2020年2月16日日曜日

「出雲と大和」展@東京国立博物館 〜なぜ出雲は古事記神話の中で重要視されているのか?〜



加茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況復元模型
(数少ない写真撮影可能な展示物)


今、東京国立博物館で「出雲と大和」展をやっている。古代史ファンである「時空トラベラー」としては見逃すわけにはいかない。特に、倭国の実態、あるいはヤマト王権の成立過程、「日本(ひのもと)」建国過程における出雲の役割と位置付けには未知の部分が多い。これまで筑紫/チクシ倭国の実態や古代日本成立における役割については色々と書籍を読み研究し、またゆかりの遺跡、歴史の現場を探訪してきた。すなわち魏志倭人伝にその姿が叙述されている「邪馬台国」「卑弥呼」の時代のことである。しかし、同時代に列島内に存在し、大きな勢力を誇ったであろうと考えられる出雲については、この時代(紀元前1世紀〜紀元3、4世紀)の文献資料として唯一残されている中国の史書(漢書、後漢書東夷伝、三国志魏志東夷伝、晋書、宋書など)に記述が全く見えない。一方で、8世紀初頭に倭国/日本で編纂された史書、すなわち古事記、日本書紀においては、中国王朝と朝貢冊封関係にあったという卑弥呼の邪馬台国と筑紫倭国30カ国の記述はほぼ見当たらないのに対し、出雲に関しては多くの紙幅を費やして様々なエピソードが詳細に記述されている。この差はなんなのか?大和にとっての出雲の位置づけと、筑紫の位置づけには大きな違いが見て取れる。記紀編纂の経緯に何か隠された謎がある様な匂いがする。


1)文献史料に見る「出雲」

たとえば、古事記(712年)の神話の記述のほぼ3分の1が「出雲神話」で占められていおり、「大国主命の国譲り」が大きな出来事として記述されている。また正史として編纂された日本書紀(720年)には「出雲神話」としては記述が少ないが、「神代」の部分で出雲が大己貴命(大国主命の別名)によって地上の国として建国され、天上界の国に「国譲り」した経緯が記述されている。もう一つの文献資料である出雲國風土記(733年)も、他の地域の風土記の多くが散逸し、ほぼ完存する風土記はこの出雲風土記だけである。ヤマト王権の正史に記述されない地元の伝承や神話(国引き神話など)が記述され今に残っている。このほかに出雲国計会帳(正倉院文書)も完存しており、日本の古代史を物語る文献史料の多くが散逸したり、部分的にしか残っていなかったりする中、出雲に関しては多くの古代文献が残されている。それだけ古代史研究において出雲がハイライトを浴びることになってきたわけだ。しかし、それにも関わらず謎の多い「古代出雲」である。それはエピソードの多くが「神話」の世界として描かれているいて、史実との関係が曖昧だからだ。その「神話」、古事記に記述のある「出雲神話」および「天孫降臨神話」の要旨は次のとおりである。

出雲神話 国譲り神話
スサノヲの子孫大国主命が葦原中国(あしはらなかつくに:すなわち地上の国)を治める(「天津国」のスサノヲの子孫であるが「国津神」とされる)。しかし天上界にいるアマテラス「天津神」に国譲りする。その代わりに大国主命は高殿を建てて奉斎されることになる(出雲の杵築大社:出雲大社の由来)。また大和三輪山神、大物主命(出雲系大国主の別神)を大和に祀る(日本書紀では大国主命ではなく大己貴命となっている)。

天孫降臨神話 神武東征伝承
その「葦原中津国」を治めるために、筑紫の日向に「天津国」からアマテラスの孫、ニニギが「三種の神器」とともに降臨し、その子孫、神武が東征して、同じく天孫族の子孫である饒速日命一族を排して大和に入り初代天皇として建国する。

こうした記紀神話の記述から、出雲勢力が治めた国が大和に征服された(ないしは反対に出雲が大和に進出した)。後にその大和は筑紫から来た勢力に征服された。これが記紀神話の底流にある日本建国の物語だとする歴史研究者もいる。「神話」がそのまま「史実」であるとの考え方は、戦後はさすがに否定されたが、こうした「神話」の物語が、なんらかの「史実」の投影ではないかと考える研究者がいる。「国譲り神話」と「天孫降臨神話」、「神武東征」(こちらは神話としてではなく初代天皇の事績として記述されている)はなんらかの史実の反映なのか。遠い時代の歴史的「記憶」の反映なのか。

そもそも、この「神話」の物語はいつの時代の「記憶」をテーマにしたものなのか、それ自体が不明である。すくなくとも紀元1〜3世紀の日本列島はまだ統一国家、統一王権は存在せず、各地にいくつかの勢力が並存していた時代である。その一つが筑紫の邪馬台国連合であり。また出雲であっただろう。あるいは吉備、越(古志)、尾張などに有力な国、地域連合がいわば列島内で割拠していた状況であったと考えられる。筑紫や出雲と大和だけが歴史の主人公であったわけではないし、まして「倭国」全体を対外的に代表していたわけでも無い。ようやく近畿の奈良盆地や河内あたりにヤマト王権らしき、他地域に優越する勢力の姿が垣間見えるのは5世紀の中国の史書に見える「倭の五王」の時代になってからだ。その前の4世紀頃(倭人が朝鮮半島に出兵したという記録がある高句麗の好太王碑文や百済から伝来した七枝刀の時代)に徐々に各地域勢力が合従連衡の動きを示し、やがて近畿のヤマト王権に収斂していったのであろう。近畿の大型古墳がそれを物語る考古学的な証左であろうが、しかしそのプロセスを叙述する歴史的資料は見つかっていない。中国王朝の分裂、混乱の時代(五胡十六国時代)であったため正史が整っていない。すなわち「謎の4世紀」と言われる所以である。したがって4〜5世紀頃の出雲の姿も文献史料上見えてこない。

一方で、我が国初の歴史書、正史である日本書紀、古事記は、ようやく8世紀初頭になって編纂されたものである。天武/持統帝の天皇制宣言、新国家「日本」建国事業の一環として編纂されたものである。すなわち大王(おおきみ)/「天皇」の統治権威の正統性を内外に宣言する政治的な文書として編纂された。各豪族による「私地私民制」から天皇による「公地公民制」へ、律令制による豪族の官僚化。その過程ではヤマト王権に統合してゆく各地方豪族、有力氏族をいかに納得させ、「合理的に」秩序立てて、天皇家の臣下と位置づける。これは換言すれば、いかに各豪族の祖霊神を皇祖神天照大神の下に体系化させるか、という難事業であった。その中の「出雲の扱い」、「筑紫の扱い」である。その記紀のなかで出雲は、ヤマト王権にとって大国主命の神話の出雲大社と大和の大神神社をかかえる王権/天皇の祭祀における重要な存在として記述された。一方の筑紫は、宗像三女神の神話が中心で、ヤマト王権の大陸との通交を可能とする海北道中(大陸への交通路)を守る存在と記述されることでヤマト王権の中枢に位置付けられた。しかし、中国の史書に記述のある朝貢冊封国家たる筑紫の倭国の邪馬台国や奴国、伊都国に関する言及は無い。

しかし、ヤマト王権と各地の勢力との交流は、出雲、筑紫に限らず多面的に展開されていたはずだ。先述の通り、当時の日本列島の様子は、地域ごとに国、豪族、地域連合が併存しており、統一的な王権や国家を形成するには至ってなかった。出雲や筑紫が記紀において重視されて記述されたのは、ヤマト王権が記紀編纂にあたって、皇祖神を頂点とした各豪族の祖霊神、地域氏神を体系化する中で、より王権/天皇家に近い、あるいは無視しえない「有力豪族」の物語(多くはその豪族から提出された)が採録された結果だと考える。すなわち、出雲氏や宗像氏のヤマト王権における発言力や、貢献度、あるは「近しさ」が影響していたと思われる。そういう点で中国皇帝に朝貢し冊封を受けていた筑紫の邪馬台国や奴国、伊都国は、中華皇帝に対抗して「天皇」(東アジアにもう一つの皇帝を宣言)を名乗るヤマト王権/天皇にとって、「近しい」どころか、王権/天皇家のルーツと考えたく無い国々だったのだろう。正史と言っているが史実とは必ずしも無関係な政治的な文書なのだ。

出雲氏は、ヤマト王権に臣従する代わりに、王権の国家祭祀/儀礼を担う。これが「大国主命(皇祖神天照の弟スサノヲの子孫とする)の「国譲り神話」「出雲大社創建」という形で記紀に記述された。一方の、筑紫の宗像氏はヤマト王権に臣従する代わりに、大陸との交流を一手に引き受ける「制海権」の保証と「海北道中」を守る国家祭祀を担う。これが宗像三女神(天照とスサノヲの誓約から生まれたとする)として記紀に記述された。ちなみに筑紫には、ヤマト王権に臣従しない強力な勢力があった。これがチクシ王権の盟主磐井氏である。新羅と組んで徹底的にヤマト王権と戦ったが、ついに滅ぼされた。これは記紀に「神話」の世界の話としてではなく、継体天皇の「事績」としての「筑紫国造磐井の乱」として記述されている。このとき宗像氏は筑紫のチクシ王権、磐井には味方せず、大和のヤマト王権側についたことから本領安堵され、大陸との通交の制海権も獲得できた。


2)考古学資料に見る「出雲」

ここですこし考古学的に出雲を振り返って見てみよう。出雲では近年驚きの弥生遺跡が次々と見つかっている。大量の銅剣、銅鐸が埋納されて見つかった荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡:弥生時代の青銅器祭祀遺跡(紀元前後の時代)があり、一方で、弥生時代から古墳時代への過渡期を示す四隅突出型墳丘墓という特異な墳墓形式を持つ西谷墳墓が見つかっている。加茂岩倉遺跡から発掘された大量の銅鐸は、銅鐸文化=近畿、銅剣文化=北部九州という「定説」を覆す発見であった。また荒神谷遺跡の大量の銅剣と銅矛は、銅剣は祭祀用に出雲で鋳造されたものであるが、銅矛は北部九州産であることがわかっている。これらの考古学上の発見は、出雲が弥生時代後期には大和と筑紫と交流し古墳時代初期において特異な文化を誇る有力な地域勢力であったことを物語っている。おそらく魏志倭人伝に記述のある「邪馬台国」の時代(3世紀〜4世紀)には、すでに日本海沿岸に「出雲国」が栄えていたのだろう。しかし魏志倭人伝には一切記述がないが。

こうした弥生の出雲文化はある時期に一斉に消滅してしまう。青銅器祭祀文化の途絶である。大量の銅鐸、銅剣、銅矛の埋納という行為そのものが、なんらかの理由で祭祀の形態をガラリと変えた事を示していると考えられる。その理由は明らかにはなっていないが、これをもって出雲勢力が大和勢力に屈服して消された(国譲り神話の根拠)考古学的な証左であるとする見解がある。しかし、こうした弥生の遺跡は記紀神話が編纂される700年も前の時代のものである。8世紀初頭に編纂された記紀の「出雲神話」「国譲り神話」の背景にある歴史的な事件として「記憶」されたとは考えにくい。

またヤマト王権がほぼ全国に勢力を及ぼしつつあった古墳時代に入ると、出雲地域にも多くの古墳が造成された。しかしそれらの古墳は規模の点で100mを超えるものは一基もなく、大和の大王クラス、蘇我氏などの有力豪族クラス、筑紫の岩戸山古墳(筑紫磐井の墓)や宮地嶽古墳(宗像氏の胸形徳善の墓)クラスの古墳はない。古墳の規模が政治勢力の規模を示す指標だとするならば、出雲には大和や筑紫に匹敵する有力な豪族がいた証拠はないということになる。また大和型の前方後円墳が圧倒的で、畿内の古墳に準じたものである。当時の出雲以外の各地域に検出する古墳の形態と同じであり、特に出雲が何か突出した特色を持つというものはない。そもそも大和を中心に形成された古墳という墳墓形態、葬送儀礼は、各地域の墳墓、葬送儀礼を吸収、統合しながら形成されたものと考えられている。ヤマト王権による一定の列島支配の姿が見えるようになった古墳時代には、全国にいわば「大和型」の古墳が広がった。出雲もそのワンオブゼムということになる。しかし、一方で古墳形態とは別に、祭祀の形式、葬送儀礼のあり方に出雲独自のものがこの頃にも残っており、これがヤマト王権の祭祀に大きな影響を与えたとする研究がある。また、霊力があるとされた玉類(勾玉や管玉)の生産は6世紀以降になると出雲でほぼ独占的になされていたことから、ヤマト王権/天皇家の国家祭祀や王統/皇統の権威材(三種の神器)供給にも影響を与えたであろう。8世紀初頭における記紀編纂事業(豪族の体系化)のなかで、こうした祭祀のルーツや権威材の供給地である出雲が他地域と異なった扱いになったのであろうと考える説が唱えられている。


3)大和王権祭祀における「出雲」の役割

一方、律令制下においては出雲国造が宮都における任命儀礼や、天皇に対する「神賀詞」(かむよごと)奏上儀礼を執り行うなど、出雲氏/出雲臣の王権中枢/朝廷における役割が重視され、ヤマト王権/天皇家の国家祭祀に大きな影響力を持っていた。こうした国家的な祭祀を執り行うために出雲国造は定期的に上京していた。律令制下の地方官僚、出雲の国造となった出雲氏/出雲臣と、ヤマト王権/朝廷の律令制の神祇官僚である伴造で出雲国守であった忌部宿禰子首とのつながりが無視できないと言われている。この。いわば中央官僚である忌部氏は記紀編纂において大きな影響力を行使したと言われ、出雲国造の祭祀/儀礼が天皇家の「国家儀礼」との因縁浅からぬものである事を、記紀に記述させる役割を果たしたのだろうと考えられている。

すなわち「出雲神話」「国譲り神話」は、弥生時代に起きた古代日本の(倭国の)成り立ちの歴史(文献資料的には中国歴代王朝の正史に記述された倭国情勢)とは関係なく創作されたストーリーであろう。スサノヲの子孫、大国主命が建国し支配した「葦原中国」すなわち出雲が、天照大神の「天津国」すなわち大和に軍事的に屈服した歴史的記憶が「国譲り」と記述されたわけでもなく、その後に「筑紫の日向の高千穂」に天から降臨してきた天孫族のニニギとその子孫、神武天皇が筑紫から東征して大和攻め込み、橿原で即位し新たな大和を建国したわけでもない。8世紀の記紀編纂時における上記の様な王権内/朝廷内の政治事情や、氏族/豪族との勢力バランスが大きく関わってると思われる。

これまで幾度も述べてきた様に、記紀の記述は、史実を客観的に述べているわけではない。白村江の敗戦、壬申の乱後の内憂外患の7世紀を経て、8世紀初頭の天皇制国家「日本(ひのもと)」建国プロセスの中、ヤマト王権が「天皇」として律令国家を形成する過程で、畿内の氏族や各地に勢力を張っていた有力豪族を統合するプロセスを「神話」という形で記述したものだ。それは、これまでの多くの氏族・豪族の祖霊神が並立するという多神教世界に、大王/天皇の祖先である皇祖神天照大神を頂点とした一神教的な秩序と体系化を目指す営みと連動させたものだ。それぞれの神と皇祖神天照との関係をストーリーとして明確にすることが求められた。そのプロセスの中で、出雲氏は無視し得ない有力な地方豪族であったのだろうが、それは国家祭祀に強い影響を有する祭祀/儀礼の担い手という点であり、決して出雲勢力が大和に軍事的に進出して建国したり、それを筑紫から東征してきた勢力に滅ぼされたり。あるいは出雲勢力が大和勢力に滅ぼされたり、と言った暴力的な武力闘争があったと考える必要はなさそうだ。したがって、それ故に歴代天皇の事績の中に記述されるのではなく、神話や神代の出来事として記述されたのだろう。


まとめ

今回の「出雲と大和」展には、出雲の古代日本建国プロセスに関わる役割、「邪馬台国」に象徴される「倭国」の時代の出雲国の姿など、私にとっての基本的な疑問に答える展示は残念ながら少なかった様に思う。出雲に関しては、以前に出雲大社を参拝した時に、発掘された心御柱や宇豆柱、出雲大社本殿模型を現地で見学させてもらった。また加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡から出土した青銅器祭祀の膨大な数の銅剣、銅鐸が埋納されていた事に驚いたことを思い出す。大和の方は大阪赴任中の5年間に毎週の様に通った奈良、大和路で見学して回る機会があったものが多く展示され、それぞれに再会を果たすことができたことはうれしい。感動は石上神宮の「七枝刀」の現物が展示されていた事だ。通常は門外不出。石上神宮でも滅多に公開されない「秘宝」である。したがって私にとって、ここでの拝観が初めてである。島根県と奈良県からそれぞれの歴史的文献や考古学的に貴重なお宝を持ち寄って展示したという点では豪華な展示会であった。しかし、かつて大和路,筑紫路、そして短時間であったが出雲路を散策した時に常に抱いていた疑問。すなわち中国の史書にしか記述が残っていない「倭国」の実態や、そこからどのようにヤマト王権が列島の統一を果たし、やがては「日本」が建国されていったのか。記紀の「出雲神話」や「天孫降臨神話」「神武天皇東征物語」が語るエピソードのなかに、客観的な史実はあるのか。そう期待して見て回ったが、展示の中にそれらを垣間見させる様なヒントはなかなか見えてこなかった。文献史料としての記紀による歴史研究にはやはり限界がある。記紀に出雲に関する記述が多くとも、神話というストーリーの底流に流れているものは「史実」ではなく、編纂当時の王権の「政治的なメッセージ」である。なにがしかの歴史の記憶が潜んでいるとしても、それを証明する文献史料も、それを補う考古学的な発見も限られている。展示会の「日本のはじまりここにあり」とのキャッチコピーにも関わらず、そういう意味では残念な展示会であった。もっともこの展示会のために発行された「図録」のなかで、東京大学の佐藤信名誉教授と島根県立八雲立つ風土記の丘の松本岩雄所長が寄せられた解説になるほどと思うヒントがあったことが収穫であった。やはり展示物を眺めているだけでは見えてこないことがある。いや、まだまだ歴史のミッシングリンクは見つかっていないことを確認したと言うべきか。日本の成り立ちを探る旅はまだ始まったばかりである...か。



2020年2月14日金曜日

奥伊豆の松崎を散策する 〜なぜ松崎には立派な海鼠壁の蔵屋敷が多いのか?〜


依田家邸宅
見事な海鼠壁の蔵屋敷


 奥伊豆の松崎は美しい街である。伊豆の穏やかな気候と風光明媚な土地柄。美しい海鼠塀の街並み。蔵の街。駿河湾沿いの港。入江長八の鏝絵。那賀川沿いの桜並木とお花畑。「花とロマン」の観光の街を標榜している。雲見温泉も近い。桜餅などの桜の葉っぱの産地だそうで全国のシェアー70%を誇るという。しかしその他にさしたる産業もない。何かで栄えたという輝かしい歴史もあまり聞かない。だけど、街に入るとどこか明るくて伸びやかで豊かさを感じる。しかし同時に落ち着いた佇まいの不思議な街だ。今回は下田からバスで松崎に入ったが、奥伊豆の峨々たる山と谷筋いを縫うように走る「バサラ峠越え」ルートは、松崎がいかにも秘境である印象を強くさせるものであった。戸田、土肥など西伊豆の海岸線ルートから入ればまた違った印象になるのかもしれない(次回試してみよう)が、バスに揺られて険しい峠越えを経てはるけき処までやって来たと嘆息する。しかしその感慨に浸る間もなく、山道を下り終えると眼前に穏やかな那賀川沿いの街並みが広がる。そのドラマチックなギャップが際立っている気がした。

 町に入ると立派な海鼠壁の屋敷があちこちに立ち並んでいる。しかも蔵を備えた裕福な商家だ。なぜこのような伊豆半島の南端の松崎にこんな立派な海鼠壁の蔵屋敷が立ち並んでいるのか?そして全国に名を知られる「伊豆の長八」のようなアーティストが生まれ育ったのか?立派な蔵屋敷は富の象徴である。長八のような鏝絵作家が生まれたのは財力があり芸術への造詣の深いパトロンがいたからだろう。また明治になると全国に先駆けて子供達のために岩科学校や私立学校を創設するという知育、徳育、体育への熱意溢れる地元住民の意識の高さが感じられる。その富と繁栄と文化感度の高さの源泉は何なのか? そのような財力を誇れるほどの経済的成功を収めることのできた商業都市であったのか。

 先述のように松崎は今でも交通の便は決して良いとはいえない。同じ伊豆半島でも東伊豆(相模湾沿い)は下田まで鉄道が引かれ便利になったが、西伊豆(駿河湾沿い)は陸路か海路のみ。松崎はその伊豆半島の一番奥に位置する町だ。陸上交通の要衝、物流の要というわけでもない。山と谷筋に分断されて土地は狭く豊かな農業地域というわけでもない。また土肥の銀山のような昔からの伝統的な産物があるわけでもない。駿河湾に面する松崎港は江戸時代は風待港としてそれなりに繁栄したとはいえ、下田港のような江戸湾への入り口に位置する幕府直轄の船番所が置かれる重要港とは異なる。江戸時代は遠州掛川藩の飛地領であったが、寒村にもかかわらず藩の陣屋支配は苛烈で農民は搾取抑圧され、むしろ貧しさに喘ぐ村であったという。このような歴史、地理的な背景を振り返ると、なぜ、何時ごろ、このような繁栄の象徴である蔵屋敷やアーチストや教育施設が生まれたのか。その謎を解く旅に出てみたくなった。


I. 海鼠壁の蔵屋敷

 さて少し、そんな松崎の街を散策してみよう。まずはその海鼠壁の蔵屋敷だ。ガイドブックに紹介されているだけでも、次のような代表的な蔵屋敷、海鼠壁の屋敷がある。

1)中瀬邸
 旧依田直吉邸。明治中期の呉服商、数代で豪商となる。那賀川の中瀬にあったため屋号を「中瀬邸」という。一般公開中。

2)近藤邸
 元禄年間からの薬種商。日本薬学会会頭 東京帝国大学教授で薬学博士であった日本薬学界の巨星、近藤平三郎の実家である、現在も子孫の方が住まい中である。

3)伊豆文邸
 旧依田邸 呉服商を営んだ依田一族の一つ、一般公開施設。

4)山光荘
 旧依田邸。江戸末期の造り酒屋。つげ義春の漫画の舞台となり「長八の宿」として知られる。現在は旅館。

5)依田邸
 旧大沢村名主、庄屋元締め依田一族の本家邸宅。戦後一時期、大沢ホテルとして営業されたが、現在は町の公開施設に。

 こう見てくると、松崎町に現在残る立派な海鼠壁の蔵造りの邸宅は依田(よだ)姓が多いことに気づく。近藤邸は、日本薬学界の重鎮、東京帝国大学薬学科教授で、アルカロイドの研究者、日本薬学会会頭、日本薬剤師会会長を務めた近藤平三郎という偉大な薬学者の実家で、元禄以来の続く薬種商近藤家の邸宅であった。しかし、近藤家も依田家とは郷土の盟友関係にあったそうで、平三郎の東京での研究生活やドイツ留学を共に支えた。どうやら松崎の、特に明治以降の繁栄と、その証左ともいえる独特の街並み景観を形作った根底には依田一族の果たした役割が大きく関わりあるようだ。地元の名家なのだろう。彼らはどういった出自の人たちなのか?少し調べてみた。
(出典:松崎町HP,ウィキペディア)


II. 依田一族:

 依田一族は元は信州小県郡依田郷の出身だという。当主は信濃源氏の末裔で依田城主であった。のちに木曾義仲の平家追討の際に城を譲り信州佐久の芦田城に移ったと言われている。戦国時代には甲州武田氏の重臣として活躍したが、武田氏の滅亡で伊豆へ逃れた。やがて奥伊豆の寒村であった大沢の里(現在の松崎町大沢)に定住し「依田の荘」と呼ばれた。

 江戸時代、依田家は豪農として代々大沢村の名主、庄屋総代を務めた。明治に入ると、郡長や県会議員などを務める一方、実業家として林業、炭、養蚕、製糸業、海運会社などの事業を起こし、教育にも力を入れ学校を作った。中でも11代目の依田佐二平(よださじべえ)は明治の起業家、実業家として活躍。帝国議会衆議院議員などの要職にも着いた。特に養蚕、製糸を地場の一大産業にしようと、桑畑を開き養蚕を勧めた。松崎の繭相場が市場価格を決定するほどになった。自邸内にフランス式の松崎製糸場を作り、海外へ「松崎シルク」として輸出するなど、殖産興業に力を注いだ。

 明治期の製糸工場といえば官営の富岡製糸場が有名だが、左二平はここ松崎にも民間の製糸工場を創業。富岡製糸場に研修に送り出して技術を学び、多くの女工を雇い入れた。その女工たちのための学校も作り、人気の就職先であったという。ここでは「女工哀史」はなかった。やがてこの製糸業は静岡県内にも広がり、松崎は「松崎シルク」の町として繁栄の時代を謳歌した。しかし、やがて左二平が病に陥り、不況と大正期の関東大震災で横浜の倉庫の「松崎シルク」が壊滅的被害を受けついに事業は破綻してしまう。また投機的な繭相場(松崎相場)の崩壊という「バブル崩壊も」あったようだ。以降、「松崎シルク」は歴史のページから消え去ってしまった。町にはその痕跡も無くなり「製糸業の町」松崎の記憶も人々の間から消えていった。なるほど、なぜこのような田舎町(失礼)にこれだけの海鼠壁の蔵屋敷が立ち並び、呉服を商う豪商が二軒もあったのか不思議に思っていたが、こうした養蚕、絹糸と絹織物製品の生産事業がその背景にあったのだ。呉服商といっても地元の小売というよりは松崎港から全国、あるいは横浜港経由で海外へ販路を持つ絹卸問屋であったのであろうか。ただその栄光はうたかたと消えてしまい蔵屋敷が残った。

 一方で、依田一族は知識人も輩出している。幕末の賢人、土屋宗三郎(三余)がそうである。彼は江戸で著名な漢学者であったが、故郷の伊豆松崎(大沢村)へ戻り私塾「三余塾」を開く。彼の名声を慕って全国から門人が集まったという。先述の依田家11代当主左二平も若き日に三余塾で学んだ。左二平はここでの研鑽を生涯の糧とし地元に事業を起こし発展させるとともに、人材育成こそ国家、郷土繁栄の基礎として教育にも力を入れ、大沢塾(会津藩家老西郷頼母を招聘)、謹申塾、私立豆陽学校(県立下田北高校、下田高校の前身)を創設している。まさに明治実業家の「論語と算盤」(渋沢栄一)の精神がここ奥伊豆の松崎にも花開いたという訳である。

 その左二平の弟が依田勉三(よだべんぞう)だ。民間出身の北海道開拓の父として後世に名を残す彼は、ここ伊豆松崎の出身だ。彼も三余塾に学び、のちに東京へ出て慶應義塾で学ぶ。東京で欧米の宣教師に出会いフロンティアスピリットに触れて、北海道開拓を目指すことになる。故郷へ戻り開拓団「晩成舎」を結成すると、仲間と地元の住民数家族とともに十勝平野へ移住し開拓事業に取り組む。しかし苦労の連続、開拓事業は失敗続きで志半ばで他界する。しかし彼のパイオニア精神がなけれが今の十勝平野の繁栄はなかったとして、「十勝帯広開拓の父」と呼ばれ帯広には銅像が立ち、北海道神宮開拓神社では祭神の一柱となっている。ちなみに牧場を経営しているときにバターを製品化し、マルセイバターとして売り出した。この名前が現在北海道銘菓の六花亭の「マルセイバターサンド」として引き継がれている

 那賀川沿いに今でも依田家の広大な敷地を誇る海鼠壁のお屋敷がある。このいわば依田本家邸宅は元禄年間の創建で、建物は築320年と言われる。昭和36年からは子孫が「大沢温泉ホテル」として、敷地建物を取り壊したり分割したり売却したりせずに稼働させることで歴史的な邸宅の保存修景に努めてきた。現在はホテルは廃業し松崎町の管理に移行し一般に公開されている。まことに見事な一見の価値のあるお屋敷だ。残念ながら訪問当日は内部参観日ではなかったので外観だけ見て回ったが、その外観だけでも美しく保たれた海鼠塀と、壮麗な蔵が目を引く。 

 海鼠壁の蔵屋敷の商家だけではなく、町には景観的な特色が随所に見られる。町を流れる那賀川に架かる橋は、中瀬邸の前に架かる常盤橋をはじめ、どれも海鼠壁、鏝絵を施した凝ったものだ。また中瀬邸前には時計台が設けられるなど景観に対するこだわりがある。こうした配慮が町全体を独特な佇まいにしていると言える。全国には蔵の町は多くあれど、倉敷や川越や栃木のような江戸時代から物流の拠点として繁栄を誇った蔵の町ほどの蔵屋敷の集積度はないが、小規模ながら独自の繁栄の痕跡を今に残す伊豆の蔵の町である。残念ながら「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていない。その保存、修景はまさに地元の自治体や住民のボランティアの努力が支えているという。各施設で説明してくれたボランティアの女性たちの博識と郷土愛に大いに感動した。これこそ文化度を誇る松崎の伝統である。

 下田から松崎に至る「バサラ峠越え」の道すがらに「花の三聖苑」がある。ここに「三聖堂」が設けられ、左二平が私財を投じて建てた小学校、「大沢学舎」の建物が移設されている。ここで言う「三聖」とは、上述の土田三余(漢学者)、依田左二平(実業家)、依田勉三(十勝開拓団。晩成舎)のことである。郷土の誇りである彼らの業績を記念するために開苑された。これがまた街中ではなく、山を分け入った街道沿いにあるのは奥ゆかしい。現在は「道の駅」として峠越えの多くの車が休憩を取る場所になっていて、その施設の何たるかを知らずに立ち寄る人も多いのだろう。「それでいいのだ」と「三聖人」はあの世から眺めていることだろう。


III. 入江長八:

 そして、松崎といえば入江長八。鏝絵の大家「伊豆の長八」で有名な街だ。伊豆松崎に生まれ幕末から明治にかけて活躍した左官職人であり絵師である。松崎で幼少の時から左官修行をし、さらには江戸へ出て絵師の修行をしたことから、左官の技術を生かした「鏝絵」を生み出した。作品の多くはここ松崎の浄感寺(長八記念館)、長八美術館に展示されている。特に浄感寺の鏝絵と本堂天井の「八方睨みの龍」図は圧巻だ。この他にも彼や彼の弟子たちの作品は街中にある商家や岩科学校にも見出すことができる。また、後年の長八の活動の場、生活の場であった東京にも多くの作品が残されていたが、戦争中の空襲でその多くが失われてしまった。現在は泉岳寺や品川の寄木神社に作品が残されている。


IV. 岩科学校:

 松崎の街中から少し離れた岩科地区(かつての岩科村)には岩科学校がある、国の重要文化財である。明治に建てられた擬西洋風建築の立派な学校で、建設当時、費用の40%を地元住民が拠出して建てたことからわかるように、非常に教育熱心な土地柄であった。文明開化をここから進めようとする明治人の心意気を感じる。これに応える地元の大工の棟梁、菊地丑太郎、高木久五郎が設計建築を手がけ、扁額は明治政府の三条実美の書になるもので、入江長八の描いたレリーフが飾られている。これだけの建物を地元の匠が意匠、設計、建築まで自力でできるその技術的、文化的な底力にも驚嘆する。甲府の睦沢学校(明治8年創建)、松本の開智学校(明治9年創建)に次ぐ古さ(明治12年創建)の学校だ。


V. まとめ

 このように伊豆松崎は、辺境な土地に開花した独特の文化と、そこに咲き誇る先人たちの心意気が今に息づく町であることを知ることが出来た。この町の佇まいは、明治の日本のスローガンである「文明開化」「殖産興業」の志が、ここ奥伊豆にも確かに花開いた証を示すものであると感じる。その繁栄の残光が町の佇まいの優美さを生み出している。こうして多少は海鼠壁の蔵屋敷の謎が解けたような気がする。この奥伊豆の寒村からなぜこのような偉人が出たのか、文化の意識の高い住民が生まれたのか、謎はまだ完全には解けてはいないが、「製糸業の町松崎」を立ち上げた依田左二平始め、依田一族の開明的な心の広さ、目線の高さとリーダーシップが大きな力となったのは間違いないだろう。また一族の豊かな資産にあぐらをかき故郷に安住するのではなく、依田勉三のような常にハングリーでフロンティアスピリットを持って無人の荒野に踏み出す心意気は、かつて祖先が一族の故地である信州を脱して、辺境な伊豆へ移り住み、荒れた土地を切り開いてきた依田一族の開拓者としてのDNAが脈々と受け継がれているように感じる。「人生至る所青山あり」である。そうした歴史を知るにつけ、益々ここ松崎が好きになり、人を惹きつける魅力に溢れた町であることをあらためて認識する。良い旅であった。



那賀川と時計台と火の見櫓

1)中瀬邸:

明治の呉服商の邸宅/店舗




中庭と離れ
母屋につながる内蔵

黒光する漆喰の輝き
黒漆喰の海鼠塀

蔵の中の扉に施された鏝絵


明治ガラスの縁側
船底天井の渡り廊下


呉服店の店先
広い土間が店の規模を示している





時計台
常盤橋から見た時計台

時計台内部の天井装飾
時計台入口の装飾
何を意味するのか?





橋の欄干の鏝絵

まちの電器屋さん
元 内科小児科医院

用途不明だが独特の意匠

旧松崎警察署
現松崎町観光協会


2)近藤邸:


元禄から続く薬種商の近藤家





連立蔵
近藤家玄関
左には洋館を増築
薬学界の重鎮近藤平三郎の生家

なまこ塀の散歩道



3)浄感寺(長八記念館):


浄感寺は今は「長八記念館」になっている




木彫りレリーフ作品
長八の鏝絵天女図




本堂の天井絵「八方睨みの龍」
長八の筆になる絵画作品

欄間の絵も長八の作品


4)伊豆の長八美術館:

石山修武の設計




5)伊豆文邸:


こちらも呉服商であった






6)山光荘:

元造酒屋
現在は旅館になっている






7)依田邸:

依田一族の本家邸宅



見事な海鼠壁の蔵

常盤橋


8)岩科学校:

三条実美書の扁額

擬西洋風建築の校舎(この2枚の写真は松崎町HPから借用)


アクセス:車があれば話は別だが...交通の便悪し。最寄りの鉄道の駅なし。下田から「バサラ峠越え」のバスで50分。土肥から海岸沿いにバスで50分。あるいは修善寺から山越えのバスで1時間半。三聖苑、岩科学校を除けば歩いて回れる。


(撮影機材:Leica SL2 + Vario Elmarit-SL 24-90/2.8-4 + Lumix S-Pro 70-200/4)