依田家邸宅 |
見事な海鼠壁の蔵屋敷 |
奥伊豆の松崎は美しい街である。伊豆の穏やかな気候と風光明媚な土地柄。美しい海鼠塀の街並み。蔵の街。駿河湾沿いの港。入江長八の鏝絵。那賀川沿いの桜並木とお花畑。「花とロマン」の観光の街を標榜している。雲見温泉も近い。桜餅などの桜の葉っぱの産地だそうで全国のシェアー70%を誇るという。しかしその他にさしたる産業もない。何かで栄えたという輝かしい歴史もあまり聞かない。だけど、街に入るとどこか明るくて伸びやかで豊かさを感じる。しかし同時に落ち着いた佇まいの不思議な街だ。今回は下田からバスで松崎に入ったが、奥伊豆の峨々たる山と谷筋いを縫うように走る「バサラ峠越え」ルートは、松崎がいかにも秘境である印象を強くさせるものであった。戸田、土肥など西伊豆の海岸線ルートから入ればまた違った印象になるのかもしれない(次回試してみよう)が、バスに揺られて険しい峠越えを経てはるけき処までやって来たと嘆息する。しかしその感慨に浸る間もなく、山道を下り終えると眼前に穏やかな那賀川沿いの街並みが広がる。そのドラマチックなギャップが際立っている気がした。
町に入ると立派な海鼠壁の屋敷があちこちに立ち並んでいる。しかも蔵を備えた裕福な商家だ。なぜこのような伊豆半島の南端の松崎にこんな立派な海鼠壁の蔵屋敷が立ち並んでいるのか?そして全国に名を知られる「伊豆の長八」のようなアーティストが生まれ育ったのか?立派な蔵屋敷は富の象徴である。長八のような鏝絵作家が生まれたのは財力があり芸術への造詣の深いパトロンがいたからだろう。また明治になると全国に先駆けて子供達のために岩科学校や私立学校を創設するという知育、徳育、体育への熱意溢れる地元住民の意識の高さが感じられる。その富と繁栄と文化感度の高さの源泉は何なのか? そのような財力を誇れるほどの経済的成功を収めることのできた商業都市であったのか。
先述のように松崎は今でも交通の便は決して良いとはいえない。同じ伊豆半島でも東伊豆(相模湾沿い)は下田まで鉄道が引かれ便利になったが、西伊豆(駿河湾沿い)は陸路か海路のみ。松崎はその伊豆半島の一番奥に位置する町だ。陸上交通の要衝、物流の要というわけでもない。山と谷筋に分断されて土地は狭く豊かな農業地域というわけでもない。また土肥の銀山のような昔からの伝統的な産物があるわけでもない。駿河湾に面する松崎港は江戸時代は風待港としてそれなりに繁栄したとはいえ、下田港のような江戸湾への入り口に位置する幕府直轄の船番所が置かれる重要港とは異なる。江戸時代は遠州掛川藩の飛地領であったが、寒村にもかかわらず藩の陣屋支配は苛烈で農民は搾取抑圧され、むしろ貧しさに喘ぐ村であったという。このような歴史、地理的な背景を振り返ると、なぜ、何時ごろ、このような繁栄の象徴である蔵屋敷やアーチストや教育施設が生まれたのか。その謎を解く旅に出てみたくなった。
I. 海鼠壁の蔵屋敷
さて少し、そんな松崎の街を散策してみよう。まずはその海鼠壁の蔵屋敷だ。ガイドブックに紹介されているだけでも、次のような代表的な蔵屋敷、海鼠壁の屋敷がある。
1)中瀬邸
旧依田直吉邸。明治中期の呉服商、数代で豪商となる。那賀川の中瀬にあったため屋号を「中瀬邸」という。一般公開中。
2)近藤邸
元禄年間からの薬種商。日本薬学会会頭 東京帝国大学教授で薬学博士であった日本薬学界の巨星、近藤平三郎の実家である、現在も子孫の方が住まい中である。
3)伊豆文邸
旧依田邸 呉服商を営んだ依田一族の一つ、一般公開施設。
4)山光荘
旧依田邸。江戸末期の造り酒屋。つげ義春の漫画の舞台となり「長八の宿」として知られる。現在は旅館。
5)依田邸
旧大沢村名主、庄屋元締め依田一族の本家邸宅。戦後一時期、大沢ホテルとして営業されたが、現在は町の公開施設に。
こう見てくると、松崎町に現在残る立派な海鼠壁の蔵造りの邸宅は依田(よだ)姓が多いことに気づく。近藤邸は、日本薬学界の重鎮、東京帝国大学薬学科教授で、アルカロイドの研究者、日本薬学会会頭、日本薬剤師会会長を務めた近藤平三郎という偉大な薬学者の実家で、元禄以来の続く薬種商近藤家の邸宅であった。しかし、近藤家も依田家とは郷土の盟友関係にあったそうで、平三郎の東京での研究生活やドイツ留学を共に支えた。どうやら松崎の、特に明治以降の繁栄と、その証左ともいえる独特の街並み景観を形作った根底には依田一族の果たした役割が大きく関わりあるようだ。地元の名家なのだろう。彼らはどういった出自の人たちなのか?少し調べてみた。
(出典:松崎町HP,ウィキペディア)
II. 依田一族:
依田一族は元は信州小県郡依田郷の出身だという。当主は信濃源氏の末裔で依田城主であった。のちに木曾義仲の平家追討の際に城を譲り信州佐久の芦田城に移ったと言われている。戦国時代には甲州武田氏の重臣として活躍したが、武田氏の滅亡で伊豆へ逃れた。やがて奥伊豆の寒村であった大沢の里(現在の松崎町大沢)に定住し「依田の荘」と呼ばれた。
江戸時代、依田家は豪農として代々大沢村の名主、庄屋総代を務めた。明治に入ると、郡長や県会議員などを務める一方、実業家として林業、炭、養蚕、製糸業、海運会社などの事業を起こし、教育にも力を入れ学校を作った。中でも11代目の依田佐二平(よださじべえ)は明治の起業家、実業家として活躍。帝国議会衆議院議員などの要職にも着いた。特に養蚕、製糸を地場の一大産業にしようと、桑畑を開き養蚕を勧めた。松崎の繭相場が市場価格を決定するほどになった。自邸内にフランス式の松崎製糸場を作り、海外へ「松崎シルク」として輸出するなど、殖産興業に力を注いだ。
明治期の製糸工場といえば官営の富岡製糸場が有名だが、左二平はここ松崎にも民間の製糸工場を創業。富岡製糸場に研修に送り出して技術を学び、多くの女工を雇い入れた。その女工たちのための学校も作り、人気の就職先であったという。ここでは「女工哀史」はなかった。やがてこの製糸業は静岡県内にも広がり、松崎は「松崎シルク」の町として繁栄の時代を謳歌した。しかし、やがて左二平が病に陥り、不況と大正期の関東大震災で横浜の倉庫の「松崎シルク」が壊滅的被害を受けついに事業は破綻してしまう。また投機的な繭相場(松崎相場)の崩壊という「バブル崩壊も」あったようだ。以降、「松崎シルク」は歴史のページから消え去ってしまった。町にはその痕跡も無くなり「製糸業の町」松崎の記憶も人々の間から消えていった。なるほど、なぜこのような田舎町(失礼)にこれだけの海鼠壁の蔵屋敷が立ち並び、呉服を商う豪商が二軒もあったのか不思議に思っていたが、こうした養蚕、絹糸と絹織物製品の生産事業がその背景にあったのだ。呉服商といっても地元の小売というよりは松崎港から全国、あるいは横浜港経由で海外へ販路を持つ絹卸問屋であったのであろうか。ただその栄光はうたかたと消えてしまい蔵屋敷が残った。
一方で、依田一族は知識人も輩出している。幕末の賢人、土屋宗三郎(三余)がそうである。彼は江戸で著名な漢学者であったが、故郷の伊豆松崎(大沢村)へ戻り私塾「三余塾」を開く。彼の名声を慕って全国から門人が集まったという。先述の依田家11代当主左二平も若き日に三余塾で学んだ。左二平はここでの研鑽を生涯の糧とし地元に事業を起こし発展させるとともに、人材育成こそ国家、郷土繁栄の基礎として教育にも力を入れ、大沢塾(会津藩家老西郷頼母を招聘)、謹申塾、私立豆陽学校(県立下田北高校、下田高校の前身)を創設している。まさに明治実業家の「論語と算盤」(渋沢栄一)の精神がここ奥伊豆の松崎にも花開いたという訳である。
その左二平の弟が依田勉三(よだべんぞう)だ。民間出身の北海道開拓の父として後世に名を残す彼は、ここ伊豆松崎の出身だ。彼も三余塾に学び、のちに東京へ出て慶應義塾で学ぶ。東京で欧米の宣教師に出会いフロンティアスピリットに触れて、北海道開拓を目指すことになる。故郷へ戻り開拓団「晩成舎」を結成すると、仲間と地元の住民数家族とともに十勝平野へ移住し開拓事業に取り組む。しかし苦労の連続、開拓事業は失敗続きで志半ばで他界する。しかし彼のパイオニア精神がなけれが今の十勝平野の繁栄はなかったとして、「十勝帯広開拓の父」と呼ばれ帯広には銅像が立ち、北海道神宮開拓神社では祭神の一柱となっている。ちなみに牧場を経営しているときにバターを製品化し、マルセイバターとして売り出した。この名前が現在北海道銘菓の六花亭の「マルセイバターサンド」として引き継がれている
那賀川沿いに今でも依田家の広大な敷地を誇る海鼠壁のお屋敷がある。このいわば依田本家邸宅は元禄年間の創建で、建物は築320年と言われる。昭和36年からは子孫が「大沢温泉ホテル」として、敷地建物を取り壊したり分割したり売却したりせずに稼働させることで歴史的な邸宅の保存修景に努めてきた。現在はホテルは廃業し松崎町の管理に移行し一般に公開されている。まことに見事な一見の価値のあるお屋敷だ。残念ながら訪問当日は内部参観日ではなかったので外観だけ見て回ったが、その外観だけでも美しく保たれた海鼠塀と、壮麗な蔵が目を引く。
海鼠壁の蔵屋敷の商家だけではなく、町には景観的な特色が随所に見られる。町を流れる那賀川に架かる橋は、中瀬邸の前に架かる常盤橋をはじめ、どれも海鼠壁、鏝絵を施した凝ったものだ。また中瀬邸前には時計台が設けられるなど景観に対するこだわりがある。こうした配慮が町全体を独特な佇まいにしていると言える。全国には蔵の町は多くあれど、倉敷や川越や栃木のような江戸時代から物流の拠点として繁栄を誇った蔵の町ほどの蔵屋敷の集積度はないが、小規模ながら独自の繁栄の痕跡を今に残す伊豆の蔵の町である。残念ながら「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていない。その保存、修景はまさに地元の自治体や住民のボランティアの努力が支えているという。各施設で説明してくれたボランティアの女性たちの博識と郷土愛に大いに感動した。これこそ文化度を誇る松崎の伝統である。
下田から松崎に至る「バサラ峠越え」の道すがらに「花の三聖苑」がある。ここに「三聖堂」が設けられ、左二平が私財を投じて建てた小学校、「大沢学舎」の建物が移設されている。ここで言う「三聖」とは、上述の土田三余(漢学者)、依田左二平(実業家)、依田勉三(十勝開拓団。晩成舎)のことである。郷土の誇りである彼らの業績を記念するために開苑された。これがまた街中ではなく、山を分け入った街道沿いにあるのは奥ゆかしい。現在は「道の駅」として峠越えの多くの車が休憩を取る場所になっていて、その施設の何たるかを知らずに立ち寄る人も多いのだろう。「それでいいのだ」と「三聖人」はあの世から眺めていることだろう。
III. 入江長八:
そして、松崎といえば入江長八。鏝絵の大家「伊豆の長八」で有名な街だ。伊豆松崎に生まれ幕末から明治にかけて活躍した左官職人であり絵師である。松崎で幼少の時から左官修行をし、さらには江戸へ出て絵師の修行をしたことから、左官の技術を生かした「鏝絵」を生み出した。作品の多くはここ松崎の浄感寺(長八記念館)、長八美術館に展示されている。特に浄感寺の鏝絵と本堂天井の「八方睨みの龍」図は圧巻だ。この他にも彼や彼の弟子たちの作品は街中にある商家や岩科学校にも見出すことができる。また、後年の長八の活動の場、生活の場であった東京にも多くの作品が残されていたが、戦争中の空襲でその多くが失われてしまった。現在は泉岳寺や品川の寄木神社に作品が残されている。
IV. 岩科学校:
松崎の街中から少し離れた岩科地区(かつての岩科村)には岩科学校がある、国の重要文化財である。明治に建てられた擬西洋風建築の立派な学校で、建設当時、費用の40%を地元住民が拠出して建てたことからわかるように、非常に教育熱心な土地柄であった。文明開化をここから進めようとする明治人の心意気を感じる。これに応える地元の大工の棟梁、菊地丑太郎、高木久五郎が設計建築を手がけ、扁額は明治政府の三条実美の書になるもので、入江長八の描いたレリーフが飾られている。これだけの建物を地元の匠が意匠、設計、建築まで自力でできるその技術的、文化的な底力にも驚嘆する。甲府の睦沢学校(明治8年創建)、松本の開智学校(明治9年創建)に次ぐ古さ(明治12年創建)の学校だ。
V. まとめ
このように伊豆松崎は、辺境な土地に開花した独特の文化と、そこに咲き誇る先人たちの心意気が今に息づく町であることを知ることが出来た。この町の佇まいは、明治の日本のスローガンである「文明開化」「殖産興業」の志が、ここ奥伊豆にも確かに花開いた証を示すものであると感じる。その繁栄の残光が町の佇まいの優美さを生み出している。こうして多少は海鼠壁の蔵屋敷の謎が解けたような気がする。この奥伊豆の寒村からなぜこのような偉人が出たのか、文化の意識の高い住民が生まれたのか、謎はまだ完全には解けてはいないが、「製糸業の町松崎」を立ち上げた依田左二平始め、依田一族の開明的な心の広さ、目線の高さとリーダーシップが大きな力となったのは間違いないだろう。また一族の豊かな資産にあぐらをかき故郷に安住するのではなく、依田勉三のような常にハングリーでフロンティアスピリットを持って無人の荒野に踏み出す心意気は、かつて祖先が一族の故地である信州を脱して、辺境な伊豆へ移り住み、荒れた土地を切り開いてきた依田一族の開拓者としてのDNAが脈々と受け継がれているように感じる。「人生至る所青山あり」である。そうした歴史を知るにつけ、益々ここ松崎が好きになり、人を惹きつける魅力に溢れた町であることをあらためて認識する。良い旅であった。
那賀川と時計台と火の見櫓 |
1)中瀬邸:
明治の呉服商の邸宅/店舗 |
中庭と離れ |
母屋につながる内蔵 |
黒光する漆喰の輝き |
黒漆喰の海鼠塀 |
蔵の中の扉に施された鏝絵 |
明治ガラスの縁側 |
船底天井の渡り廊下 |
呉服店の店先 |
広い土間が店の規模を示している |
時計台 |
常盤橋から見た時計台 |
時計台内部の天井装飾 |
時計台入口の装飾 何を意味するのか? |
橋の欄干の鏝絵 |
まちの電器屋さん |
元 内科小児科医院 |
用途不明だが独特の意匠 |
旧松崎警察署 現松崎町観光協会 |
2)近藤邸:
元禄から続く薬種商の近藤家 |
連立蔵 |
近藤家玄関 左には洋館を増築 薬学界の重鎮近藤平三郎の生家 |
なまこ塀の散歩道 |
3)浄感寺(長八記念館):
浄感寺は今は「長八記念館」になっている |
木彫りレリーフ作品 |
長八の鏝絵天女図 |
本堂の天井絵「八方睨みの龍」 長八の筆になる絵画作品 |
欄間の絵も長八の作品 |
4)伊豆の長八美術館:
石山修武の設計 |
5)伊豆文邸:
こちらも呉服商であった |
6)山光荘:
元造酒屋 現在は旅館になっている |
7)依田邸:
依田一族の本家邸宅 |
見事な海鼠壁の蔵 |
常盤橋 |
8)岩科学校:
三条実美書の扁額 |
擬西洋風建築の校舎(この2枚の写真は松崎町HPから借用) |
アクセス:車があれば話は別だが...交通の便悪し。最寄りの鉄道の駅なし。下田から「バサラ峠越え」のバスで50分。土肥から海岸沿いにバスで50分。あるいは修善寺から山越えのバスで1時間半。三聖苑、岩科学校を除けば歩いて回れる。
(撮影機材:Leica SL2 + Vario Elmarit-SL 24-90/2.8-4 + Lumix S-Pro 70-200/4)