2017年5月23日火曜日

大航海時代と日本 〜「長崎出島」は「鎖国」の象徴か?〜

 
ベランの「長崎の街と港」図
1750年
南北が逆になっている

日本の版画「肥州長崎之図」
1800年ころ
ケンペルの「出島の図」


 私の古書、古地図探訪の旅が終わらない。「時空トラベラー」は、古代倭国を飛び出して、大航海時代のジパングにも思いを馳せる。以前から探していた古地図、ベラン( Bellin, Jacques Nicolas)の「長崎の街と港」(Grundriss von dem Hafen und der Stadt Nangasaki)を入手した。1750年パリで刊行されたもの。プレヴォ(Antonine-Francois Prevost)が編集した「旅行記大全」(Histoire Generale des Voyages)の第10巻に収録されている。日本で言えば江戸時代中期、ヨーロッパ人が描いた鎖国時代の唯一の国際貿易港である長崎の都市地図だ。オランダ商館(オランダ東インド会社長崎支店)が置かれた出島がはっきりと描かれている。

ベランはフランスの地図製作者で地理学者であり、水路測量技師でもあった。ベランは、長崎のオランダ商館のドイツ人医師、ケンペル(Engelbert Kaempher:1690〜92年日本に滞在)の「日本誌」(彼の死後1727年スローンにより英訳され出版)に含まれる長崎図を元にこの地図を作成したと言われている(下段に掲載した2021年10月26日の「追記」参照)。ケンペルの原画に比べるとかなり簡略化して描かれている(上掲出のDejima図は1779年のいわゆるドイツ語のドーム版に収録されているもの)。1750年頃には出島と唐人屋敷地区の間の海を埋立、新たな幕府直轄の蔵屋敷が設置された(1800年頃の「肥州長崎之図」参照)が、ベランの図にはそれが描かれていない。やはり1636年、寛永年間に出島が造成された直後(あるいは1641年にオランダ商館が平戸からが出島に移された頃)の図がもとになっている証拠であろう(すなわち100年前の長崎の様子が描かれたもの)。長崎の地図は日本の製作者によるものは数多く出版されているし、幕末開港期、明治以降の復刻版も多い。しかし、江戸時代にヨーロッパ人が製作したものはなかなか見つからない。幕府が地図を国外に持ち出すことを禁じていたことが大きな理由であろう。ケンペルの原画というものも、日本の地図をもとにしたものではなく、彼自身のスケッチや見聞による復元であろう。それをもとに100年後に「復刻」したベランの図(もちろん本人が見聞したわけでもない)も、長崎の現状を正確に表したものとはいえないが、おおよその幕府関連の重要施設の配置は再現されている。幕府の「遠見番所」などは、広大な敷地を有する「兵舎」であるかのように誇張して描かれている。しかも湾の対岸にも大きな「兵舎」が描かれている。また、出島に比べ「唐人屋敷」地区が波止場を有した大きな施設であったように描かれているのが興味深い。

 今回は丸善雄松堂の古書カタログで見つけた。早速、丸善日本橋店のワールドアンティークブックプラザに問い合わせた。残念ながら現品は福岡店に展示されていて、しかも地元の大学から予約が入っているとのこと。しかし、より程度の良いものが2点入荷したと電話が入ったので見に行くと、一点は彩色が施された1752年のもの。もう一点が1750年の無彩色だが非常に程度の良いものであった。迷ったが無彩色版を購入した。以前から「長崎」、「出島」をキーワードに、ロンドンのセシルコート古書店街や、ニューヨークのマディソン街の古書店でも探したがなかなか見つからなかったものだ。探しているときはなかなか出てこないが、出るときは結構まとまって出るものだ。そしてやはり日本の古書店の方がこうした日本関連のものは見つけやすいのだろう。ペリーの「日本遠征記」を探していたときの時と同じ状況だ。



 なぜ「出島」が生まれたのか?

 誰もが知る通り、長崎は「鎖国時代」我が国唯一の対外貿易の窓口となった町である。徳川幕府の直轄地で、オランダと中国にのみに門戸が開かれていた。キリスト教徒(プロテスタントであるが)であるオランダ人は湾内に造成された埋立地「出島」に商館を置くことが求められ、キリスト教徒でない中国人は日本人と雑居していても構わないのだが、大浦の一角に居留地(いわゆる唐人屋敷)を置くこととした。ベランの地図を見ても出島が特異な扇型形状の人工的な施設であることがわかる。また、出島の南の(上の)対岸には中国人居留地区(唐人屋敷)が描かれている。この出島こそ、江戸時代の対外孤立策「鎖国政策」のシンボル的なランドマークと捉えられている。なぜこのような施設が生まれたのか。その本当の意味は何か。古地図が投げかける「問い」に挑戦してみよう。そのためには少々、大航海時代にユーラシア大陸の西端のヨーロッパからはるばる日本にやってきた人々の歴史を振り返ろう。日欧交流の歴史だ。


 ヨーロッパと日本との出会い。幻想から現実へ

 ユーラシア大陸の西端にいたヨーロッパ人にとって、かつて日本はユーラシア大陸の遥か東端、中国の向こうの海中に存在する謎に満ちた「黄金の国」であった。「宮殿は全て黄金の屋根で覆われ、無尽蔵に金が取れる夢の国だ」と。その国の名は「ジパング」。このような「おとぎの国」像は、13世紀マルコポーロの「東方見聞録」に記された記事が元になっている。こうして「黄金の国」ジパング求めてヨーロッパ人の大航海時代は始まった。そういわれるほどのブームを巻き起こした。マルコ・ポーロはイスラム商人の助けを借りながら、陸路で中国元王朝の都「大都」に到達した。そこで彼は周辺国事情を聞き書きしたものと思われる。そのなかの特筆すべき国、それが東の海中にあるジパングである。彼は実際にジパングへ渡ったわけではない。全て伝聞による情報というわけだ。未知の黄金郷へという野望に駆り立てられた冒険者が次々と船出していった。こうして東回りでジパングに向かうバーソロミュー・ディアスやバスコ・ダ・ガマの航路に対し、西回り航路を開拓するしようとクリストファー・コロンブスのジパング/インド到達航海が実行された。1492年の新大陸アメリカの発見(現在のカリブ海西インド諸島サンサルバドル島上陸)!?コロンブスは最後まで自分はインドに到達したと信じていた。さて次はジパングだ!と。実際はインドまで到達する途中の大西洋と太平洋の間に横たわる新大陸であることがわかった。歴史上の大誤解の一つだ。やがて、探していた金が採れることがわかり、黄金の国、エルドラードはアメリカ大陸にあったと熱狂することになる。そしてだんだん「黄金の国ジパング」が幻想であることがわかってくる。

 その後、スペイン艦隊を率いたマゼランはその世界一周航海(1519〜22年)で、1521年にフィリピンに向かう途中ジパング島の近海を航行したが(航海日誌に記録がある)、寄って見ようともせず通過している。ジパング・パッシングだ。このころにはもはやジパング黄金伝説は幻想に過ぎないと考えられていた証左であろう。実際、16世紀初頭の日本といば室町時代後半。先の1467〜77年の10年にわたる応仁の乱で都は荒廃し、幕府統治能力が瓦解に瀕し、やがて戦国時代へ突入する時期である。そもそも資源に乏しく、農業生産力も(主として米であるが)自国の消費で手一杯。絹は中国からの輸入に頼る。銅銭や陶磁器も中国から輸入。金や銀や香料などの希少資源を求めて世界を徘徊する「大航海時代」の主役、略奪帝国主義者たちにとって「ジパング」はもはや魅力的な到達目標ではなかった。

 日本に最初に上陸したヨーロッパ人はポルトガル人であった。それは1543年(天文12年)種子島にやってきた。と言うより正確には「漂着した」。彼らはこのとき鉄砲を持っていたので、これが日本にとって、歴史の画期「鉄砲伝来」となった話は教科書にも出ている。鉄砲の伝来時期には諸説あるが、ともあれポルトガル人が意図せず「偶然」漂着し、期せずしてあのジパングとの交流が始まった。「おお!ここがあのジパングか!」と。しかし。これはポルトガルと日本の正式な外交関係、貿易関係の開始ではない。その後1550年ポルトガルのインド副王の使節が平戸にやってきて交易を求め、織田信長の庇護によりポルトガルとの「南蛮貿易」が始まった。

 次にやってきたのはスペイン人。すなわちイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル一行だ。1549年(天文18年)鹿児島に上陸。もちろんカトリックを布教することが目的だ。上陸後、豊後府内(大分)や博多、山口などを経て都へと進む。大友宗麟などの九州の大名や都の織田信長などの新しもの好き権力者たちに受け入れられていった。もっとも彼らの直接的な関心はキリスト教よりも鉄砲や珍しい交易品の数々であった。ただスペイン国王はあまり日本との交易に関心を示さなかったようだ。国同士の交易に発展するのは、1591〜2年マニラからスペインの公式使節が来訪してからのことだ。これ以降、鎖国まで次々と渡来する宣教師に誘われる形で「南蛮人」が渡来する。

 やがてイエズス会宣教師の勧めで「天正遣欧少年使節」がローマに派遣された1582年(天正10年)〜1590年(天正18年)のことである。イエズス会の辺境の地の異教徒に対する布教活動の華々しい成果として。ローマ法王に謁見し、各訪問先では、珍しさもあって大歓迎された。あのジパングが、日本( Happon)となり、ヨーロッパ人が違った意味で大きな関心を抱くきっかけになった。このころの日欧交流の主役は「南蛮人」すなわちポルトガル人、スペイン人であった。「紅毛人」すなわちオランダ人やイギリス人が登場するのはこの後である。

 その次にやってきたのは、イギリス人ウィリアム・アダムズ。1600年(慶長5年)オランダ船リーフデ号の航海士として豊後府内に「漂着」した。のちの三浦按針である。徳川家康の外交顧問として日本に滞在し、士分に取り立てられ三浦半島に領地をもらった。同じくオランダ人ヤン・ヨーステン(のちの八重洲)も上陸。オランダとイギリスという新興国の人間がジパングに到達するようになる。そして彼らの情報に基づきやってきたのが、1609年、正式な国書を持ったオランダからの使節。家康から貿易朱印状を得て平戸に商館を開いた。最後に、1613年、ウィリアム・アダムスからの手紙に刺激されてバンタムのイギリス東インド会社からジョン・セーリスが平戸に来航。。国王ジェームス1世の国書を家康に奉呈し、平戸にイギリス商館を開いた。

 このように日本への来航時期を見ると、アメリカやアジアの他の諸国に比べ、かなり遅いことがわかるだろう。ポルトガル人の種子島漂着はバスコ・ダ・ガマのインドカリカット到達の45年後(正式な使節の来航は50年後)、スペイン人の日本到達は、コロンブスのアメリカ到達の57年後(正式な使節の来航は100年後)、マゼランの世界周航の75年後である。イギリスやオランダが遅いのは後発国であるから理解できるが、全体的に香料や金を狙って世界中を駆け回っていたポルトガルやスペインが半世紀遅れてようやく日本に到達したのは、それだけ日本への関心がなかったことの証左であろう。


 対日貿易を巡る競争と禁教令

 その当時、日本との貿易を牛耳っていたのはポルトガルである。彼らは中国(明)のマカオを拠点として、明と日本との中継貿易で巨大な利益を上げていた。すなわち新たに発見された日本の石見銀山の銀で、中国の絹や陶器などを買い、日本に輸出してまた銀を得る。そのマージンを取って利益を得るという商社的な貿易。これは当時、日明直接貿易が倭寇問題で停止(明国の鎖国状態)されていたという背景がある。その隙間を狙った旨みのある貿易であった。当初はマカオを拠点に活動していたが、やがて平戸、長崎に進出し、貿易量は拡大の一途をたどりポルトガルに莫大な利益をもたらした。それはポルトガル本国との貿易額を遥かに上回った。

 ここに割って入ろうとしたのがスペインから独立したばかりの新興国オランダだ。ポルトガルはこの頃すでにスペイン王の支配下にあったが、ブラジル植民地の獲得、メキシコやペルーからの金、銀供給も確保して繁栄を誇っていた。そこへこの明、ポルトガル、日本の三角貿易で高い利益率の商売が成功したわけだ。一方、イギリスやオランダは新興勢力としてアジアや新大陸(アメリカ)における交易参入、さらには植民地覇権に意欲を燃やしていた。ホームのヨーロッパにおけるプロテスタント勢力とカトリック勢力との争いも背景にあり、旧勢力であるスペイン・ポルトガルとの争いが、アウェーである東洋にも飛び火した格好だ。この新興国の対日貿易進出競争は徐々に熾烈を極めることになる。

 一方、同じ新興勢力であるオランダとイギリスの競争はオランダに軍配が上がる。イギリスは、日本市場参入に失敗し、結局平戸の商館をたたみ撤退する。のちに再チャレンジする動きもあったが、ただイギリスはこののち新大陸や中東、インド、インドシナ、中国、オーストラリアと、七つの海に君臨するに広大な大英帝国を築き始めていて、徐々に極東の日本に手を伸ばす余裕も、インセンティヴも薄れていた。一方のオランダは、そうしたライバルの撤退という幸運も有り、何と言っても対日貿易利権は魅力的であった。またバタビア、アンボイナの後方兵站基地の役割を果たした。

 やがてオランダは日本からポルトガルの追い出しを始めた。ポルトガルが築き上げた高利回りの貿易利権を奪おうというわけだ。徳川幕府も初期にはポルトガルとの貿易を認め、長崎の出島はポルトガル人が最初の住人であった。オランダは新教プロテスタントの国であり、そもそもスペインやポルトガルの旧教カトリック国とは対立していた。そこでオランダ人は、ポルトガル/スペイン人宣教師による「日本征服」謀略説の流布を始める。こうしたオランダ人の讒言により、幕府は1612年禁教令を出した。そこへ1637年にはキリシタンや農民の反乱である「島原の乱」が勃発し、オランダのプロパガンダの正しさを証明することとなった。幕府はますますキリシタン禁教に取り組むこととなる。1639年にはポルトガル船の入港禁止とポルトガル人の追放、と、いわゆる一連の「鎖国政策」を進めた。こうして幕府はポルトガルに代わりオランダをその統制貿易の相手に選んだ。ポルトガルはそれでも幕府に対して交易を認めてくれるよう使節を送ってきたが、幕府はこれを拒絶し、使節を処刑している。ついにオランダは対日貿易を独占することに成功した。もっともオランダにとってはかなり屈辱的な管理貿易(出島に押し込められ、年一回江戸参府を義務つけられ、将軍家に臣下の礼を取る、など)であったが、それを補ってあまりあるだけのメリットがオランダにはあったようだ。一方、幕府側から見るとオランダとの貿易量は中国との貿易量の半分程度であったが、量よりも文物・知識・情報の質を重んじたのであろう。


 こうして「出島」が生まれた。

 徳川幕府は長崎を唯一の国際関門港に指定して幕府直轄領とする。そして1634年から出島築造に着手し、1636年完成する。こうして湾内に人工的な埋立地を設け、周囲を壁で囲み、市街地とは一本の橋でのみ繋がる「出島」を設けた。その橋のたもとには奉行所を置いた。前述のように当初はポルトガル人がこの出島の住人であったが、禁教令以降一連の「鎖国令」によりポルトガルを追い出し、オランダ、中国(明、清)のみを貿易相手国に指定。1641年にはオランダ人(東インド会社)を平戸から移して長崎の出島に押し込めた。こうして徳川幕府は統制貿易体制を敷き貿易と海外情報を独占した。いわば「長崎出島統制貿易特区」の創出である。

 出島のオランダ商館長は幕府に対して海外情報を定期的に提供することが義務つけられていた。これが「阿蘭陀風説書」である。オランダ商館長は自国の貿易利権を守るために積極的にこの求めに応じた。当然オランダに都合の悪い情報は入っていなかったし、長崎奉行所の通詞も、内容を吟味しながら幕府の提出する情報を取捨選択していたようだが、海外情勢の把握/分析に役立つ貴重な報告書であった。徳川幕府は、これにより「鎖国時代」初期にはキリスト教の動きに、後期には西欧の近代化の動きに細心の注意を払った。一方で、オランダ商館によるオランダ東インド会社バタビアへの報告書や、商館付きの医者であり科学者であった、ケンペル、ツンベルク、シーボルト(出島三賢人と言われた)が歴代著した「日本誌」「江戸参府記」は、「鎖国」下の日本の事情を知る貴重な情報源となった。先に掲出のベランの「長崎の街と港」地図もケンペルの「日本誌」から引用したものだ。のちにペリーが黒船を連れて浦賀に来航する際には、ケンペルとシーボルトの本を買い集めて十分に事前準備してきた。シーボルトはペリーに書簡を送り、対日交渉への助言をしている。このあたりの事情は彼の「日本遠征記」に詳しく書かれている。

 この海外情報独占体制を通じ、徳川幕府は朝廷、諸大名に比べ、海外情報を一元的に入手することができた。江戸後期に至り、ロシア、アメリカの艦船が近海に出没するようになってからも、長崎を通じてその動きを事前に把握している。1853年の米国ペリー艦隊の来航も事前に把握し、準備を進めていた。幕末期に中国の清朝がイギリス始め西欧列強に侵略される様子も知っていた。朝廷はもとより、諸藩は海外情勢に触れる機会も無く、ただ日本近海に外国船が頻繁に出没する現実を目の当たりにして警戒心を抱くようになっていた。そういう中で、ペリーの黒船来航に驚愕し、翌年、幕府が締結した日米和親条約(開国)にショックを受けた。彼らは世界の情勢を十分に知るすべがない中で、現実が先行する状況であったわけで、幕府の対応を非難し「尊皇攘夷」を叫んだのも理解できる。海外情報に接していなかった諸藩は、幕末になって慌てて藩士を「長崎留学」に出したりして、キャッチアップを図ろうとしたが、幕府の情報優位性は圧倒的であった。ただ例外は、薩摩藩の琉球貿易、対馬藩の朝鮮通信(外交・交易)、松前藩の蝦夷交易があった。中でも薩摩藩は琉球貿易を通じて幅広い海外情勢に接する機会を持っていた。こうした体制を「鎖国」と呼んでいるが、実は「鎖国=孤立」とは限らない。

 そもそも「鎖国」という言い方が正しいのか、最近は議論になっている。具体的には1612年の「寛永異教令(禁教令)」や、1633年の日本人の海外渡航禁止・帰国禁止、1639年ポルトガル船入港禁止など、数次にわたって出された幕府の命令をまとめて「鎖国令」と称している。そもそも「鎖国」と言う言葉自体は、幕府が使っていたものでもなく、先ほどのケンペルの「日本誌」に出てくる第五代将軍綱吉時代の対外政策を記述した部分を、のちに江戸時代の蘭学者志筑忠雄が一言で「鎖国」と訳したことが始めだと言われている。上述のように「鎖国」下の日本においても、長崎という外世界へのウィンドウを独占した徳川幕府は、考えられている以上に正確に海外情勢を把握していた。「出島」というアイソレートされた埋立地が、「鎖国」すなわち「孤立」政策の象徴のように見られるのだが、現代のように自由貿易が原則であるグローバルエコノミーの時代とは異なり、近世においては国家や権力者が貿易を独占する管理貿易/統制貿易は珍しいことではなかった。「出島」をその象徴と見て、江戸時代を通じて「鎖国政策」により世界から「孤立」していた、と断ずるのは誤りであろう。歴史を「鎖国」か「開国」か、白か黒かという「二分法」で片付けることに等しい議論だと思う。


 そして「出島」時代の終焉へ

 このように幕府は海外の動向を、諸藩よりは正確に把握していたが、結局は倒幕へと時代は動くこととなった。これは徳川幕府が西欧列強諸国との対応に失敗したから、圧力に屈したからということでも、西南雄藩の方が世界に目覚めていて進歩的であったからということでもない。幕府崩壊の真の理由は別のところにあった。徳川政権は、西欧列強の資本主義、帝国主義的な動きを把握し、国家の近代化の必要性を十分認識していても、結局は、武士が農民を支配する「米本位」の農本主義経済、その統治機構である「幕藩体制」がすでにこうした時代のイノベーションに対応できない枠組みになっていた。徳川幕府主導の近代化を図ろうとすれば、自らの体制を否定するところから始めなけらばならない状況になっていた。端的に言えば、支配階級であるはずの武士を食わしていけなくなっていたからだ。その旧体制(アンシャンレジーム)の象徴である武家政権徳川幕府の打倒、各地の藩の解体へと時代が進まざるを得なかった。倒幕を進めた西南雄藩とて、当初、藩主たちはアンシャンレジームの中での徳川家に代わる「政権交代」と捉えていた嫌いがある。「いやそうじゃない」と気づいたのは倒幕推進の若い下級武士たちであった。自分が所属する(ないしは出身の)藩を含む幕藩体制こそ打倒の対象になっていった。もちろんそのきっかけを作ったのは西欧列強の日本への外圧であったことは間違いない。そして世界に開かれた長崎がそうした「草莽崛起」の若者たちが集まる中心都市になったことは不思議ではない。

 だが一方、平安時代末期の平清盛以来、750年続いた「武家による統治」の仕組みを変えるのは大変なことであった。長年続いた「統治権威は朝廷」「統治権力は幕府」という二元統治体制は半ば「日本の美風」ですらあったわけだから。徳川幕府も最後には「大政奉還」すなわち統治権力を天皇に「お返しする」ことで「美風」を守ったわけだ。しかし、徳川家が「政権を返す」だけではことは収まらない。徳川家に取って代わる「武家」の統治者が出てきたのでは革命的ではない。同時に諸大名も「藩籍奉還」「秩禄処分」、究極的には「廃藩置県」ということになる。要するに武家の世の中は終りだとわからせる仕組みが必須であった。天皇を中心とする「一君万民」の統治体制の復活を宣言する。そしてこれまでの藩主・大名は天皇を守る藩屏としての「華族」に組み入れられる。すなわち「そもそも天地開闢以来、日の本は天照大神の皇孫、天皇が支配する国」であるという、永年忘れ去られていた「あるべき姿」を思い起こさせること。その原点に帰る「尊皇思想」以外に永年の武家政権を終わらせるイデオロギーはなかった。そこに1200年前の古代律令制の仕組みを持ち出して「王政復古」を唱えなければならなかった理由が有る。その1200年前の古代統治体制の復活と19世紀的国家の近代化が一体となった明治維新(Meiji Restoration)の姿がある。そこに「維新」と「復古」が同居すると言う矛盾が生じた。

 ペリー来航、日米和親条約締結の翌年、1855年、日蘭和親条約が締結され、その翌年には「出島開放令」でオランダ人の長崎市内への出入りが自由となる。1859年、出島オランダ商館が閉鎖され200年余の歴史に幕を閉じた。こうして歴史的な役割を終えた出島は明治期に徐々に周囲が埋め立てられ、島ではなくなってしまった。最近、この出島自体とそこにあった建物などの復元作業が進められている。



復元された出島跡

出島の外壁も復元された

出島の外周部。右側は海が埋め立てられた部分

オランダ商館内部






明治になってから建てられた長崎内外クラブ(左手)と出島神学校(右手)

 以下、「長崎歴史文化博物館」収蔵の阿蘭陀絵図(川原慶賀作)から。200年余にわたる出島のオランダ人の存在は長崎に独特の文化を生み出した。






2021年10月26日 追記

ケンペルの「日本誌」The History of Japanの英語版初版(スローン版1727年ロンドン)に、「長崎出島図」が掲載されており、べランの出島図(1750年)はこれを元にしていることが判明した。したがってドイツ語ドーム版の図(上記の簡略図)とは大きく異なっていることが判明。おそらくべランはこの英訳初版から翻訳したフランス語版から引用したのであろう。

ケンペル「日本誌」(英訳スローン版1727年初版)の
復刻版(グラスゴー版1909年)から
ベランの「長崎の街と港」図
1750年
ケンペル「日本誌」から引用したことがわかる