2014年11月25日火曜日

なぜライカMにはズームレンズが無いのか? ~ライカMでズーム使いたい人に~

 ライカMにはズームレンズが無い。何故? 「何を今更。そんなのあたりまえだろう。光学レンジファインダー(距離系連動ファインダー)カメラにズームは無理。しかも単焦点レンズの画質を維持できないズームは不要」。そんな自明の問いに答える必要なし的な、ケンモホロロの返事が返ってきそうだ。

 後者は、かなり言い訳っぽく聞こえるが、ライカはとにかくズームレンズを造ってこなかった。かつて存在したライカの一眼レフカメラRシリーズ向けに、ズームのラインアップが用意されていたが、これらは日本のメーカー(シグマ、ミノルタ、京セラ)からのOEM。しかも概して高評価ではなかったようだ。確かに28−70mm標準ズームは歪曲収差もかなりのもので、ちょっと引いてしまう代物。よくライカ社がライカブランドで市場に出すことを認めたなと思う。それくらいライカ社にとってズームはどうでも良かったんだろう。

 ようやく自社製造で本格的なズームレンズを出したのは、コンパクト機X Varioが最初だ(中判一眼レフのSシリーズは別に)。これはなかなか良いレンズだ。デジタルになって収差や周辺光量の補正がボディー側で可能になったこともあり、ライカもようやくやる気になったのだろう。さらにミラーレスカメラであるTシリーズ向けに標準ズームを世に問い、年明けには広角ズーム、望遠ズームをリリースする予定(もっともいずれも日本製だそうだ)。しかし、いずれもMマウントではなく、フルサイズフォーマットでもなく、APS-Cサイズフォーマットでコンパクト、ミラーレス用だ。

 そもそもライカはM用にはズーム出す気はないようだ。いやいやMにはトリエルマーがあるではないか。28、35、50mmと、広角寄りの16、18、21mmの2種類がラインアップされている。しかし、これらはリニアに焦点距離が変化する「ズームレンズ」ではなく、3つの画角を選択する「3焦点レンズ」だ。

 まあ言葉の定義はどうでも良いが、レンジファインダーカメラでは、焦点距離、画角の移動に伴い、フレームがリニアに変化するファインダーなんぞ無理なのだ。この時点でレンジファインダーの限界を認識して方向転換を図る、なんてライカ社でもない。徹底的にレンジファインダーにこだわる。

 そこで1997年にリリースされたトリエルマーは、レンズ側に連動カムによってファインダーのフレームを50mm,35mm,28mmと切り変える機構を搭載した。これはすごいアナログでメカニカルな仕掛けだ。レンズの後部を見るとカムを動かすバネが見えている(壊れない事を祈る)。しかし、どう見ても一眼レフ+高倍率ズーム全盛時代に対抗するための苦肉の策にしか見えない。しかもこの機構だけで大きなコストアップ要因になっているだろう。現にその市場価格は並外れている。あくまでもレンジファインダーに固執するとこうなる。最近の発売になる広角系トリエルマーになると、そもそも内蔵ファインダーの画角外(28mmが限界)なので、そんな複雑な仕掛けは無くなったが、そのかわりとてつもない外付けファインダーを用意した。画角をダイアルで選択する。視差をダイアルで調整する。大きさはちょっとしたコンデジ並み、価格はミラーレス機並み!!M9ボディーに乗っけたその姿は「怪物」だ。とても軽快なスナップシューターとは言えない。ライカMの抱えるジレンマ、矛盾を体現したような様になる?別の見方するとライカ社の、土台はそのままにして「なんとかならんか」と苦闘,工夫するアナログでメカメカした解決策が楽しいともいえる。

 しかし、時代の潮目は変わりつつある、一眼レフですら、ミラーレスの台頭という挑戦を受けている。レンジファインダーで世界チャンピオンになったライカ。その挑戦に一眼レフという答えで打ち勝ち、ライカを抜いて世界チャンピオンになったニコン。そしていま、ミラーレス、ライブビューの登場だ。そう、ライブビューを導入したM Type240では、もはやそのようなレンジファインダーの限界、制約は無くなったはずだが、それでもMレンズにズームのラインアップは考えてないという。マクロレンズの開発や70cmの最短撮影距離を短くする予定もなさそうだ。ライブビューを取り入れてもなお、あくまでもレンジファインダーが主、ライブビューは従。どうしてもズームが欲しけりゃX,Tを買えってことのようだ。そこがライカだ。頑固だ。かつての商業的敗北(と思っているかどうか)を挽回できる絶好の機会が到来したにもかかわらずだ。あくまで自分で出来ることを大事にしつつ、クラウンジュウェルのレンジファインダー方式という「伝統の味」を守って行くつもりのようだ。毎度のコメントだが、「伝統」と「革新」のライカ的両立モデルを見守ってゆこう。



 そうはいっても旅先やスナップにズームは便利だし、デジタルになるとレンズ交換の度にほこりの侵入を気にしなくてはならない。なんと言っても最近のデジイチのズームの性能は格段に良くなっている。「なんとかMでズーム使えないのか」という懲りないライカ異端者の方々に付ける薬として、次の処方箋を:


1)ライカ社純正トリエルマーという手。

① M Tri-Elmar f.4 28,35,50mm ASPH

 M6フィルムカメラ時代の1997年から売り出され,今はディスコンになっている。中古市場でも常に品薄状態。出て来ても価格は新品価格よりもはるかに高いプレミアプライス。前期型(フィルター径55mm)と後期型(フィルター径49mm)があるが、レンズ構成(非球面レンズ2枚)は同じだ。それぞれの画角とも単焦点レンズに負けない高解像度はさすがだが、50mmで逆光ハレーションが出るのが気になる。かなり深いフードが必要だ。


初期型(フィルター径55mm)。
広角側でわずかにタル型の歪曲が認められるのと、50mmでフレアーが出やすく、逆光に弱い。
しかし各焦点距離とも単焦点レンズ並みのきわめて良好な解像度。
f値が4と暗いのと、最短撮影距離が1mであることを我慢すれば、とても便利なスナップシューター。
作例1:
28mmで撮影。少しタル型歪曲があるが,単焦点レンズと遜色ない写りだ。
作例2
50mm 開放F.4で撮影。
最短撮影距離が1mという「老眼」なので寄れない。
またSummicronやSummiluxのようにはボケないが、立体感は出ているし,解像度はなかなかのものだ。
作例3
50mm F.5.6でやや逆光気味に撮影すると結構ハデなハレーションが出る。
推奨フードは24mm用と共通のものだが、もっと深いフードが要る。
しかし,此の場合良い感じの効果を出してくれている。

② M Tri-Elmar f.4 16,18,21mm ASPH

 2006年、デジタル時代になってからの発売だが、M8,9の内蔵ファインダーではカバー出来ないし、ライブビューもなかったので、こんな(写真のような)外付けファインダーを併売している。ファインダーだけでも10万円という超高価レンズ。Type240になってようやくライブビューとEVFが使えるようになり、頻繁に持ち出せるレンズになった。インナーフォーカスや、焦点距離を替えると前群と後群が別々に動くなど、非常に凝った機構を持つ。これだけの広角でも、歪曲や周辺光量が極めて良く補正されており、隅々まで解像度の高い高性能レンズである事に疑問の余地はない。


M9に外付けファインダー載っけるとこのような凄まじい出で立ちになってしまう。
Type240のライブビュー(+EVF)であればすっきりした使い勝手の良い広角レンズとなる。
レンズ自体は歪曲も少なく周辺光量落ちも少ないきわめて優れたレンズだと思う。

作例4:
16mmで撮影。遠近感の強調に良い効果を出してくれる。解像度、諧調も抜群。
周辺光量不足も見られない。これは凄い事だ。驚愕のレンズだ!
作例5
18mmで撮影。狭い室内をパンフォーカスで撮ることが出来る。

作例6
21mmで撮影。素直な画造りが出来る。ライカらしいトーンも好きだ。


2)M Type240に純正RアダプターでR Vario-Elmar 28-70mmを装着するという手。

 このレンズはライカ一眼レフの廉価版R-Eとの組み合わせで1990年発売された。設計はライカ、製造は日本のシグマ。ライカにしては価格も安価である。初期型と後期型がある。初期型はフード内蔵型。しかしこのフードがスコスコですぐ引っ込んでしまうし、ピントリングを回すとレンズ前玉も回転するのでPLフィルターが付けられないなど、造りがしっくり来ない(発注元スペックのせいで、シグマのせいではないと思う)。後期型ではフードはねじ込み式に変更されたが、レンズ前玉は相変わらず回転する。ピントリングの回転トルクは改善され、ルックスもライカらしくなった。しかし、このレンズの難点は歪曲収差。28mmではタル型、70mmでは糸巻き型の歪曲が結構顕著。周辺光量も落ちる。これらを厭わなければ、ライカ純正で固めるこのソリューションは、ライカ正教徒にとっても納得のいく手だろう。はっきり言って、あんまり高い評価のズームレンズとは言えないが。

R Vario-Elmar 28-70 f.3.5-4.5(前期型)
内蔵フードがスコスコ。
撮影中すぐ引っ込むので役に立っていない

R Vario-Elmar 28-70 f.3.5-4.5(後期型)
フードはねじ込み式になった。
ルックスもライカらしくなりMとのバランスも良い。



 3)Mをあきらめ、ライカの他のシリーズを使うという手。

 Mレンズはスッパリ諦めましょう、XシリーズとTシリーズのズームがあるじゃないか、と割り切る手もある。案外合理的なソリューションだ。APS-Cサイズセンサーで、Xはレンズ固定のコンパクト、Tはレンズ交換式のミラーレスであるが、T シリーズも基本はXを踏襲しており、どちらのズームもデジタル時代に相応しい秀逸な出来だ。コンパクトでクセがなく良い結果をもたらすコストパフォーマンスの高い優秀なズームレンズだと思う。単焦点レンズ並みの高画質で3本のレンズを合わせた価格よりは安いのだし。もっともライカにコストパフォーマンスという評価基準は似合わない気もするが。使い勝手についての詳細は以前のブログを参照いただきたい。

① X Vario Vario-Elmar 28-70mm:Leica X Varioの使用感

② T Vario-Elmar 28-80mm:Leica Tの使用感


 最後に非純正Mマウントアダプターで他社ズームレンズを、という手があるが、これではもはや「ライカのズームで撮る」というボトムラインを踏み越えてしまうので、ここでは紹介しないでおこう。

 ここまで書いて、どこぞから「そんなにズーム使いたけりゃ、ライカMに手を出すなよ!」というライカ原理主義者の一喝が聞こえてきそうだ。


2014年11月19日水曜日

あの日、夕暮れの都府楼にブルートレインを見送る

 首都圏を襲った台風は、美しい夕景を残して東の海上へ去って行った。窓からその深い青に覆われ始めた空のその一部を茜色に染める残照を眺めていると、新幹線が西へと長い光の点を明滅させながら疾走して行く。博多行きの「のぞみ」だ。ふとあの日の、あの光景が脳裏にフラッシュバックした。40年前のあの日...


 青春時代。筑紫の国大宰府都府楼。刈入れの終わった田園風景。すっかり秋も深まった天拝山に沈む夕陽。無実の罪で太宰府に左遷された菅原道眞公が京の都の帝を遥拝したその山のシルエットを背景にブルートレインが駆けてくる。「ピョー」っと悲しい汽笛を鳴らしながら、ヒンヤリした空気を切り裂いて東へ走り去って行く。西鹿児島発の「はやぶさ」だ。明日の朝には雑踏の東京駅に滑り込むんだ。過ぎ去って行く赤いテールランプとヘッドマークを見送りながら。夢と可能性に満ち満ちた東京へ。彼女の待つ東京へ。こんな所でくすぶってないで新しい世界へ飛び出すんだ!俺の居場所はここにはない。日常世界からの脱出。上昇志向。ハングリー精神。滾る若い心。怖いものは無い。高度経済成長真っ只中の時代の田舎の少年のきわめて単純な思考回路。

 大学は東京、と何の迷いもなく決めていた私にとって、時代の激動はそれを許さなかった。学園紛争もクライマックスを迎えたその年、その大学では入学試験を中止せざるを得なくなるという前代未聞の出来事がおこる。で、両親や恩師など周りの説得で地元の大学を受験することになった。私は受験の前年には病気して一年休学しているし「無理するな。ちょうどいいじゃないか。何も東京へ行かなくても」という説得。「取り敢えず地元大学へ入っとけ。嫌ならまた受験し直せばイイんだよ」という気休めの説得。が、そんな事にはならない事を知った。結局、同様に学園紛争真っ只中の地元の大学に入学し、荒れ果てたキャンパスに5年通った(在籍した)。その結果、生涯の良き師、良き友をたくさん得ることが出来たことは幸いであった。人生はどこでどのように変わるのかわからないものだ。こうして波乱の学園生活を終え卒業。いわば5年の執行猶予期間を経て東京へ。今の会社に入った。

 あれから40年。東京どころかロンドン、ニューヨークを拠点に、世界を股にかけたサラリーマン人生であった。成熟した欧州諸国をくまなく歩き廻った,貧困と金満が併存する発展著しいアジアを歩いた。広いアメリカを飛んだ。英国留学も果たし、authenticとquality of lifeという大人の生き方を知った。いろんな人と出会った。尊敬できる人も、できない人も。しかし、皆一様に自分の人生を必死に生きている。世の中の「最高」も「最低」も観た。「外からの視点」を持てるようになった。文化、価値観の多様性を左脳、右脳に刻み込んだ。青二才も打たれ強い性格になった。会社では良い上司に出会った。良い仲間にも恵まれた。そして米国法人の社長にもしてもらって、本社の役員にも取り立ててもらった。会社の、そして業界の有り様を決める仕事もさせてもらった。それなりのサラリーマン出世コースを歩いて来れたと言って良いだろう。もちろんいろいろな挫折もあったし、理不尽に泣いた事もあったが、総体としては会社への貢献と自己実現との両立も出来たように思う。幸運に恵まれた。思えば遠くに来たもんだ。あの時の彼女とも一緒になれて、子宝にも恵まれ、東京23区(田園調布ではないが)に我が家を持ち、幸せな家庭を築くことが出来た。二人の子供達もそれぞれの路へ巣立って行った。そして今年は遂にジイジになった。なんと幸福な人生ではないか...


 我が家の窓から夕景のなかを西へ疾走する新幹線を見ている自分がいる。憧れの東京へ疾走して行ったあの時のブルートレインの勇姿と重ねながら、気がつくとサラリーマン人生も終わりを迎え、老境に一歩を踏み入れた一人の男がいる。ふと、都会の生活に負けたわけではないのだが、なぜか急に望郷の念がわき起こる。充実した人生だったのだが、ふとそのなかで何か大事なものを忘れて来たような、失ってしまったものがあるような気がして、妙な寂寞感を感じている自分。夕闇迫る静寂な時間と空間のなか...

 がむしゃらに走ってきたサラリーマン人生は突然終わりを迎える。時計の針が0時をさすように、なんのためらいもなく自動的に。これからは、誰かがあなたの時間の使い方を決めるのではなく、あなた自身が好きなように決めていい。これからは私のスケジュール表を管理する有能な秘書もいない。貴重な時間を浪費させるイライラするようなヤツもいないし、ツマラナイ会議もない。時差調整に悩まされるロングフライト出張もない。だから、好きに時間を使って人生を楽しめば良い。「自分の時間を会社に売って対価を得る」というサラリーマン型人生モデルは終わったのだ。ご卒業おめでとう! さて、急にそう言われても...  周りはこれからは趣味に生きろ、という。しかし、趣味は本業が忙しいから趣味になり、息抜きになるのだ。毎日趣味で暮らせ、と言われると、今度はそれが本業になり、ストレスになりそうだ。これってサラリーマンの生活習慣病だ。

 取り敢えずこれから心落ち着けることのできる自分の居場所はどこにあるんだろうと考える。毎日通う「勤務先」もなくなる。私にとって東京は戦いの場であった。そして世界へ撃って出るベースキャンプだった。その限りでは刺激的で生き生きと心を滾らせる格好のステージであった。ビジネスで付き合った人の数は知れない。パートナーもライバルも... 名刺の数は整理しきれないほど。しかし、その人脈はこれからの人生に役立つのか。所詮gesellschftの人のつながり。金の切れ目が縁の切れ目、「肩書き」に用事がなくなって行き来が無くなった人の数の方も半端でない。しかし、戦線を離脱してみると、戦場に安らぎの場などあるはずもない。猛烈に突っ走っていた自分が、突然急ブレーキかけて前のめりに転びながら、高ぶっていた気持ちがだんだんクールダウンしてくるにつれ、東京の殺伐とした日常から脱出したい。気がつけばそんな心境になっている。突然の帰国命令でニューヨークから帰ってから過ごした関西での5年間の生活は殺気立った戦闘モードを冷ますには十分な期間だった。その中で煮え滾る心とは別の安らぎを愛でる心が芽生えたことに気付かされた。大和路、京都、そしてナニワというヤマト倭国の世界。さらにその時の彼方にあるチクシ倭国の世界。我がふるさと。世界を駆け巡ってふと日本に帰ってみると、なんとここは素敵な国なんだと。


 そして久しぶりに故郷、筑紫(チクシ)を訪ねる。ここは倭国・日本(ひのもと)発祥の土地であった。今まで気付かなかった美と安らぎがあちらこちらに潜んでいる事に気付く。あのとき、しゃにむに脱出を試みた故郷。若い時には目もくれなかった海の美しさや田園の豊かさ。食の豊かさ。人の暖かさ。歴史の厚み... あのとき顧みなかったもの、打ち捨てて来たものが今頃になって、あちこちでキラキラと輝いていやがる。なんともったいない事をしたんだろうと感じる。人生のなかで時を重ねることによっても見えてくるもの、感じることが出来るものがあることに気づかされる。そうだ故郷へ帰るか? いやいや、ああして故郷を出て行った私にとって居場所はあるのだろうか。故郷の人達にとって故郷を捨てた人間に差し伸べる手はないに違いない。遠くを旅して、長い旅路の末に今頃になって妙に里心がついた自分には厳しい故郷の現実が待っているのだろう。すっかり大都会に変貌してしまった我が故郷、福岡/博多の雑踏の町角に立って見回すと、辺りは見知らぬ人ばかり。ここがあの幼少期から青春時代を過ごした故郷なのか。ふと見ると我が手には玉手箱が... 夢の竜宮城でもらった玉手箱が。開けてはならぬ玉手箱が。

 自分の居場所を日常の中に見いださず,いつも非日常のある場所を夢見る自分。現実逃避なのか。いや、そういう日常に満足せず埋没しないハングリーな心が、これまでは戦いの原動力であったのだが。しかし、今聞こえてくるのは、「今いる所で生きなさい」という声。「故郷は遠きにありて思うもの 帰る所にあるまじや。」と室生犀星は歌う。じゃあ、まだなにかお役に立てることがあるはずだと執着してみる。しかし退役老兵が、戦いの続く戦場に立ち尽くしながら、便便と自分の居場所を探す。この勘違いは悲しい。「老兵はただ去り行くのみ」。「I shall return.」じゃなくて「a point of no return!」。葛藤と不安が行き交うこの人生の通過点。明日の夢に繋いでくれた、あのブルートレインはもうない。夢とは不可逆なものだ。これから私を待っているのは心の居場所を求めて彷徨する人生なのだ。それを受け入れるもまた良しだ。


最後のブルートレイン。故郷と東京を繋ぐ夢の架け橋はもう今は無い。


西へと疾走する新幹線。あのとき夕景を切り裂いて東へ疾走していったブルトレの勇姿と重ねながら眺める。


2014年11月13日木曜日

日本最古の都市 博多 〜博多遺跡群が語り始めた二千年都市の諸相〜

 博多は古代より現代に至るまで,栄枯盛衰はあれ、2000年有余、途切れる事なく続いた日本最古の都市である。しかし意外にこの事を知る人は少ない。日本のどの街より長い歴史を持ち、その繁栄の記憶を今に伝え、さらに未来に向けて発展してゆく街である。日本という国家の発祥の地と言って良い。飛鳥古京や平城京は歴史の舞台から姿を消し、千年の都、京都よりも古く、江戸開府四百年なんて若造は足下にも及ばない。他にこのような都市が日本にあるだろうか。

 1977年、福岡市営地下鉄建設工事に先立って、大々的な「博多遺跡群」の調査が始まった。福岡市という発展著しい大都会の地下に眠っている「博多」の複合的な遺構の全容解明にとって、地下鉄工事は千載一遇のチャンスであった。これを契機に、30余年になる今でも博多地下都市の発掘は続いている。想像通り日本の成り立ちを解明するために不可欠は情報が閉じ込められた遺跡群であることが分かってきた。3メートルも掘ると弥生時代の奴国の遺跡にぶち当たる。さらに掘ると縄文時代の集落跡が出てくる。弥生時代のムラ、クニ、古代奴国、筑紫太宰の外港那の津、中世博多、近世太閤割の博多、江戸期の黒田藩政下の博多と重層的に遺跡が出現する。3メートルの地層に2000年の都市の歴史が重なるまさに時系列的タイムカプセルである。皮肉な事に、歴史の中に打ち捨てられ、自然に還ってしまった街であれば,発掘はそれほどの困難を伴わなかったであろう。佐賀県神埼郡で見つかった吉野ケ里遺跡のように広大な環濠集落が田圃の地下にそのまま「弥生のクニ」として封印され,それをほぼ完全な形で掘り出す事も出来た。しかし、博多は現在を生きる活気ある街だ。どんどん新しいビルが建ち,地下鉄が掘られ、高架道路が建設され。考古学者には悩ましい環境に存在する遺跡群である。それだけに今を生きる博多の全容解明を進める意味も大きい。博多の歴史が重ねて来た時間とその重みを思い知らされる。またそれは日本の成り立ちの歴史とともにあった事を思い知らされる。


発掘調査地点。徐々に分かってきた博多浜、息浜の町割り
(福岡市教育委員会報告書より)

住吉神社に奉納されている絵馬
南北が逆さだが、冷泉津、草香江津が描かれ、博多浜、息浜の町割りが描かれている。
中世以降の博多の地形とは大きく異なる

江戸時代、福岡黒田藩制下の博多
博多の町割り(太閤割)が綺麗に残っている。
現在の山笠の流れもこの町割りに基づいている



 博多2000年の歴史を駆け足で振り返ってみよう。

 紀元前に稲作農耕文化が大陸から伝わり,弥生の時代が始まったのも此の地だ。日本列島最古の稲作農耕遺跡、板付遺跡は今も街中に保存修景されている。そのすぐ近くには紀元前一世紀頃の奴国の工房遺跡、都市遺跡である比恵遺跡が、その南の春日丘陵には奴国の王都跡、王墓跡と考えられる須玖・岡本遺跡が見つかっている。さらに100年ほど時代を下ると中国の史書、後漢書東夷伝に「倭」の「奴」という国が登場する。記述よれば、現在の博多にあった奴国の王は西暦57年に後漢の光武帝に使者を送り「漢委奴国王」の金印を受けている 。これが文字に書かれた最初の博多の歴史、すなわち倭国の初見である。また魏志倭人伝には3世紀、奴国には二万戸あったとしている。倭国の大国で、邪馬台国,と投馬国に次ぐ戸数である。また、中華王朝の動乱や朝鮮半島三国の争いなどによって大陸からの多くの人々の移入、渡来があった。まだ倭国にとって「世界」とは朝鮮半島、中華文化圏という東アジア世界が全てであった時代のことである。

 飛鳥,奈良時代になると、近畿地方の飛鳥京、平城京に権力基盤を置くヤマト王権があ出現し、北部九州の筑紫を支配下に置くようになる。ヤマト王権は地域支配の拠点である屯倉や大陸への窓口としての筑紫大宰を設けるようになる。那の津/博多津はその外港として重要な役割を果たす。律令制が確立するにつれて、博多津は太宰帥(律令官制としての太宰府長官)が直接管理する交易都市として、遣唐使の出立地、唐物輸入の窓口など、外交窓口、国際貿易港として繁栄する。湾頭に設けられた筑紫鴻臚館はその中心であった。一方、大陸情勢が緊迫すると,大陸への出兵拠点、逆に大陸からの侵攻を防ぐ防衛拠点としてもその役割を果たした。

 平安時代に入り,徐々に律令制度が崩れ始め、朝廷の直轄機関である大宰府による官製貿易、外交防衛機能が弱まると、今度は都の権門や貴族の荘園や寺社を中心とした私貿易が盛んになってゆく。特に博多における交易から上がる莫大な富と貿易利権に着目したのが平家の棟梁、平忠盛。その子清盛は、平家繁栄の基盤として南宋貿易を独占すべく、自ら太宰大弐の官職を求め、博多に大型の宋船が入港できる人口港「袖の湊」を整備したと言われている。

 鎌倉時代に入ると、多くの華僑が博多津に移り住み、南宋杭州出身の謝国明のような冒険的海商が博多に拠点を設け唐房/大唐街(すなわち中華街)を形成する。そして博多綱首として、いわば総合商社のような役割を果たし日宋貿易を一手に仕切る。博多遺跡発掘では大量の陶磁器や輸送用の壷、宋銭が見つかっている。日宋貿易が盛んであった様子を物語る遺物は、中国の杭州や寧波でも多く見つかっている。そこには「日本国太宰府博多津」の文字が。元寇では、元・高麗軍は博多・太宰府をめがけて来寇し、博多は戦場となり、灰燼に帰す。しかし華僑の財力でたちまち復興する。此の頃,中国からは禅宗が伝わり、栄西の聖福寺、聖一国師の承天寺が博多に建立される。これらの巨大寺院の建立にも博多綱首の存在が欠かせない。うどん、ういろう、茶、そば、饅頭、博多織の原型となる絹織物などが伝来したのも、この頃の博多だ。

 室町時代になると、勘合貿易による明との交易が始まり、博多には日本人の豪商が現れる。しかし明は倭冦対策や国内事情から一種の鎖国政策をとり始め、かつての中華思想にもとずく朝貢貿易の形を要求するようになる。足利義満が「日本国王」の称号を得て天龍寺船を出したり、南朝の征西将軍懐良親王を「日本国王」に柵封したりして、遣明船を受け入れたのはこうした事情による。しかし、宋、元の時代のように博多綱首や商人による私貿易は以前程活発な交易が期待出来なかった。そこで朝鮮貿易や、琉球との中継貿易を通じた南方貿易も博多商人が手がける。一方、京に近い堺が都の外港としての役割を果たし始めると博多と競い合う。しかしこの頃から日本全体としての交易は活発になり、自治権を得た博多・堺の両都市は益々発展する(自由貿易競争は良い事だ)。また16世紀後半、大航海時代に入るとポルトガルやイスパニアなどの南蛮船がしばしば日本に漂着ないしは来訪するようになり、やがて南蛮貿易が始まる。当時日明貿易(勘合貿易)が明国の一種対日鎖国政策(倭寇問題が原因と言われる)のため、朝貢貿易の形態をとり、かつ日本には数年に一度の「朝貢」しか許さないという状況であった。そこにマカオを拠点とするポルトガルが両国の間を取り持つ中継貿易という形で参入し、巨額な利益を上げた。なんとポルトガル本国の貿易を上回る利益を上げたとも言われている。また。ポルトガルは16世紀末に発見された石見銀山の豊富な銀産出量(南米ポトシ銀山が発見されるまでは世界一の産出量であった)を獲得するために、明や朝鮮、安南、ジャワなどの産品と日本の銀とを交換する貿易が活発となる。石見銀山の開発に力を注いだのは、博多の豪商神谷宗湛であった。

 戦国時代には,博多の貿易利権を巡って周防の大内氏や豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏や薩摩の島津氏などの守護大名、戦国大名らがお互いに争い、博多は再び戦場となり灰燼に帰す。やがて豊臣秀吉が天下統一を果たすと,石田三成、黒田官兵衛が博多の町を復興させる(太閤割り)。再び神谷宗湛、島井宗室、末次平蔵、大賀宗久などの豪商が活躍する「博多黄金の時代」を迎える。此の頃イエズス会宣教師も博多に来て布教活動を始めるが、極めて大都市で裕福なので布教しにくい都市だと記している。後にキリシタン大名黒田氏が国主となると博多には教会が建てられる。黒田如水の葬儀は壮大なキリスト教式であったと言う。大航海時代後半の覇者であるオランダやイギリスで発刊された地図には平戸Firado、堺 Sacayと並んで博多Facataが記載されている。太閤秀吉は、ポルトガルのフスタ船で博多湾から復興した博多の街を視察した後、姪の浜でイエズス会宣教師コエリョと多いに歓談したと伝えられている。しかし、秀吉はこの姪の浜会談の数日後に博多でキリスト教禁教令を発布している。なにがあったのだろう?

 やがて徳川氏の江戸時代になるとキリシタン禁教令、鎖国となり、1500年以上続いた国際貿易港、博多はその栄光の歴史の幕を降ろさざるを得なくなる。「博多冬の時代」の始まりである。江戸幕藩体制下では、博多に代わって肥前長崎が唯一の海外への窓口となる。新たに黒田氏の城下町の一部となった博多は、海外貿易に携わった商人の一部は長崎に移り、あるいは黒田氏の御用商人となって、国内流通を担う五箇浦廻船事業に携わるなど、筑前國府福岡城下の商都博多として発展の道を歩み始める。

 明治維新後の開国、近代化の中で、博多はかつての国際貿易港としての輝きを取り戻す事は出来なかった。近代化を目指して欧米列強諸国との交易の時代を迎えた日本にあっては、博多のように朝鮮半島や中国大陸に向いた日本海側の港よりも、太平洋側の港湾が脚光を浴びる時代となっていた。したがって開国時の開港地には旧来からの長崎のほか、神戸、横浜、函館が選ばれたが博多は選ばれなかった。市制がひかれた時も、その市の名称は、一票差で「博多市」から「福岡市」となった。

 終戦後は博多港は大陸からの引揚船の入港地として、未曾有の敗戦という歴史の悲劇を味わうこととなる。「岸壁の母」「大地の子」... 様々な戦争の悲劇の舞台となる。国際的な港湾都市は,いつも歴史の光の部分だけを担って来た訳ではない。

 しかし、21世紀に入り、流れは再びアジアの時代へ。韓国や中国との行き来が活発になると,博多は国際港としての輝きを取り戻しはじめた。いまや博多港は日本一の旅客数を誇る国際港であるし、またアジア観光のクルーズ船の人気寄港地の一つとなっている。経済成長が鈍化し、少子高齢化で人口減少が切実な日本。地方都市は衰退あるいは消滅の危機にひんしているが、福岡市だけは、人口増加を続けている。いまや人口150万の政令指定都市である。イギリスのある調査機関が最近発表した「世界で住みやすい街ランキング」では、日本からは東京、京都と並んで福岡が見事上位ランキング入りしている。

 このように2000年の時間を駆け足で振り返ってみると、博多は、倭国/日本の歴史の中で、つねにユーラシア大陸からの文明の窓口としての地位を保ち続けて来たという事を改めて認識する。中国、朝鮮半島に近いというその地政学的な重要性は古代,中世、近世に至るまで変わらなかった。しかし、大航海時代を迎えると、ユーラシアの西の端から西欧諸国のアジア進出が盛んになり、博多にもその波が押し寄せる。やがて、その西欧列強の脅威から日本を守る鎖国政策で240年国を閉ざすこととなるわけだが、その「太平の眠り」から目覚め,辺りを見回すと世界の様相は一変していた。「近代化」という文明の波は、中国、朝鮮半島からではなく、太平洋を越えて欧米からやって来た。博多の大陸からの文明の窓口という地政学的な価値が相対的に低下してしまった。こうして京都や江戸を中心とした日本史の視点から俯瞰すると,博多は地方都市の一つに過ぎなくなってしまった。しかし時は今、グローバルな経済・文化の潮流が、再びアジアへとシフトし始めている。特に中国やインドの経済成長が目覚ましく、非近代的で「遅れた文明」として顧みられなかったアジアが目覚め、再び歴史の表舞台に躍り出てくる。日本は今そういう歴史の転換点に立っている。日本の歴史は世界の歴史と無縁に積み重ねられたわけではない。博多遺跡群の発掘成果からは、日本史を世界史的な視点から再理解する事の重要性を確信させる遺物が続々と出ている。博多は、だからこそ栄枯盛衰はあれ2000年も続いたのだということを理解する。まさに都市の変遷自体が悠久の時の流れを物語る歴史遺産なのだ。少なくとも福岡市民はそのことを知り、誇りにして欲しいものだ。東京(博多人のいう「中央」)ばかり観て憧憬したり反発したりする時代は終わったのだ。

Think Globally, Act Locally.


現代の博多港。海外からのクルーズ船の人気寄港地だ。
古代の博多津・冷泉津は画面右下に位置していたが、今では完全に市街地に飲み込まれている。


承天寺は博多綱首謝国明の尽力により建立された禅寺
祇園山笠の起源はここ

方丈の石庭
大海に浮かぶ島を表す

承天寺通りに2014年に建立された「博多千年門」
博多の出入り口にあったと言う「辻堂口門」をモデルに復元したもの。
左右は承天寺の境内
謝国明の墓
大きな楠に囲まれてしまったことから
地元では「大楠様」として親しまれている。



中庭
博多塀を背景に謝国明の石碑



平清盛が開いたと言われる「袖の湊」跡
かつての渡唐口は
博多リバレーンのビル群のなかに
痕跡を残すのみ


博多の総鎮守 櫛田神社
平忠盛が管理を任されていた鳥羽院の荘園、肥前神崎の荘にあった櫛田神社のご神体を博多に勧請したものとの言い伝えがある。
博多祇園山笠が有名だが今日は博多おくんちの日

ご神体を牛車に乗せてパレード

お稚児さんの晴れ姿

大博通り
博多駅から博多港に通じる博多の中心通り
右手には唐から帰国した空海が開いた真言宗の東長寺

扶桑最初禅窟 聖福寺
宋から帰国した栄西により建立された日本最初の禅寺

うどんが日本に初めて伝わったのも博多。
「かろのうろん」は博多弁で「かどのうどん」
博多ラーメンばかりが名物ではない。

参考文献:
http://www.amazon.co.jp/中世都市・博多を掘る-大庭-康時/dp/4874156649