2015年5月14日木曜日

チクシ王権からヤマト王権への変遷はどのようにして起こったのか?

 チクシ倭国の時代:

 紀元前2世紀から紀元2世紀頃までの倭国は、北部九州の奴国や伊都国などのチクシの国々が中国王朝(この頃は前漢、後漢)との外交を主導し、中国の華夷思想にもとずく朝貢・冊封体制のもとで東夷の倭国という地域を統治するの権威を得てきた。この頃の東アジア的世界観では、圧倒的な文化力と経済力を持つ中国王朝の皇帝から冊封を受けることが、その地域での王権の維持に不可欠であった。北部九州チクシは列島の中で大陸に最も近く、人の往来も古来より盛んで、ことに弥生文化を代表する水稲稲作農耕が倭国で一番最初(紀元前10世紀頃)に入ってきた地域であり、最も先進的な地域であった。したがって、奴国や伊都国のような国がこれら倭国連合諸国において経済的優位性と外交的優位性を享受できたとしても不思議ではないだろう。

 このことは、紀元前1世紀の漢書(前漢)の「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり献見す、と云フ」という記述、後漢書東夷伝の記述(57年の奴国王の朝貢「漢委奴国王印」、107年の倭王帥升の遣使)にあるのみならず、考古学的にも検証されている。紀元前1世紀の奴国の王都であるスク・岡本遺跡からは30枚もの前漢鏡やガラス装飾品、武具などの王の権威を示す中国皇帝からの下賜品が出土している。また、同時期の伊都国王墓と言われる三雲・南小路遺跡や井原・槍溝遺跡、さらには平原王墓遺跡からも、奴国王墓を上回るほどの前漢鏡、装飾品が出土している。また、福岡市早良の吉武・高木遺跡からは、紀元前2世紀頃の最初期の王墓らしき遺構が見つかっており、ここからも鏡・剣・勾玉という3種の神器に相当する遺物や、多数の大陸由来の遺物・威信財が出土している。中国の史書にはこのクニ(早良国ではないかと言われているが)に関する記述はないが、この時期にチクシには中国に朝貢するクニ・王がいた証左として注目されている。このように紀元前2世紀から紀元2世紀初頭までは、北部九州チクシ倭国の国々が中国王朝から冊封を受け、統治権威を有する、倭人社会、倭国連合の中心であったことを示している。この時代に、こうした威信財は近畿を始め、出雲・吉備などの地域では出土が見られない。

「漢委奴国王」の金印が出土した福岡市の志賀島
1世紀の「後漢書東夷伝」の記述を証明する発見であった。



紀元前1世紀の奴国王墓
金印を受けた奴国王の数代前の王の墓であろう
(春日市のスク・岡本遺跡)
紀元前1世紀の伊都国王墓
(糸島市の三雲・南小路遺跡)
2世紀前半の伊都国王墓
真東に神奈備の高祖山を望む東西軸の配置
被葬者は女性である可能性
圧倒的な威信財の数々が副葬されていた
(糸島市の平原王墓遺跡)







紀元前2世紀の吉野ケ里遺跡の復元神殿

巫女が神がかりとなって御宣託を聞く












その御宣託に基づいて王と一族の長が集まり意思決定する。






















ヤマト倭国の時代へ:

  ところが、2世紀後半から3世紀になると、こうしたチクシ中心の倭国の姿は徐々に変わって行き、ヤマト中心の倭国へと変遷してゆくようになる。史書の記述でいう「倭国大乱」を境にこの変異が起こっているようにみえる。例えば、考古学的にはこの頃になるとチクシにもヤマトから伝来した土器などが出現するようになるが、その逆は見られない。ある時期から倭国連合の中心がチクシからヤマトへと移ったらしいことをうかがわせる。3世紀後半の古墳時代になると、明らかにヤマトに大型の前方後円墳が出現し、初期のヤマトの古墳(ホケノ山、メスリ、黒塚古墳)からは多数の三角縁神獣鏡などの後漢鏡・魏鏡などの中国からの威信財が出土する。やがてこの前方後円墳という墓制はヤマト王権の倭国支配の権威の象徴として各地域の首長へ伝搬されてゆく。チクシで主流であった土坑墓や甕棺墓などの墓制はヤマトでは見られず、やがてはヤマトで出現した前方後円墳がチクシへも伝搬してゆく。

 魏志倭人伝の記述にあるように、「倭国大乱」の後、3世紀半ば(249年)に邪馬台国女王卑弥呼が、魏の明帝に使者を送り冊封された(親魏倭王)。その時に銅鏡100枚を下賜された。また、伊都国には王もいたが女王卑弥呼の代官、一大率が駐在して、大陸との通交、九州(チクシ倭国)の統括を行っているとされている。奴国を見ると、この頃には57年に後漢に朝貢した奴国王の末裔に当たる王の存在は記述されておらず、地方官僚の存在のみ記されている。すなわち伊都国も奴国も邪馬台国の支配下にあったことを物語っている。

 では、その邪馬台国はどこにあったのか?九州のどこかなのか、それとも近畿なのか。有名な邪馬台国論争だ。前者だとすると「倭国大乱」は北部九州を中心としたチクシ倭国内の争いである。後者なら「倭国大乱」は西日本の広範な地域を巻き込む争いであったろう。また、女王卑弥呼が支配したという30余国の範囲も大きく変わってくる。また卑弥呼の死後は「大いに塚をつくり」埋葬していることから、ヤマトの箸墓古墳がそれではないか。これは邪馬台国、卑弥呼が、チクシのクニ、女王ではなく、ヤマトに起こった(あるいは移動してきた)クニであることを推測させるものではないか、というのが邪馬台国近畿説である。後世、倭国の中心が北部九州を離れ、近畿に移ったことは明らかなのだが、問題は「何時」「どのように」ということだ。


3世紀古墳時代初期の箸墓古墳
卑弥呼の墓ではないかといわれる

箸墓古墳の背後にそびえる三輪山
同じく3世紀のメスリ山古墳
最古の古墳形式を確認できる貴重な遺跡

崇神天皇陵(行灯山古墳)
巨大な古墳が並ぶ大倭古墳群

 ちなみに、鏡は、統治権威を伝える威信財として重要な役割を持っていた。中国皇帝から下賜された複数(数十枚〜100枚)の銅鏡は、下賜された王が、さらに「中国皇帝から倭国王として冊封された証」として、さらに連合王国の地域の王や首長に「権威の象徴として」下賜する。という構造になっている。このような「威信財」を配ることで地域支配の権威を与える、という統治の仕掛けは、5世紀に入ってヤマト王権が次第に倭国全般のし支配圏を確立してゆく「倭の五王」の時代にも引き継がれる。埼玉県の稲荷山古墳や熊本県の江田船山古墳から出た「獲加多支鹵」(ワカタケル:倭王武、ないしは雄略大王)の文字が入った鉄剣などが、ヤマト王権が地方首長の地域支配を冊封した証拠だといわれる。


倭国大乱:

 話を戻すと、このようなチクシとヤマトの倭国支配の勢力逆転はいつ頃、どのように起こったのか?2世紀まではチクシが、3世紀以降になるとヤマトが倭国の盟主となっていった。魏志倭人伝によれば、男王の治世が7〜80年続いた後、2世紀後半(146〜189年頃)に「倭国大乱」で王がいない時期が続く。その「倭国大乱」とはどのような争いであったのか。なぜ騒乱になったのか(何を巡って争ったのか?)。邪馬台国の卑弥呼擁立により騒乱は収まったとされるが、前述のようにそれはチクシ倭国での話なのか、もっと広範囲に近畿ヤマトを含めてで起こったのか?。

 おそらく「倭国大乱」は当時の東アジア情勢の流動化が原因であろう。後漢王朝も末期に入り、184年の黄巾の乱、それをきっかけとした後漢王朝の滅亡は、朝貢していた周辺諸国に、地域支配権の攻防、それに伴う戦乱や、亡命、難民の発生など大きな影響を与えた。倭人社会においても、漢王朝の冊封を受けていたチクシ倭王(奴国王・伊都国王)が、その統治権威を失い、争いになっただろう。また、稲作農耕や武器として必須の戦略資源である「鉄」は当時朝鮮半島南部でしか入手できなかったが、その入手ルートや資源権益を掌握していた北部九州のチクシ倭王がなんらかの理由で争いに破れ、倭国内陸のヤマト倭王に権益を奪われてゆく。また、大量の亡命者や難民が列島に押し寄せて混乱した可能性もある。そういった倭国の国際環境の変化に伴う王権の揺らぎが倭国連合盟主争いの実態ではないかと考える。やがて邪馬台国の「鬼道をよくする」シャーマン卑弥呼を倭国連合の霊的権威として担ぎだしてようやく乱が収まった。すなわち、中国との外交権、地域の武力支配権の争いを、祭祀権をもって収めた。武力で治らないと、その上の権威を持ち出して妥協させるというのはいつの時代にも取られる和平手段だ。

 邪馬台国が近畿ならば、57年のチクシ奴国王の後漢への朝貢、107年の倭王帥升(伊都国王であろうと言われている)の朝貢から100年足らずの間に近畿地方に北部九州チクシを凌駕する近畿ヤマトが生まれたことになる。漢に代わる新しい中華王朝魏の冊封を受け、なんらかの形で半島の製鉄利権を獲得し、ヤマト・邪馬台国は、大陸に最も近い先進地域である北部九州チクシの奴国や伊都国に代わって、大陸から遠く離れた奈良盆地に外交力、武力を持ったクニを出現させた。ということなのか?そしてそれがヤマト王権に繋がっていったのだろうか。

 一方、倭国支配の中心はチクシからいきなりヤマトへ飛んだわけではなく、出雲や吉備、あるいは越にも有力な国が生まれる。ヤマトに発生した古墳時代の先駆けとしての墳墓形態(四隅突出型という大型墳丘墓)や祭祀形態(特殊器台という土器)を生み出したこれらの国々が、ある時期、倭国の中心的な位置を占めた可能性もある。やがてはヤマトに協力、服属することで倭国の統一の第一歩となった可能性がある。このころ考古学的には、青銅器祭祀から墳墓祭祀へと移行する過程で、いわば「弥生時代」から「古墳時代」へと移行する時期である。これらの国々がその移行プロセスを象徴する国々であったのだろう。ちなみに倭国統一の過程で、チクシは比較的最後までヤマトに服属しなかったように見える(6世紀のチクシ磐井の乱が最後の抵抗だった)。あるいは神功皇后の三韓征伐エピソードは、熊襲掃討の過程で出てきたことになっている。この時も熊襲征伐の後にチクシをようやく平定し、さらに三韓征伐に向かったと考えられる(もっともいつの時代の事績なのかは不明であるが、そういったチクシ平定に手こずった記憶に基づく記述である可能性がある)。


ヤマトの起源は?:

 そもそも山々に囲まれた内陸の盆地であるヤマトでは、弥生世界でどのようにクニが形成されていったのだろうか?もともとヤマト盆地に発生した弥生の農耕集落・ムラが成長していってクニになったのか?あるいは、西から移動してきた勢力によってある時期に形成されたクニなのか?意外にわかっていない。

 奈良盆地の中心部に位置する(古代奈良湖のほとりの湿地帯に形成された)唐古・鍵遺跡は弥生初期(吉野ケ里遺跡などのチクシの大規模環濠集落跡と同時期、紀元前3世紀頃)の大環濠集落跡であるが、これがのちの邪馬台国ないしはヤマト王権に発展していった形跡はないといわれている。環濠集落は古墳時代までには消滅し、その跡地には古墳が築造され、中世になると武士団が砦を築き、農村集落が形成されている。一方、3世紀頃、三輪山の山麓に形成された纒向遺跡は東西軸に配置された宮殿・神殿を中心に水路が巡らされ人工的に建設された「都市」のようで、全国各地の土器が出土するなど、人が倭国各地から集まってきた様が見える。「共立された女王卑弥呼の都」らしい雰囲気が溢れている。卑弥呼の神殿と思しき遺構からは、祭祀に用いられたと思われる桃の種が大量にみつかるなど、中国の神仙思想の影響を受けた有様が見て取れる。もちろん3世紀後半から始まったと考えられている箸墓古墳(卑弥呼の墓ではないか、と言われる)のような巨大古墳群の築造がヤマトの独特の景観を形作るようになる。

 しかし、ここヤマト倭国には弥生社会に典型的な高地性集落も環濠集落も(唐古・鍵遺跡の他に)見つかっていない。北部九州チクシ倭国の国々はほとんが環濠集落を特色としていた。瀬戸内沿岸に展開するムラ/クニは高地性集落を特色とする。すなわち稲作農耕社会であり、その土地、水と民、富の集約と支配を巡っての争いを想定したムラ/クニを形成していた。それが(魏志倭人伝が描く)弥生時代を象徴する倭国の姿であった。ヤマトにはそれがない。すなわち弥生のクニの香りがしない。纒向や箸墓はもっと新しい時代の遺跡ではないのか(ヤマト王権成立時期以降)、と邪馬台国九州説の学者は唱える。箸墓古墳も纒向遺跡も3世紀ではなく、4世紀以降の遺跡であるとする。すなわちヤマト王権初期の遺跡だという。

 それにしても、このような列島内部の盆地に位置しながら大陸との交流は誰が取り仕切ったのか?後世、チクシの安曇族(住吉族)や宗像氏がヤマト王権の大陸との通交を取り仕切るが、ヤマト初期(チクシと覇権を争っていた時期)には誰がそれを行ったのか。それがなければチクシに代わって倭国連合の盟主にはなれなかったはずだし、帯方郡を通じての魏への朝貢もできなかったはずだ。

唐古・鍵遺跡
紀元前3世紀ころのヤマト盆地最古の稲作農耕環濠集落跡


竜王山から望む奈良盆地
古代にはここが左の図のように湖だった
正面に二上山
古代奈良湖推定図
唐古・鍵遺跡や纒向遺跡の位置に注目



三輪山に日が昇り
二上山に日が沈む
東西軸の宇宙観であった
纒向遺跡の発掘
卑弥呼の神殿ではないかと言われる遺構。
しかし、本当に卑弥呼の時代の遺構なのか。弥生の匂いがしない。
背後には三輪山がそびえる

 我々はヤマト、すなわち山々に囲まれた奈良盆地の長閑で箱庭のような舞台が日本の誕生の地、日本文化発祥の地だと考えている。もちろんそれは事実だ。ある時期以降、ヤマト王権が列島支配権を確立してゆく過程で、奈良盆地が倭国・日本という国家の揺籃の地になっていったことは間違いない。しかし、これまで見てきたように、実はヤマトが、何故、いつ頃、倭国・日本の中心となっていったのかはまだ十分に解明されていない。謎に包まれている。そもそも列島の文化の発展は、少なくとも弥生時代には入ってからは水稲農耕文化がたどったように、大陸に近い北部九州を起点に西から東へと伝搬していった。大陸の文化圏や交易圏と切り離して倭国の成長は考えられない。そうした文化的な権威や資源、経済権益をいかに獲得・独占するかが倭国の支配者の争いの核心であった。あるいは、若狭湾や越前といった日本海側に大陸から人がやって来て、琵琶湖を経由して奈良盆地に大陸文化が入ってきたことも考えられる(後世の渤海使のように)が、やはりチクシ、瀬戸内海、摂津、河内、奈良盆地ルートほどの太いパイプの通交ルートではなかっただろう。このいわばゴールデンルートがそのまま倭国における列島支配拠点移動のルートでもあったのではないかと思う。北部九州チクシから近畿ヤマトが中心となっていった訳だが、そのプロセスはまだ解明されていない。日本の古代史は、大事な点でまだまだ多くの謎に満ちている。

 倭国の各地には。チクシとヤマトだけではなく、様々なムラやクニが発展し国が存在していたであろう。こうした国々は日本列島(主に西寄りに)に広範に存在し、その連合(倭国連合)の中心は、大陸に近い(文明に近い)地域(北部九州)から、次第に内陸へ、東へと移動していった。ある時期になると国内の経済活動が活発になり、むしろ倭国内の生産や物流の結節点のような国が中心になっていったのかもしれない。それが近畿ヤマトであった。事実、その後の倭国・日本は、19世紀のみやこの関東への奠都まで、近畿を中心とする歴史を持つことになる。歴史がそのロケーションの合理性を証明して見せた訳だ。

 今回は、あえて8世紀初頭に編纂された日本側の歴史書である日本書紀や古事記の記述には触れなかった。もちろん必ずしも中国の史書に記述されている記事全てが正確で信頼に足るとは考えないし、ある時期の限られた情報による「倭国」像である。しかし8世紀以前に記述された文献資料としては中国の史書しかないこと。また、編年体で記述されているので、これら史書の記述と考古学的発掘成果の突合による時代考証が比較的可能であることから、古代史を研究する手法においては貴重であると考える次第である。

古代伊都国は今...