2019年9月9日月曜日

三国志の時代 〜その時倭国は?〜

 昨今、ちょっとした三国志ブームである。東京国立博物館で「三国志」展が開催されている。10月からは九州国立博物館でも開催される。中国で見つかった西高穴2号墓が古代の有力者の墓らしいことは以前から言われていたが、その後の発掘調査で魏の曹操の墓(曹操高陵)であることが判明。それを証明する遺物や曹操の遺骨が見つかった。今回は新発見の副葬品の一部が初めて中国以外で出品されることで話題を呼んでいる。「リアル三国志」として当時の英雄たちの活躍と、史実としての三國の攻防を展示する企画となっている。三国志は、時代を超えて、国を超えて中国の英雄伝としてその物語が読み継がれ、語り継がれてきた。偉大なる漢帝国の滅亡、その後の中国中原における王朝の覇権をめぐる、魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権、この三人のリーダーの戦いと、諸葛亮孔明、張飛、関羽、周瑜など乱世を生きた英雄たちの物語である。日本でも吉川英治などの小説として愛読されてきた。あるいは漫画や、NHKの連載人形劇、最近のアニメ、ゲームなどで広く人気を集めている。こうしたことから「三国志」展は人気を呼び連日大盛況である。日本人の心にも深く刻まれた英雄物語の一つである。


 「三国志」と「三国志演義」

 しかし、こうした英雄伝はずっと後世の明代になってからまとめられた「三国志演義」に描かれたものである。これは歴史書「三国志」をもとに脚色し、創作された歴史小説で、漢王朝の血統を引く蜀の劉備を善玉にし、漢王朝で専横を極めた魏の曹操を悪玉として戦う物語。しかし歴史書「三国志」自体は3世紀末晋の時代に陳寿によって編纂された中国の正史、二十四史の一つである。後漢の滅亡以降の魏、蜀、呉三國の攻防と、晋の成立までを記述している。後世においても、虚飾を排し、史実に基づき簡潔にして要を得た史書として評価されており、古代中国を知る上で貴重な文献史料として扱われている。すなわち、魏蜀呉の争いののち後漢の献帝が魏の曹操の子の曹丕に帝位を禅譲し(文帝)、魏が正統な後継王朝となる。その後、魏は蜀を滅ぼす。やがてその孫の曹叡(明帝)になると、魏の有力な武将である司馬懿の一族が力を伸ばし、やがて司馬懿の息子である司馬炎に帝位を禅譲して魏王朝は終りを告げ晋(西晋)となる。その晋は呉を滅ぼし三国時代が終わる。と。要約すればこれが陳寿の三国志の中身である。そこには特段、曹操が悪者で劉備が正義の味方という設定などはない。むしろ曹操とその子孫こそ漢王朝の後継者であるという歴史認識が描かれている。

 もっとも陳寿は魏の有力官僚であり、のちには晋に仕えている。三国志の編纂に当たっては魏を正当な後漢の後継王朝として位置付けているため、魏書からは多くの事績が撰録されたが、蜀書、呉書は必ずしも全てが撰録されていなかったり、原文が散逸したりしていて、当時の三國の様子が正確に記されているとは言えないとの批判がある。のちの時代に朱子学の立場から、蜀こそが正統な後継王朝だとする「蜀漢」の考えや(先述の「三国志演義」もこの考えに立って物語が展開している)、呉の位置付け、特に海洋交易国家としての対外交流の記録がをないがしろにされているとか批判されていることも知っておく必要がある。やはり正史は勝者の歴史なのかとここでも思い当たる。

 「赤壁の戦い」を題材にした映画「Red Cliff」でも描かれているように、3世紀の中国には、にすでに高度な官僚制度と強大な軍事力と、豊かな文化を誇る中華王朝があり、その滅亡と後継争い物語が史書として仔細に記録されていることに今更ながら驚かされる。漢字を有し、年号を有し、記録を取る官僚がいてこのような史書を後世に残すことができる、そんな大帝国であった。その皇帝の権威と威光は、中華世界はおろか、辺境域の隅々にまで行き渡っており、蛮夷の民が、その皇帝の徳を慕って、はるばる陸を辿り、海を渡って朝貢し、皇帝からの冊封、威信材の下賜を請い願う。すなわちこうした「華夷思想」「徳治思想」が広く行き渡り、東アジア世界秩序を形成していた。


 「倭国」「邪馬台国」「卑弥呼」と三国志

一方で、この頃(3世紀)の日本列島はどのような状況であったろう。その様子を知るすべはあまり多くはない。「倭国」には文字も無く、従って史書のような記録もなく、未だ「歴史時代」ではなかった。考古学的には弥生時代の最晩期で、稲作農耕を主とする農耕集落、ムラ、クニ、国が形成されていたことがわかっている。北部九州には吉野ヶ里のような大規模な環濠集落遺跡がいくつもあり、多彩な弥生式土器が見つかっていて往時の姿を偲ぶことができる。すなわち「倭人」の「邪馬台国」その女王「卑弥呼」の時代である。しかし、その「倭人」「邪馬台国」「卑弥呼」が文献史料に登場したのは、まさにこの中国の史書「三国志」においてである。日本では「魏志倭人伝」と通称されているものだ。正式には、三国志、魏書巻三十、「烏丸鮮卑東夷伝」のなかの東夷(扶餘、高句麗、東沃沮、手偏に巴婁、濊、韓、倭)の最後に登場する倭人条に倭人の様子が記述されている。したがって、当時の列島住人が、自分たちを「倭人」と呼んだり、「邪馬台国」と称したり、その首長を「卑弥呼」と呼んだりしたわけではない。全て中華王朝側の人間が、列島住人の音声を聞き取り名付けた呼称である。ちなみに三国志は魏書、蜀書、呉書からなっており、魏書は4つの本紀(皇帝の事績を期した本文、曹操の武帝、曹丕の文帝、曹叡の明帝、その後に続く、曹芳、曹髮、曹奐の三少帝)と26の列伝からなっており、倭に関する記述は列伝の最後になる。ちなみに蜀書、呉書には皇帝に関する記述である本紀はなく列伝のみである

 この「魏志倭人伝」によると、西暦238年(魏歴の景初三年)に邪馬台国の女王卑弥呼が、魏の明帝に朝貢してきた。曹操の子である曹丕が後漢の最後の献帝から禅譲されて帝位(文帝)につき、さらに曹操の孫である曹叡が皇帝(明帝)となった時である。まさに三国が合い戦っている最中であった。またこの年には帯方郡、楽浪郡が公孫氏の支配から魏の将軍司馬懿によって奪い返された年である。倭国の使節は帯方郡を通じて魏の都洛陽に至ったようだ。翌年に明帝が崩御。幼帝を司馬懿が補佐。こののち263年に魏は蜀を滅ぼす。264年には司馬昭が晋王に、その子、司馬炎が晋王を継ぎ、さらに同年、司馬炎は魏の曹奐に帝位を禅譲されて魏王朝が滅びる(西晋の成立)。そしてついに司馬炎は呉を滅ぼして晋王朝が成立する。久しぶりの統一王朝である。何と三国時代を終わらせたのは魏でも、蜀でも、呉でもなく、魏の将軍司馬一族であった。この間、倭国では邪馬台国が狗奴国との戦いの中、卑弥呼が死す。再び騒乱となり、若い女王壱与が擁立されて収まる。この壱与は再び大陸に遣使する。司馬炎が帝位を禅譲されて晋王朝を打ち立てた時である。おそらく新王朝の成立と皇帝即位に慶賀の伺候したのだろう。漢、魏、晋に朝貢して来た東の海中の夷狄。これが中国側から見た倭国の姿であった。その後、倭、邪馬台国の記述は史書から消え、晋もたった30年で滅亡する。以降、再び統一王朝を失った五胡十六国の時代に突入する。

 このように三国志魏書によれば、倭の邪馬台国の女王は一貫して魏に朝貢し「親魏倭王」の印綬を受け、魏滅亡後はその後継たる晋に朝貢している。さらに、その前の西暦53年には後漢の光武帝に倭の奴国王が朝貢し「漢委奴国王」の金印を受け、その後には倭面土国王帥升等(倭のどの国の誰なのか異論があるが、伊都国王ではないか)がやはり後漢に遣使している。このように北部九州の倭人コミュニティーには、当時の漢王朝とその後継の勢力の動向に精通した人物がいて、大陸との情報パイプと人脈を生かし、情勢に応じた外交的、政治的判断を行なっていたと思われる。もちろん外交文書を漢語で自由に読み書きし、中華王朝の外交プロトコルにも精通してた。こうして北部九州(チクシ倭国)が漢王朝、その後継とされる魏王朝、晋王朝の朝貢/冊封体制の中で(いわば「勝ち馬に乗る」形で)、その統治の権威と権力の保障を得ていた。


 魏から見た倭国 「遠交近攻」の戦略パートナー?

 その三国志の時代の中国中原の騒乱の当事者にとって、東海の海中にある蛮夷の民(東夷の)、倭国、邪馬台国とはどのような存在であったのだろう。卑弥呼の朝貢は、魏の皇帝にとってはどのような意味があったのだろう。邪馬台国と狗奴国の争いに魏の将軍難升米を派遣して黄幢旗を下賜し、卑弥呼に頑張れと「告諭」したのは何故なのか。正史に記述した以上、何らかの意図があったのだろう。日本側の研究者の中には(特に日本史の研究者)、当時、呉と対立していた魏にとって、その背後の倭国の存在は軍事的に重要であった。「遠交近攻」の考え方である。だから卑弥呼を「親魏倭王」として同盟に引き入れた、と考える人もいる。また狗奴国が呉と同盟して邪馬台国と対立していたとする研究者もいる。しかし、当時の倭国、邪馬台国が魏に援軍を出して、海上から呉を攻めるような力があったとはとても考えられないし、そんな軍事同盟を魏が期待したとも考えられない。また辺境の列島内の「倭人」勢力争いに中国中原で「天下統一」抗争中の魏と呉が介入してくる理由もないであろう。これらはあくまでも日本古代史研究側から見た解釈(あるいは邪馬台国位置論争的な解釈)であると考える。中国側から見た解釈はむしろ、華夷思想的世界観による夷狄「倭」であろう。はるか遠方の蛮夷の民が慕ってくるほど皇帝の徳が高いという「徳治思想」的視点。すなわち魏の皇帝の威光が遥か彼方まで行き渡っているのだという、まさに中華世界における魏の優位性(漢王朝の正統な後継者)を誇示するための記述であったと考えるのが妥当だと考える。蜀書や呉書の華夷思想的な対外交流に関する記述が採録されていないことがその傍証であろう。


 呉から見た倭国 邪馬台国論争解決か?

 しかし、本当に蜀や呉が「蛮夷の民」との交流、華夷思想によるところの朝貢/冊封体制を取っていなかったのか。特に長江域、沿岸部、南部を支配していた呉は、夷州(台湾)や南方のチャンパ王国(のちの越南、ベトナム)との交流(植民地化や朝貢/冊封関係)があった。これは記録にも残っている。この他にも呉は、海洋国家として長江河口から東シナ海ルートを使って、琉球や倭との交流があった可能性も指摘されている。呉と倭国の朝貢/冊封関係など何らかのつながりの有無の検証ができると、これまでの「魏志倭人伝」にのみ依拠する歴史観が一変する可能性がある。倭国が、漢王朝滅亡後の中国中原の対立を見て、どの王朝に朝貢すべきか魏と呉の二股をかけていたと解釈することも出来ようが、むしろ、当時の倭、列島内には中国王朝と通交することのできる勢力が邪馬台国以外にもあった可能性が出てくる。邪馬台国論争の解決の糸口になるかもしれない次のような仮説の証明である、すなわち、列島には大きく二つの勢力があり、邪馬台国女王卑弥呼は九州の「チクシ倭国」の女王として魏に朝貢した(朝鮮半島ルート)。一方、同じ列島内にあった近畿の「ヤマト倭国」の王は呉に朝貢した(東シナ海ルート)。

 有名すぎて、ネタ切れ感もある「邪馬台国位置論争」である。邪馬台国近畿説の論者は、3世紀には、すでに列島全域をほぼ支配域とする大きな国家連合体ができていたと見る。倭国の30カ国はこの列島内(といっても近畿圏から九州に至る西日本中心だが)にあった。そして女王卑弥呼は近畿(ヤマト)に居た。すなわちこれが邪馬台国である。列島全体を代表する「倭国」の女王としてそして魏に朝貢した。したがって卑弥呼はのちのヤマト王権につながる遠い先祖である、とする。一方で、邪馬台国九州説論者は、魏志倭人伝でいう倭国(邪馬台国を盟主とする30カ国)は九州(チクシ)内の国家連合体である。当時の列島内(倭)にはこのチクシ以外にも、イズモやキビ、コシ、ヤマトなどの大小複数の地域連合が並立、割拠していた。従って魏に朝貢した卑弥呼はチクシ倭国の盟主であり、チクシの邪馬台国にいた。必ずしも列島全体を代表していたわけではないと考える。すなわち卑弥呼はヤマト王権とは異なる系譜の人物である。

 私は後者の論に与する。3世紀当時の日本列島はまだまだ、統一王権や、統一的な政治勢力が成立する状況にはなかった。したがって「魏志倭人伝」の記述のある「邪馬台国」の女王「卑弥呼」が唯一の列島統治者(倭国王)であると考える必要はない。列島全体が統一に向かう動きが顕在化するのは5世紀の「倭の五王」の時代になってからのことだ。すなわち列島内にはいくつかの有力な地域連合が並存していたであろう。以前にも述べたとおり魏志倭人伝には出雲や吉備など、2〜3世紀当時列島内に存在していたであろう有力な国や地域連合に関する記述はない。ただ邪馬台国の(卑弥呼の)勢力圏である倭国30カ国以外にも「倭種」の国があることを認めている。ではなぜ魏の使者はさらに列島内の勢力図を詳しく調べなかったのか? それは魏にとっては陸続きでない、海の向こうの倭人の世界については、直接の脅威にも同盟にもならない(中原の抗争には無関係な)夷狄であったから、これ以上に精緻な列島事情の分析は無用であっただろう。仮に魏が、対立する呉が列島内の他の倭人勢力と通交があったことを知っていたとしても、それを認めることは(先述のように)魏の皇帝の威光を語るには不都合であっただろう。一方のチクシ倭国、邪馬台国にとっても近隣の脅威である狗奴国問題以外、列島内の状況を詳しく知らせる必要もなかっただろう。だからといって、列島内には卑弥呼の倭国/邪馬台国しかなかったと考える必要はない。3世紀の列島内には、魏に朝貢していたチクシ倭国(邪馬台国連合)の他に、近畿ヤマトにも箸墓や纏向などの遺跡に代表されるヤマト倭国が存在していた。考古学的な発掘成果がそれを明らかに物語っている。そしてこちらは、おそらく呉に朝貢し、その交流により威信財や高度な技術を獲得していた可能性がある。しかし、先述のように三国志には呉書による記述が陳寿によって省かれ、また呉書の原文が散逸してしまった可能性があり検証が不可能である。しかし、史料は残っていないものの、呉との交流の考古学的な証があちこちで見つかっており、むしろ魏との交流の証よりも多いことが不思議だ。さらに近畿地方に多い箸墓を含む宮内庁指定「陵墓」の調査ができれば歴史の解明がさらに進むだろう。九州の王墓からは前漢鏡、後漢鏡が多数出土しているが、意外にも卑弥呼がもらったはずの鏡百枚(おそらく魏鏡)は見つかっていない。またヤマトの古墳からは呉鏡が見つかっている。例の黒塚古墳から見つかった景初三年(卑弥呼が魏に朝貢した年)の三角縁神獣鏡や年代の記述のない大量の三角縁神獣鏡は、これこそ卑弥呼の鏡発見!と一時期騒がれたが、のちに国内で製作された「仿製鏡」であることが判明している。しかも、この製作にあたっては呉からの渡来工人が関わっていたことも判明している。また日本でこれほど大量に出土している三角縁神獣鏡や画紋帯神獣鏡は中国では一枚も見つかっていない。今回の「三国志」展の出土品の中にも方格規矩鳥文鏡が展示されているが、三角縁神獣鏡との共通点は見られるものの別物である。誰が、なんのために三角縁神獣鏡をこれほど熱心に列島内で製造し、ばら撒いたのかは謎だ。何れにせよ、すでに述べたような三国志魏書の成り立ちを知れば、「魏志倭人伝」の記述のみの解釈や、いじくりまわして行う「邪馬台国」推理が、あまり意味のないことであることに気づくだろう。中国の正史も、その編纂には勝者の意図が映し出されており、史実を完璧に語るものではない。歴史の闇の中に埋もれてしまった呉書や知られざる文献史料の発見が期待される。そして倭国の謎を解明してくれないか。


 未だ倭国の姿見えず

 考察してきたように、中国中原の三國の争いは倭国に全く無縁であったわけではない。統治権威や経済的権益、軍事優位性の確保という視点から、どの王朝へ朝貢し、冊封されるべきかは倭王権にとって重要な選択であった。そのために慎重に大陸の情報を収集し人脈を形成していただろう。おそらく大陸からの渡来人(漢人)が倭国邪馬台国の中枢にいたのだろう。そうした情報を入手し、文書で通信するプロトコルにも精通している必要があった、他方、大陸の魏や蜀/呉から見ると、倭国の存在はその統治権威や軍事的な優位性を決定づける大きな要因ではなかっただろう。「遠交近攻「の軍事同盟国でもない。漢王朝の統治権威の継承正当性を証明する国でもない。前にも述べたように、華夷思想にもとずく皇帝の権威を飾るためのストーリーとしては、烏丸、鮮卑、東夷の国々とともに列伝に記述する価値のある存在ではあったのだろう。したがって倭人が「三国志演義」の英雄伝に登場するような役割を演じることはなかった。映画「Red Cliff」で諸葛亮孔明を日本人俳優の金城武が演じていたが、ひょっとして、この三国志の物語に実際に邪馬台国から派遣された倭人が登場していたら面白いのにと妄想したものだ。例えば魏の司馬懿の軍に邪馬台国の大夫が参陣して活躍した!とすればドラマチックだ。しかしあり得ないだろう。やはり妄想である。

 我々は「三国志」を中国の痛快な歴史英雄伝として楽しんでいる。これは先述のように「三国志演義」のよるものだ。しかし、一方で歴史書としての「三国志」は3世紀の倭国の様子を描いた唯一の史料であることも忘れてはならない。高度な文明を誇る中国の当時の姿がありありと描かれている「三国志」と、その列伝に比較的詳細な記述はあるが、依然として時空の彼方に霞む古代日本、倭国の姿。その情報量にはなんと大きなギャップがあることか。されど「痛快歴史英雄伝」と「幻の邪馬台国」は同時代の出来事なのであることを知っておくべきだろう。


三国志の舞台割

曹操高陵から出土した「魏武帝」曹操の持ち物を示す札
ここが曹操の墓であることを証明する遺物の一つである

方格規矩鳥文鏡
日本で出土する「三角縁神獣鏡」と共通点もあるが別物。

「蒼天之死」磚
黄巾の乱の旗印。道教の黄色が儒教の青を滅ぼす
すなわち漢の滅亡を謳ったスローガンが刻まれている

「晋平呉天下太平」磚
晋が呉を平らげ三国時代の終わりを告げる

(ここで引用した写真は全て東京国立博物館のHPから借用したものである)