2015年10月24日土曜日

下田は今日も晴れだった。〜フォトジェニックな街で情景ハンティングに苦心する〜

  最近、なぜか下田の街の雰囲気にハマっている。この街は何度も来ているが来るたびに新たな発見があり、そして新たな謎が湧いてくる。何度も同じところを徘徊しているのだが。今回は熱川の別宅から毎日通ってしまった。片道910円という高額な運賃を払って... しかしこの街はフォトジェニックだ。なぜ? 長い時間経過の中で多層な歴史が街の情景に潜んでいるからだろうか。市は観光地として一生懸命売り出しているのだが、黒船ペリーとハリス、伊豆の踊り子、海水浴に金目鯛くらいで、ブームになるほどの成果は出ていないように思う。しかし皮肉にも、妙に観光地ずれしていないところがいい。最近は伊豆ジオパークをアピールしている。そういう視点で海岸線や火山の痕跡などの自然景観を点検してみると、これはこれは素晴らしい宝の宝庫であることに気づく。その話は別の機会に。

しかし、下田の写真写りの良い景観を観光写真的でなく切り取るのは、相変わらず困難な作業だ。エバレット・ブラウンも了仙寺でのペリーとの子孫等対談で、歴史の情景を心に刻みそれを写真に表現する話をしていた。それで湿板写真機なのだ。時空を超えた情感を写し取る。これは下田に限った話ではない。尊敬する大和路写真のマエストロ入江泰吉先生が、その土地の歴史と情感を写真という現代的なテクノロジーで表現することの難しさを語っている。

伊豆は必ずしもいつも歴史の表舞台であったわけではない。むしろその後ろで色々な物語が紡がれた土地である。古代において、伊豆は伊豆大島を含み流刑の地。奈良の都や京の都から遠く離れた辺境の地、政治的に敗者となった人々が無念の涙を飲みつつ配流となった土地。そのせいか、下田の人は、その言葉使い、振る舞いにどこか雅な香りが付きまとう。下田の街の北のはずれに稲梓という伊豆急線の駅がある。ここから谷伝いに下田街道沿いに進むと箕作という集落がある。ここはその昔、壬申の乱の後、大津の皇子のが謀反の嫌疑で死に追いやられた時、その舎人として仕えていたトキの道ツクリが流された地と言われている。小高いところに箕作八幡神社がある。鬱蒼とした茂みの中に人知れず佇む社だが、ここがトキの道ツクリの配所跡といわれている。

平安末期、源平の争いの時代には頼朝の源氏再興の旗揚げ地となる。もともと伊豆、相模は平氏系豪族が多いの土地である。頼朝の後ろ盾となった北条氏だって元は平氏の家系だ。頼朝は都から流されて平氏の有力豪族北条氏に流人として預けられたわけだから。北条政子と頼朝が恋仲にならなければ後の鎌倉北条執権政治などなかったかもしれない。

徳川家康が江戸幕府を開き江戸時代になると、江戸湾に出入りする廻船を検問する幕府直轄の陣屋が下田に置かれ、海運と江戸防衛の重要拠点となる。大航海時代、それへの対抗としての鎖国時代には下田奉行が置かれ江戸防衛拠点となる。そして幕末には、太平洋に突き出した港という地の利を見込まれて、また一方で江戸から離れた江戸湾外の地であるという国防上の理由から外国船の薪炭補給基地として開港する。一時幕府によって下田に反射炉が建設された。しかしハリスの米国公使館が置かれたことで、機密防衛のため取り壊されて韮山に移されたとか。下田は江戸幕藩体制の脇を固める立ち位置を与えられ歴史に名を残した。しかし、その後横浜、神戸が開港され、米国公使館も移転すると、下田はその役割を終えて静かな街に帰って行く。戦時中は海軍航空隊の基地ができ、空襲も受けるが、壊滅的な被害を被ることもなく戦後を迎えた。

伊豆半島のほぼ南端のいわば辺境の地にありながら、その時代時代で、歴史の裏舞台、表舞台として様々な役割を担わされた土地の記憶が今でも色濃く残る。しかし、今回も「歴史の情景」をデジタルカメラで表現することはできなかった。せいぜい観光写真を撮り溜めただけだ。真をありのまま写し取る「技」を極めた下岡蓮杖先生の写真の時代から、その真の後ろに見え隠れする情景を写し取る「芸」を極めた入江泰吉先生の写真の時代への進化を体得するのはなかなか至難の技だ。



伊豆独特の海鼠塀の商家


今は観光地として人気のペリーロード沿いの川や町並み


了仙寺への道
ペリーが下田条約締結のため歩いた道


下田の街


下田港
ペリーもハリスも伊豆の踊子もこの岸壁に立った


伊豆石で出来た蔵
手前は洋館(小さなリストランテ)






土藤酒店
江戸時代から続く老舗