昭和51年に佐賀県が神埼工業団地の造成を始めるために地下を掘ったところ,このような巨大な弥生のムラ、クニの跡を発見したわけだ。その後、県は工業団地開発を中止し発掘調査と史跡としての整備に切り替えた。バブル真っ盛りの時期としては苦渋の決断であったのだろうが、バブル崩壊後、空白の20年が過ぎた今となっては正しい決断だった。観光資産の少ない佐賀県としては貴重なお宝が隠れていたわけだ。工業団地だと、今頃電力不足問題と、グローバル化に伴う生産の空洞化で、廃墟になっていたかもしれない。
現在、史跡公園として再現、整備されている環濠集落遺構や98棟におよぶ建物群は、集落が最盛期を迎える弥生後期、3世紀初めのものである。すなわち、あの魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の邪馬台国、倭国の時代である。当時の集落内にはおよそ300人が暮らし、周辺のムラを合わせるとクニ全体では約5,400人が住んでいたと推定されている。邪馬台国が8万戸、奴国が5万戸、伊都国が1.5万戸というから、それに比べると小振りなクニであった事になる。発見当時は、吉野ヶ里は邪馬台国ではないか,と騒がれたが、これはチクシ倭国のクニの一つであろう。美祢国ではないか,という説もある。
いずれにせよ、弥生時代後期の邪馬台国の時代のクニがこのような形で発掘され、当時の魏志倭人伝で描かれた倭国のクニやムラの姿が、より具体的なイメージとして捉えることが出来ることに興奮を覚える。奈良県の唐古鍵遺跡や、福岡市の比恵、那珂遺跡、須玖岡本遺跡等は、現代の都市化のなかで、その原型を留める事無く、かつ発掘も道路や家、ビルの建設改築工事にともなって、部分的にトレンチを掘って確認する事しか出来ないので、全体像を把握、可視化するのは容易ではない。それに比べると吉野ヶ里は奇跡に近い。
いよいよ中に入り,史跡を見学すると、水稲農耕を基軸とした弥生のムラ、クニの生産、流通、政治、祭祀、そして人々の生活の姿がコンパクトなジオラマのようにまとまっている。まず、逆茂木と深い壕と高い木柵に隔てられた環濠内、その入口の門には木製のトリが3羽ととまっている。奈良県の唐古鍵遺跡の望楼にも再現されている。青銅器祭祀具とともに何らかの霊的な意味があったのだろう。現在の神社の鳥居はここから来ているのだろうか。
南内郭は王の一族と有力支配階級の居住地区。木柵に囲まれ、高い望楼により防備を固めた一角だ。しかし,その住居は竪穴式住居で、意外に粗末。権力者であるが故に所有できたであろう鉄製品が出土していることから、王の家とされている。それにしても高床式の宮殿のような建物を想像していたのだが。
北内郭は政治、祭祀を執り行うクニの中枢地区。主祭殿は高床式の巨大な建物。このクニの中心的なランドマークだ。厳重な柵は、外から中の様子をうかがえないように板が隙間無く建てられており、さらに門から中へは曲がりくねった通路を通らねば行き着かない。ここでは農耕に必要な暦や作業を決めたり、祭祀を執り行ったり,王や有力者、周辺のムラの長等が集まり,クニの重要な意思決定が行われた。その際,物事の判断の重要な根拠となるのは、神懸かりとなって祖先の霊や神の意志を伝える巫女の言葉であった。すなわち魏志倭人伝に言う「鬼道」であろう。すなわちヒコ(男の王)とヒメ(女の巫女)による政祭一致の体制だ。
南には農耕に携わる人々の生活の場、ムラが。ここは壕等の特別な施設に囲まれておらず、竪穴式住居数戸に高床式倉庫という塊が散在する,日本各地で発掘されている一般的な弥生住居跡と同様の形式となっている。環濠の外側には赤米や黒米などの古代米の水田が広がっていた。
また生産物を保管したり、他のクニや外国との交易を行う倉と市の広場は、クニの富の蓄積と、流通による富の交換、新たな価値の創造が行われた重要な場所である。弥生の時代も後期になると、単に採集生活から定住農耕へ移行した時代から、生産手段の所有と富の占有、流通、交易、これを取り仕切る権力者、クニが出現した時代となった。ここはその事を示す場所である。
中のムラには、祭祀や農耕に必要な鉄器や青銅器、ガラスなどを生産する特別な技能を持った工人達がいた。多くは大陸から何らかの理由で倭国へ渡来したハイテク技能集団と、その倭国の弟子たちだったのだろう。
そして北の果ての郭外には、王が埋葬されたという北墳丘墓を中心とした甕棺墓地。この墓地と神殿は南北軸上にある。しかし、奴国や伊都国などのチクシ倭国でも見られるこの甕棺を主体とする集合墓の形式が,その後の北部九州で古墳へと繋がる痕跡は無い。少なくとも近畿大和地方に見られる3世紀の巨大古墳のイメージに繋がるリンクは見つからなかった。
こうして見ると、この吉野ヶ里環濠集落には、北には祖霊を祀る神聖な地、その軸上に祭祀を行う主祭殿、そして南に人民が住む一般居住地、という中国式の南北軸思想が現れているようにも思われる。大和の纏向遺跡の神殿跡とおぼしき建物が、三輪山/二上山を結ぶ東西軸上に配置されている事と対照的だ。なぜだろう。後の6〜7世紀の飛鳥の宮殿はみな中国式の南北軸配置に変わって行くのだが。
吉野ヶ里が、典型的な弥生後期の(倭国の時代の)ムラ、クニであるとすれば、纏向遺跡は(同時期の集落遺跡であるとしたら)かなり異様だ。方角もそうだが、環濠もなく、農耕の跡も無く、人々の生活臭は全く感じない。この弥生時代の環濠集落とはかなり趣の異なる遺跡だと感じる。また祭祀を行ったとされる主祭殿の形式も、吉野ヶ里と纏向ではかなり異なる。吉野ヶ里規模のクニでさえ,主祭殿は高床式の三層構造の巨大な建物であるのに、もしも纏向が邪馬台国の首都であったのだとすると、その神殿とされる建物は、柱も細く,低層の(簡素な?)建物である。むしろ後世の宮殿の建物(飛鳥の板蓋宮等のような宮殿を彷彿とさせる)の形式に近いような感じがする。
ところで、この吉野ヶ里のクニはその後はどうなったのだろう? ある日こつ然と姿を消してしまったと言われている。環濠は埋められ、耕作は放棄され、何らかの理由で住人がムラを捨てたようだ。奈良県の弥生遺跡、唐古鍵環濠集落は,その後も比較的長い間形を変えて、村落として続いたようだが、吉野ヶ里は何故姿を消したのだろう。新しい謎がまたわき起こってきた。
(吉野ヶ里公園HPより転載)
(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)
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