2013年11月23日土曜日

筑紫・出雲・大和 〜記紀と魏志倭人伝と考古学のミッシングリンク〜

 日本の古代史を解明するには,かなりの想像力と推理力を必要とする。なにしろ古事記、日本書紀(記紀)と中国の史書である漢書・後漢書、三国志の魏志倭人伝くらいしか、文字に書かれた古代倭国に関する文献資料は残されていないのだから。この他は鉄剣等に刻まれた文字、金石文を含む考古学的な発掘の成果による「物証」で史実を検証する努力が必要となる。考古学にも年代測定法等「科学的な」評価方法が導入されて,時代考証の科学的客観性が増したようだが、それでも遺跡や出土品の持つ歴史的意味等、想像力の働く余地はあまり減っていない。歴史学と考古学の成果を突き合せて考察する必要があるが,それにしても日本の古代史にはあまりにも空白部分が多すぎる。これを埋めるにはやはり想像力と推理力に頼らざるを得ない。

 そもそも3世紀に編纂された中国の三国志で記述されている倭国の状況と、7世紀後期に編纂された日本の記紀の記述にはほとんど繋がりが観られない。なぜなのだろう? 日本書紀の神功皇后の章に、わずかに魏志倭人伝の引用(一書に曰く)があることから、明らかに日本書紀の編纂者は、この400年ほど前に編纂された中国の史書の存在を知り,読み込んでいたはずであるが、ほとんどの魏志の倭国に関する記述は無視されている。このわずかに現存する二つの歴史書ですら繋がらない。ミッシングリンクはまだ見つかっていない。これが日本の古代史を推理小説もどきの謎解き話にしてしまっている理由の最大のものの一つだろう。さらに日本の古代史において重要な役割を果たしてきた筑紫、出雲、大和の関連性にも謎が多い。なぜなら、魏志倭人伝には筑紫に存在するクニグニについての詳細な記述があるが、出雲、大和に関する記述は伝聞に基づくものか、位置についても不確実なものだ。一方、記紀では国家創世期における出雲,大和に関するストーリーは(神話という形であるが)詳細に語られているが、特に出雲神話が全体の三分の二をしめる。筑紫については、時代を下ったヤマト王権の勢力下の一地方としての記述しかない。

 いくつかの疑問をランダムに書き出してみる。

1)記紀には素戔嗚尊(スサノオノミコト)、大国主命を主人公とした出雲の記述(出雲神話)と、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天からの降臨とその子孫神武の東征話(日向神話)は記述されているが、筑紫(北部九州)の記述が少ないのはなぜ?国家創世期のストーリーであるとしている神話の世界に「筑紫神話」は存在していない。

2)記紀では、なぜ「まつろわぬたみ」隼人の支配地域である筑紫の日向(南部九州)が天孫降臨の地とされたのか?何故出雲の大国主命が大和に國譲りをしたのに、天津国からニニギノミコトがわざわざ日向の高千穂に降りてきたのか(日向神話)。なぜその子孫、神武が日向から東征して大和に入った、というストーリーが必要だったのか?

3)さらにその日向から東征して大和に入ろうとした神武軍は、大和在地の強力な抵抗勢力に阻まれて苦戦している。なぜ出雲の「國譲り」で安定したはずの大和に、別の天孫降臨族である邇邇芸命とその子孫の神武が侵攻しなければならないのか。そもそも、先住の強力な在地抵抗勢力とはどういう勢力なのか?その抵抗勢力の長であるニギハヤノミコトも、河内に天の磐船で天下ってきたもう一つの天孫降臨族である事になっている。どうもストーリーが錯綜しているように思えるが...

4)一方、魏志倭人伝に記述されている筑紫の国々(ツマ国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国)、そして邪馬台国(既知のようにその位置が九州なのか近畿なのか不明であるが)、その女王卑弥呼に関する記述が記紀には見えないのはなぜか?また後漢書東夷伝に記述のある、金印(志賀島から発掘されている)を受けた「漢委奴国王」とは誰なのか?

5)考古学上、筑紫には、吉野ヶ里遺跡や奴国須玖岡本遺跡などの大規模かつ広範囲のな弥生集落(クニ)の存在が確認されているにもかかわらず、記紀の記述にその痕跡も無いのはのはなぜ? 特に北部九州は考古学上明らかに弥生稲作文化最先進地域(板付遺跡、菜畑遺跡のような最早期の稲作地跡、大規模な環濠集落(クニ)、甕棺墓、鉄器製造、大陸との強いつながり)であったにもかかわらず、記紀にそのような歴史認識が見てとれないのである。

6)日本書紀の神功皇后の章に記述のある、「魏書にいわく倭国女王の遣使」はなぜ挿入されたのだろう?これは日本書紀の編者は中国の三国志の存在を知っており、編纂にあたり読んでいた証拠である。なのに、それ以上の邪馬台国に関する記述は日本書紀には反映されていない。引用を意図的に避けたのだろうか?

7)記紀における筑紫(北部九州)に関する記述は、宗像三女神がアマテラスの子孫であること。景行天皇、その子日本武尊の熊襲征伐。仲哀天皇、神功皇后の熊襲隼人征伐、三韓征伐、応神天皇の筑紫出生、筑紫国造磐井の乱、斉明天皇・天智天皇の百済救援、白村江の戦い、水城、大野城、基城構築、といったヤマト王権の支配が筑紫地方に及んだ話しの記述しか無い。なぜ?

8)中国の史書に倭国関連の記述が途絶える「空白の4世紀」に倭国に何がおこった? また何故,中国において倭国の記述が途絶えたのか?

 3世紀に編纂された中国の三国志、その魏志倭人伝における倭国と、それを構成する伊都国や奴国等の北部九州のクニグニ。その盟主であったとされる邪馬台国,その女王卑弥呼。敵対国である狗奴国に関する記述は、2000字ほどの文章ながらも生き生きと当時の倭国の情勢を伝えている。しかし、7世紀後期の日本の天武天皇により編纂された古事記、日本書紀におけるヤマト王権の歴史を語る正史の中には、先述のように、この邪馬台国も卑弥呼も全く触れられていない。まるでヤマト王権とは無関係なクニ、事蹟,歴史であるかのように。北部九州を中心とした筑紫文化圏、王権の存在は無視され、むしろ熊襲や隼人といった南部九州のヤマト王権に「まつろわぬ」国、日向が天孫降臨の地であり、初代天皇である神武が東征に出た地であるとしている。いわば夷荻の跋扈する地こそヤマト王権、皇統のルーツの地であるという。

 最近、岩波新書から「出雲と大和」という興味深い本が出ている。著者は村井康彦氏で国際日本文化研究センター名誉教授という学界の重鎮である。本の帯にもあるように「邪馬台国は出雲勢力が立てたクニである」とする。そして、出雲勢力は大和へ進出した(國譲り)が、日向から攻め込んできた新しい勢力(それを神武東征というストーリー化した)に滅ぼされた。これがヤマト王権の起源である、と。したがって邪馬台国とヤマト王権に連続性は無い。だから記紀には邪馬台国も卑弥呼も登場しないのだ、と。興味深い考察だ。学界の顕学が何故今このような大胆な説を発表したのかよくわからないが、私の疑問はこれでもいっこうに解き明かされない。即ち、魏志倭人伝に出てくる筑紫(北部九州)のクニグニの位置付けに関する考察は依然として抜けているからだ。なぜ筑紫は日本の歴史書から、いわば抹殺されたのか...

 ミッシングリンクを解明する旅はまだまだ終章に近づいてはいない。一つの章が終わると、その次に,さらなる暗闇が広がる。終わりの無い時空旅が続く。日暮れて道遠し。



(福岡空港を南方向へ離陸すると,すぐ右手(西)に日本最古かつ最大の弥生稲作環濠集落遺跡、板付遺跡が見えてくる。この南には奴国の王都であったと言われる岡本須玖遺跡や鉄器製造コンビナートであった比恵遺跡などが連なっている。大陸との窓口に位置する北部九州筑紫は、倭国の最先進地域であった。)