2015年9月1日火曜日

飛鳥逍遥再び 〜古代史の舞台を巡るフォト紀行〜


飛鳥は行くたびに新しい感慨に耽ることができる場所だ。まだまだ謎に包まれたこの時間と空間に何かを感じることができるからだ。この日本の原風景のようなのどかな里には、いたるところに歴史の痕跡が潜んでいる。飛鳥は歴史学と考古学が出会える場所でもある。まだ発掘されていない古墳や宮跡や初期仏教寺院の遺構があちこちに埋もれているに違いない。目に飛び込んでくる小さな丘、こんもりした木立だって、きっと何かの遺跡に違いない。小径の高低差にも大きな意味が隠れているに違いない。そんなことを考えながら歩く飛鳥は「時空トラベラー」の聖地だ。この国の成り立ちをめぐる旅、歴史の情景を辿る旅。何度行っても飽きることはない。今年は例年になく暑い夏、噴き出す汗をぬぐいながら1年ぶりに飛鳥を逍遥する。

折しも奈良国立博物館開設120周年記念特別展「白鳳」展が開催中で、飛鳥文化から白鳳文化への移ろいを育んだ飛鳥の地を思い描く格好の機会となっている。


飛鳥のシンボル「石舞台古墳」
権勢を誇った蘇我馬子の墓だと言われている

夏過ぎて秋来たりし飛鳥の空

「飛鳥時代」とは、推古天皇・聖徳太子から天武天皇・持統天皇治世の100年余(6〜7世紀)ほどをいう。実に日本史における画期的な時代であった。すなわち、倭国から日本へ転換した時代。歴代中国王朝に朝貢し冊封される国「倭」から、独自の天帝を頂き、中華世界とは異なる宇宙を有する「日本」という新しい国家のアイデンティティーを主張した時代だ。その後の日本の歴史を規定する基礎ができた時代なのだ。

この時代の画期的事績を列挙してみよう:

*仏教伝来(思想的・文化的グローバリズムの到来)
*乙巳の変(大化の改新)蘇我氏宗家滅亡
*対外戦争「白村江の戦い」敗戦。安全保障意識
*戦争による民の疲弊、壬申の乱による王権交代
*天皇中心の中央集権的な国家体制確立
*仏教を鎮護国家の法とする
*律令制整備(近代国家としての法整備)
*私地私民から公地公民(豪族による割拠支配から天皇による集権支配へ)
*八百万の神々の世界(地域ごとの豪族の割拠)から皇祖神アマテラスを頂点とする天皇統治の世界へ(神々のシステム化)
*国家の正史「日本書紀」、天皇の記「古事記」編纂(国家のアイデンティティー宣言)
*飛鳥古京→藤原京→平城京へと新国家にふさわしい壮大な宮都造営
*国号を「倭」から「日本」へ。
*飛鳥文化→白鳳文化

こうした天皇中心の国家統治体制の確立という一連の流れの背景で、蘇我氏という外来文化を積極的に取り入れる先進性と、一方で大王をも上回る権勢を振りかざした、いわば有力国際派豪族支配(渡来人コミュニティーをバックに持ち、外来の仏教を導入した崇仏派)から、藤原氏という国内派支配の体制(大王の廷臣、古来からの神道神祇職の家系の中堅豪族)への転換の時代とも言える。「大化の改新」の功労者中臣鎌足の息子で、天武・持統親政時代に雌伏して勢力を伸ばした藤原不比等の「天皇中心の国家体制確立」に果たした役割は大きい。それは、連綿たる皇統と朝廷という大木に絡みつく藤の蔓のように、以降1300年も続く「藤原時代」の始まりでもあった。

そう思って見渡すと、中臣鎌足が生まれ育った小原の里からは、大化の改新の密議を交わした多武峰、談山(かたらいやま)が見える。この多武峰の山頂からは、板蓋宮、蘇我氏の居館、飛鳥寺などを見下ろすことができる。入鹿が殺害された板蓋宮跡からは、飛鳥寺も甘樫丘も見渡せる。入鹿が殺された時、父の蝦夷は甘樫丘の蘇我宗家居館に火を放ち滅した。飛鳥寺に佇む入鹿の首塚は甘樫丘を恨めしげに見上げている。その甘樫丘に登ると飛鳥古京が全方位見渡せる。北には持統帝造営の藤原京(新益京)跡を耳成山を背景に望むことができる。その遥か遠くには聖徳太子の斑鳩宮、法隆寺の斑鳩の里も見える。東には古代ヤマトの聖なる三輪山もすぐ眼前だ。西には二上山。仏教でいう憧れの西方浄土、河内を経て大陸へと続くシルクロードにつながっている。

こうして見渡すことのできる狭い箱庭のような飛鳥の里が、我が世界なのだ。ここから日本は始まった。波頭を超えて大陸と密接に繋がっていた「倭国」から、この囲まれた盆地を国家の中心に定め、「日本」になった。「日本人」のDNA揺籃の地はこの飛鳥だった。
甘樫丘を望む






以前書いたブログを参考まで。


① 甘樫丘に登り蘇我氏の役割を振り返る。

「甘樫丘〜神聖なる山の変遷〜」


② 飛鳥時代は女帝の時代であった。

「飛鳥古京散策〜飛鳥時代とは〜」


③ 藤原氏の時代の始まりはここに。

「春爛漫の飛鳥を歩く〜藤原一門1300年の歴史はここに始まる〜」


④ 藤原氏の栄華を誇る平城京。

春日大社 今を盛りに藤の花



中臣鎌足の生誕地、小原の里。その母の大伴夫人の墓所から望む


小原の里から多武峰、談山(かたらいやま)を仰ぎ見る。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏打倒の密議を交わした山だ。


蘇我入鹿の首塚。背後には蘇我宗家の居館があった甘樫丘が
入鹿が殺されると、その父蝦夷は甘樫丘の宗家居館に火を放って果てた。


蘇我氏は仏教を倭国に導入し、わが国初の仏教寺院「飛鳥寺」を創建。渡来人仏師により釈迦如来が建立される。その後幾多の戦乱や災害で、往時の姿は失われてしまったが、お顔の一部に創建時の形が残っている。
その脇には聖徳太子像。蘇我氏系の血筋を持つにもかかわらず、一族が蘇我氏に殺される悲劇のヒーロ。謎に満ちたその姿に慄然とする。


蘇我氏がわが国で始めて造営した仏教寺院、法興寺(飛鳥寺)
平城京遷都時には奈良に移され、元興寺(現在の奈良町あたり)となる。
なぜ藤原氏が平城京へ蘇我氏由来の寺の移転を許したのか謎である。

甘樫丘からは、飛鳥坐神社の森とその背後の鎌足が育った小原の里を展望することができる。
今はのどかな飛鳥の里の風景だが、覇権を巡って権力者たちの存亡をかけた闘争の場であった。


甘樫丘から西を見渡すと、畝傍山、さらには二上山が展望できる。
穴虫峠を越えれば河内、難波、瀬戸内海を経て大陸シルクロードにつながる。
仏教の世界観では憧れの西方浄土の地。


甘樫丘から見渡せば飛鳥古京全体を手に取るように見渡すことができる。
今は静かな田園地帯になっているが、
右手には飛鳥板蓋宮跡、石舞台古墳。正面は多武峰。左には飛鳥寺(法興寺)

飛鳥板蓋宮伝承地
蘇我入鹿が誅殺された現場
背後には蘇我氏の居館があった甘樫丘が見える。
持統天皇が造営した藤原京の大極殿跡
背景は耳成山

仏の世界を現世に実現しようとした天武・持統天皇の御心を示すかのように
真夏の藤原宮跡に睡蓮が涼やかに咲き誇る
藤原宮跡は今では睡蓮の咲き誇る畑となっている
背後には畝傍山

キバナコスモスに彩られる飛鳥路
飛鳥稲淵あたりの棚田風景
豊葦原瑞穂の国の姿だ。



広大な中国風都城として造営された藤原京はわずか16年で廃都となる。
元薬師寺跡
藤原京の西に建立されたが、平城遷都に伴い、奈良西の京の現在の薬師寺の地に移設された。
夏にはホテイアオイが一面に咲き誇る