2020年4月15日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第一弾)〜邪馬台国位置論争は「北部九州説」で決着?〜

三輪山山麓の纒向遺跡全貌
左に居館跡、右には箸墓古墳
背後には三輪山
(桜井市HPより)

2009年の纏向居館跡(王宮?)発掘現場
九州佐賀の吉野ヶ里遺跡復元建物
邪馬台国の姿を彷彿とさせる佇まい
「三国志魏志東夷伝倭人条」


日本の古代史の謎に関わる論争の一つに「邪馬台国位置論争」がある。毎度マスメディアなどでこの話題が出るたびに、専門家、古代史愛好家、素人を含めて大いに盛り上がる。あまりにも史料が少ないので「素人歴史探偵」も参戦しやすく、持論が罷り通りやすい論争でもある。しかし「どこにあったか」という問いそれ自体はそれほど意味のあるものではない。3世紀の日本列島の有様、倭国はどのような姿であったのか、どのようにしてヤマト王権、統一王権が近畿地方に成立したのかを解明する上での一テーマとして論ずるべきだと考えてきた。考古学的な出土物が出るたびに「やっぱり近畿だ」、「やっぱり北部九州だ」と。もういい加減にしてくれと言いたいし、これ以上やるつもりはないのだが、最近、変な決着をつけたがる論調が勢いを増してきているので看過できないと思い筆を取った。


邪馬台国は近畿にあった?

最近、邪馬台国論争には一定の決着がついたとする論者が増えてきたようだ。すなわち纒向遺跡の発掘が進むにつれ、ここが邪馬台国の女王卑弥呼の宮殿であったことが確かになってきたと主張する。すなわち邪馬台国近畿説が正しい、「これで決まり」と断ずる空気が横溢している。これはマスコミに登場する考古学者に多い。白黒決着つけたがるマスコミの責任が大きいのだが、本当にそうであろうか?何を根拠にそう断定するのか?纒向遺跡は古代史を解明する上で重要な遺跡であることは言を待たないが、何故それを「邪馬台国」、「卑弥呼」にすぐに結び付けようとするのか。どうも議論の飛躍がある。それは邪馬台国を近畿、奈良に誘致したい人の「思い」であって、研究者の「真実解明の姿」ではない。あるは古代の日本は邪馬台国に始まり、それが初期ヤマト王権、天皇制に繋がって行った、というナイーブなシナリオに基づく「思い込み」である。そもそも邪馬台国が近畿(奈良盆地)にあって、大和のルーツ、天皇のルーツなら、何故、日本の成り立ちを記述したとする正史「日本書紀」や、天皇の記である「古事記」は、古代中国の正史に記載されている邪馬台国にも卑弥呼にも一切言及していないのか?この問いにどう答えるのか。それだけでも、纒向遺跡の宮殿跡(居館跡)を見ただけで安易に問題解決とする姿勢には疑問を感じざるを得ない。むしろ現地の発掘責任者の方が慎重で、マスコミの誘導尋問(「ここが卑弥呼の宮殿ですね?」という)にもバイアスのかかった見解を絶対に示さない。正しい実証的な研究態度だろう。


いや邪馬台国は北部九州にあった。

結論を先に言えば、文献史学的、すなわち歴史学的には邪馬台国は北部九州にあったことは明確であろう(具体的な場所の特定は未だできていないが)。むしろそういう意味では邪馬台国九州説ですでに決着済みと言って良いかもしれない。そもそも邪馬台国、卑弥呼に関する初見は中国の史書「魏志倭人伝」(三国志魏書東夷伝倭人条)で、他に邪馬台国や卑弥呼に言及した史料は中国にも日本にもない。のちの中国側の史書に登場する場合も魏志を引用、あるいは参考にした記述となっている。先述のように日本側の史料、すなわち日本書紀や古事記には一切の記述がない。したがって謎の解明は魏志倭人伝をどう読み解くか以外に方法はない。限られた文字数(2000字ほど)で不正確な記述も多いが、この時代の記録としては「唯一」のものであるし、当時の倭国の様子を知る一級の史料である。これを素直に読めば邪馬台国が九州にあったことはあきらかである。考古学的発見は傍証の役割を果たすことはできるが、その全体像を解明するにはあまりにも「点」としてのカバレッジしかできていない。


なぜ邪馬台国が近畿にあったと言い切れないのか?

1)纒向遺跡からは卑弥呼の存在を証明するものも、邪馬台国の存在を窺わせる証拠も一切出ていない。わかってきたのは居館(宮殿)の構造と建物の年代とその規模。東西軸という方位に則った居館の配置。桃の種が大量に1カ所から出土したことから、中国の神仙思想の影響を受けた祭祀が行われていたらしいこと。出土する全国から集まってきた土器の多様性。纒向遺跡が弥生の環濠集落とは異なる都市的な構造を持っていること。築造された前方後円墳、箸墓やメスリ山古墳が最初期型の古墳であること。そのどれもが年代測定法により3世紀半ばの構造物らいしいことであることである。確かに3世紀だと魏志倭人伝に記述のある卑弥呼が魏に朝貢し「親魏倭王」の印綬を受けて冊封された(238年)時代と符合する。しかし、時代が同じ(年代測定法が信頼できる前提で)であるというただそれだけのことだ。繰り返すが纏向遺跡が「邪馬台国」の遺跡であるということを証明する考古学的な証拠は一個も見つかっていない。いわば同年代であるという状況証拠による「推定」に過ぎない。ここから卑弥呼がもらったという「親魏倭王」の金印か、封泥のような「物証」が出れば話は別だが。
2)一時期、奈良の田原本町の黒塚古墳から出土した大量の三角縁神獣鏡が、これこそ卑弥呼に贈られた魏の銅鏡100枚の一部であると話題になったことがある。これぞ邪馬台国、卑弥呼の存在を証明する「物証」と騒がれたが、その後の研究でこれらの多くは仿製鏡(列島内で作られた)ものであること、大量に生産された二級品であること(あちこちで出土し合計で500枚を超えている)、肝心の中国国内では三角縁神獣鏡は一枚も発見されていないことが判明。ちなみにこれらの鏡は呉からの渡来工人が近畿地方内で制作したとの研究も発表された。むしろ北部九州の伊都国の平原遺跡王墓や三雲南小路遺跡からは数多くのオリジナルの前漢鏡、後漢鏡、魏鏡が大量に出土していることなどから、3世紀以前においては、北部九州の方が中国製の鏡の出土数が近畿を圧倒していることがわかっている。すなわち考古学的にも、邪馬台国が近畿にあったとする証拠は出ていないことになる。
3)文献史料による説明が困難な近畿説、これはパラグラフを改めて次に説明しよう。


なぜ邪馬台国は北部九州にあったと言えるのか?

文献史学的なアプローチである。これは先述のように、現存する唯一の史料である「魏志倭人伝」(2000字ほどの記述)をどう読み解くか、その史料をどのように評価するか、ということに尽きる。この読み方には様々な解釈、議論があり、まさにこれが「邪馬台国論争」を生んでいるのだが、異説、奇説は数あれど大方の歴史研究者の間では九州説が有力である。最近、複数の中国、台湾の研究者(歴史学者、古代中国語研究者)による魏志倭人伝の解読の結果が日本で紹介されているが、これらの解説によると、共通しているのは「邪馬台国は九州にあったとしか読めない」と結論づけている。その根拠は...

1)記述されている「距離」は中国の古代文献に関してはあてにならない。西域へのルートの記述にもあいまいなものが多く、結局ははるけき遠くという印象を与える記述が多い。実際に見聞し、まして自分の足で測ったわけではない。魏志倭人伝の「水行陸行」の道のり記述はそうした蛮夷の国、地域がいかに遥けき遠国の地であるかという印象を与えるためのものである。従って、仔細に分析することは無意味である。
2)これは当時の中国の徳治思想、華夷思想の表現形態である。すなわち皇帝の徳が中華世界を遥かに超えて、蛮夷の民にも行き渡っている。そのはるか辺境の蛮族の民からも慕われて朝貢してくるのだ。それが遠ければ遠いほど徳が高い皇帝である。まして大陸国家である中国にとって、はるか東の海中の倭国から朝貢してくるということは如何に魏の皇帝の徳が世界に行き渡っていて(呉や蜀よりも優越した)「正当な」漢王朝の後継者であるか、ということを強調したかった。
3)しかし、距離に関しては誇大に記述することはあっても方角を間違えることはない。倭国内に関しても(倭人からの伝聞であったとしても)誤った記述をしているとは考えられない。従って近畿説論者が強弁する「南「は「東」の間違いだ、という「解釈」はありえない。邪馬台国は奴国、不弥国の南にあり、狗奴国は邪馬台国のさらに南にあり、「全て倭種である」国々が邪馬台国の東にあるという記述は正しいだろう。
4)魏志倭人伝はこのように邪馬台国の東にも倭人の国々が存在することを認めている。すなわち倭は(列島は)邪馬台国女王卑弥呼の支配地域だけではないとの認識を記述している。
5)邪馬台国女王卑弥呼が治める30国は全て北部九州内としか読めない。地名や当時の国の規模(戸数や、のちの律令制の郡に相当するサイズ)の記述からそう読むのが自然である。また邪馬台国だけが、北部九州にある奴国や伊都国、不弥国などの国々からはるか遠く離れた東(近畿)に存在しているとは読めない。不自然である。
6)「邪馬台」とは和人の音の当て字だが、古代中国語によれば「山」という意味である。朝鮮半島の狗邪韓国から渡海し、海上から展望した倭国(すなわち北部九州)の山がちな風景を描写したものだ。
7)そもそも歴史書としての「三国志」は魏書しか残っておらず、その限られた史料だけで、ましてはるか東海中に浮かぶ列島の倭人の国の全容(邪馬台国以外の国々)が解明されると考えることには無理がある。消えてしまった文献資料や未発見の史料もあるはずだ。そこには魏志倭人伝とは異なった視点で描かれた倭人の世界がある可能性がある。

これまでも多くの日本の古代史研究者による文献史学的考察からも同様の解釈、指摘がされて、それゆえに「九州説」が有力とされてきた。興味深いことには、戦後の日本では東洋史学から入った研究者は九州説。国史学から入った研究者は近畿説となる傾向があるという。倭国のあり様を東アジア的な視野で見る姿勢と、「大和朝廷」ありきの視点からスタートする姿勢で答えが違ってくる。もっとも戦前には有名な東京帝国大学白鳥庫吉(九州説)と京都帝国大学内藤湖南(近畿説)の論争があり、双方とも東洋史学の研究者であった。同じ東洋史学者であった橋本増吉は「近畿に大和朝廷ありき」の研究姿勢を批判している。私は一国の成り立ちやその発展が、世界史的なスコープ抜きで考えられるものではないという立場を取るので、この結論の違いは非常によくわかる。この考え方を補完するような今回の中国、台湾の研究者たちの論考。私にとってはやはりそうかと納得する。また、これまでの日本国内の「近畿、九州誘致合戦」のような「オラが国」論争から離れたそういう第三者評価が新鮮である。邪馬台国九州説が新たな視点による解読で一歩証明に近づいた感じがする。


「邪馬臺国」位置論争にはどういう意味があるのか?

そもそもそれを考えなければ、単なる各地域の「邪馬臺国誘致合戦」になってしまい論争する意味がないだろう。要するに3世紀当時の日本列島の政治勢力図はどうなっていたのか?という問題につながる。すなわち「近畿説」に立てば、すでに3世紀初頭には奈良盆地に存在した邪馬臺国によってほぼ列島全域が統一的に支配されており、この邪馬臺国や女王卑弥呼は後のヤマト王権、「大和朝廷」、天皇家の始祖である、ということになる(日本書紀や古事記にそのような認識を示す記述はないが)。一方「九州説」に立てば、3世紀当時は列島にはまだ統一的な政治支配勢力は成立しておらず、各地域勢力が分立し併存した状態にあった。邪馬臺国や女王卑弥呼は北部九州(チクシ)を中心とした有力な勢力ではあるものの列島全域を統一するまでには至っていなかった(地方王権であった)ということになる。さらに「九州説」はこれ以降の邪馬臺国の運命について大きく次の二説に分かれる。近畿へ「東遷」して奈良盆地に入り、後のヤマト王権の元となったとする説。奈良盆地に発生した「ヤマト」勢力、初期ヤマト王権の支配下に入り消滅したとする説(この時期については諸説あり)。これらに説にもまたそれぞれに異説が様々に存在する。

先述のように「邪馬台国論争」は、ともすれば邪馬台国の地元誘致合戦になりがちである。近畿、九州以外にも様々な候補地が上がっていて百家騒鳴状態だ。自分の住んでいるところや故郷にあればいいのにという期待感でいっぱいだ。しかし私は福岡出身であるが、以前は邪馬台国が北部九州にあったとは全く考えてなかった。福岡県山門郡女王山(ぞやま)や朝倉郡八女(やめ)、甘木の郷土史家の先生方には悪いと思うし、そこにあったら面白いのになあと考えてみたことはあったが、それはロマン/妄想であって史実ではないと考えていた。日本の発祥の地である奈良盆地の大和(音からみてもヤマトじゃないかという素直な解釈)に決まっている。九州説は異説であり少数意見だと思っていた。また学校で教わった「日本史」では、近畿の「大和朝廷」が早くから日本を統一した政治勢力であることを疑いのないものとして説明していた。しかし、のちに古代史を俯瞰し、東アジア視点で倭国を見つめ直し、かつ各文献史料(魏志倭人伝、日本書紀、古事記など)の成立過程やその編纂の背景を子細に研究し直すに従って、近畿説には無理があると考え始めた。また考古学的には「近畿説」が有力とされているものの、実は決定的な考古学的証拠はなにもないこともわかった。特に大阪勤務時代に足繁く大和路散策に出かけ、飛鳥や三輪山山麓を巡るにつれ、またそれに刺激されて、我が故郷福岡の糸島市や春日市、筑後山門郡、八女の磐井の古墳、佐賀吉野ヶ里を再訪するにつれ、古代史における国家成立の歴史は「邪馬台国」「卑弥呼」をルーツとして一本調子で単純な道を歩んできたのではないことがわかってきた。日本列島に統一的な王権(それを教科書では「大和朝廷」と教えてきた)が成立するのは「邪馬台国」卑弥呼の3世紀の時代からさらに降った5〜6世紀、さらには古事記/日本書紀が成立した7〜8世紀であったことがわかってきた。換言すれば、後述するように3世紀時点では魏志倭人伝が認識した「邪馬台国」が列島に存在した(あるいは代表する)唯一の国家、王権ではないと言うことでもある。当時の列島、倭国は統一王権のいまだ存在しない、いくつかの地域連合や国が分立する状態であった。その中で邪馬台国は北部九州の地域国家連合(チクシ王権)であった。そう考えると奈良盆地という山に囲まれた内陸部の大和がなぜ日本の中心になったのか不思議にすら思えてきた。中華文明のフロンティアが、北部九州の筑紫から東へ遷移して行ったことは想像できるし、ある程度考古学的にも証明されているが、いつ、どのように、なぜ大和に至ったのか。そこになにか国家成立の秘密を解く鍵があるように感じた。


では大和の纏向遺跡はいったい何の遺跡なのか?

結論を先に言うと、これは「初期ヤマト王権」の遺跡である。初めての王宮遺跡であり、ヤマト倭国の王都の遺構である。これが見つかったことは画期的である。のちの奈良盆地内を点々と移転した「大王の居館」「天皇の宮/朝廷」の始まりがここであろう。この纏向の居館にいた初期ヤマト王権の王は誰であったのか?これはまだ解明されない。古事記や日本書紀にある、最初の実在の「天皇」と言われる「はつくにしらすすめらみこと」「みまきいりひこいにえのみこと」(崇神天皇)であったかもしれない。いわゆる「三輪王朝」である。ここからヤマト王権が伸長し、地域豪族を配下に治め、あるは豪族に擁立されて「大王(おおきみ)」となり、大和を中心とした倭国/列島の統一が進み、やがて「天皇」を中心とする統合政権(かつて「大和朝廷」と称された)が生まれて行った。そういう意味で日本の古代史解明に一歩近づく歴史的な遺跡の発見である。しかし、繰り返すが、その初期ヤマト王権と邪馬台国は別物である。ここは邪馬台国の女王卑弥呼の宮殿ではない。


邪馬台国と初期ヤマト王権とはどのような関係だったのか?

3世紀の列島内の状況を見てみよう。これまで何度もブログで論じてきたように、この頃はまだ倭国全体(日本列島全体)を統治する政治勢力は成立していなかった。北部九州には邪馬台国を中心にチクシ倭国(地域連合)が、山陰には出雲が、そして瀬戸内の吉備、北陸の越、東国の尾張、関東には毛野などがあった。列島のあちこちに大小のムラ、クニから発展した国、地方豪族の支配する国が並立していた。徐々に地域ごとに国と国が連合する動きが出始めて、地域連合を形成し始める。その一つが筑紫の邪馬台国連合(30カ国から構成された)である。大陸に近く、列島における中華文明のフロンティアーであり、渡来人コミュニティーも大きく、先史時代から稲作の伝来などの大陸の影響を直接受けてきた地域だからこそ、奴国王や伊都国王が後漢に、そして邪馬台国女王が魏へ使者を送り朝貢し冊封を受け「王」を名乗った。当時は「王権」を主張する以上は中華王朝への朝貢/冊封が必須で、中華皇帝による支配権威の認証があってはじめて「王」を名乗ることができた。その記録が魏志や後漢書に残ったということだ。邪馬台国が当時の先進的で有力な地域連合王国であったことは間違い無い。しかしだからと言って邪馬台国が(卑弥呼が)倭国全体、列島全体を支配下に置いていたと考える必要は全くない。あるは列島全体を代表して中華王朝に朝貢していたと考える必要もない。魏志倭人伝にも記述されているように邪馬台国の他にも、その東には「すべて倭種」の国々があった。むしろ他地域勢力と争っていた可能性がある(狗奴国との戦いなど)。「倭国大乱」の余燼は燻っていただろう。だからこそその統治権威を得るために中華皇帝に朝貢し冊封を受け「王」を名乗った。列島内には先述のように、他にも様々な地域勢力が存在していて、統一された状態にはなかった。ある意味「群雄割拠」状態であった。争いもあったであろうが、並立する地域勢力の間に、徐々にアライアンスを結び力をつけてくる勢力が現れたと考える。その中に(九州の邪馬台国連合に対抗して)勢力を伸ばしてきた国や地域連合があっただろう。それが出雲であり大和であっただろう。彼らは大陸との交流も試み、邪馬台国女王に対抗して、中国の王朝(魏と対立する呉)に朝貢し、冊封を得た(得ようとした)可能性がある。この間の事情は、後述のように記録として残っていないので、今となっては証明のしようがないが、巨大な古墳を造営する大和勢力が大陸となんらかの通交関係を持っていた可能性は高い。「王」を名乗った可能性も否定できない。ともあれ列島がある程度統一状態に移行するのは4世紀末から5世紀の「倭の五王」の時代である。それがヤマト王権である。では邪馬台国はどうなったのか?

一方、中国の歴史書、三国志の方も「魏書」は後世に残った(編者の陳寿は魏、晋の官僚である)が、魏、晋に滅ぼされた蜀、呉の正史(列伝だけが残る)は残っていない(正史「三国志」に採録されていない)。したがって倭国に関する記録は魏志倭人伝だけが後世に残され、倭国の様子を物語る唯一の信頼できる文献資料として残った。三国のうちの「呉」は建業(建康のちの南京)を根拠地とし、長江河口から海上交通を支配し、夷州(台湾?)や琉球、フィリピン、ベトナムと交流していた痕跡が残っている。その呉は、邪馬台国以外の倭国、南九州の狗奴国や近畿奈良盆地に拠点を置く大和国(初期ヤマト王権)と通交していた可能性はないのか?大和と呉の通交の証は、中国側、日本側ともに文献資料としては残っていない。しかし大和古墳群や鏡(倭国で呉の工人が制作したと思われる)、日本に伝わる風俗や言語などにその痕跡を窺わせるものがある。歴史のミッシングリンクである。

こうして邪馬台国女王と初期ヤマト王権は、同時代(3世紀〜)に並存していた可能性がある。いつまで並存していたのか、いつどのようにヤマト王権がチクシ王権(邪馬台国)を凌駕して行ったのか不明であるが、6世紀のヤマト王権のヲオド王(継体大王)によるチクシ王権の筑紫磐井王の打倒(「筑紫磐井の乱」として記紀に記録されている事件)まで、邪馬台国の影響力は残っていたと考えられる。一方でチクシから邪馬台国勢力が東征して近畿奈良盆地に初期ヤマト王権を開いた、とする歴史研究者もいる。しかし、このように邪馬台国と初期ヤマト王権とは同時代に並存していた勢力であるとすれば、その説は取ることができない。もっとも、ヤマト王権が奈良盆地に自生した勢力(土着の勢力)が発展したものとも考えられない。弥生時代の奈良盆地の唐古・鍵遺跡の環濠集落が纏向の「王都」に遷移した形跡は見つかっていない。また3世紀以前の国や王権の存在をしめす遺構や威信材(鏡、剣、玉など)も見つかっていない。おそらく初期ヤマト王権は「無主の地」に他地域から移動してきた勢力が立てた王権である可能性が高い。それがチクシ(2〜3世紀初め「倭国大乱」の結果)から移動してきた勢力なのか(神武東征神話)、出雲勢力(国譲り神話)なのか、それとも... このあたりの動向は一切不明である。ここで古事記や日本書紀を引っ張り出してどのようにして初期ヤマト勢力が発生し、初期ヤマト王権が成立したかを議論し始めるわけであるが。これは邪馬台国論争とは別の大きな歴史上の謎である。記紀が本当に史実を元に編纂されているのか。あるはその記述が何かしらの歴史の記憶をもとに脚色されたものなのか。もう一つの論争の渦に足を踏み入れることになる。


邪馬台国と初期ヤマト王権の違い

ところで話を戻す。3世紀当時のチクシの邪馬台国とヤマトの初期ヤマト王権とを比較してみると、同時代の王権にもかかわらずその性格が全く異なることに気づく。このこと自体が邪馬台国が近畿にあって、のちのヤマト王権につながって行ったという近畿説を覆すもう一つの証であるとも言える。

1)墓制
邪馬台国は墳丘墓、甕棺墓中心で、王墓の副葬品は大陸由来の威信材に溢れている。ヤマト王権は独特の景観を有する巨大な古墳である。しかし副葬品は仿製鏡などのコピー材。巨大な古墳の多くが「陵墓指定」されているので調査出来ず未解明である。
2)都市の形態
邪馬台国は、魏志倭人伝にも記述があるような柵に囲まれ、楼閣を有する環濠集落(吉野ヶ里、板付など北部九州に典型的な弥生の農耕集落的な様子を持つ)であるのに対し、大和は纏向型の東西軸(のちには南北軸)という、一定の都城設計思想に基づく計画都市、生活感のない人口都市である。
3)政治と統治体制
邪馬台国は政祭両立性(ヒメ・ヒコ制)。巫女の呪術を主とした体制(卑弥呼は女王というよりは最高位の巫女)。一種未開の匂いを残す統治権威(祭)と統治権力(政)の分化が見られる。大和は祭祀による権威も重視したが基本は男王による武断的な統治権力体制。
4)中華王朝との関係
邪馬台国は朝貢/冊封体制により統治権威を保障してもらい「王」「女王」を名乗っていたが、ヤマト王権は、どのような大陸との通交関係があったのか不明である。中華王朝への朝貢/冊封の証拠たる威信財もほとんど見つかっていない。先述の呉との通交があり、呉王朝からの統治権威づけがあったかもしれないがその証は見つかっていない。むしろそれに依存するよりは自力で(武力とヤマト王権自身の権威)で列島統一を図る「武断的性格」を持っていたのではないか。4世紀になると武蔵の稲荷山古墳、筑紫の江田舟山古墳出土の鉄剣「ワカタケル大王」「杖刀人」「典奏人」と言う役職名を地方豪族に与えて統治権威を保障するやり方(治天下大王という小中華思想)が見られる。のちの天皇制につながる朝貢/冊封体制からの離脱の萌芽があったかもしれない。

このように邪馬台国は列島が「群雄割拠状態」にあった時代に北部九州にあった地域王権(チクシ倭国)である。そして近畿の初期ヤマト王権(ヤマト倭国)とは繋がらない。だからこそ、7世紀末から8世紀初頭に編纂された日本の正史「日本書紀」にも、天皇の記録である「古事記」にも、「邪馬台国」「卑弥呼」に関する記述、言及がない。記紀編纂時の中国の唐帝国を意識した日本(倭ではなく)建国の事情、天皇制宣言という政治的メッセージ、国家アイデンティティー表明に鑑み、かつて中華王朝に朝貢し冊封を受けていた邪馬台国のような「地方王権」を、日本のヤマト王権の(天皇朝廷)のルーツとして記述するわけにはいかなかった。


その初期ヤマト王権はどのようにして生まれたのか?

以上のように考えると、彼らはどこから来て、何者なのか?これを知る手がかりは実は意外にも少ない。邪馬台国論争以上に文献史料が少ない。ここで古事記、日本書紀をいう文献史料を持ち出すことになるのだが、これまで(明治維新王政復古以降、敗戦まで)記紀こそ(神話を含め)史実を記述した我が国建国の正史であると位置付けられてきた。しかし、戦後はこうした皇国史観による史料評価が徹底して批判され、一転して歴史資料的価値の低いフィクション、創作神話的扱いがされた。史実とは思えない記述に溢れた神話の世界、8世紀の、天皇宣言、日本建国という政治的な動きの中で生まれた政治文書、天皇の物語。この中から物語に込められた「歴史の記憶」を洗い出し、これをどう読み解き、そこから国の成り立ちに関わる史実をどのように読みだすか。記紀資料の解読はなかなか困難を伴う歴史旅となる。ヤマト王権は何處より来たりしものぞ。終わりのない旅の始まりだ。


参考ブログ:


2014年10月7日「みまきいいりひこいにえのみこと 〜崇神天皇の三輪王朝と邪馬台国〜」

2018年1月17日「纒向遺跡の居館はなぜ東西軸なのか?」

2019年9月9日「三国志の時代 〜その時倭国は?〜」