志賀島は安曇族の故郷だった:
博多湾に伸びる海の中道の先に志賀島がある。志賀島は本土と砂嘴で繋がる珍しい陸繋島である。これが博多湾を天然の良港にし、独特の穏やかな風景を作り出している。子どもの頃いつも家の窓から博多湾を抱くように伸びる海ノ中道と志賀島、そしてその隣にポツンと浮かぶ能古島を眺めて育った。夏になると市営渡船に乗って海水浴へ。サザエのつぼ焼きと枇杷の味が懐かしい。海ノ中道には米軍の雁の巣キャンプがあった。ここは車で通り抜けることが出来た。ゲートを通ると一瞬にしてアメリカンな世界へワープできた。福岡・博多の人間にとってはこの景色は故郷の原風景のようなものだ。しかしこの小さな島が古代史において重要な役割を果たしたランドマークであることは、ずっとずっと後になって知った。
志賀島といえば、金印が出土した場所で有名だ。また元寇の時の激戦地でもあった。しかしそれだけではない。古代海人族安曇族(阿曇族)の故地である。海人族?安曇族?信州安曇野の?なんで博多湾の志賀島? 博多の人間にもあまり知られていない。ここは律令制下では糟屋郡阿曇郷であった。すなわち志賀町(現在は福岡市東区)には阿曇族の祖先神、綿津見三神が祀られる志賀海神社(しかのうみじんじゃ、しかのわたじんじゃ)が鎮座ましましている。もともとは島の北の勝馬に本宮があったが,現在の砂嘴の付け根の志賀町に遷宮された。今でも志賀島全体が神域とされている。
志賀島と海の中道 細長い砂嘴でつながっている。 手前が博多湾、向こうが玄界灘 |
古事記では、黄泉の国から帰ったイザナキは「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)阿波岐原(あわぎがはら)」で穢れを祓う禊を行い、その時アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三貴子が生まれたとされる。また同じく、阿曇族の祖神、綿津見三神、住吉族の祖神、住吉三神も生まれたとされる。そこは宮崎県の日向地方に比定されるのが通説といなっているが、以前にも述べた理由からここ博多湾近郊であると考える。
この志賀島・博多湾を拠点に活躍した古代の海の民、海人族が安曇族である。大陸との交易に重要な役割を担った安曇族のルーツは、おそらく大陸から渡ってきた人たちだろう。このころは現代のような国民国家という概念も国境という概念もない、したがって国籍などという制度もないので、倭人、韓人、漢人という区分けもはっきりしなかった。朝鮮半島や中国沿岸と日本列島を股にかけ、対馬海峡や玄界灘を我が庭のように暮らしていた人たちが居た。彼らは航海、漁労の技術を、そして大陸からの移住者を運び水稲農耕技術を北部九州に伝搬させた。いわゆる弥生初期の「倭国」あるいは「倭人」は朝鮮半島南端と北部九州にかけての海峡国家ないしはそこで生活する人々の総称で有った可能性もあると言われている(中国最古の地理書「山海経」にでてくる倭は朝鮮半島南部地域を指すとされる)。
1世紀になると列島側の「倭」にも日本列島、朝鮮半島、中国大陸との間を航海、通交できる人々がいただろう。だからこそ「倭」の「奴国王」は洛陽にいた後漢の光武帝に使節を送り金印をもらうことが出来た。3世紀漢滅亡後、「倭」の「邪馬台国女王卑弥呼」は魏の皇帝に朝貢・遣使ができた。大陸にルーツを持つ海人族、安曇族が「倭国」において大きな役割を果たしたのではないかと思われる。
筑紫三海人族:
古代筑紫には安曇族の他にも次のような海人族がいたと言われている。いわゆる「筑紫三海人族」である。記紀にその祖霊神誕生の記述がある。
(1)安曇族:綿津見三神(イザナキの禊から生まれた上綿津見神、中綿津見神、下綿津見神)を祖神とする。志賀島の志賀海神社に鎮座。
(2)住吉族:住吉三神(綿津見三神と同時にイザナキの禊から生まれた表筒男神、中筒男神、底筒男神)を祖神とする。那の津の住吉神社(あるいはその奥にある那珂郡の現人神社)に鎮座。
(3)宗像族:宗像三女神(アマテラスとスサノオの誓約から生まれた)を祖神とする。すなわち綿津見/住吉三神の姪(?)に相当する。宗像郡の宗像大社に鎮座。
それぞれの筑紫の海人族の祖神は、記紀編纂の中で皇祖神天照大御神を最高神とする「神々」体系のシステムにビルトインされている。ヤマト王権の確立、そして大和朝廷の成立時期になると、各地の氏族・豪族は、その一族の祖神を、皇祖神アマテラスに近い位置取りをするべく競う(天皇家との姻戚関係を持てる氏族)ようになり、公式記録である記紀に記述してもらう事は一族の権威を伝えるために極めて重要な事であった。
謎の安曇族:
こうして安曇族はその存在を8世紀の編纂になる記紀に記述してもらう事に成功したため、現在までその一族の存在が記録として残った。しかし、その存在は謎に満ちている。紀元前の倭国/奴国の時代から、対馬国、壱岐国、奴国といった対馬海峡、玄界灘を中心に活躍していた弥生の海人族であり、宗像族などよりは古い海人族だったようだ。しかし、後世には住吉族や宗像族のようにヤマト王権確立後に航海・交易に関わる国家祭祀を執り行う氏族としては存続しなかった。そして筑紫から遠く離れた、しかも海のない信濃国の安曇郷にその名を残すことになる。何が起きたのか?
安曇族は豊玉媛の子阿曇磯良を祖と仰ぐ。対馬に起源を持つ海神豊玉彦の子孫とされる。さらに遡ると、呉・越時代の呉王朝の末裔で、王朝交代の混乱に伴って日本列島に亡命してきた一族との地元伝承がある。こうしたことから後漢書東夷伝で記述のある1世紀の奴国(後漢の光武帝から金印を受けた)は安曇族が建てた国ではないか?と唱える説がある。 一方、のちの魏志倭人伝に記述のある「倭国大乱」では阿曇族は邪馬台国とともに奴国を滅ぼした?とする説もある。いずれも明確な証拠がない上での推論だから、論争してみても始まらないが。
金印と安曇族:
さらに志賀島からは、後世(江戸時代黒田藩政時代に)後漢書東夷伝に記述のある「漢委奴国王」の金印が発見された(志賀海神社のある志賀集落からわずかに1キロほど離れた海岸べりの段丘の畑から出土したといわれる)。なぜ奴国王の金印が志賀島(奴国の範囲内ではあろうが,王都のあった岡本:スク遺跡辺りではなく)から出土されたのか論争を呼んでいるのは周知の通りだ。安曇族の故地であり志賀海神社の神域である志賀島から出たが故に、安曇族と奴国の関わりについて以下のような推論がなされ、古代史ファンを沸かせている。
通商窓口説:安曇族の国である奴国の航海通商の窓口たる志賀島に公印があったのだ。
隠匿説:「倭国大乱」で邪馬台国に滅ぼされた奴国王が逃亡の際隠匿した。
墳墓説:安曇の族長(奴国王?)の墓に副葬された。
隠匿説が有力であるようだが,ここでは深く立ち入らない。当面、何かの物証が出るまでは歴史ロマンの領域にしておく方が良いかもしれない。
金印出土地 倭の奴国から見た当時の世界観を表している |
金印を受けた奴国があった1世紀頃の北部九州は大陸との窓口で、航海・漁労・水稲農耕といった弥生型の文化が流入する列島内でもっとも先進的な地域であった。志賀島の金印発掘の他にも、福岡市南部から春日市にかけて広がるスク・岡本遺跡の王墓からは前漢鏡、ガラス玉、剣(三種の神器?)などの副葬品が多数出土し、この一帯は紀元前1世紀頃の王都の遺構だとされる。すなわち「漢委奴国王」の数代前の奴国王の時代だ。また金属機器・ガラス製造のハイテクコンビナート、比恵遺跡・金隈遺跡など奴国の生産工場遺跡群も発見されている。こうした考古学的な物証からこの博多湾沿岸地域が後漢と交流していた倭国の盟主「奴国」であったとことは間違いがない。しかし、それ以上の奴国の実態(近隣の伊都国や邪馬台国との関係など)、奴国王は誰なのか?いつ頃,どのようにして奴国王は消えたのか?(3世紀の魏志倭人伝には奴国の記述はあるが王の存在は記述されていない)等、いまだに解明されてない事も多い。
この頃博多湾沿岸を拠点に大陸や列島各地との通行・交易に活躍していた海人族、安曇一族がこうした奴国の隆盛に大きな役割を果たしていたのは事実だろう。しかし,だからと言って安曇族が奴国を建てたというのはどうだろう。奴国は確かに大陸と通交し、その便益を最大限活用して「倭国」の盟主になったのだが、基本的には水稲農耕社会だ。海人族よりも農業生産手段と人民を支配していた族長の国だったであろう。
筑紫三海人族のその後。
(1)安曇族:近畿へ移住した阿曇連はヤマトで大王の側近として活躍した。一方、筑紫に残っていた一族は、527年の筑紫磐井の乱では磐井(筑紫の大王)側につき、敗戦後、筑紫を逃亡し信濃国安曇郡を建郡(穂高神社に奉祭)。「チクシ王権」対「ヤマト王権」の戦いであった「筑紫磐井の乱」では、筑紫王である磐井は殺され,その息子葛子は糟屋の屯倉(みやけ)をヤマト王権側に提供して恭順する。安曇一族は筑紫を捨て、以前の交易仲間のツテをたどって、いまだヤマト王権の支配が及ばない信濃に逃亡、さらには後世の「平家の落人集落」宜しく,全国に「あずみ」集落が出来る(安曇野、渥美、飽海、熱海、安住、滋賀、志賀...)。またヤマト王権に仕えた阿曇一族も663年の白村江戦いで渡海出陣した氏族の長比羅夫が戦死して一族は衰退して行った。
(2)住吉族:瀬戸内沿岸、やがては摂津の住之江に勢力を広げ、現在の住吉大社あたりを本願地とする(住吉神社は、那の津、下関、兵庫、摂津と瀬戸内沿岸の「津」があった所に鎮座)。やがて摂津の「津守」氏がヤマト王権とともに勢力を拡大し、航海通交の守護神として国家祭祀を司る。特に大和朝廷の使節である遣唐使船の守護神として乗船し渡唐している。
実はこの住吉三神を祖神とする「住吉族」とはどのような一族であったのか。あまり分かっていない。むしろ本当に住吉三神を祖神とする一族がいたのかすらわからない。住吉三神は綿津見三神とともにイザナギの禊から生まれた。すなわちセットで現れた神とされている。これは何を意味するか。那の津(日本第一住吉神社)に拠点を置いていたらしいが、一説に阿曇族(粕屋郡阿曇郷の志賀海神社)の一族で、分家的存在であったとも言われている。またどのような理由で東へ移動して摂津に拠点を移した(東遷した)のか,そしてどのようにヤマト王権の国家祭祀を司る氏族になって行ったのか。住吉大社の津守氏とは誰なのか? 一説に曰く、三神はオリオン星座による航海術のシンボル。阿曇族は外洋航海(大陸への航海)を主に取り扱い、住吉族は内海航海(玄界灘沿岸から瀬戸内)をもっぱらにしたのでは。安曇族が筑紫を去って後に外洋航海に進出?むしろ津守氏になってから摂津から筑紫へ西遷したとする。
(3)宗像族(胸肩氏/胸形氏):沖の島における国家祭祀を司る一族として出てくるのは4世紀以降。ヤマト王権が百済との通交を求めて半島へ出兵する時期だ。安曇氏に比べると比較的新しい在地豪族と言えるかもしれない。一説に曰く、ながく玄界灘の制海権を握っていた安曇族のもとで働き、そこで航海術を学び蓄積して行ったのでは?沖の島が大陸との航海の中継地点とするには、沖の島から朝鮮半島までの距離が長過ぎる。対馬海峡の速い海流の中を壱岐、対馬を経由しながら行くのがもっとも妥当な航路(まさに阿曇氏の本拠地を経由する)とされ、やはり安曇氏が筑紫を去ってからその後を引き継いだのではないか、と。
527年の磐井の乱では、安曇族と異なり筑紫磐井に加担せず、ヤマト王権に本領安堵される。その後も筑紫を出る事無く地元の氏族として存続する。ヤマト大王の后を出すなどヤマト王権との結びつきが強い(アマテラスの言葉:男神であるニニギの子孫を守れ、という)。特に大陸との通交・国家祭祀を司る一族(「海の正倉院」と言われる沖の島祭祀遺跡)としてヤマト王権/大和朝廷にとって対外交渉を司る重要な筑紫在地豪族として繁栄する。瀬戸内の厳島(宗像三女神の一人、イチキシマ姫)神社はその流れ。
チクシ倭国からヤマト倭国への変遷の軌跡:
このような筑紫三海人族の盛衰の軌跡は,チクシ倭国からヤマト倭国へと変遷して行った動線に寄り添う伏線のように見える。「倭国」チクシ王権のルーツは奴国であったろう。奴国の名は3世紀の魏志倭人伝には出てくるが、奴国王の存在は見えない。すでに、あの「倭の奴国王」は居なくなっていて、チクシ「倭国」の中心は北部九州のいずれか(隣の伊都国や磐井の本拠地八女地方あたり?そこがチクシ邪馬台国であったのかもしれないが)に移っていたかもしれない。奴国が邪馬台国に敗れ、やがては近畿ヤマト王権へと変遷して行く過程の最後の抵抗が「筑紫磐井の乱」であったと考える。ヤマト王権が倭国を曲がりなりにも統一支配する兆しを見せるのは5世紀以降(それまでの呪術的支配から武断的支配に移行した「倭の五王」、「ヤマトタケル東征、西征伝承」の時期以降)であろうから。この時期はまだヤマト対チクシの対立構造が残っていたと思う。安曇族・住吉族(いずれもイザナギの禊から生まれた綿津見三神、住吉三神の子孫)の筑紫出奔、アマテラス体制へのビルトインは、チクシ倭国がヤマト倭国に凌駕されて行った過程、ないしは邪馬台国がチクシからヤマトに移って行った過程の出来事の一つを物語っているのかもしれない。
住吉神社/宗像大社/志賀海神社の今:
住吉族、宗像族については続編で。乞うご期待。
志賀海神社はこの志賀集落の山麓に鎮座している 島全体が神域とされている |
志賀海神社拝殿 綿津見三神を祀る |
遥拝所 |
宮司阿曇家住宅と参道 奥が志賀海神社 |
現代の海人たち出漁 |
志賀島から福岡市街地を望む 古代奴国の姿は大きく変貌した。しかし、昔も今もアジアへのゲートウエーである事に変わりはない。 |
志賀島を後に一路博多港へ |
現代の高速船は博多と韓国釜山を3時間半で結ぶ |
博多湾の夕景 左が能古島、右は志賀島 この間を抜けると玄界灘に出る |
糸島半島(古代伊都国)夕景 可也山のシルエットが美しい |
夕闇迫る博多湾 これぞ「筑紫の日向の橘の小戸のあわじがはら」の風景だ。 |
撮影機材:SONY α7II+SONY AF Zoom E-Lens 24-240mm
参考:志賀海神社のHP