2014年8月15日金曜日

2014年終戦の日 新益京(藤原京)の時空旅 〜讃良大王(ささらのおおきみ)(持統天皇)の維新大業の足跡をたどる〜

 終戦の日、澤田瞳子「日輪の賦」読了。同氏の作品「泣くな道真」に次ぐ2冊目だ。読み応えのある分厚い書き下ろし歴史小説だが一気に読み終えた。2冊ともタイムスリップ感が味わえるワクワクするような作品だ。

 物語は、7世紀の倭国。讃良大王(ささらのおおきみ)すなわち持統天皇の、いわば「日本建国」という時代を背景に、建設途上の新益京において律令編纂事業を行う撰令所、法令殿を舞台とし、それに関わる(推進勢力・抵抗勢力)諸々の階層の人々の姿を生々しく描いている。古代史的興味から読み始めたが,最後はサスペンスとしての興奮と、時代を超えて愛すべき人々の姿に涙した。

 女帝である讃良大王(持統天皇)の建国事業の歴史は、父である葛城王・中大兄皇子(天智天皇)、夫である大海人皇子(天武天皇)の遺志を継ぐもので、天皇中心の中央集権国家建設、大国にふさわしい律令国家の創設、という三代に渡る闘争の歴史である。

 この時代、すなわち7世紀半ばは、古来から倭国(弥生稲作農耕から発生した「ムラ」「クニ」の連合体たる「倭」)の成り立ちの基礎となって来た氏族/豪族制、私地私民制から、天皇制、公地公民制へ、という政治改革、社会改革、経済改革が進められた時代である。さらには私地私民制の根幹にある倭国古来の「八百万の神々」から、「天照大神」を皇祖神とする「神々の体系化」を行い、一方で外来の思想である「仏教」を、国を治める統合の思想「鎮護国家の思想」と位置づける「思想・文化革命」も行っていった。その重要な果実の一つである「大宝律令」は701年、持統天皇の孫、かるの皇子(文武天皇)の時代にようやく発布される。そうして、国号を自ら名乗ったわけでもない「倭」から日の出国「日本」と変えた。これは単に国号変更にとどまらない。「明治維新」の原型たる、いわば「大宝維新」が成し遂げられた瞬間である。まさに「日本建国」と言ってよい。

 もちろん、そのプロセスが平坦なものではあり得なかった事は容易に想像出来る。旧来からの氏族・豪族という私地私民制に依拠した既得権益層からの猛烈な抵抗のなかでの「維新」である。さらにそこへ、同盟国百済の滅亡、唐による倭国本土侵攻の危機という倭国を取り巻く国際情勢の緊迫である。大きな出来事だけでも次の事件がある。

1)まずは、645年の宮廷クーデターである「乙巳の変」(「大化の改新」と称せられたが、後述のように、この事変をもって改新が完了した訳ではないことから最近ではこのように呼ばれる)である。大王家と姻戚関係を持ち、政権中枢で権勢を振るっていた蘇我一族を滅ぼして「改新の詔」を出す。しかし、これは「維新」の始まりにすぎなかった。

2)次は、663年の集団的自衛権行使「白村江の戦い」である。同盟国百済救済のために朝鮮半島に出兵。唐・新羅連合軍との戦争に大敗を期し、倭国の半島に置ける権益を喪失する。やがて迫りくるであろう唐・新羅の倭国侵攻に備え、太宰府・水城建設、防人の徴用、西国の防衛力強化、首都の飛鳥から近江移転まで果たす。いわば外圧に対抗する軍事力強化策が国策となった。。

3)そして、674年の古代史最大の内乱である「壬申の乱」である。いわば軍事中心の近江朝政権から内政中心の飛鳥朝政権へと政権交代を果たしてゆく。百姓(民)、豪族は対外戦争と遷都事業に駆り出され疲弊していた。ここから「日本建国」事業が始まる。

 こう見るとまさに激動の7世紀である。日本建国の世紀である。明治維新の原型、「大宝維新」である。

 倭国内における氏族/豪族の争いという「内憂」と、朝鮮半島における権益の喪失、唐・新羅による、倭国侵攻への恐怖という「外患」が、大王の権力集中、国家体制の強化の試みの大きなモチベーションになったのは不思議ではない。やがて大陸の大国に負けない中央集権的国内統治体制の確立、そのための抵抗勢力封殺が、中期的な国家の安全保障目標となった。やがて国号を「日本」と改め、律令制を敷き、天皇制を確立し、天皇即位ごとの元号を定める。 いわば国家の「近代化」に一気に突き進んだ。

 そのモデルは唐の統治機構、なかんずく律令体制である。「日輪の賦」で描かれているように、唐から帰った留学生、学者や外交官が律令編纂に従事した。また百済からの亡命渡来人が大勢いたので、彼らの知識や技能が役立った。単に唐の律令をコピペするのではなく、倭国の実情にあった形に咀嚼し、策定する作業は、681年の天武天皇の詔から20年を要した。そして、その律令制定により既得権益が失われてゆく抵抗勢力の妨害も凄まじかった。その様子が生々しく描かれている。

 一方で、新しい国家「日本」の正史である日本書紀も、「天皇」の記である古事記もみなこの時に編纂された。天照大神を皇祖神とし、天孫降臨族の正当な子孫としての「万世一系の天皇」という思想はこの時出来た。豪族/氏族に共立されていた大王(おおきみ)が、彼等の上に立つ天皇(すめらみこと)として国家を統治する正統性、権威を歴史的に証明(?)してみせたのがこれらの歴史書である。明治維新後の皇国史観はこのときに編纂された記紀がその根拠であり、天孫降臨神話も神武天皇東征も神功皇后三韓征伐もこの時代が生みだしたストーリーであることを知っておく必要があろう。

 一方,これは、中華帝国、その皇帝(天帝)の他に,もう一人天帝が東アジアに出現したという事を宣言したものでもある。すなわちこれまでの中華帝国への柵封朝貢国家「倭」から,独立した国家「日本」を樹立した事を宣言したものだ。白村江の敗戦と唐の倭国侵攻の危機を乗り切った後に,急ぎ国力を充実させ,国家体制を整備して「大宝維新」を成就させた。

 歴史は繰り返す。日本という国の歴史的な転換、パラダイムシフトには必ず、海外からの脅威が背景にある。やがては脅威であったその外国に学び、国の「近代化」を果たすことによって生き延びてゆく、これが日本という国の「歴史観」であろう。7世紀の「大宝維新」は19世紀の「明治維新」のモデルとなった。武家政権・幕藩体制から天皇への大政奉還は、すなわち「王政復古」なのである。明治新政府の太政官・神祇官などという官制は、なんとこの大宝律令時代のそれの復活なのだ。

 19世紀に、西欧列強の脅威に対抗して国家の近代化を指向するなかで、1200年も前の日本の古代の統治制度を復活させるという歴史的皮肉に、永年続いた武家政権、封建制度からの脱却の困難さを思うばかりである。倒幕の理念としての尊王攘夷だけではなく、強力な中央集権国家のモデルイメージとして大宝律令時代の天皇制、皇国史観を引っ張りだしてきたところが日本という国の歴史の妙であろう。一つの権力を倒し、新たな権力を打ち立てるには、古からの「権威」regitimacyが必要であった。まさに「王政復古」Meiji Restorationなのである。

 ここで、「激動の7世紀」、「激動の19世紀」の共通点をいくつか拾ってみよう。

1)国号変更:
倭から日本(ひのもと)へ ⇒ 日本から大日本帝国へ

2)中央集権:
氏族・豪族体制から天皇中心の中央集権体制へ ⇒ 幕藩体制から天皇中心の中央集権体制へ

3)外圧:
唐の侵攻の脅威 ⇒ 欧米列強の植民地化の脅威

4)内戦:
対外戦争から国内体制の安定化優先への政権交代(壬申の乱) ⇒ 倒幕内戦(戊辰戦争)から不平士族反乱鎮圧(西南戦争等)まで

5)統治機構:
私地私民制から公地公民制、氏族・豪族の臣民化、官僚化 ⇒ 藩籍奉還、秩禄処分(武士階級の廃絶)、華族令(藩主の皇室藩屏化)、官僚制整備(帝国大学による官僚育成)

6)法治国家:
大宝律令発布(人治国家から法治国家へ) ⇒ 大日本帝国憲法発布(西欧流立憲君主制)

7)遷都:
新益京遷都(近代的国家に相応しい首都建設) ⇒ 東京奠都(近代国家にふさわしい首都建設)

8)政治思想と統治理念:
記紀編纂。皇祖神天照大御神創出による天皇支配の正当性 ⇒ 皇国史観による政治、社会,教育。廃仏毀釈(後に文化財保護視点から廃止)

 しかし、天智天皇、天武天皇、持統天皇による天皇中心の中央集権国家体制、律令体制も、奈良時代末期から平安時代には、ほころび始め、天皇家と姻戚関係を持つ藤原一族の支配(摂関政治)へと移り、律令制も何時しか崩壊してゆく。さらに平安末期の武家の棟梁平清盛に始まる武士階級が政権をになうようになり、途中,幾度か天皇親政を試みる動きはあったものの、将軍(天皇が与えた官位である征夷大将軍)が国を統治する時代が、江戸末期まで700年も続くことになる(権威は天皇,権力は将軍という二元支配体制)。

 明治維新の国家統治理念は、基本的には上記のように大宝律令時代の統治理念を復活させようという「王政復古」であり、再び天皇中心の中央主権国家が生まれたわけであるが、そのわずか77年後の1945年の大日本帝国の敗戦により、天皇が主権者という統治構造は崩壊する。かわって、国民(律令時代風に言えば「百姓(ひゃくせい)」)を主権者とする、すなわち民主主義という新しい国家統治理念がもたらされる。明治の王政復古で主権者の地位に返り咲いた天皇が、外国に国土を占領され、独立主権を奪われるという形で主権者の座を降りるという(戦後は象徴天皇制として残ったが)、日本開闢以来未曾有の出来事であった。そして、この戦争は近隣諸国に甚大なる被害を与えただけでなく、320万人もの国民同胞(百姓)が犠牲になった戦いであった。白村江の戦いの比では無い。かつて唐の侵攻を防ぎ、元の来寇を博多で食い止め、南蛮人の野望から鎖国で国を守り、西欧列強の植民地化にも対抗して独立と国土の安全を守ってきたこの国は、なんと外国に占領され、6年間独立を失った。20世紀になって歴史に大きな汚点を残した。ついに民を、国土を守れなかった。この歴史の重みを知るべきだろう。このことを忘れてはいけない。

 新益京について以前書いたブログ:新益京(あらましのみやこ)


大和三山を包摂する新益京

新益京藤原宮大極殿跡。背後には耳成山

大極殿の基壇跡

夏の睡蓮
夏は睡蓮畑になる藤原宮跡
背後には畝傍山

藤原宮跡から見る香具山

大極殿跡から真南、朱雀大路の先に夏雲が

元薬師寺。夏はホテイアオイ畑になる



元薬師寺金堂基壇跡

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