「磯城島の大和国は 言霊の助くる国 ま幸くありこそ」 柿本人麻呂 |
これで思い出すのは去年、カルロス・ゴーンが保釈中にレバノンに逃亡し、日本の司直の手の届かないところで「日本はいかに人権を無視した不当な国、刑事司法が歪んだ国であるか」と、好き勝手に世界のジャーナリストを前に何時間もしゃべり続けたことも記憶に新しい。会社の金を私物化し、会社やステークホルダーに多大な損害を与えておいて、問題をすり替えて自己中心的な言い訳と自己弁護を延々と(本当によく喋る!)し続ける男を前に、日本は言われっぱなしではなかったか。この「巧言令色仁少なし」を前にして何か有効な反論をしたのだろうか。
この日本人の議論下手、説明下手、発信力不足はどこからきているのだろう。相手を納得させる力の弱さはどうしたことなのか。相手からの一方的な主張に直面したときに極めて脆弱である。黙ってすごすごと引っ込んでしまう。あるいは無視という回避行動をとる。無視はときには必要で有効な対応であるが、場合によっては「不作為による消極的敗北」に繋がる。こうした我々日本人に共通する行動やメンタリティーについて考えているときに、ふと「巣篭もり中」に読んだ万葉集の中に思い当たる歌を見つけた。
万葉集巻の十三の中に次のような柿本人麻呂の歌がある。
(小学館刊 日本古典文学全集より引用)
「葦原の瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国.... 」
訳:日本という国は言葉に神意(霊)があるのでに多くを語らない国なのだ、と。
反歌
「磯城嶋の大和国は 言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ」
訳:大和は言葉に魂が宿っていて神が助けてくれる国だ 幸多くお元気で、と。
「言挙げ(ことあげ)」とは「自分の意思をはっきりと声に出して言うこと」
「言霊(ことだま)」とは「言葉に宿る魂」すなわち「言語の神霊化」である(金田一京介)
すなわち、日本という国は言葉に神の魂が宿っているのだから言葉を大切にする。であるから軽々しく語らない。くどくどと説明をしない。言い訳をしない。みだりに大きな声をあげて自分を主張しない。これは、心が通じ合う人、言葉の大切さを知る人には多くを語る必要はないという日本の言語思想を表していると言われている。思考は言葉でなされるので、これが日本人の思考様式と言っても良い。古事記にも、ヤマトタケルノミコトが伊吹山で遭遇した神に「言挙げ」して、その怒りをかい、世を去ることになったというエピソードが語られている。これは古代の日本人が「言霊」に対して、いかに畏敬と畏怖の念を持ち、「言挙げ」を戒めるているのかを語るものだ。
この自分の意思をはっきりと説明しない、する必要がない、とする考え方。また「良いこと、めでたいことは言っても良いが、悪いこと、いまわしいことを言ってはならない」、「あってはならないことを指摘することで悪いことが実際に起きる」という「言語思想」が、近代日本における民主主義の伸長過程で「言論・表現の自由」を損なうことにつながっているという(山本七平)。すなわち「問題点を指摘してはならない」「議論してはならない」。それが災いを呼び込んでしまうと言う考え方は、正常な民主主義の理解と発展を阻害するし、有効なコミュニケーション能力の育成を妨げるという訳である。
のちの時代に中国の論語の「巧言令色鮮仁」「剛毅木訥仁近」の影響が加わって、さらに日本人は、口が達者な人、多く喋る人や、異論反論を提起する人を嫌う傾向にある。寡黙で感情を表に出さず、口数の少ない高倉健のような人間が好きだ。「言い訳をするな」という躾は各世代の基層にある価値観、道徳観の表明である。たしかに見苦しい言い訳は聞くに耐えないが、しかし正当な自己弁護は否定されてはならない。極東裁判でキーナン検事やパール判事が無罪だとして救済しようとした広田弘毅も、自らは一顧の弁明もせず絞首台に立った。日本人はこういう人物に美学を感じる。武士道精神を見る。魂の高潔さを見る。しかし「無言」は罪を認めたことになる。確かに広田弘毅自身も、自らの意思決定ではなかったにしろ、軍部の理不尽さに抗しきれなかった自分には「不作為による関与があった」としている。日本人のそうした美学、価値観、道徳観と、その外側にいる人たち(先述の某自動車会社元トップなど)のそれとの間には大きなギャップがあることがある。欧米でもBig Mouth(大言壮語、大口を叩く人間)は嫌われるが、かならずしも道徳的に非難される訳ではない。
日本の言葉の美しさと霊性は否定しない。過度に自己主張しない「けん虚な」人間が好きだ。言外の意味に込められる情感や、言わずもがなで共感出来る人が好きだ。「みなまで言うな」で通じる空間が心地よい。しかし、現代の世の中では価値観を共有しない相手や、異なる文化的背景、多様な価値観を持つ人々とも交渉し、説得し、自己主張することを迫られる。そうして共生してゆく多様性の社会に移っていっている。また誰もがSNSなどで「自己主張」の機会をたやすく手にすることができるようになったので、ネット上で口から出任せに嘘や暴言を吐く人が現れる。そうした現状は決して好ましいことではないし、こうした相手への誹謗中傷がいかに「言霊の宿らない」「美しくない言葉」かは言うまでもない。だから黙っていろ、無視して相手にするな、多くを語るな、ということにはなるまい。こうした時代に「言霊」を大切にする日本人の「言挙げをしない」言語思想を世界に広めることは容易ではないように見える。しかし本当に「言霊」「言挙げせず」は人と人との率直なコミュニケーションを妨げる言語思想なのか?
先述の人麻呂の歌の全文を最後まで読んでみよう。以下の通りである。
「葦原の瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと つつみなく 幸くいまさば 荒磯波 ありてむ見むと 百重波 千重波にしき 言挙げす我は 言挙げす我は」
訳:葦原の瑞穂の国は神意のままに 言挙げしない国です それでも 私は言挙げをします お元気に ご無事でいらっしゃいと つつがなく お元気であられたら (荒磯波)ありてもそのうちにまた逢えようと 百重波 千重波のように繰り返して 言挙げをしますわたしは 言挙げをしますわたしは...
これは遠国に旅立つ友を送る歌であろう。この歌は「言挙げをしない国」「言霊の助くる国」にあっては言葉に命があり、それの重さを知っている。しかしそれでも「私は言挙げをするんだ」と言っている。友の無事を祈る心を隠すことはできない。そこでは友を思って無事であれかしと「言挙げ:自己主張」をするのを抑えられないのだと。神意に違わない心であれば災いを招くことなどないのだと。したがって繰り返し繰り返し何度でも「言挙げ」をします。あなたの無事を祈り、また会えることを祈っています...と歌っている。
神道の世界(神ながらの道)では「議論をしない」「神学論争はしない」のだそうだ。他宗教のような宗派対立がないのだと言う。しかし実際の生活においては自己主張も議論もしなくてはなるまい。それは避けて通れない。それが「神」の「意」に反しない限りは。人麻呂もここでは誠意をもった主張、心情の吐露を遠慮なく歌い表している。その「神の意」とは一神教的な「神の意思」ではない。西欧哲学で言う自然法的なものだと考える。私は宗教学者でも神官でもないのでここでの「神学論争」はもとより本意ではないが、もともとの日本原初の神は自然崇拝/アニミズムによる八百万神で、後世に観念された祖霊神や首長神、地域産土神や氏神ではない。まして皇祖神や国家神道の唯一神/最高神的神でもない。まさに「自然法の神」「神に依拠する自然法」なのだ。人間の自然な心、すなわち自然の一部として共に生きるという思想や、人々の間で共有できる倫理観が生み出した「神」なのだ。だからこそ言葉に霊が宿り、言葉が大事なものであると考える。その理解に反する「言挙げ」を戒める。こうした「言霊」の宿る言葉を大切に用いた心情の吐露、自己主張や議論は決して禁じられたり、避けられたりするものではなく、むしろ大いになされるべきものであると考えられる。この考え方にこそ排他的で偏狭さに陥っている一神教的な教条主義や不寛容を打ち破る普遍的で強い「神意」が存在すると考える。それをもって日本人は堂々と説明責任を果たし、議論し、自己主張をしてゆけば良い。日本人が超えられない思考様式の壁だなどと考える必要はない。とりわけ政治こそ言葉の持つ重みが極めて大きい世界であるのだが、そこが一番発信力と説得力に欠けるとなると、日本(ひのもと)は「言霊の助くる国」とはならないだろう。
大神神社から大和国を眺める 大和三山、金剛山、葛城山、二上山を背景に |
大神神社の大鳥居と夕陽 |