2017年2月23日木曜日

「谷根千」谷中散策 〜寺と坂のある町〜

 谷中という地名は、上野台地と本郷台地の谷間に位置していることに由来しているという。江戸時代以前から尾根筋には町が形成されていたが、江戸時代になるとこの町人町に寺院が集められ寺町が形成されていった。その結果、辺りは門前町として繁栄する。高低差のある地形に網の目のように路地が走っていて独特の景観を呈している。幕末から明治の激動期にはすぐ東隣の上野のお山、寛永寺が戊辰戦争の激戦地となったが、谷中は戦火を免れた。また第二次大戦の空襲でもこの町は焼け残ったため、古い江戸の下町の佇まいを今に残している。とはいえ京都市内や大阪上町台地のような町家街としての景観は、東京の急速な近代都市としての発展の陰でかなり消滅していまっていて、今はむしろ東京の「昭和」な住宅街、商店街のそれになっている。これはこれでとてもノスタルジックで散策が楽しい。また、最近この辺りは谷中、根津、千駄木を含め「谷根千(やねせん)」と呼ばれ、江戸情緒あふれるエリアとして人気がある。

 JR日暮里駅から御殿坂を西へ進み「夕焼けだんだん」を下ると「谷中ぎんざ商店街」。東京の下町にはまだこのような商店街が残っている。品川区の「戸越銀座商店街」や「中延アーケード商店街」も人気だが、ここは江戸の下町情緒を残していて、外国人観光客が多いのが特色。戦後の高度経済成長期に大型スーパーや大資本のショッピングセンター、量販店ができて、住宅街に隣接するこうした昔ながらの商店街、アーケード街が、どこも寂れて「シャッター通り」になってしまった。やがてバブル崩壊。失われた10年、さらに20年が過ぎた。最近はむしろネット通販などのバーチャルショッピングモールが、大手のスーパーや量販店を脅かし始めている。デフレも進み大手商業施設の統廃合が進み地元から撤退してゆく。皮肉な巡り合わせだ。こうして再び古い地元商店街が見直されてきている。全国チェーン店ではなくて、個人商店やローカルビジネスがその個性的で地元志向のサービスを復活させつつある。ネットのバーチャルワールドに疲れた人々は町へ出てリアルの商店の惣菜の匂いや、売り子の威勢の良い掛け声、頑固オヤジやオバちゃんとの接点を求め始める。町の輪廻転生を感じる。

 谷中といえば墓地を思い浮かべるだろう。東京都内でも青山墓地などと並び古くて有名な墓地である。谷中墓地はかつては天王寺の境内であった。今でも五重塔跡が墓地内にある。隣は上野の寛永寺。言わずと知れた徳川家の大寺院。どちらも明治期の廃仏毀釈や徳川幕府崩壊の影響を受け、寺域が大きく縮減された。明治政府は神式の墓地を確保する必要もこれ有り、天王寺の墓地を一部没収し、旧東京市にこの谷中に墓地を設けさせた。今でも谷中墓地と、天王寺墓地と寛永寺墓地は隣接していて、というか(境界がなく)寄り集まって一帯が墓園を形成していると言って良い。ちなみに徳川慶喜公の墓所は、谷中墓地エリアでは無く、寛永寺墓苑エリアの属すそうだ。なぜ最後の将軍が江戸東京市民の谷中墓地にあるのか不思議だったが謎が解けた。谷中墓地は、渋沢栄一、幸田露伴、長谷川一夫など各界の有名人の墓があちこちに見られる。ある意味で江戸、東京の歴史を物語る地域となっている。

鍵屋のお仙 


  谷中墓地には桜並木がある。東京の桜の名所の一つであるが、かつては天王寺の表参道であり、江戸時代にも花見の名所として賑わっていた。その入り口には花見客相手のお茶屋が軒を連ねていたという。現在も数軒残されている。また、天王寺近くの笠森稲荷門前に鍵屋という水茶屋があったと言われている(現在、場所が特定できないそうだが)。ここには江戸期の明和三美人の一人と言われた、水茶屋鍵屋のお仙という評判の看板娘がいたそうだ。このお仙目当ての客も多かったそうで、彼女を描いた鈴木春信の浮世絵がすごい人気だった。春信はこの絵がヒットして浮世絵師メジャーデビューを果たしたとも言われている。今でいうアイドルのブロマイド(この単語自体がもう死語であるが)ような存在だったのだろう。


 先述のように、谷中は寺町である。歩いてみると日蓮宗の寺院が多いように思う。歴史を遡れば、先述のように現在の谷中墓地は天王寺の寺域であった。その前身は13世紀の日蓮の弟子日源によって創建された感応寺であったという。江戸時代になると、感応寺は三代将軍家光や英勝院、春日局の厚い庇護を得て繁栄を誇ったが、のちに日蓮宗不受不施派の寺となり幕府に邪教として睨まれて宗門閉鎖に追い込まれた。その後再興の動きもあったが、結局は天台宗に改宗して天王寺として再建され現在に至る。江戸時代初期はこのあたり一帯の寺院は日蓮宗感応寺の末寺が多かったのであろう。現在は日蓮宗のほか。天台宗や曹洞宗などの宗派寺院が混在している。

感応寺境内図

 この辺りは高台でかつては眺めも良く、行楽に訪れる江戸庶民も多かったという。江戸時代には風流人を当て込んだと見られる凝った庭園を有する寺が多かった。それに四季折々の景観を楽しめることから、根岸あたりは富裕な商人や文人墨客の別邸も立ち並ぶなど、風流人憧れの土地であったようだ。地名の日暮里(にっぽり)も、もとは新堀村(にっぽりむら)であったのだが、粋人達が「日暮らしの里」という当て字にしたのが始まりと言われている。富士見坂からは、文字通り富士山の眺望が楽しめた。今は周りに高い建物が立ち並んで眺望がきかなくなってしまったが、「寺と坂のある町」谷中、日暮里は粋な町だったのだ。

 ちなみに今回の谷中散策ブラパチカメラはLeicaQ Summilux 28mm ASPH。M Type240+Summilux 35mm ASPHも持って行ったが、結局ほとんどすべてをQでまかなった。こうしたストリートフォトには最適のカメラだ。広角マクロまで付いているので落花のクローズアップもお手のもの。


夕焼けだんだん
尾根筋から谷筋へ
御殿坂から谷中ぎんざ商店街へ続く



谷中ぎんざ商店街



猫が見守るお惣菜屋さん


何屋さん?
「錻力」を読めれば...


昭和の香り漂う
「初音小路」 


三崎坂あたりの家並み

朝倉彫塑館


落花の舞
谷中コミュニティーセンタ辺り

椿
お寺の境内から塀越しに伸びてくる古木


寺町らしく寺院が立ち並ぶ
日蓮宗の寺が多い
竹垣

観音寺の築地塀


元質屋の建物を活用したアートスペース「すぺーす小倉や」


こちらは元銭湯を活用した「スカイ・ザ・バスハウス」
あちこちに路地が



風雅と洒脱!?
これも街角アート!?



ヒマラヤ杉
分かれの一本杉
切り倒す話が出ていて保存運動が起きている。

旧吉田屋本店
酒屋さんだった

古い看板

人気の古民家カフェ


谷中霊園入り口
江戸時代には谷中の桜見物の客相手の茶屋が並んでいた。
現在も名残の数軒が残っている。

天王寺五重塔跡
昭和になって焼失した
幸田露伴の小説「五重塔」はその事件を描いた
徳川慶喜公墓所
ここは谷中墓地では無く寛永寺墓地だそうだ

名物「谷中七福神そば」で一服

(撮影機材:Leica Q Summilux 28mm 1.7f ASPH)



台東区HPより