2019年11月24日日曜日

筑前國太宰府 光明禅寺の紅葉 〜苔寺や石庭は京都だけではない〜



光明禅寺「一滴海之庭」
苔と白砂と紅葉と


苔寺、石庭は何も京都の西芳寺や龍安寺、実相院だけではない。筑前太宰府の神護山光明寺にも苔と白砂の枯山水と石庭のコラボが美しい庭園がある。今年の秋は忙しくて京都の紅葉を愛でることができそうもない。その代わりというわけではないが、福岡の九州大学で開催された国際会議に出席したその帰りに、ふと太宰府の光明寺の紅葉を思い出し、その秋色を訪ねる事にした。現在は臨済宗東福寺派の禅寺である。この寺は鎌倉時代、1273年(文永10年)、菅家のゆかりの鉄牛円心によって建立された。江戸時代、1616年(元和2年)になり太宰府天満宮の結縁寺、天満宮縁者の菩提寺となった。太宰府天満宮参道を右に折れゆっくりと歩を進めると突き当たりにその寺はある。昔は、なぜ天満宮の神域に禅寺があるのか訝しく思ったものだが、寺の縁起を聞いてわかった。これもかつての日本独特の神仏習合の一つの姿なのであろう。考えてみれば太宰府天満宮自体、創建時には安楽寺天満宮と称し、菅原道真公を葬った安楽寺の跡に創建されたものである。

また、鎌倉時代には太宰府には幕府の「鎮西総督府」(元寇の時にここが指揮所となる)が設置され、東国から多くの御家人が移住してきた(西遷御家人)。のちの戦国時代に筑前に勢力を張った武藤氏もその西遷御家人であった。武藤氏は太宰少弐の地位につき少弐氏を名乗った。このころの太宰府はすっかり律令官僚の「遠の朝廷」の面影は失せていた。太宰帥や大弐の地位は、京都の皇族や公家が遙任官(現地赴任しない)として付いたが、実際の現地統治は幕府の御家人が担当した。こうした「武家の街」太宰府に禅宗寺院が創建されたのも不思議ではない。そもそも臨済禅は鎌倉時代に栄西によって中国宋からもたらされ、1195年(建久6年)博多に日本初の禅寺「聖福寺」を創建した。この聖福寺を本山とする臨済禅の寺が太宰府にも創建され、この光明禅寺もその一つであった。江戸時代初期に博多に移った崇福寺(筑前藩主黒田家の菩提寺となる)も、元は1240年に太宰府横岳に創建された禅寺であった。このように太宰府には禅宗文化が花開いた時期があった。

ここの庭園は、前述のように、石庭と枯山水庭からなる。本堂の前庭は七五三の石が「光」という字に組まれた「仏光石庭」。こちらは寺の正面なので明るい雰囲気の庭園である。奥庭は苔を陸地に、白砂を海に見立てた枯山水の「一滴海之庭」。こちらは背景に山の斜面を利用した少し陰翳を演出する庭園。苔の瑞々しさにも配慮した構成になっている。どちらも禅宗様式の庭園であるが、現在の姿は昭和初期の作庭家、重森三玲の手になるものと言われている。「一滴海之庭」には多くの紅葉の木が配されており見事だ。九州の紅葉の名所の一つにも数えられている。この日は冷え込み、すでに散り始めているもののやはり九州という土地柄のせいか、色付きの方は昨年見た京都の南禅寺や永観堂、真如堂のように真っ赤というわけではなかった。それでも庭の佇まいには艶やかではないが落ち着いた錦繍の趣を感じる。それはそれで見事な諧調の秋色である。ここでは、紅葉見物の観光客でごった返して「長蛇の列」「撮影禁止」となるような事態に遭遇することはない。

光明禅寺を辞して、再び太宰府天満宮参道へ戻ると、そこは相変わらず中国人観光客の団体と修学旅行の団体とが交錯するちょっとしたカオス状況であった。ガイドさんの旗が林立しているのが遠目には壮観であった。西鉄電車は福岡天神駅から太宰府直通の急行「旅人」を走らせ、太宰府駅を天満宮社殿風に改装し、大宰府政庁跡や大伴旅人居館跡(坂本八幡宮)最寄駅の「都府楼前」を、「令和の里・都府楼前」と名称変更するなど盛り上がっている。空港からの直行バス「旅人」もシャトル運行されているそうだ。こうした太宰府の「令和の里」キャンペーンが功を奏してか、京都に負けないほどのインバウンド景気に沸いている感じである。しかし、私の知るあの時代の、梅枝餅の芳ばしい香りと、「寄っていかんね〜、焼けとりますよ〜」という茶店の呼び込みが参道にこだまする長閑な太宰府がどこかへ行ってしまったのは少し寂しい。かろうじて光明禅寺の庭が、昔と変わらぬ静謐でマインドフルな佇まいであったことが救いであった。



光明禅寺石庭
「仏光石庭」
本堂の建物と平行になっていないのが不思議だが...

天満宮から光明禅寺へ向かう道すがらにも梅ヶ枝餅を出す茶店がある

光明禅寺

一滴海之庭






















(撮影機材:SIGMA fp + SIGMA 45/2.8 DG DN、Leica CL + Vario Elmarit-T 18-55/3.5-5.6 ASPH)