2015年1月19日月曜日

「無鄰菴」庭園散策 〜京都南禅寺界隈別荘群を巡る(1) 〜

 京都東山南禅寺界隈は明治期から昭和にかけての政財界人が建てた別荘が集まる地域としても知られている。對龍山荘、野村碧雲荘、真々庵などの有名なものを始め15邸があると言われている。これらの別荘は、それぞれ東山を借景とした広大な庭園を有しており、また琵琶湖疏水を利用した水の流れを庭作りに生かしていることも特色である。それぞれに伝説的な作庭師が庭作りに腕を振るい、時代の流れとともにその別荘のあるじが変わっても、カリスマ庭師の子孫や弟子たちが、代々庭を守っている。これも伝統工芸そのものだ。京都という町の伝統の奥深さを改めて感じることができる。

 もともとこの辺りは南禅寺の広大な寺域で、多くの塔頭あったところだ。明治初期の廃仏毀釈の動きの中で、これら塔頭の多くが取り壊され、その跡地を緑豊かな別荘地にしたのが始まりだ。また南禅寺境内には、明治維新後に建設されたレンガ造りの琵琶湖疏水の水路閣が、ローマの水道橋風に、一見場違いな風情で連なっている。この空間はまことに不思議な空間だが、今となっては1200年の都らしく、時空を超えて中世と近代が同居する景観となって、すっかり違和感がなくなっている。実はこの疎水が運ぶ琵琶湖の水がこの界隈の別荘群にとって重要な修景エレメントになっている訳だ。

 ただ残念なことに、こうした別荘群のほとんどが一般には非公開である。私的な邸宅であり、企業の迎賓館として所有されたりしている。こうした別荘は時代の流れで所有者が変わってゆく。明治、大正、昭和初期には関西という大きな経済圏を背景に、財界人や、明治政府の元老や政界人が造営、所有してきた。終戦後は、一部進駐軍が接収して将校ハウスに利用され、無残な改造を受けたりした。やがては、日本の復興、経済成長とともに個人所有者から大手企業や宗教団体が所有するようになる。中には何有荘のように、シリコンバレー一の日本通、オラクルの創業者ラリー・エリソンがクリスティーズのオークションで落札し、修景保存工事を行っているところもあるなど、時代を映し出すものとなっている。

 その中にあって、今回訪ねた無鄰菴(むりんあん)は公開されている数少ない別荘の一つである。無鄰菴は明治の元老山県有朋が明治27〜29年(1894〜96年)にかけて造営した別荘である。この山県有朋こそ、荒廃した南禅寺界隈に別荘を営んだ最初の人である。その大半を占める庭園(面積3,135㎡)は第7代小川治兵衛(屋号:植治)の作庭による。やはり東山を借景に、疎水の水を取り入れた池泉回遊式庭園である。母屋は木造二階建ての比較的簡素なもの。建物は、この他に茶室と煉瓦二階建ての洋館を含めた3棟で構成される。

 この洋館は、よく見ると煉瓦建ての頑丈な土蔵のような建物になっている。元老の身辺防備の意味もあったのだろうか?しかし、その二階には江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図で飾られた洋間がある。明治期に流行った和様折衷のインテリアであるが、ここは、日露戦争前、我が国の外交方針を決める、いわゆる「無鄰菴会議」が開かれたところである。明治36年(1903年)4月21日、元老山県有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎がこの二階に会した。この会議の翌年の2月にはついに日露開戦となり、明治日本が一つの画期ををなすこととなる。この東アジアの新興国は辛くも欧亜にまたがる大国ロシアとの戦いに勝利し、東アジアに帝國版図拡大の一歩を大きく踏み出す。しかし、皮肉にもこの日露戦争での勝利がのちの大日本帝國の崩壊の第一歩だったとも言われる。トップが集まり、新興国日本のその後の運命を決する意思決定を行った。その歴史的の舞台がここ無鄰菴洋館の二階なのだ。


植治作庭の庭園





この洋館の二階で「無鄰菴会議」が開催された

折上格天井に狩野派の金碧花鳥図という
洋間で4トップが会した

広大な敷地を囲む塀
京阪電車HPより引用