2014年6月8日日曜日

「尊王攘夷」はなぜ日本の近代化スローガンだったのか?



 明治維新は、鎖国政策を基本とした旧弊な幕藩体制を倒して、近代的な国家を建設しようとした動きだと捉えられている。その運動の初期のスローガンは「尊王攘夷」であった。しかし、「尊王攘夷」はどう見ても近代的な国家建設のための政治経済社会体制の変革を進める「革命」のスローガンには見えないではないか。極めて保守的で国粋的なスローガンである。「尊皇」とは日本古来からの天皇を尊び、(天皇の臣民でしかない)武家の幕府政権を倒そうというスローガン。一方、「攘夷」は外国人を排除し、鎖国を継続すべし、というもの。ナショナリズムそのものだ。

 明治維新の英訳は「The Meiji Revolution」ではなく「The Meiji Restoration」だ。決して「革命」ではない。あくまでも「復活」である。なんの「復活」なのか?「王政復古」なのだ。1200年前、ヤマト王権がようやく確立した、いわゆる「大化の改新」、天武持統帝の天皇親政の時代に戻した、という事だ。で、「尊皇」スローガンによる「倒幕」は達成できた。しかし、「攘夷」はどうであろう?

 16世紀、スペイン/ポルトガルに始まる大航海時代の波は、19世紀になると、新興のオランダ、イギリス、フランスといった西欧列強諸国によるアジアの植民地化にまで進んでしまった。日本がスペイン/ポルトガルなどカトリック国から国を閉ざす鎖国をして250年もの平和を楽しんでいる間に、いつの間にか周りからスペイン人もポルトガル人もいなくなり、世界は様変わりしていた。

大和五條の天誅組本陣跡
幕府五條代官所を襲撃するが
鎮圧され壊滅する
しかし、時の政権担当者であった徳川幕府は、必ずしもただ「太平の眠り」についていたわけではなく、現実的な世界情勢の収集、分析が出来ていたと思う。少なくとも京都の公家よりは日本を取り巻く現状の認識があった。外国船を追い払い、鎖国政策を維持したいが、もはやそれも時間の問題だ、と。特に清朝中国の現実、衝撃的なアヘン戦争の結末、欧米列強によるアジア諸国の植民地化。日本沿岸に押し寄せる外国船と海防の必要性。押しとどめることの出来ない西欧優位の近代化の流れ。徳川幕府はそれ等を良く認識していた。長崎という狭い窓ながら情報はかなり入って来ていたし、日本近海に出没する外国船の実態を見れば嫌でも分かった。

 一方、京都のお公家さんたちは、そうした現実から隔絶され、あるいは眼をそらし、古来からの「有職故実」に明け暮れる世界から一歩も出なかった。幕末に海の外で起こっている現実にも、出来れば関わりたくない、という消極的姿勢で貫きとうしていた。孝明天皇の「異国嫌い」「鎖国継続」に象徴される空気が京都に横溢していた。「京に異人を入れるやなんてもってのほかや」が究極の本音であったろう。最後の最後まで「攘夷はいつやるのや?」と十五代将軍慶喜に外国人排斥決行を迫っていた事実からも,「とにかく異人を追い払え」であった。それが「攘夷」であった。

 一方、幕府も現実を見た開国方針が拙速で、世論をうまく纏めることが出来なかった。幕府はペリーとの日米和親条約締結にあたって、「朝廷の勅許」などという責任転嫁を画策し、それが間に合わず締結が先行したので、国内保守勢力、すなわち「尊王攘夷」勢力は倒幕へと向かった。それに対する弾圧(安政の大獄)が、さらに「尊王攘夷」の火に油をそそいだ。開国は時代の流れであったが、もちろん幕府はすでに米中心の重農主義経済終焉に直面し、それに伴って財政破綻に瀕しており、新しい世界秩序に対抗するのに旧態依然たる幕藩体制ではどうにもならないことは自明である。いずれ倒幕につながるのは避けられなかっただろう。

 特に、江戸時代末期のこの時期には下級武士層の徳川幕藩体制への憤懣は臨界点に達していたから、彼等にとって、全く住む世界の違う人々であっても、天皇や朝廷、その側近集団である公家が長い歴史の中で,政治の世界からすっかり遠ざかり、京都で歌舞音曲、詩歌をたしなむ生活に日々を過ごすようになって久しかろうとも、幕府に替わる政権交代スローガンとして「尊皇」を旗印として掲げる。自らが「勤王の志士」となる事に何の躊躇もなかった。そして、その皇祖神天照大御神を頂点とし、その子孫で万世一系の天皇が連綿と統治する世界に稀な「神國日本」を蹂躙する夷狄(外国人)を排除する。「攘夷」を「尊皇」と不可分の旗印とすることは何も不思議な事ではない。政治スローガンとは,国内の矛盾と外からの脅威を分かりやすく言い表す「四文字熟語」のようなものだ。

長府にある高杉晋作像
長州藩内の勤王派クーデタ
「回天義挙」の碑も近くにある
先に述べたように、「尊王」はもともと天皇の征夷大将軍,即ち武家の棟梁で在る徳川氏の幕府政権を倒し、大政奉還させ、日本古来の天皇中心の政治体制に戻す、すなわち「王政復古」(restoration)である。天武持統天皇時代の天皇親政、公地公民、律令体制に戻すことだ。天照大神を皇祖神とし、記紀の神話を史実とした神国日本の再現だ。江戸時代後期の国学の流行により、分国化された藩とそれを束ねる幕府(幕藩体制)という構造から、ようやく日本(ひのもと)という国家としてのアイデンティティーとナショナリズムを意識し始めた事が大きく影響している。この「王政」は、維新後制定された明治憲法で、天皇を国家の主権者とする立憲君主制(英国式ではなく、プロイセン式の)という形をとることで、太平洋戦争に敗北するまで生き残った。

 一方、「攘夷」は、まさに夷荻(野蛮な外国人)を排除する、早くいえば排外主義だ。清国の義和団などと通じる国粋主義的なスローガンだった。鎖国の方が良い,と言ってる訳だから、開国交渉などもっての他である。欧米列強の帝国主義植民地化により独立を失ったアジア諸国の実情を見るにつけ、神国日本の心ある志士たちの心情はそうであっただろう。しかし、そういった後ろ向きの排外主義では,もはや通用しない事を認識させられることになる。やがて「攘夷」は西南雄藩の開明的な君主や若き武士たちによって修正されて行く。特に薩英戦争や,馬関戦争で「攘夷」が頑迷固陋で非現実的なスローガンである事を身を以て体感し、やがて西欧列強に追いつけ,追いこせ、「富国強兵」「殖産興業」という「近代化」に向けたスローガンへと変換してゆくことになる。「日米通商修好条約」締結では遂に天皇の勅許が降り、「攘夷」の名目も無くなった。

長州の前田砲台を占領するフランス軍。
長州藩の「攘夷決行」は、
四国艦隊との圧倒的な力の差を見せつけられて挫折する


 しかし、古来より日本人のDNAとしての「異なる人、モノ」に対する警戒感、外来思想に対する違和感と、排除の心理がぬぐい去られた訳ではない。稲作農耕文化の伝来、仏教伝来、キリスト教伝来、西欧文化伝来、黒船来航、敗戦、日本はシルクロード交易の時代においても、大航海時代でも、常に「文明の終着点」であった。文明が頭の上を通過して行く事はなく、入ってくるものは国内に留まる。だから都合の悪いものは、はじめから入れないようにしなくてはならない。また都合良く入って来たものは自分たちが古来から守って来たものと矛盾が生じないように咀嚼改変する。ある意味で自分流にマネージすることで独自の世界を守って来た。まさに外来文化の「受容」と「変容」の歴史である。

 明治維新以後の近代国家化のなかで「攘夷」という排外主義スローガンは表向きは消えていった。むしろ、「近代化」とか「欧化政策」というスローガンに変えたとたん、「舶来」を積極的に導入し、新たな解釈を加え、日本化して我がものにして行った。しかしその背後には依然として「内」と「外」、「国内」と「国際」の二元論が生きている。そして、常に「攘夷」をモヤモヤとした暗黙知とする「国内派」が近代化を主導するのである。経済、市場がグローバル化している今日ですら、「外国かぶれした危険な国際派」をある時は利用しつつ、イザとなれば排除しながら良いトコ取りする。そういう「国際化」だ。常に「国内」ロジックが優先される。もちろんどこの国でも多かれ少なかれ事情は変わらない。国を開かねばならないが、自国の経済も守らねばならない。一国の経済規模が大きければ大きいほどその傾向は強いので、ある意味では致し方ないのかもしれない。しかし、今の日本はそういった「内なる攘夷」が歪んだナショナリズムと結びつき、再び「内なる鎖国」に向う恐れはないのか。「内向き思考」という反グローバリズムが。