2017年10月10日火曜日

人生の分かれ道

Russel Sq.のUniversity of London HQ


  英国の小説家Kazuo Ishiguro:カズオ・イシグロが本年度のノーベル文学賞に選ばれた。巷の下馬評では毎年、村上春樹が候補者筆頭にノミネートされるのだが、今年は後輩のKazuo Ishiguroが選ばれた。私にとっては、その昔The Remain of the Day(1989年のブッカー賞受賞作品)を単なる英国のライフスタイルへのノスタルジーで手にとって読んだのが最初だった。Kazuo Ishiguroという日本人名の英国作家というのにも興味を持った。しかし、あの時はそれ以上でもそれ以下でもなかった。私がロンドンに赴任していた1995年には彼は大英帝国勲章を授与され、そんなニュースがロンドン在住の日本人の間で話題になっていた記憶はある。

 Kazuo Ishiguroいや石黒一雄は1954年長崎生まれ。1960年、6歳の時に海洋学者であった父の英国赴任で家族と一緒に英国に渡る。Surrey州Gildfordに住んでいた。最初はいずれ日本へ帰る海外赴任であったはずが、結果的には1983年に英国に帰化することになる。Kent大学とEast Anglia大学に学び、ミュージシャンを志し、やがて小説家に。とまあ、日本人として生まれ英国人になった。William Adams、三浦按針の逆人生を歩んだ。その間、日本には一度も帰らず日本の記憶はどんどん彼方に薄れていったと言っている。家族同士は日本語で話していたそうだが、大人になるにつれ日本語もしゃべれなくなり、思考様式もどんどん英国人になっていったという。名前と外見は日本人だが、中身は英国人。日本という要素は薄れる記憶の中にある5歳の頃の長崎のイメージだけであったという。かれはもはや紛れもない英国の小説家なのだ。しかしそんなことは彼の小説家としての名声にとっては重要な要素ではない。彼が語っているように、あまり日本人だ、英国人だ、と意識して小説を書いてはいない。一人の人間として独特の世界を紡ぎ出している。英国でも日本でもない、いやどちらにも通じる普遍性。そう文学作品としてのメッセージの普遍性は政治的な産物である国境/国籍を超越する。小説家はフィクションで真実を描き出す。ウソとフィクションは違う。人を混乱させ、当惑させるのがウソ。そこに真実はない。虚構により真実を語るのがフィクション。比喩、暗喩により普遍性を描いてみせる。あのバトラーの人生は多くの人間の人生そのものだ。

 こうしてKazuo Ishiguroは今年のノーベル賞受賞作家として脚光を浴びるのだが、私には彼の作品や表現の持つ普遍性についてよりも、むしろその生い立ちに強い関心を抱いた。彼は海洋学者であった父の仕事の関係で英国に渡り、日本人から英国人になった。それを知ってふと、自分の人生とどこか一瞬重なる記憶、ある既視感のような不思議な感覚に囚われた。生まれた年代も50年代。実は私も研究者であった父の仕事の関係で米国に渡り、ひょっとするとそのまま米国人になっていたかもしれなかったからだ。しかし、私は日本に残った。一瞬そのお互いの人生はクロスして、すれ違い全く違う方向へ別れていった。

 私の父は生薬学の研究者であった。私は東京で生まれたが、その後父の赴任にともなって福岡に移った。そこから父は1956年にフルブライト研究員として米国ワシントンDC郊外ベセスダのNIH(National Institute of Health:国立衛生研究所)に2年の任期で赴任した。米国赴任に際し、父は大きな決断を迫られた。6歳の私を米国へ連れて行くか。当時は今のように日本人学校があったり、帰国後も帰国子女として日本の教育システムに復帰できたりする仕組みはなかった。当時の海外赴任には子供の教育が大きな課題であった。連れて行くということは米国での教育を受けさせるということになる。日本に帰れば、留年し落ちこぼれになる。今のように米国で教育を受けさせるいいチャンスという認識よりも、日本のシステムからドロップアウトするリスクを感じたにちがいない。日本があらゆる面でグローバルに飛躍するのはまだまだ後のことで、日々の貧しい生活の中で落ちこぼれないように必死で生きていた時代だ。悩んだ末、私を祖父母に預け父は母と二人で赴任した。

 父は2年の任期を終え日本に戻る。しかし、実は米国で当初の2年の赴任期間が終了した時点でNIHに残るよう上司のM博士に強く要請されていた。より良いポジションが用意され、さらなる研究成果が期待されていた。子供を残しているので帰国したいという父の申し出に、M博士は米国での子供の教育は私が面倒見るから呼び寄せるようにと。戦後の混乱からようやく抜け出しつつあった1950年代当時の敗戦国日本と戦勝国米国の国力の差は歴然としていた。父が望む研究環境は米国の方が圧倒的な優位性があったことはいうまでもない。結局父はそれを断り帰国したわけだ。子供をとるか研究をとるか。研究者としては断腸の思いであっただろう。父の懊悩を、私はこの歳になって察することができるようになった。この時、父も米国での研究継続を選んでいたら、また違った人生を歩んでいたかもしれない。私もあの時父に連れられ米国に行っていたら、あるいは途中で呼び寄せられ、さらにM博士のもとで米国の大学へ進学していたら、今とは大きく違った人生を歩んでいただろう。きっとKazuo Ishiguroのような人生を送っていたかもしれない。もちろんノーベル賞作家になっていたかもしれない、という意味ではない。しかし、米国に定住し日系米国人になっていた可能性はある。

 あの時の父の決断がTatsuo Kawasakiと川崎達男の分かれ道だった。私は、日本人としてその後日本の大学を卒業し、日本の企業に職を得て、英国に留学する。日本は世界第2位の経済大国となり、市場のグローバル化が進んだ時代に突入してゆく。そんな時代に海外業務にその職業人生を大半を使い、英国Londonと米国New Yorkの双方に複数回赴任し通算で11年を過ごした。子供たちは日本と英国と米国で初等教育を受けることになる。そして娘は米国籍の伴侶を見つけて米国で家庭を築いた。海外生活が長く、家族も多国籍だが、私自身は全くの日本人として生きている。日本語を喋り、思考も日本語、夢も日本語で見る。定年後は、ますます日本文化に目覚め、幸いにも破壊されずに残る日本の美しい田舎にはまり、海外旅行よりも国内旅行を楽しむ。娘のところに行く以外は海外へ出かけることも少なくなった。父のおかげで日本人として充実した幸せな人生を送らせてもらっている。

 Kazuo Ishiguroをノーベル賞作家としてではなく、期せずして英国人としての人生を送ることになった一人の同世代、同郷の男として見ると、不思議な縁(えにし)を感じてしまう。ともに九州で幼少期を過ごし、ともに研究者である父親の海外赴任に伴い同じような人生の岐路に立ち、片方は父の決断で英国へ渡り、その後英国人としての人生を歩むことになり、片方は、同様に父の決断で日本に残り日本人としての人生を歩む。そんな道を分けた二人が、ある時期、英国での時間と空間をほんの一瞬共有していた。Surrey州Gildfordは英国留学中住んだKent州West Wickhamとは近い。鉄道でロンドンへの通勤圏内にあり、かつ南部イングランドの美しい田園風景が広がる「英国の庭園」(Garden of England)と呼ばれる地域だ。1979年〜81年、私がLondon大学LSEに在籍していた頃、彼は1978年Kent大学英文科を卒業し、1980年にEast Anglia大学修士課程に進学している。私も同年の夏、NorwichのEast Anglia大学でBritish Councilのサマースクールに参加していた。どこかで若き日のヒッピーな長髪の彼とすれ違っていたかもしれない。それが、いまやノーベル賞作家とサラリーマン定年オヤジに分かれるのだが。人生とは面白いモノだ。


Kent州Hever城にて
LSE留学時代
1980年

LSE: London School of Economics and Political Science正面玄関

Norwich
East Anglia大学にて
1980年

Edinburgh大学Martin Fransman教授と
ロンドン勤務時代
1995年