経た時代に、太子一族を抹殺した蘇我氏ではなく、その蘇我氏を滅ぼすのに貢献した藤原氏の一族が、太子の祟りを恐れ,その魂を鎮めるためとして、法隆寺の東院に夢殿を建立したのか。しかも、天平文化華やかなりし時代(752年には東大寺毘盧遮那仏開眼供養がとり行われる)に、100年以上も前の飛鳥仏「救世観音菩薩像」を、どこかから持ち出して祀ったのである。謎めいている。
薄暗い堂内の厨子におわします救世観音は身の丈が178cmというから、ほぼ現代人の等身大だが、意外に小さく見えた。お顔は飛鳥仏特有のアルカイックスマイル。確かに人間的なお顔立ちだ。金箔も美しく、とても1300年余の時間が経過した御仏とは思えないお姿。しかし、小さな格子窓の金網からは、献台や献花で全身像が見えないのが残念だ。本当は大宝蔵院で百済観音像と並んで拝観出来ると良いのにと思う。それでは秘仏の値打ちが無いのかもしれないが、呪い、祟り、恨みなどの仏の慈悲の世界にふさわしくない形容詞をかぶせられて、不気味がられるよりは、飛鳥文化の花、東洋の美の代表として親しまれるほうが良いのではないかと思う。
(撮影機材:Fujifilm X-Pro 1, Fujinon Lens 18, 35, 60mm)