立花家は、もともと九州の有力大名大友家の重臣であった。立花宗茂は、筑前立花城主の立花(戸次)道雪の娘で、8才で主家に安堵されて女城主(城督)となったギン(門構えに言)千代の婿養子として、高橋家から入った(あの岩屋城主高橋紹運の嫡男だ)。島津氏との戦いでの功績が豊臣秀吉に認められて、筑後柳川13万石の大名に取り立てられた。しかし関ヶ原の戦いでは西軍側に組したため、敗戦後は徳川から家臣共々領地を追われ,浪々の身になってしまった。替わって三河岡崎から田中吉政が入国し、現在の濠割を巡らせた柳川城下町の基礎を造ったと言われている。しかし、田中氏は跡継ぎが居らず、20年あまりの領地支配の後、御家断絶。徳川に恭順した立花氏が再び元の領地に入国するという異例の展開となった。立花家は幕末まで続き、明治維新後も柳川に留まり、現在の御花(旧立花邸)の当主である。こうしてことから最近は「敗者復活」「よみがえり」の聖地として若者に人気があるらしい。戦国ものの漫画、劇画の題材に取り上げられているためだ。
柳川は大きく、柳川城内、その東北に位置する柳河城下町、西の沖端町の三つに分かれる(添付の古地図は上下が東西方角になっているので、左上が柳河城下町、右下が沖端となる)。これらの町割りは現在も、掘割と小路でそれと確認出来る。柳川城内も掘割ではっきりとその範囲がわかるが、天守は現存せず、城壁もあまり残っていない。沖端は沖端川に面した湊町であったが,現在も沖端漁港となっている。
「御花」は観光の中心であるが、先程も述べたように現在も旧藩主立花家の邸宅である。堂々たる大広間を持つ屋敷と広大な庭園、松涛園、そして明治期に元藩主が好んで建てた洋館が、ここでも正門の向こうにそびえている。屋敷の大広間から眺める白亜の洋館は、妙にマッチしていいる。
北原白秋の実家は沖端に位置している。立花邸からそれほど遠くないところにあるが、この辺りは城下町というよりは、もう漁港の雰囲気である。近くには櫂や櫓を売る古い店があったが、今回行ってみると、きれいに改装されてお土産屋さんになってしまっていた。沖端漁港は、今はコンクリート護岸工事で整備されてしまったが、昔は、有明海の干満差の大きい港で、干潮時には泥底が露呈した上に多くの小型の漁船が乗り上げている光景が独特の景観を呈していた。昔ながらの風情をいつまでも残すという事は難しいものだ。ただ、木造の水産橋が、朽ち果てた橋脚をさらしていて、やつれ感を漂わせている(ちなみにこの橋は車両通行禁止。しかし、人は渡っていいようだが、何時崩落してもおかしくない有様だ)。
柳川といえば、うなぎのせいろう蒸しが名物だ。子供の頃、両親に連れて行ってもらって初めてせいろう蒸しを食べた事を覚えている。たしか若松屋という店だった。今も掘端にある。せいろう蒸しとは、せいろうにご飯を盛り,その上にうなぎの蒲焼きを乗せてタレをかけてフタをして蒸す。味がしっかりとうなぎとご飯に沁みてアツアツをふうふう言いながら食べる。うまい!なかなか東京や関西ではお目にかかれない。博多には中洲川端に店がある。名古屋のひつまぶし、なんぞというお茶かけて食うみたいなヤツはあちこちで目にするが、この柳川の伝統うなぎ料理はまだ全国区ではないのか。
しかし,それにしても柳川の水路,掘割は網の目のように街中に張り巡らされている。川下りの船はあちこちに乗り場があって、船頭さんの語り口を楽しみながら船下りを楽しむ観光客で賑わっている。このように,昔は水路が極めて重要な交通、輸送手段だった。河口や大きな河の支流や運河沿いに物流拠点として発展した町が全国あちこちに見られるが、ここも沖端川を経て有明海につながっていた。
現在の柳川市の玄関口は、西鉄天神大牟田線の柳川駅。福岡天神から特急で45分ほど。駅は観光の中心である御花や白秋生家のある地域からは離れているが、船下りの乗船場が近い。バスで行く手もあるが、掘割沿いにぶらぶら散策するのも良い。歌碑巡りしながら、船下りしてる人たちを岸辺から見るのも悪くない。柳川は先にも述べたように、よくその町割りと掘割が、今に至るまで珍しくも残された城下町なのだから、ゆったりと、小路や街道を巡るまち歩きが、実は柳川を知る一番良い方法なのだ。そこには隠れた「美」がここにも、あそこにも... 。
(撮影機材:FujifilmX-Pro1, Fujinon 18mm, 35mm, 60mm)