2017年4月10日月曜日

桜咲く(1) 〜福岡舞鶴城の桜〜

 
多聞櫓



 今年は桜の満開が遅い。先週の大和路散策では、全く桜に恵まれなかったが、ここ福岡にきてようやく桜がほぼ満開となっている景色を拝むことができた。1日目は快晴。この時期にしては暑いくらいの20℃超。いたるところさぞや桜が満開... しかしこの日は1日仕事で、九州大学伊都キャンパスにいた。山を切り開いて造成した近代的な高層ビルが連なる新キャンパス。しかし学校には必ずある桜の気配はなし。時期だ時期だけに「入学式会場」の看板が並んでいたが、桜華に迎えられての入学式は無理そうだ。いかにも新開地という風情。桜が似合う智の殿堂に成熟するにはまだまだ時がかかろう。翌日福岡市内中心部へ。しかし、昨日と打って変わって天気が崩れ、あいにくの雨模様。これはこれで風情があって良い、とうそぶかざるを得ない。ホテルの近くの桜の名所、福岡舞鶴城跡に来てみた。

 この福岡城は、関ヶ原の功績で豊前国中津から筑前一国52万石の太守として入府した黒田如水、長政父子により築城。縄張りの名手、黒田如水の手になる名城である。別名、舞鶴城とも呼ぶ。あの熊本城を築造した加藤清正がその合理性と防備性能に驚嘆したという福岡城。朝鮮の役で難攻不落であった晋州城をモデルにしたと言われる名城である。しかし、なぜか福岡城はこれまで「天下の名城」という評価を受けてこなかった。なぜなのだろう?そのためかあまり城跡が史跡として大事にされてこなかった嫌いがある。明治維新後は、47あったと言われる壮麗な櫓の数々も破却され、石垣と内掘のみが残った。城の西側にあった古代の草香江野津を利用した大堀は勧業博覧会開催のため、一部が埋め立てられ、修景整備されて現在の大濠公園となった。城内には一時期、県庁などの建物があったそうだ。戦前は陸軍の練兵場になっていた。戦後は、戦災復興住宅が城内に建設されいまでも住宅地が存在していて中学校まであったが去年廃校になった。一世を風靡した野武士軍団西鉄ライオンズのフランチャイズであった平和台球場や、福岡国際マラソンの平和台陸上競技場が城内いっぱいに作られ、高等裁判所が上の橋御門の奥にそびえる。国立病院も大濠公園寄りの堀端にあった。ようするに史跡として扱われず、広大な官有地として捉えられていた。

 最近、ようやく城跡としての整備が始まったようだ。2013年、「福岡セントラルパーク」構想が策定され、それによって城跡公園としての建物の復元、石垣整備、緑地整備などに取り組むこととしている。そのきっかけは旧平和台球場跡で見つかった古代鴻臚館跡。奈良時代後期から平安時代にかけて太宰府の外港として殷賑を極めた那の津・博多津に、大陸との外交、交易のために設けられた公館。外交使節の接受と、官製貿易、すなわち貿易利権を律令国家が一手に手中に納めるために設置された施設であった。しかし、鴻臚館は資料に記録はあるものの、長く所在地が不明であった。戦前は博多部の呉服町あたりにあったと想定されていた。しかし九州帝国大学医学部の中山平次郎教授は、福岡城内のこの位置にあったはずと「予言」していた。そうして旧平和台球場の改修工事中に遺構の一部がついに見つかった。その後、球場が廃止となりその取壊し、跡地整備の時に大規模な遺構が発見されるに至った。現在は、その遺構と大量の出土品を展示、収蔵する鴻臚館資料館が建っている。これとセットで福岡の史跡観光資源として整備しようということになったようだ。
鴻臚館
旧平和台球場跡から遺構が発掘された

 国立病院も移転し、高等裁判所も間も無く六本松の九大教養部跡(旧制福岡高等学校跡)に移転する。残るは陸上競技場と住宅団地のみ。陸上競技場は博多の森競技場という立派な施設ができたが、福岡国際マラソン出発/ゴールという伝統ある競技場なせいか、移転取り壊しという話を聞かない。一部、潮見櫓や祈念櫓が復元されたが、その復元位置は記録も少なく正確ではないとされる。常に論争の対象になっている。また最近、下の橋御門が復元されたが、これも当時の資料が残っておらず、その復元様式にもいろんな疑問が投げかけられている。とにかくこれだけの大藩の大名の、これだけの縄張りを誇る城郭であるにもかかわらず残存資料が少なすぎるようだ。石垣もあちこちで崩壊が始まる有様であったが、最近徐々に修復工事が進んでいる。一方で、市民の間で天守閣を再建しようという試みもあるようだが、そもそも天守閣は存在しなかった(あるいは建てられたが、すぐに破却されたとの記録もある)ので、「再建」といってもどんな意匠にするのか。というわけであまり盛り上がってはいない。

 以前から感じているが、福岡という町自体、意外にも城下町としての面影が薄い町である。市民の間でも、こんな大きな城跡があるのに、城下町だという認識が乏しいのではと感じてしまう町、福岡。そういえば、各地の城下町にある名園と謳われるような大名庭園も、城下町独特の家並みもない福岡。よく福岡以外の出身者に「お城なんてありましたっけ?」と聞かれる。お隣の博多ですら、町は弥生時代、古代から中世にかけて大陸への窓口、国際貿易港として繁栄した2000年の歴史を有するのに、そうとわかる遺構は少ない。博多の聖福寺、承天寺に本邦最古の禅寺を確認することができるが、その他は博多祇園山笠の「流れ」に太閤割の時の博多町割の面影を残すのみだ。古代、奴国の時代から日本列島における最先端文化地域、大陸からの文明の玄関口であった博多なのだが、その割にはあまり歴史の蓄積と重みを感じさせない今の福岡市だ。そういった観点からも鴻臚館跡の発見は画期的だし城跡公園の整備を合わせて、これから日本最古の国際交易都市、2000年の歴史という資産を生かした街になるキッカケになってほしいものだ。

 今回の旅でも感じたが、福岡は最近は訪日外国人(中国、香港、台湾、韓国)が急増している。いたるところで中国語や韓国語が聞こえる。一時期の「爆買い」を目的にしたツアーは下火になってきたようだが、相変わらず団体さんが、どっと押しかけ、どっと帰ってゆくパターンはここ福岡・博多でも変わらない。かつて日本人団体ツアーが欧州やNYCを旗に伴われて集団闊歩していた姿を思い出させる。この日も福岡城に大勢の団体さんがバスで乗り付けていた。空路はもとより、釜山からは高速船でわずか3時間で博多港に着く。上海からは大型のクルーズ客船で大量の中国人観光客が博多港に押し寄せる。こうしてみると、やはり博多は古代より大陸への玄関口であったのだということを改めて実感させられる。

2012年6月16日のブログ:福岡城と鴻臚館 〜半島に築け時代の館を〜

石垣が修復され美しくなった
桜花が映える


舞鶴城お堀ばた
4月は新入社員のシーズン
一人で大丈夫か?

祈念櫓

平和台陸上競技場

天守台石垣
武者返しが無い直線的な構造

天守台から本丸を望む




油山展望

天守台への鉄門あたり

名島門

城跡公園から大濠公園へ

大濠公園

大濠公園から望む油山

柳が芽吹き始めた
(撮影機材:SONYα7R II + FE24-240 Zoom)