2013年10月31日木曜日

奈良盆地の原風景 〜古代奈良湖の残影〜

以前から不思議に思っていたことがある。近鉄奈良線に乗って生駒トンネルをくぐり、奈良まで行く場合の全線の高低差の話である。電車は上町台地の地下(大阪上本町駅)を出て鶴橋方面へやや下ると、あとは平坦な河内平野を真東に進み、やがて枚岡、瓢箪山、石切と急激に高度を上げて、生駒山の斜面をやや北方向に駆け登ってゆく。まるで登山電車並みの勾配を軽快に走る近鉄電車の醍醐味を味わえる区間だ。しかもここらからの大阪市街地の風景は絶品だが、その話はまたにして、やがて生駒トンネルをくぐると再び真東に進路を取り、生駒、東生駒、富雄、学園前と進む。しかし、生駒トンネルを通過すると不思議なことに電車は下降せずにほぼ水平に奈良に向けて快走する。あれだけの急勾配を登ってきたのに。と言うことは奈良盆地の標高は河内平野の標高より高い、ということなのだろうか?

早速調べてみた。奈良盆地の標高は40mから60mほど。一方、生駒山を隔てた河内平野のそれは1〜3m。やはりこれだけの高低差があるのだ。ちなみに上町台地は一番高いところが38m(大阪城のあるあたり)、天王寺あたりで16mだそうだ。生駒山は642m、二上山が517m、山辺の道の東にそびえる龍王山は517m、三輪山は467mである。奈良盆地はこれらの山塊に囲まれた比較的標高の高い盆地(上町台地よりは高い)であることを認識した。

現在の河内平野は、かつては河内湖、さらに時代をさかのぼれば上町台地(砂嘴であったという)を挟んんで瀬戸内海とつながった海水湖であった。したがって海抜が0に近いのも理解できるような気がする。やがては流入する土砂で湖底が上がり、干上がって平地になっていった。今は大阪のベッドタウン、日本の製造業を支える東大阪の町工場群、河内のおっちゃん、おばちゃんでにぎわうソウルフルな地域である。もはや河内湖の痕跡も面影もないが、上町台地か生駒山から展望すると確かにここがかつては海、湖であったとしても不思議ではない地形に見える。

一方、河内平野とこれだけの比高差がある奈良盆地には、かつて古代奈良湖があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は東西16km、南北30km、矢田丘陵、馬見丘などはあるものの総面積300平方キロメートルの比較的平坦な盆地である。今は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、王寺から亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目、すなわちあの二上山のある穴虫峠のあたりから高低差を一気に下り河内平野に流れ込んでいる。200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化で古代奈良湖の水が河内へ流出し始めたと考えられている。さらに、古代奈良湖は、縄文後期から弥生時代にかけて、地底の隆起や大和川からの流出増(これには農業のための人為的な流路変更も考えられるとする研究者もいる)などにより、水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。何時頃まであったのかの確認が研究課題となっているが、後述のように様々な考古学、歴史学上の事績、記述にもヒントが隠されているようだ。

なるほどこういう地形の大きな変遷があったのか。世の中にはこのようなことを研究しておられる先生方もいて、様々な研究成果が発表されている、特に最近は南海トラフ地震の被害想定や、海抜0メートル地帯である上町台地西側の大阪の中心部(難波八百八橋の水の都であった)や、東の河内平野(かつて海。湖であった)の防災対策、亀の瀬地域の大和川の土砂災害対策などの現実的な要請から、古代の地形変動に関する研究が盛んだ。また歴史学の視点からも様々な研究がなされている。私は研究者ではなく、通りがかりの「時空旅行者」なので、その詳細には立ち入らないが、太古の地形が歴史上のいくつかの出来事や風景描写、考古学的な発掘の意味を説明してくれている点はとても興味がある。

いくつかのエピソードを並べると、
⑴ 奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されている。それ以下には見つかっていない。やがて稲作農耕を主体とする弥生時代に入ると、弥生遺跡は標高40mでも見つかるようになる。すなわち、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯は肥沃な地味で稲作に適していたことから弥生人が定住し始めた証拠だと言う。湖畔に豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。
⑵ また、古代の山辺の道がほぼ標高60mの高さで山麓を南北に通っているのは、かつての湖や通行に支障のある湿地帯をさけて形成された証拠だと言う。当初は人々の頻繁な自然往来で踏み分けられた道であったのだろうが、その重要性から権力者により官道として整備されていったのだろう。その後平地に造られた上津道、中津道、下津道より時代をさかのぼる最古の官道と言われるゆえんだ、と。
⑶ 万葉集巻の一に舒明天皇御製の歌がある。
「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は」
この「海原」はかつて香具山の北にあった埴安の池のことを指している、と唱える万葉集の研究者もいるが、この池も埋め立てられて、今香具山に登っても海や湖はおろか,池もも見えない。6世紀当時ははるか北に奈良湖の姿があったのであろうか。だとすると山と湖と水田で満たされた盆地はさぞ美しい風景だったことだろう。
⑷ 斑鳩の法隆寺の南大門の前に鯛石という1×2メートルの踏み石が表面を露出させて埋まっている。地元ではこの鯛石まで水が来ても大丈夫と言い伝えられている。今見るとどこに水があるのか、という法隆寺界隈だが、創建当時は消滅寸前の奈良湖はこの斑鳩辺りに存在していて、創建時の斑鳩宮、法隆寺は近いところに建っていたのかもしれない。そうなると聖徳太子は飛鳥京へ毎日太子道を馬で通っていたとされるが、実は斑鳩からは船で飛鳥へ渡っていたのではないか。ちなみにこの鯛石のある地点の標高は50mで大和川の水位40mよりは高い位置にある。

たしかに地形的に見ても、歴史的に見ても、「古代奈良湖存在説」はあまり荒唐無稽な感じではない。現在の奈良盆地の150余の中小河川の大和川一局集中の地形を見ても、かつての大きな水源の存在の痕跡を感じることが出来よう。さらに稲作農耕中心の生産手段と富の所有分配という経済体制、政治的支配機構、社会システムが確立されていったヤマト王権の時代の下部構造には、こうした水運に役立つ古代湖や河川とそれに連なる肥沃な湿地帯、神の権威を感じる甘南備型の山に囲まれた「まほろば」すなわち奈良盆地(大和盆地)が無くてはならなかった。まさにそうしたステージの一角、山懐(山の処)すなわちヤマト(大和)にヤマト王権が成立していったと考えれば、やはりこの盆地の舞台設定は、箱庭的であるが、国家誕生の揺籃としてはパーフェクトな設定ではないかと思う。


(奈良湖推定図。この図によれば、縄文遺跡は水辺、湿地帯をさけて山麓の微高地に分布しているが、弥生時代の農耕集落(唐古鍵遺跡など)は湿地帯に分布している。面白いのは古墳時代から飛鳥時代の古墳や宮殿・宮都跡は稲作生産の拠点である水辺・湿地ではなく三輪山の山辺に分布している。やがては湿地の無い盆地南の飛鳥の地に遷っている。この図はネットの図形検索で出てきた図で、あちこちのブログで引用されている。しかし、いくら調べても出典が明らかでない。以前「近畿農政局のHP」に掲載されていたものではないかと思う。作者不詳だがよく出来ているので引用させてもらった)



(奈良湖から亀の瀬を通って河内平野に流出する大和川の構造を示した図。高低差がある分だけ、亀の瀬地区は古代より大和川の流水による地盤崩壊などの災害の多いところであったようだ。奈良湖は最後は斑鳩の辺りに小規模に残り、やがては消滅していったのだろう。これも上図同様、出典が明らかでないがわかりやすいので引用させてもらった)


(上町台地大阪城付近から展望した河内平野の今。高層マンション辺りが近鉄八尾駅前。かつてはこの辺り一帯は河内湖であった。二上山と左手の生駒山との切れ目あたりが亀の瀬、穴虫峠)



(山辺の道の背後にそびえる龍王山山頂から奈良盆地を俯瞰する。この一帯に古代奈良湖があったと言われている。正面が二上山、その右側の山稜の切れ目が亀の瀬、大和川が河内平野に流入する所だ。手前の緑は崇神天皇陵。他にも箸墓古墳、景行天皇陵など大型の古墳がずらりと並ぶ大倭古墳群)



(龍王山からの二上山の展望。右奥の山向うに,うっすらと河内平野の町並みが見える)






2013年10月15日火曜日

鎌倉 〜週末はカオスの迷宮〜

生活基盤を東京に戻してしまうと、やはり関西にいるときのように気軽に古代史への時空旅が出来なくなってしまった。特に週末の時間を有意義に使えない。これが一番のフラストレーションだ。関東には「鎌倉があるではないか」と人は薦める。確かに首都圏で一番歴史を感じるところと言えば鎌倉。鎌倉は若き日には彼女とのデートコースであったし、今は親戚縁者の住む町なので時々訪れる町だが、あまり「時空旅」と言う視点で散策したことがなかった気がする。意外に知らないところが多い。「そうだ,鎌倉行こう」しばらくは鎌倉を探検することにしよう。

 で、先日の源氏山、扇が谷、鶴岡八幡に続き、この連休、鎌倉初心者コース第二弾として高徳院の鎌倉大仏と長谷寺を訪ねた。しかし、時期を選ばないと鎌倉が静かな雰囲気の中で歴史を振り返り、思索を巡らすのにふさわしくない場所であることを、たちまち思い知らされる結果となった。

 その混雑ぶりである。まず、普段なら余裕で座れる横須賀線の電車は、休日の今日は品川から既に満員。鎌倉駅に到着すると、一本しかないホームは下車した人々の群れで身動きが取れない。上りの電車を待つ人とぶつかりながら改札へ出るのに押すな押すなの渋滞。ようやく江の電ホームにたどり着くと、今度は電車待ちの列がホーム下まで並んでる。なんと車両の乗降口を示すラインに沿って人が何重にもとぐろを巻いて待っている。一本目の電車には満員で乗れず。15分待って次の電車にようやく乗れたが、最近珍しいほどのぎゅうぎゅう詰め。長谷寺駅でなんとか人をかき分け降りると、これまた出口に向かって渋滞。改札を出るのに5〜6分ほどかかる。駅からの道は狭くてそこに車と歩行者が充満していてこれまた大渋滞。歩道など人がようやくすれ違い出来るほどしかない。当然車道を歩く人もでてくる。通りの両側は土産物屋がぎっしり...もうこれ以上記述したくないほどの大混雑。カオスとはこのことだ。長谷寺も高徳院ももちろん観光客でいっぱいだ。帰りはちょうどバスが来たので飛び乗り、一目散に鎌倉駅まで、と思ったが、甘かった。乗ったは良いが渋滞の中で立ち往生。動かない。鎌倉時空旅に最初から高いハードルが立ちはだかり、前途に暗雲が垂れ込め始めた。

 鎌倉という町は、三方を山と谷に囲まれ、海に面した狭い町だ。守るに容易、攻めるの難しい、そのような土地だからこそ武家政権が幕府を開設、統治の拠点に選んだ訳だから。しかし、首都圏3000万人の人々にとって、手軽に出かけられる「歴史の町」として人気があり、休日ともなればこの狭い町に電車や車でどっと押し掛ける。明治以降は、静かな郊外の住宅地、別荘地であった町だけに、町中は交通機関もそれなりのトラフィックしか想定していない。切り通しと狭い道が特色の町だし、人気の江の電がいい例だ。こののどかな海岸線を走る単線のローカル電車に、怒濤のように押し掛ける観光客を許容できるキャパはない。狭い土地で拡張の余地もない。元々そういう風に出来てないのだ。

 つくづく東京生活は、どこへ行っても大勢の人の波との戦いだ。移動も居住も食事も観光も休息も... 新幹線や高速道路が出来て郊外や地方の観光地へも簡単に行ける。それだけに軽井沢や富士山のようなリゾート地へ行っても人出だけは都心並みだ。シーズン中の京都の混雑も新幹線で2時間の首都圏からの人の流入が大きい。「心の休日」なんてキャッチコピーが心に響かない。鎌倉が世界遺産に選ばれなかった理由の一つに、この大渋滞問題があったとも聞く。鎌倉の住人にとっては迷惑な話だろう。

 という訳で、いきなり愚痴の方が先立ってしまい、長谷寺の十一面観音も高徳院の阿弥陀如来(大仏)も、その混雑ぶりの印象が強すぎる分、参拝のご利益が薄れてしまったような気もする。いや、雑踏くらいでめげていてはいけない。ただ、よくよく世俗の欲望と煩悩の沼に足を取られた私のような凡人には、仏の道は遠い。

(1)長谷寺の十一面観音立像(長谷の観音様)

 長谷寺の観音様は大和の長谷寺の観音様によく似た立ち姿で美しい。言い伝えではこの十一面観音像は奈良時代723年に二体造られ、一体を大和の長谷寺に、もう一体は海に流した。それが15年後に鎌倉に流れ着いてまつられたのが鎌倉長谷寺の観音様だと。しかし仏像の制作年代を測定してみてもこの伝承の真実性は疑わしいが、その由来、創建の歴史があまり解明されていない寺、仏像であるが故に、このような言い伝えが後世になって語られたのだろう。寺伝によれば長谷寺の開基は藤原房前、開山は徳道とされ、奈良時代の738年の創建とされているが、鎌倉時代から室町時代、江戸時代の建物や仏像が多く、中世以前の歴史は謎である。

 大和の長谷寺は、平安時代に入ると観音信仰の霊場として、都の貴族たちの人気スポットとなり、長谷参りが盛んになった。一方、鎌倉時代に開かれた武家の町鎌倉に何時頃から観音信仰が盛んになり、誰がそのブームを支えたのか興味深い。武家の町らしく臨済禅の寺が多い土地柄だし、また日蓮宗発祥の地で日蓮宗寺院も多い。鎌倉はあまり商業地や町人の住む地域の少ない政治都市であったので、庶民による観音信仰が盛んになったとしても鎌倉幕府滅亡以降、室町時代のことであろうか。ちなみに大和長谷寺は現在は真言宗豊山派の総本山。鎌倉長谷寺はどの宗派にも属さない単立寺院である。長谷寺からは由比ケ浜が展望出来る。海の見える古刹というのも鎌倉ならではだ。

(2)高徳院の阿弥陀如来座像(鎌倉の大仏様)

 一方、奈良東大寺の大仏様に並ぶ有名観光地である鎌倉の大仏様の方も、その創建の起源は謎に包まれている。創建時は真言宗、今は浄土宗である高徳院は、その開基、開山、時期を含めて不明である。大仏建立の由来についてもあまり多くの記録が残ってないと。吾妻鏡などいくつかの記録を寄せ集めてみると、創建当初は木造仏であったが、大風で仏殿もろとも倒壊し、再建したのが金銅仏である現在の大仏だとされている。やはり同時期に再建された大仏殿は、明応7年1498年の明応地震、津波で倒壊し、金銅仏のみが残った。以来500余年のあいだ露座のままとなったと言われている。

 大仏鋳造にあたっては、当時日本で産出量が少なかった銅の確保が課題であったと言う。結局、中国の宋から多くの銅銭を輸入し、これを鋳潰して鉛を混ぜて使ったと言われている。一説に一人の僧が勧進元となり民衆の喜捨による再建であったと言われているが、これだけの金銅仏を鋳造する技術、宋からの銅銭の大量輸入、やはり時の権力者、すなわち鎌倉幕府のイニシアティブとコミットメントがなければ出来まい。しかし、それらに関する記述は残されていない。いったい何のために誰が建立したのか謎なのだ。ちなみに、鎌倉の大仏様は阿弥陀如来だ。奈良東大寺は盧遮那仏を本尊とする華厳宗で、鎮護国家思想の下にいわば国家事業として聖武天皇により創建された官寺である。鎌倉の大仏様は、浄土信仰、阿弥陀信仰の盛んになった平安時代の以降の創建なのだろうか。

 ところで明応地震では、このように長谷が津波に見舞われ、大仏殿が流され倒壊している訳だから、今でも鎌倉の町は津波の警戒を怠ってはいけないということだろう。

 長谷寺も大仏様もこのように大勢の人が、大混雑をものともせずに押し掛ける有名観光地なのに、その由来、歴史的背景がこれほど解明されていないことも珍しいのではないか。長谷観音様は奈良時代、平安時代にさかのぼる「大和由来」に思える節があるものの、それを示すきちんとした記録が見つかっていない。東国の武家の都に、上方の都の歴史に起源を求め、その文化との繋がりと信仰を移植しようとした痕跡なのだろうか? 週末に鎌倉に押し掛ける群衆にとっては、きっとそんな曰く因縁などどうでもいいのだろうが。



Kannon

(鎌倉長谷寺の十一面観音立像:寺のHPから引用)

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(大和長谷寺の十一面観音立像:寺のHPから引用)


週末の江ノ電ホーム

海の見える寺長谷寺

鎌倉の大仏さま
高徳院阿弥陀仏如来坐像

このアングルで見るとすごく末広がりの安定感がある
上記の写真のフォルムとこんなに違うとは...

後ろ姿はどこか哀愁漂う

上空から見る鎌倉


スライドショーはここから→


 
 (撮影機材:Nikon D800E+AF Nikkor 24-120mm f.4)

2013年10月7日月曜日

Leica Mのライブビュー撮影 〜邪道と言われても〜

ここのところLeica M Type240の出番が非常に増えている。最近の「時空旅」のお供はもっぱらコレ。そして、ライブビューで撮影することが圧倒的に多くなったことに気づく。距離計レンジファインダー(ライカMのライカMたるゆえんである)はたまにしか覗かなくなってしまった。これはどうしたことか?結局ライカMにライブビューが加わったことによる「レンジファインダーカメラ」の革命的な使用感の変化と言わざるを得まい。熟練したライカ使いにとっては、ライブビュー撮影など邪道なのだろう。しかし、撮影結果を撮影前に目視確認できる便利さをいったん味わうと病み付きになることも事実。レンズの焦点距離の制約も感じずピント合わせも簡単... ライカ保守主義者はそれが怖くてライブビューを忌避しているんじゃあ?なんて邪推したくなってしまうくらいだ。
 
 「ライカMにライブビュー」は、マウントアダプターの世界(これも邪道の極みなのだろうが)にも大きな変化をもたらした。これまでマウントアダプターというと、ライカのL、MマウントレンズをAPSサイズセンサーのFujifilm XシリーズやSONY Nexシリーズ、マイクロフォーサーズのボディーに付けて撮るためのアダプターであった。それが逆になり、フルサイズセンサーのライカMがマザーボディーになる訳だから、天地がひっくり返るほどの驚きだ。ライカMにニコンやキャノン、往年の銘レンズであるアルパやヤシカコンタックス、ひいてはM42レンズを付けて撮ると言う撮影スタイルが可能となったのだからビックリする。これまで、距離計連動カムがあるレンジファインダーライカMでは考えられなかったことだ。

 ライブビューになったとたん、様々なライカの既成概念をぶちこわすことが出来ることとなった訳だ。すなわち、これまでのレンジファインダーライカMの制約から来るレンズの「三つの壁」を取っ払うことが出来る。(1)最短撮影距離1mや70cmという壁。(2)そして望遠レンズという壁。(3)さらにはズームレンズという壁。まるでフルサイズCMOSセンサーのミラーレスカメラになったようなものだ。

 早速、まずはKIPON製のアルパアダプターをゲットして、保管庫に眠っていた我が家のお宝レンズ、アルパ用のケルンマクロスイーター50mmを着けてみた。これは最短30cm、三分の一倍まで寄れる標準マクロレンズだ。スイス製の一眼レフカメラアルパでのみ、そのとろけるようなアウトフォーカスに酔いしれることができた。フィルム時代以来しばらくお目にかかることが出来なかった画像にライカMでお目にかかれるという。久しぶりの高揚感だ。

 ライカRレンズ用の純正アダプターもライカ社から出る予定だが、発売予定が、6月が9月になり、9月が11月になり、どんどん遅れているが... もっともM Type240自体が市場への供給が間に合わず受注停止状態だと言うから、Rアダプターを今出しても意味がないのかもしれない。何とも悠長な営業だこと。これでも顧客を失わない自信があるのだろう。ともあれ、このRアダプターが出ればRシリーズの望遠レンズやマクロレンズ、果てはズームまでMボディーで使用可能となる。これがライカ社の言う、Rユーザ対策だった訳だ。

 ちなみに、定番のL/M変換アダプターだが、従来のElmar, Summitar, Summicronなどの無限大ストッパー付きレンズ用の干渉対策を施した半月切り欠き型リングは、Mボディー側の6ビットコード認識窓を塞がないため、Type240では「レンズなし」と認識し、撮影が不可能になる。対策としては認識窓に白い紙、テープなどを当てる必要がある。黒光りした精悍な顔に絆創膏貼ったような何とも間抜けな面相となるが。今後ファームウエアーで改善してもらいたいものだが、これもものすご〜く時間がかかるのだろう。Rayqualなどサードパーティー製で、6ビットコードを自分で設定できる(いや、ただ自分で黒い塗料を入れるだけだが)ブランクコードつきL/Mリングが出ている。今わざわざこれを購入する気にはなっていないが。

 このように、保守的なライカユーザばかりではなく、ライカでもやっぱり便利なものは便利に使いたい、というデジタルカメラ世代のハイアマチュア層が形成されてきているのだ。こうして、ライカはMにこだわって距離計ファインダーにライブビュー機能を追加して、結局Mでなくしてしまったのかもしれない。このMはドイツ語のMessucher(距離計ファインダー)のMなのだから。しかしこうしたパラドックスが、またライカMを面白いカメラにしているのも事実だ。どうも製品の市場「合理性」は日本製デジカメのそれとは異なるようだ。しばらくこの底なし沼にはまり込んでみよう。




 (旅のお供はライカM。定番のズミクロン50mmとともに)




 (アルパのケルンマクロスイター50mm f.1.9をKIPONのマウントアダプターを介して装着。結構良い佇まいだ)




 (ライカM+マクロスイターによる絞り開放での近接撮影。ライカMのライブビューでこのような新らしい撮影の世界が広がる)

(参考文献)
オールドレンズ・ライフ Vol.3 (玄光社MOOK)オールドレンズ・ライフ Vol.3 (玄光社MOOK)
価格:¥ 2,100(税込)
発売日:2013-09-09