2016年12月20日火曜日

入江泰吉旧居探訪 〜マエストロはどんなところで「歴史の情景」を生み出したのか〜

入江泰吉旧居

奈良市水門町。東大寺や戒壇院に近い閑静な地区に入江泰吉旧居はある。ちょうどこの日は春日若宮御祭りのお渡り式行列の日で、登大路や三条通りはすごい人出であった。しかし、一歩県庁脇から東大寺境内の西側に入るとそこは別世界の静けさ。入江泰吉旧居は、師の逝去後しばらくは空き家になっていたが、奥様から奈良市に寄贈され、整備され最近ようやく公開にこぎつけたという。これまでも奈良フェチの私は、奈良散策定番ルートであるこの邸宅の前を何度も往復していたのだが、うかつにもそれと気付かず、ここが入江泰吉師の旧居であることをようやく最近知った。その聖地公開と聞いて今日こそはとワクワクしながら門をくぐった。

 ここは元々の東大寺境内の一部であり、あたりには奈良県知事公邸や依水園、吉城園などの大きなお屋敷が立ち並んでいる地域だ。京都南禅寺界隈の別荘群と同様、奈良も東大寺旧境内界隈や、春日大社の杜に隣接する高畑町辺りは塔頭や社家をルーツとする邸宅・別荘地区になっている。広大な敷地を有する邸宅が白壁・築地壁に囲まれていて、外界と隔てられた特別な空間を形成している。そうした中にあって入江邸は生垣に囲まれオープンな感じだ。内が外から伺えると、秘密のバリアーに閉ざされた邸宅と異なり、意外にこじんまりした邸宅にみえる。しかし、吉城川の流れと河岸段丘の高低差ををたくみに取り入れた配置となっており、寺の塔頭の建物を移築した母屋と茶室と、のちに増築した書斎というコージーな住まいだ。庭はさして広くないが、母屋の縁側からは吉城川を挟んで向かいの森が望め、濃い緑と静寂な佇まいが借景として取り入れられた配置となっている。窓に近接して紅葉と椿の巨樹が枝を広げている。そのシーズンはさぞやと思わせる。とても落ち着くセッティングだ。「紅葉、綺麗でしたよ!この時期紅葉は終わってしまって残念ですが、間も無く椿の季節です。見事ですよ!」と案内の女性が誇らしげに説明してくれた。もちろん仕事場である現像室も庭の離れに再建されている。

 資本主義の論理と都会の生活に疲れた私の最初の印象は「こんなところに住んで見たい!」である。そもそも写真と大和路に心を奪われてしまっている私にとって、ここが理想的な棲家に見えたのは不思議ではないだろう。人生にとって住環境は大事だ。人の感性を磨き、心の豊かさを与えてくれる要素の一つは住まいだ。かつてロンドンの南の郊外ケントに暮らしたことがある。ここは「英国の庭園(Garden of England)」と呼ばれ、自然と人の営みの歴史が今に生きている田園地帯である。森と牧場と歴史的なマナーハウスという英国のauthentic life, quality of lifeを涵養する住環境であった。そこの田舎生活で体得した感覚が、すっかり都会生活に埋没してしまった今も蘇る。洋の東西、歴史的背景の違いこそあれこの奈良の入江邸はそうした感性を刺激する要素を揃えている。こういう環境の中でこそ創造的な思考と、人の心に響く情感を切り取る「心の眼」が養われるのだと。

 そもそも私が奈良大和路に憧れるようになったのも、写真が好きになったのも、すべてこの入江泰吉というマエストロのせいなのだ。学生時代に出会った入江泰吉の写真集。「入江調」と言われる独特の光と陰の階調に驚かされた。モノクロとパステルカラーの作品の数々に心奪われた。そこには現代から古代という時間の流れが写っている。飛鳥人(あすかびと)の情感が写っている。初めて「二上山残照」を見たときの衝撃。「大仏殿落日」の印象。モノクロ写真に記録されている田園風景には古代飛鳥京の情景。東大寺二月堂に至る小径を知ったのも師の写真から。観光客で賑わう通りをふと避けて一歩道を入ると「観光地」奈良にもこんな情感豊かな世界が残っている。あの頃の師の写真には古代大和の国の滅びのまほろばが写っている。

 師は言う。「現代の技術、機械であるカメラという媒体で、古代の情景や余韻、気配、歴史の心象風景を表現するのは不可能に近い。しかしその不可能に近いことを、あえて可能にできないだろうかと模索し、試行錯誤を繰り返しその難しさに挑み続けてここまで来てしまった」と。画家や文筆家とは異なり、筆と紙による表現では無く、写真という銀塩フィルム、いや最近は電磁的撮像素子というテクノロジーで情感を表現することのジレンマをどのように克服するか。そこにはテクノロジーと精神世界という共に人間が生み出した大脳皮質にまつわる領域の融合と相互補完、という哲学的な問いが含まれている。

 この理解は重要だ。今や誰でも綺麗な写真は撮れる。テクノロジーはそれを可能ならしめた。花はそれだけで綺麗だ。観音菩薩像はその存在だけで慈悲深く優美だ。東大寺南大門はそれだけで荘厳・雄渾だ。写真はリアリティーを撮す。しかし、師が言うようにその「科学の眼」だけでは心は動かない。その背後にある目に見えない情感や時間を表現するにはどういう感覚を持っているべきなのか。可視化されるリアリティーの後ろに紡がれる物語を語るにはどうすれば良いのか。入江調には表現されている余情や気配がなぜ私には表現できていないのか。なぜそこにある物語(story)を訴えかけることができていないのか。「カメラという科学の眼だけで撮るのでは無く、心の眼との焦点合致を図らなければならない」のだと。「自分自身のストーリー」を持つことが大事なのだと。そんなことをグルグル考えながら邸内を見学させてもらい、結局は「来館記念写真」をいっぱい撮って帰ろうと、忙しくシャッターを切っている自分に思わず苦笑してしまった。ふと目をやると壁にかかる師の肖像写真が「まだまだやなあ」と笑っている。


東大寺戒壇院に続く道すがらにある



お寺の塔頭を移築した母屋
土間のない玄関がその名残



師の肖像写真
その風貌はフォトグラファーのそれでは無く
文人墨客の風貌だ

なかなかのユーモアセンス

編集者たちと打ち合わせた部屋。
師はいつもこのソファーに座っていたという


壁面書棚のある書斎
増築した部分
趣味の彫刻や絵画を楽しんだ縁側テラス
こんな部屋が欲しい!



絵の具
仏像の彫刻
小さな石仏



書斎の座卓
ここで撮影の事前調査や、写真集の構想を練ったという

玄関あたり


塔頭名残の縁側


秋には窓辺が紅葉に染まる

応接間
亀井勝一郎、志賀直哉、会津八一、白洲正子や杉本健吉など各界の名士との交流があった。




一見平屋に見える建物だが、斜面に建っているので裏に回るとかなりの高さだ



庭園の一角に設けられた現像室
再現されたものだとか
引き伸ばし機



玄関左手の井戸と丸窓

丸窓が素敵だ
案内と行き方のご参考に:入江泰吉旧居公式HP