「ここは韓国(からくに)に向かい 笠沙の御前の真木通りて 朝日の直さす国 夕日の日照る国なりかれ 此地はいと吉き地」 |
神武天皇東征之図
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稗田阿礼を祀る「賣太(めた)神社」
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古事記は歴史書か?文学書か?
前回までは「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」を考察するにあたって、「邪馬台国とは?」、あるいは「ヤマト王権との関係は?」、その後の「王権」の形成と発展プロセスを、中国の史書や考古学的発見を基に考察してきた。しかし、いよいよその「ヤマト王権は何處より来たりし者ぞ?」に移ろう。すなわちそのルーツ探しを試みてみようというわけである。前回述べたように、文献資料としては、難題の古事記の解読に取り組まねばならない。既知のように古事記は日本書紀とともに、7世紀後期から8世紀初期の倭国の政治状況(一種の内憂外患という)を背景として天皇(大王)一族によって編纂されたた文書である。有力豪族に共立された「大王(おおきみ)」から天の神の子孫である「天皇(すめらみこと)」一族の支配の正統性を、その由緒から語った政治的な宣言の書である。その起源にまつわる神話、伝承と、叙事詩、叙情詩を含む物語により歴史を語った文書である。すなわち、古事記は神話集であり、文学書であり、かつ歴史書である。であるがゆえに、古事記はどこまで「史実」を語っているのか、あるいは「史実」の反映があるのかという問いがつきまとう。一方で、歴史は常に「勝者の歴史」であると言われる。後世に残された歴史書には敗者の側の「歴史」は含まれていない。古事記にも征服され服属した側の歴史は語られてはいない。皇位継承争いで敗れた側の言い分は書かれていない。天皇の成り立ちについての由来と「事績」について主に語られている他、天皇家につながる氏族、豪族の由来は数多く盛り込まれている。天皇の統治権威に連なる一族としてのレジティマシーの承認を求めるが如く、神代からのつながりを述べている。だとしても、その「勝者の歴史」を記述した書のなかに何がしかの史実が語られているのか。上巻の天皇の由緒を語る神話、そして中巻の天皇の事績を語る伝承、叙事詩的な英雄譚、下巻の天皇の叙情詩(和歌)、これらに仮託された歴史的な出来事の表明があるのであろうか。その中から初期ヤマト王権の出自に関する真実を発見することができるのであろうか。
もう一つ古事記に関しては、日本の歴史におけるその文書としての扱いに重要な指摘をしておかねばなるまい。それは日本書紀は平安時代以降も朝廷における基本的な歴史定本として読み継がれてきたのに対し、古事記はその後、表舞台で読まれる事が少なく、やがて忘れられた存在となる。再び日の目を見るのは江戸時代、国学勃興運動の中で本居宣長が「古事記伝」として取り上げてからのことである。これ以降、幕末の「尊皇攘夷運動」、維新の「王政復古」、さらには「万世一系の天皇」「皇国史観」の定本として、あるいは神道の聖典として古事記が脚光を浴びることになる。このことを知っておくべきであろう。
ところで古事記は、稗田阿礼に誦ませものを太安万侶が文字に書き起こしたと、その序文で説明している。それは日本書紀のような漢文体ではなく漢字を用いた和語での表記となっている。天武天皇の発案でその孫の元明天皇が編纂の勅命を太安万侶に下した。撰上にあたっては、これまでの帝紀(天皇の日継)、旧辞(本辞)(各豪族に伝わる神話、伝承)を集め、その「間違い」(天皇支配の正統性を語るにふさわしくない「間違い」)を正し、まとめたとしている。これは古事記以前に文字で記述された記録文書が存在していたことを示している。ただ、これらは現存しない。おそらく継体天皇時代(血統による皇統概念を生み出した最初の大王)以降にまとめられたものではないか。これらには何が記述されていたのであろうか。これらの記録にどのような天皇皇統にとって不都合な「間違い」」が記述されていたのか興味深い。その解明ができると新たな歴史が明らかになるのであろう。
本題「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」
ここで、最初の問い「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」に戻ろう。ここに撰録された神話、伝承、歌などに倭国(のちに日本)の起源、成り立ち、初期ヤマト王権の出自に関する「歴史的」事実を伺わせるものが潜んでいるのかを読み解いてみようという試みだ。以前のブログでもたびたび考察してきたように、「歴史書」としての古事記は、多くの神話と伝承、叙事詩的物語からなる「文学書」(フィクション)でもあるわけで、そこから史実(ノンフィクション)を炙り出すのはなかなか厄介である。
上巻の「神話」は史実を語っているか?
結論を先に述べると、少なくとも上巻の「神話」の部分に「史実」を語るエピソードはないと考えられる。国生み神話、出雲神話、天孫降臨神話は史実の反映ではないし、何らかの出来事の記憶を神話に仮託したものでもないであろう。出雲神話が上巻の三分の一を占めるが、前回考察したように、出雲はヤマト王権の祭祀(神賀詞や神器/玉の提供)の重要な部分を担ってきた事はわかってきたが、「国譲り」が出雲が大和勢力に破れたとか、服属したとかいった歴史的な出来事を記述の中に確認する事はできない。この神話の主題は国津神(葦原中国)が天津神(高天原)の傘下に入ったという祭祀における由来を語ったストーリーである。一方の「国生み神話」や「天孫降臨神話」にも先史時代の建国にまつわる史実の要素は確認できない。出雲や筑紫の地名が出てくるが、そこになにかヤマト王権の成立に関わる事件があったわけでもなさそうだ。世界各地に共通に見られる国土創世神話や建国神話や、王の出自(王権神授説)を物語る神話と同類の「言い伝え」が起源だと考えられる。これらは大陸由来の北方系神話、海洋由来の南方系神話の系統が確認できる。これを8世紀初頭の倭国の政治事情(豪族支配から大王/天皇中心の中央集権的な支配体制へ)に基づいて、「ヤマト王権」すなわち「天皇支配の正統性」「皇統の持続性」を主張するにふさわしい神話(おそらくは各地に伝わる伝承をも取り込み)を選定し、これに潤色、編集、さらに創作を加えたものだと考えられる。すなわち「天皇」の神聖性の由緒を神話の形で説明したもので、これは歴史ではなくいわば政治的なメーッセージである。その手法として、ヤマト王権の中央集権化のプロセスの中で(大王/天皇の祖霊神との同祖化や外戚化、服属化すなわち「同祖/同盟関係」を築く中で)、地方の豪族や有力氏族の首長霊信仰や国魂信仰の由緒を伝えるそれぞれの伝承や神話を大王家/天皇家の由緒を語る神話に組み入れていった。換言すれば大王/天皇の統治権威の由緒を「神話的整合性」をもって物語るために、皇祖神アマテラスを中心とした同祖/同族化した氏族/豪族の神話の体系化、系統化を図ったものである。さらに言えば、対外的には、倭国、日本(ひのもと)は、中国の歴史書が描くような、歴代中国王朝に朝貢し冊封されることで統治権威を認証された「王」が支配する国ではなく、そもそも「天神」の直系子孫である「天皇」が太古(神話の時代に)に建国し、以来連綿と途切れることなく支配した国である、との認識表明である。これこそ天武天皇が狙った古事記編纂という一大国家事業の本質である。
神武天皇は実在の天皇なのか?
古事記の中に、「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」という問いに答えるヒントを与えててくれそうな伝承がある。「神武天皇東征」伝承である。
古事記の中巻、下巻は「神話」ではなく、初代神武天皇から各代の天皇の「事績」の記述になり、編年体ではないものの天皇の代ごとに整理された「歴史書」然とした体裁になっている。特に中巻は、神武天皇の「東征」、ヤマトタケルの国内平定の戦い、神功皇后の「三韓征伐」と、壮大で華々しい叙事詩的な英雄譚が記述されていて読み応えがある。しかし、これらのエピソードは「神話」とは区別されているものの、多くの創作と潤色が取り入れられていて、そのまま史実として読み進んでいくわけにはいかない。とりわけ初代天皇とされる神武天皇の物語は「史実」の反映とは考えにくい。これが史実であるとすれば、「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」は直ちに問題解決。これ以上書くことは何もないということになる。すなわち、初期ヤマト王権は九州の、筑紫の日向の高千穂に天から降臨した天孫族ニニギの子孫が東征して大和に開いた「王権」「国家」であると。実際、明治維新以降、戦前まではこれがまごうことなき史実であり、それを疑うなんぞもっての他であった。しかし、戦後になり、そうした神話を基にした「皇国史観」の桎梏から解放され、古事記の記述を政治思想の問題としてではなく、客観的な(科学的な)歴史の問題として批判的に読み解いていこうとするアプローチが主流となった。したがって「神武東征」とは何か?資料の批判的解読、考古学的な検証等により新たな「タブーなき」歴史解明の研究が始まった。
そもそも神武天皇は実在の天皇であったのか?古事記の説明によれば、神武天皇の大和橿原宮即位の年、すなわち皇紀元年は西暦の紀元前660年(西暦に復元推定したものであるが)で、いまから2680年前ということになる。この暦年が正しければ日本列島が新石器時代、縄文時代後期で大陸から北部九州に本格的な稲作農耕文化が伝来する(弥生時代)以前の出来事ということになる。稲作農耕文化の進展の結果生まれ、弥生文化の特色とされる国(ムラ、クニ)も王(首長)も存在していない時代、1万年続く平和で持続可能な狩猟、漁労、採集社会、すなわち縄文時代の真っ只中に、突如九州から武力侵攻してきて大和盆地で「天皇」に即位し「朝廷」を開いたという展開だ。ちなみに中国では周から春秋戦国時代(秦の始皇帝成立の400年以上前)、インドでは釈迦が生まれる前、オリエントではアッシリア王朝の時代、ヨーロッパではペルシャと戦争しているギリシア時代、ローマ共和制の始まり。もちろん大和盆地からそのような「朝廷」の存在を示す紀元前7世紀の考古学的な証拠は出ていない。神武天皇の実在性が疑われる所以である。
神武天皇は初代天皇なのか?
その一方、神武天皇の即位が紀元前660年(縄文時代)は有り得ないとしても、日本書紀では初代天皇「ハツクニシラススメラミコト」として登場するのであるから、もっと新しい時代かもしれないが神武は初めての(実在の)天皇であったのではないかと考えることも有り得よう。しかし、古事記は神武天皇の後代にあたる第十代崇神天皇を「ハツクニシラススメラミコト」(初代天皇)と記述している。なぜ日本書紀は初代天皇が二人いるように語っているのか。なぜ古事記は神武天皇について必ずしも初代天皇であるという認識を語っていないのか。それには次のようなストーリーが考えられる。神武天皇以降、崇神天皇(和風諡号:ミマキイリヒコイニエミコト)につながる八代の天皇はその事績の記述もなく、いわゆる「欠史八代」と言われる。すなわち実在しない天皇であると言われている。実際の初代天皇、崇神の前に、伝説の初代天皇神武を起き、それに続く八代の(架空の)天皇を置いた。こうして天皇の起源をはるか古の昔に遡らせる事で(中国王朝や朝鮮諸国王朝に負けない)「悠久の歴史を誇る皇統」を物語って見せた。しかも(中国王朝とは異なり)天神の子孫として代々同一血統による「万世一系の皇統」であると主張した。古事記は天津神(アマテラス)の子孫である神武天皇(和風諡号:カムヤマトイワレヒコミコト)を「神代」と「人代」の皇統をつなげる天皇として記述したが、さらに日本書紀はその神武天皇を「伝説上の」初代天皇(ハツクニシラススメラミコト)と位置付け、「歴史上の」初代天皇である崇神天皇と並立させた。したがって実際には崇神天皇(大王)が初期ヤマト王権を大和纏向に打ち立てた実在の「初代天皇」と考えられる。3世紀後期のことである。
「神武天皇東征」は史実か? ヤマト王権(天皇家)のルーツは九州なのか?
さて、その神武天皇が筑紫の日向を出て、東征し、大和で即位して朝廷を開いたという事績(伝承)は歴史上の事実なのか。さすがに「神武東征」自体をを史実であるとする研究結果は示されていない。しかしこの伝承の背景についてはまさに「諸説在り」である。整理してみよう。
1)「神武東征」自体は史実ではないが「神武東征」伝承を生み出した背景には、王権の起源、出自を九州筑紫だとする何らかの出来事があったとする説
① 隼人、さらに遡れば狗奴国の末裔が東に移動し、大和に入ったとする説。
② 邪馬台国が東遷した記憶をベースに創作したとする説。
③ 倭国大乱の時に邪馬台国連合に敗れた勢力が筑紫を出て近畿へ移ったとする説。
などがある。いずれもヤマト王権のルーツは九州筑紫にありとする。
2)「神武東征」伝承は史実ではないし九州出自説も否定する。ヤマト王権はもともと近畿大和にルーツを持つ(大和に発生した勢力)とする説。
天津神アマテラスを皇祖神とする天皇家は、その天孫族ニニギの降臨の地である筑紫日向高千穂を起源とする(神話の世界)と謳い、太陽に向かう日向の地から出発して東遷し、各地を服属させながら大和に王権(天皇家)を開いたという神秘的な建国物語を創作したものに過ぎない、とする。
私見を述べると、神武天皇自体は、先述のように崇神天皇に始まるのヤマト王権の正統性とその権威を脚色するために、後世(8世紀初頭)古事記や日本書紀を編纂する時に創作された天皇であろう。すなわち実在しない天皇だということになる。しかし、ヤマト王権(崇神大王に始まる)のルーツは九州であったのではないかと考える。すなわち魏志倭人伝に記録のある2世紀中期の北部九州の「倭国大乱」ののちに、卑弥呼をいただく邪馬台国連合に破れ、あるいはそこから離脱した勢力が、筑紫を去り東に移動し近畿大和に定住したのではないかと考える。例えば、1世紀中(57年)に後漢に朝貢した奴国王(「漢委奴国王」金印をもらった)は、3世紀の魏志倭人伝の記録からは消えている。200年ほど前には倭国を代表して後漢に遣使するだけの勢力を誇り、鉄/ガラス生産を始めとする先進技術を誇った奴国の王はどこへ行ってしまったのか。金印を志賀島に埋めて筑紫を去った可能性がある。その東遷の過程で出雲勢力などと合流し、大和に遷ったのではないか。これがヤマト王権による大物主(大国主の国津神)祭祀(三輪山祭祀、出雲祭祀)の起源となり、アマテラス(天津神)祭祀(後に「皇祖神」となる)の起源ではないだろうか。そうした筑紫勢力とその王の移動の記憶が、神武天皇という伝説の初代天皇の筑紫から大和への「東征」の物語に投影して記述されたと考える。また、その神武の大和入りのルートは、672年の「壬申の乱」で大海人皇子が東国から吉野の国栖勢力の助けを借りて大友皇子(近江朝)打倒に向けて進撃したルートと極似しているところから、この行程を神武東征の熊野から吉野、宇陀を抜けて大和に進撃した話に利用したのではないかという説を唱える研究者も多い。大海人皇子こそ、即位後、すぐに古事記の編纂を指示した天武天皇である。このように「神武東征」伝承は、ヤマト王権のルーツの筑紫出自を物語るエピソードであり、これを直近の天武自身の勝利への進軍と重ね合わせて創作した「建国物語」であると考える。そういう意味で神武天皇は天武天皇の姿をモデルにした伝説の初代天皇だったのかもしれない。
このような地域勢力の大規模な移動はありうるのか?
「邪馬台国の東遷」は、前回の考察で述べたとおりで、無かったと考える。がその周辺の有力な筑紫勢力の移動はありうる。そもそも北部九州筑紫は、紀元前から大陸から移動してきた人々の一種の移民コロニー(中華文明の列島内最前線/フロンティア)的な様相を呈していた時期がある。その朝鮮半島や中国大陸から、王朝交代や戦乱や社会的混乱など様々な事情に伴う倭国への人々の移動(難民、亡命、ボートピープル)が、稲作文化や鉄器などの大陸文化を列島にもたらした。同様に稲作文化を列島の東に伝え、「弥生時代」を形成していったのも人の移動によるものである。2世紀中期に起きた「倭国大乱」も、中国の後漢王朝の末期に起こった混乱(184年の「黄巾の乱」など)が、列島北部の倭国における勢力構造/政治構造に波及し起きた可能性がある。その後、卑弥呼を女王として「共立」して邪馬台国を中心にした30カ国ほどの倭国連合が成立するが、その混乱の中から抜け出して東へ移動していった勢力があった事は十分考えられる。こうした大きな歴史のうねりが人の群れを動かし、その人の移動がさらに歴史を動かした。もう一つの歴史的事例は、6世紀の「筑紫磐井の乱」後に、敗者である筑紫王磐井側(邪馬台国の政治的末裔)についた安曇族が筑紫を脱出して東へ移り、信濃や全国に離散していった事実がある。このように動乱や戦乱でまとまった勢力が一族で他地域へ移ることは珍しいことではない。むしろそういった動きが歴史を作っていった(ゲルマン民族の移動の例を待つまでもなく)。3世紀の日本列島は想像する以上に人の移動、交流が活発であったことは考古学的にも実証されている。また列島内の文明の伝搬が大陸に近い西から東へと進んでいった事実からも、出雲や吉備ような有力な地域の勢力外にあった東の「無主の地」近畿大和に何らかの勢力(政治勢力)が移り住み、ここを拠点に列島を統一していった、という歴史のシナリオが成立してもおかしくない。
考古学的な証拠は確認できるのか?
考古学的にも、いくつかの点で傍証がある。筑紫では3世紀以前の首長墓(王墓)から大量の前漢、後漢、魏の銅鏡、銅剣、玉などの「威信材」検出されている(主なものでも伊都国の平原遺跡、三雲・南小路遺跡、奴国のスク岡本遺跡など)。さらに古いものでは紀元前後の「早良遺跡」からは、最古の「三種の神器」が副葬されているのが発見されている。しかし、大和では3世紀以前のものは見つかっていない。大型古墳が出現し、「三種の神器」のような威信材を含む副葬品が多く出てくるのは4世紀以降である。また鉄器や大陸由来の鉄素材も3世紀以前は筑紫から多く出土している(奴国のスク・岡本遺跡や比惠遺跡など)が、大和からは出てこない。また出雲地域は明らかに銅矛文化の筑紫からの移入や銅鐸文化との融合(荒神谷遺跡)、鉄器や墳墓における副葬品に筑紫の影響(西谷方形墓)が色濃く見える。邪馬台国連合との交流もあった可能性があるがその他にも、邪馬台国連合離脱勢力のもたらしたものが大きいのではないか。これらが完全にヤマト王権のルーツは筑紫にあり、と証明するには至らないが、列島支配勢力が筑紫から出雲、大和に変遷して行ったことをなぞる状況証拠にはなるだろう。
筑紫日向高千穂とはどこか?
古事記の上巻では、アマテラスの孫にあたる「ホノニニギ」(ニニギノミコト)は高天原から「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」に天下ったとされている。神武天皇はこの高天原(天津国)から降臨してきた天孫族ニニギの子孫で(筑紫に生まれ育った)、ここから東の大和へ移って「朝廷」を開いたとなっている。したがって古事記の文脈から言えば「筑紫日向高千穂」こそ「ヤマト王権」の発祥の地であり、天皇家の故地であるということになる。ではそれはどこなのか? こうした天孫降臨神話に関しては中国東北部(旧満州)や朝鮮半島の新羅、伽耶王朝の由来を示す神話にも同じ話(穀霊神の降臨)がある。その起源はこれらの大陸由来の北方系神話にあると言ってよいだろう。「ホ(穂)ノニニギ」も稲作文明の象徴たる「穀霊神」である。天皇家が現在でも「大嘗祭」「新嘗祭」という稲作由来の祭祀を行っている由縁はここにある。一方で、男女神による国生み神話や、海彦山彦神話、天皇が神の子孫であるのになぜ寿命があるのかなどは、インドネシアや太平洋諸島由来の神話に同様のものが確認できるという。すなわちこれらは南方系神話が起源とされる。こうした北方、南方由来の神話の原型が両方取り入れられている点が古事記神話の特色である。そしてこうした外来の神話の舞台として筑紫=九州が想定されていることに注意すべきであろう。
こうして筑紫=九州が「倭国の文明の発祥の地」であるという認識、「ヤマト王権の発祥の地」であるという理解は8世紀当時のヤマト王権(天武、持統大王)にあっただろう。それは、天孫降臨も海彦山彦伝説も神武東征も筑紫=九州に起こったということを古事記も日本書紀も明確に記述していることから分かる。しかし、筑紫と言っても広うござんす。具体的にどこを指しているのか。筑紫は律令制以前には九州全体を指していた(筑紫島などの表現)が、しかし律令制による地方の国、郡制定以降は肥国、豊国などとともに北部九州を指すようになる。古事記の神話でいうニニギが降臨した「筑紫」はどこを指しているのか。大方の解釈は現在の宮崎県日向の高千穂峰であるとしている。しかし次のような記述からその位置が知れる。
古事記の記述によると、ホノニニギが「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」に高天原から降臨してきた時、「ここは韓国(からくに)に向かい 笠沙の御前の真木通りて 朝日の直さす国 夕日の日照る国なり かれ 此地はいと吉き地」と言っている。これはニニギが「葦原中つ国」の光景を初めて見て述べた感想である。この形容から、南九州の日向国の高千穂峰であるとする解釈には疑問が投げかけられるであろう。ホノニニギの言葉は、海の向こうに韓国(からくに:空国)すなわち朝鮮半島が見える場所、太陽に向かった土地(日向(ひむか))を示している。南九州の宮崎県高千穂からは朝鮮半島も海も望めない。すなわち北部九州の筑紫の日向であることを示唆している。日向(ひむか、ひなた)と言う地名は、文字通り「日に向かう土地」という太陽信仰から発祥する地名である。かつての筑紫国、福岡県糸島市の伊都国から福岡市の早良国、奴国に向かう「日向峠(ひなたとうげ)」もその一つである。ここからは朝鮮半島も玄界灘も展望できる、しかも東には朝日がさし、西には夕日が美しいところである。まさに古事記に言うところの「天孫降臨の地」そのものの舞台設定である。「天孫降臨」伝承地は、こうしたことから全国各地の「日向」由来の地名のある場所にある。要するに日向国だけではない。しかも、古事記編纂の8世紀初頭には、律令制は未整備で、国としての「日向国」は成立していない。しかもここはヤマト王権に服属しない隼人の地であった。また高千穂という地名も「稲穂」に関わりのある地名で、すなわち新羅王朝の「穀霊神降臨」神話にもつながる「穂のニニギ」に因んで付けられた地名である。したがって(当時)稲作農耕に適さず、縄文的な生活文化が優勢であった隼人の地よりも、水稲稲作文化の先進地域であった北部九州の筑紫(奴国、伊都国や邪馬台国があった)がその地であると考える方が合理的であろう。
「神武東征」伝承の意味するところは?
こうして古事記の記述は、天孫降臨の地は、倭国文化の発祥の地である北部九州筑紫であることを示していると考える。初期ヤマト王権を打ち立てた(纏向の王、崇神大王)勢力は筑紫こそが自らの故地だと称え、古事記編纂時の天武/持統大王もそう認識していただろう。もっとも8世紀初頭の古事記編纂時には「倭国大乱」、邪馬台国卑弥呼の治世から500年以上経っているので、どれほどの記録と記憶が稗田阿礼や太安万侶の手元に残っていたのかは不明である。また崇神大王の時代に起こったと考えられる筑紫からの東遷の記憶が、のちの6世紀初頭の継体大王の時代以降に成立したであろう帝紀や旧辞に記述されていた可能性はあるが、これら資料は滅失し今となっては確かめる術もない。一方で記紀編纂当時、中国の史書、魏志倭人伝は既に成立していたから、そこにある「倭国大乱」の記述、その乱後の卑弥呼邪馬台国連合の成立、魏王朝への朝貢/冊封の記事は目にしていただろう。ヤマト王権の故地である筑紫における出来事の記憶を蘇らせることができたのであろうか。ただし、何度も述べてきたように古事記や日本書紀の成立の背景は、あくまでも「日本」は天神(高天原)の子孫「天皇」が建国した国(葦原中国)であって、けっして中国や朝鮮半島からの文明の移入に依って成立した国ではない。まして中華王朝の朝貢/冊封体制下にある東夷の国(筑紫の奴国、伊都国、邪馬台国のような)ではない。中国皇帝の支配する「中華世界」とは別に、独自に成立した天皇の「日本型中華世界」である。古事記も日本書紀もこうした国家の成立ちの主張と政治的意思表明の文書であるから、そのルーツが北部九州筑紫であることは認識しつつ、あえてその出自は(中華文化の影響の色濃い)北部九州ではなく、また袂を分かって出てきた邪馬台国連合でもなく、その北部九州と対立してきた隼人の地(かつての狗奴国)、未だまつろわぬ民の南九州の「どこか」ということにした。神話をより神秘的にする演出、それが日向高千穂であったのだろう。しかし出自の認識の根底には北部九州筑紫の故地があり、「韓国(からくに)に向かうところ」とニニギに言わせたところが「謎かけ」である。
ちなみに、古事記では朝鮮半島諸国(特に新羅、伽耶)についての言及はあるが中国王朝に関する言及はない。換言すれば中国王朝を意識していない。魏志倭人伝や後漢書東夷伝に関する言及も一切ない。この点が日本書紀との大きな相違点だ。天皇支配の範囲が列島と半島に及ぶという認識を示し、中国王朝との関係に「敢えて」触れないという姿勢に古事記の「世界観」「歴史観」が現れている。日本書紀は、それでは対中国王朝との関係で日本の存在感を示せないという政治的、外交的な意識が強く表明されていて、魏志倭人伝や後漢書東夷伝、晋書、宋書などの引用は(参照した形跡はあるが)避けられているものの、すなわちかつての倭王権の王たちの朝貢/冊封には触れないものの、中国王朝との交流(渡来人の活躍、遣隋使や遣唐使など)については詳細に記述している。古事記は漢字を用いた和語で国内豪族や朝鮮半島を意識して記述された「天皇の書」であるが、日本書紀は漢文で書かれた外交(対中国)を意識した国の「正史」である。記紀と一口に言うが、両書の歴史観、政治表明には大きな相違がある。
答えは出たのか?
さてここまで「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」という「謎解き」をやってみたが、お気づきの通りこれは歴史の解明とは言えない。推理小説の「オチ」に過ぎない。それは言い過ぎだとしてもあくまでも「仮説」の域を脱しない。神武天皇や神功皇后が実在でないことは歴史研究では定説となっているが、「神武東征」伝承に何がしかの歴史的な出来事が潜んでいるのか。あるいは口承で受け継がれる記憶に何らかの暗喩があるのか。まだまだか解明はできていない。まさに「諸説在り」なのだ。明確な証拠(新たな史料や考古学的発見など)が出てこない限り素人歴史探偵の推理に過ぎない。これを書くにあたって以前書いたブログを読み返してみたが、今回とほとんど同じ「推理」で、大きな進展が見られていないことに愕然とした。だがこれからは、さらにこの「仮説」の検証の旅を続けねばならない。やはり日暮れて道遠しだ。。
ところで古事記は、稗田阿礼に誦ませものを太安万侶が文字に書き起こしたと、その序文で説明している。それは日本書紀のような漢文体ではなく漢字を用いた和語での表記となっている。天武天皇の発案でその孫の元明天皇が編纂の勅命を太安万侶に下した。撰上にあたっては、これまでの帝紀(天皇の日継)、旧辞(本辞)(各豪族に伝わる神話、伝承)を集め、その「間違い」(天皇支配の正統性を語るにふさわしくない「間違い」)を正し、まとめたとしている。これは古事記以前に文字で記述された記録文書が存在していたことを示している。ただ、これらは現存しない。おそらく継体天皇時代(血統による皇統概念を生み出した最初の大王)以降にまとめられたものではないか。これらには何が記述されていたのであろうか。これらの記録にどのような天皇皇統にとって不都合な「間違い」」が記述されていたのか興味深い。その解明ができると新たな歴史が明らかになるのであろう。
本題「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」
ここで、最初の問い「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」に戻ろう。ここに撰録された神話、伝承、歌などに倭国(のちに日本)の起源、成り立ち、初期ヤマト王権の出自に関する「歴史的」事実を伺わせるものが潜んでいるのかを読み解いてみようという試みだ。以前のブログでもたびたび考察してきたように、「歴史書」としての古事記は、多くの神話と伝承、叙事詩的物語からなる「文学書」(フィクション)でもあるわけで、そこから史実(ノンフィクション)を炙り出すのはなかなか厄介である。
上巻の「神話」は史実を語っているか?
結論を先に述べると、少なくとも上巻の「神話」の部分に「史実」を語るエピソードはないと考えられる。国生み神話、出雲神話、天孫降臨神話は史実の反映ではないし、何らかの出来事の記憶を神話に仮託したものでもないであろう。出雲神話が上巻の三分の一を占めるが、前回考察したように、出雲はヤマト王権の祭祀(神賀詞や神器/玉の提供)の重要な部分を担ってきた事はわかってきたが、「国譲り」が出雲が大和勢力に破れたとか、服属したとかいった歴史的な出来事を記述の中に確認する事はできない。この神話の主題は国津神(葦原中国)が天津神(高天原)の傘下に入ったという祭祀における由来を語ったストーリーである。一方の「国生み神話」や「天孫降臨神話」にも先史時代の建国にまつわる史実の要素は確認できない。出雲や筑紫の地名が出てくるが、そこになにかヤマト王権の成立に関わる事件があったわけでもなさそうだ。世界各地に共通に見られる国土創世神話や建国神話や、王の出自(王権神授説)を物語る神話と同類の「言い伝え」が起源だと考えられる。これらは大陸由来の北方系神話、海洋由来の南方系神話の系統が確認できる。これを8世紀初頭の倭国の政治事情(豪族支配から大王/天皇中心の中央集権的な支配体制へ)に基づいて、「ヤマト王権」すなわち「天皇支配の正統性」「皇統の持続性」を主張するにふさわしい神話(おそらくは各地に伝わる伝承をも取り込み)を選定し、これに潤色、編集、さらに創作を加えたものだと考えられる。すなわち「天皇」の神聖性の由緒を神話の形で説明したもので、これは歴史ではなくいわば政治的なメーッセージである。その手法として、ヤマト王権の中央集権化のプロセスの中で(大王/天皇の祖霊神との同祖化や外戚化、服属化すなわち「同祖/同盟関係」を築く中で)、地方の豪族や有力氏族の首長霊信仰や国魂信仰の由緒を伝えるそれぞれの伝承や神話を大王家/天皇家の由緒を語る神話に組み入れていった。換言すれば大王/天皇の統治権威の由緒を「神話的整合性」をもって物語るために、皇祖神アマテラスを中心とした同祖/同族化した氏族/豪族の神話の体系化、系統化を図ったものである。さらに言えば、対外的には、倭国、日本(ひのもと)は、中国の歴史書が描くような、歴代中国王朝に朝貢し冊封されることで統治権威を認証された「王」が支配する国ではなく、そもそも「天神」の直系子孫である「天皇」が太古(神話の時代に)に建国し、以来連綿と途切れることなく支配した国である、との認識表明である。これこそ天武天皇が狙った古事記編纂という一大国家事業の本質である。
神武天皇は実在の天皇なのか?
古事記の中に、「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」という問いに答えるヒントを与えててくれそうな伝承がある。「神武天皇東征」伝承である。
古事記の中巻、下巻は「神話」ではなく、初代神武天皇から各代の天皇の「事績」の記述になり、編年体ではないものの天皇の代ごとに整理された「歴史書」然とした体裁になっている。特に中巻は、神武天皇の「東征」、ヤマトタケルの国内平定の戦い、神功皇后の「三韓征伐」と、壮大で華々しい叙事詩的な英雄譚が記述されていて読み応えがある。しかし、これらのエピソードは「神話」とは区別されているものの、多くの創作と潤色が取り入れられていて、そのまま史実として読み進んでいくわけにはいかない。とりわけ初代天皇とされる神武天皇の物語は「史実」の反映とは考えにくい。これが史実であるとすれば、「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」は直ちに問題解決。これ以上書くことは何もないということになる。すなわち、初期ヤマト王権は九州の、筑紫の日向の高千穂に天から降臨した天孫族ニニギの子孫が東征して大和に開いた「王権」「国家」であると。実際、明治維新以降、戦前まではこれがまごうことなき史実であり、それを疑うなんぞもっての他であった。しかし、戦後になり、そうした神話を基にした「皇国史観」の桎梏から解放され、古事記の記述を政治思想の問題としてではなく、客観的な(科学的な)歴史の問題として批判的に読み解いていこうとするアプローチが主流となった。したがって「神武東征」とは何か?資料の批判的解読、考古学的な検証等により新たな「タブーなき」歴史解明の研究が始まった。
そもそも神武天皇は実在の天皇であったのか?古事記の説明によれば、神武天皇の大和橿原宮即位の年、すなわち皇紀元年は西暦の紀元前660年(西暦に復元推定したものであるが)で、いまから2680年前ということになる。この暦年が正しければ日本列島が新石器時代、縄文時代後期で大陸から北部九州に本格的な稲作農耕文化が伝来する(弥生時代)以前の出来事ということになる。稲作農耕文化の進展の結果生まれ、弥生文化の特色とされる国(ムラ、クニ)も王(首長)も存在していない時代、1万年続く平和で持続可能な狩猟、漁労、採集社会、すなわち縄文時代の真っ只中に、突如九州から武力侵攻してきて大和盆地で「天皇」に即位し「朝廷」を開いたという展開だ。ちなみに中国では周から春秋戦国時代(秦の始皇帝成立の400年以上前)、インドでは釈迦が生まれる前、オリエントではアッシリア王朝の時代、ヨーロッパではペルシャと戦争しているギリシア時代、ローマ共和制の始まり。もちろん大和盆地からそのような「朝廷」の存在を示す紀元前7世紀の考古学的な証拠は出ていない。神武天皇の実在性が疑われる所以である。
神武天皇は初代天皇なのか?
その一方、神武天皇の即位が紀元前660年(縄文時代)は有り得ないとしても、日本書紀では初代天皇「ハツクニシラススメラミコト」として登場するのであるから、もっと新しい時代かもしれないが神武は初めての(実在の)天皇であったのではないかと考えることも有り得よう。しかし、古事記は神武天皇の後代にあたる第十代崇神天皇を「ハツクニシラススメラミコト」(初代天皇)と記述している。なぜ日本書紀は初代天皇が二人いるように語っているのか。なぜ古事記は神武天皇について必ずしも初代天皇であるという認識を語っていないのか。それには次のようなストーリーが考えられる。神武天皇以降、崇神天皇(和風諡号:ミマキイリヒコイニエミコト)につながる八代の天皇はその事績の記述もなく、いわゆる「欠史八代」と言われる。すなわち実在しない天皇であると言われている。実際の初代天皇、崇神の前に、伝説の初代天皇神武を起き、それに続く八代の(架空の)天皇を置いた。こうして天皇の起源をはるか古の昔に遡らせる事で(中国王朝や朝鮮諸国王朝に負けない)「悠久の歴史を誇る皇統」を物語って見せた。しかも(中国王朝とは異なり)天神の子孫として代々同一血統による「万世一系の皇統」であると主張した。古事記は天津神(アマテラス)の子孫である神武天皇(和風諡号:カムヤマトイワレヒコミコト)を「神代」と「人代」の皇統をつなげる天皇として記述したが、さらに日本書紀はその神武天皇を「伝説上の」初代天皇(ハツクニシラススメラミコト)と位置付け、「歴史上の」初代天皇である崇神天皇と並立させた。したがって実際には崇神天皇(大王)が初期ヤマト王権を大和纏向に打ち立てた実在の「初代天皇」と考えられる。3世紀後期のことである。
「神武天皇東征」は史実か? ヤマト王権(天皇家)のルーツは九州なのか?
さて、その神武天皇が筑紫の日向を出て、東征し、大和で即位して朝廷を開いたという事績(伝承)は歴史上の事実なのか。さすがに「神武東征」自体をを史実であるとする研究結果は示されていない。しかしこの伝承の背景についてはまさに「諸説在り」である。整理してみよう。
1)「神武東征」自体は史実ではないが「神武東征」伝承を生み出した背景には、王権の起源、出自を九州筑紫だとする何らかの出来事があったとする説
① 隼人、さらに遡れば狗奴国の末裔が東に移動し、大和に入ったとする説。
② 邪馬台国が東遷した記憶をベースに創作したとする説。
③ 倭国大乱の時に邪馬台国連合に敗れた勢力が筑紫を出て近畿へ移ったとする説。
などがある。いずれもヤマト王権のルーツは九州筑紫にありとする。
2)「神武東征」伝承は史実ではないし九州出自説も否定する。ヤマト王権はもともと近畿大和にルーツを持つ(大和に発生した勢力)とする説。
天津神アマテラスを皇祖神とする天皇家は、その天孫族ニニギの降臨の地である筑紫日向高千穂を起源とする(神話の世界)と謳い、太陽に向かう日向の地から出発して東遷し、各地を服属させながら大和に王権(天皇家)を開いたという神秘的な建国物語を創作したものに過ぎない、とする。
私見を述べると、神武天皇自体は、先述のように崇神天皇に始まるのヤマト王権の正統性とその権威を脚色するために、後世(8世紀初頭)古事記や日本書紀を編纂する時に創作された天皇であろう。すなわち実在しない天皇だということになる。しかし、ヤマト王権(崇神大王に始まる)のルーツは九州であったのではないかと考える。すなわち魏志倭人伝に記録のある2世紀中期の北部九州の「倭国大乱」ののちに、卑弥呼をいただく邪馬台国連合に破れ、あるいはそこから離脱した勢力が、筑紫を去り東に移動し近畿大和に定住したのではないかと考える。例えば、1世紀中(57年)に後漢に朝貢した奴国王(「漢委奴国王」金印をもらった)は、3世紀の魏志倭人伝の記録からは消えている。200年ほど前には倭国を代表して後漢に遣使するだけの勢力を誇り、鉄/ガラス生産を始めとする先進技術を誇った奴国の王はどこへ行ってしまったのか。金印を志賀島に埋めて筑紫を去った可能性がある。その東遷の過程で出雲勢力などと合流し、大和に遷ったのではないか。これがヤマト王権による大物主(大国主の国津神)祭祀(三輪山祭祀、出雲祭祀)の起源となり、アマテラス(天津神)祭祀(後に「皇祖神」となる)の起源ではないだろうか。そうした筑紫勢力とその王の移動の記憶が、神武天皇という伝説の初代天皇の筑紫から大和への「東征」の物語に投影して記述されたと考える。また、その神武の大和入りのルートは、672年の「壬申の乱」で大海人皇子が東国から吉野の国栖勢力の助けを借りて大友皇子(近江朝)打倒に向けて進撃したルートと極似しているところから、この行程を神武東征の熊野から吉野、宇陀を抜けて大和に進撃した話に利用したのではないかという説を唱える研究者も多い。大海人皇子こそ、即位後、すぐに古事記の編纂を指示した天武天皇である。このように「神武東征」伝承は、ヤマト王権のルーツの筑紫出自を物語るエピソードであり、これを直近の天武自身の勝利への進軍と重ね合わせて創作した「建国物語」であると考える。そういう意味で神武天皇は天武天皇の姿をモデルにした伝説の初代天皇だったのかもしれない。
このような地域勢力の大規模な移動はありうるのか?
「邪馬台国の東遷」は、前回の考察で述べたとおりで、無かったと考える。がその周辺の有力な筑紫勢力の移動はありうる。そもそも北部九州筑紫は、紀元前から大陸から移動してきた人々の一種の移民コロニー(中華文明の列島内最前線/フロンティア)的な様相を呈していた時期がある。その朝鮮半島や中国大陸から、王朝交代や戦乱や社会的混乱など様々な事情に伴う倭国への人々の移動(難民、亡命、ボートピープル)が、稲作文化や鉄器などの大陸文化を列島にもたらした。同様に稲作文化を列島の東に伝え、「弥生時代」を形成していったのも人の移動によるものである。2世紀中期に起きた「倭国大乱」も、中国の後漢王朝の末期に起こった混乱(184年の「黄巾の乱」など)が、列島北部の倭国における勢力構造/政治構造に波及し起きた可能性がある。その後、卑弥呼を女王として「共立」して邪馬台国を中心にした30カ国ほどの倭国連合が成立するが、その混乱の中から抜け出して東へ移動していった勢力があった事は十分考えられる。こうした大きな歴史のうねりが人の群れを動かし、その人の移動がさらに歴史を動かした。もう一つの歴史的事例は、6世紀の「筑紫磐井の乱」後に、敗者である筑紫王磐井側(邪馬台国の政治的末裔)についた安曇族が筑紫を脱出して東へ移り、信濃や全国に離散していった事実がある。このように動乱や戦乱でまとまった勢力が一族で他地域へ移ることは珍しいことではない。むしろそういった動きが歴史を作っていった(ゲルマン民族の移動の例を待つまでもなく)。3世紀の日本列島は想像する以上に人の移動、交流が活発であったことは考古学的にも実証されている。また列島内の文明の伝搬が大陸に近い西から東へと進んでいった事実からも、出雲や吉備ような有力な地域の勢力外にあった東の「無主の地」近畿大和に何らかの勢力(政治勢力)が移り住み、ここを拠点に列島を統一していった、という歴史のシナリオが成立してもおかしくない。
考古学的な証拠は確認できるのか?
考古学的にも、いくつかの点で傍証がある。筑紫では3世紀以前の首長墓(王墓)から大量の前漢、後漢、魏の銅鏡、銅剣、玉などの「威信材」検出されている(主なものでも伊都国の平原遺跡、三雲・南小路遺跡、奴国のスク岡本遺跡など)。さらに古いものでは紀元前後の「早良遺跡」からは、最古の「三種の神器」が副葬されているのが発見されている。しかし、大和では3世紀以前のものは見つかっていない。大型古墳が出現し、「三種の神器」のような威信材を含む副葬品が多く出てくるのは4世紀以降である。また鉄器や大陸由来の鉄素材も3世紀以前は筑紫から多く出土している(奴国のスク・岡本遺跡や比惠遺跡など)が、大和からは出てこない。また出雲地域は明らかに銅矛文化の筑紫からの移入や銅鐸文化との融合(荒神谷遺跡)、鉄器や墳墓における副葬品に筑紫の影響(西谷方形墓)が色濃く見える。邪馬台国連合との交流もあった可能性があるがその他にも、邪馬台国連合離脱勢力のもたらしたものが大きいのではないか。これらが完全にヤマト王権のルーツは筑紫にあり、と証明するには至らないが、列島支配勢力が筑紫から出雲、大和に変遷して行ったことをなぞる状況証拠にはなるだろう。
筑紫日向高千穂とはどこか?
古事記の上巻では、アマテラスの孫にあたる「ホノニニギ」(ニニギノミコト)は高天原から「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」に天下ったとされている。神武天皇はこの高天原(天津国)から降臨してきた天孫族ニニギの子孫で(筑紫に生まれ育った)、ここから東の大和へ移って「朝廷」を開いたとなっている。したがって古事記の文脈から言えば「筑紫日向高千穂」こそ「ヤマト王権」の発祥の地であり、天皇家の故地であるということになる。ではそれはどこなのか? こうした天孫降臨神話に関しては中国東北部(旧満州)や朝鮮半島の新羅、伽耶王朝の由来を示す神話にも同じ話(穀霊神の降臨)がある。その起源はこれらの大陸由来の北方系神話にあると言ってよいだろう。「ホ(穂)ノニニギ」も稲作文明の象徴たる「穀霊神」である。天皇家が現在でも「大嘗祭」「新嘗祭」という稲作由来の祭祀を行っている由縁はここにある。一方で、男女神による国生み神話や、海彦山彦神話、天皇が神の子孫であるのになぜ寿命があるのかなどは、インドネシアや太平洋諸島由来の神話に同様のものが確認できるという。すなわちこれらは南方系神話が起源とされる。こうした北方、南方由来の神話の原型が両方取り入れられている点が古事記神話の特色である。そしてこうした外来の神話の舞台として筑紫=九州が想定されていることに注意すべきであろう。
こうして筑紫=九州が「倭国の文明の発祥の地」であるという認識、「ヤマト王権の発祥の地」であるという理解は8世紀当時のヤマト王権(天武、持統大王)にあっただろう。それは、天孫降臨も海彦山彦伝説も神武東征も筑紫=九州に起こったということを古事記も日本書紀も明確に記述していることから分かる。しかし、筑紫と言っても広うござんす。具体的にどこを指しているのか。筑紫は律令制以前には九州全体を指していた(筑紫島などの表現)が、しかし律令制による地方の国、郡制定以降は肥国、豊国などとともに北部九州を指すようになる。古事記の神話でいうニニギが降臨した「筑紫」はどこを指しているのか。大方の解釈は現在の宮崎県日向の高千穂峰であるとしている。しかし次のような記述からその位置が知れる。
古事記の記述によると、ホノニニギが「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」に高天原から降臨してきた時、「ここは韓国(からくに)に向かい 笠沙の御前の真木通りて 朝日の直さす国 夕日の日照る国なり かれ 此地はいと吉き地」と言っている。これはニニギが「葦原中つ国」の光景を初めて見て述べた感想である。この形容から、南九州の日向国の高千穂峰であるとする解釈には疑問が投げかけられるであろう。ホノニニギの言葉は、海の向こうに韓国(からくに:空国)すなわち朝鮮半島が見える場所、太陽に向かった土地(日向(ひむか))を示している。南九州の宮崎県高千穂からは朝鮮半島も海も望めない。すなわち北部九州の筑紫の日向であることを示唆している。日向(ひむか、ひなた)と言う地名は、文字通り「日に向かう土地」という太陽信仰から発祥する地名である。かつての筑紫国、福岡県糸島市の伊都国から福岡市の早良国、奴国に向かう「日向峠(ひなたとうげ)」もその一つである。ここからは朝鮮半島も玄界灘も展望できる、しかも東には朝日がさし、西には夕日が美しいところである。まさに古事記に言うところの「天孫降臨の地」そのものの舞台設定である。「天孫降臨」伝承地は、こうしたことから全国各地の「日向」由来の地名のある場所にある。要するに日向国だけではない。しかも、古事記編纂の8世紀初頭には、律令制は未整備で、国としての「日向国」は成立していない。しかもここはヤマト王権に服属しない隼人の地であった。また高千穂という地名も「稲穂」に関わりのある地名で、すなわち新羅王朝の「穀霊神降臨」神話にもつながる「穂のニニギ」に因んで付けられた地名である。したがって(当時)稲作農耕に適さず、縄文的な生活文化が優勢であった隼人の地よりも、水稲稲作文化の先進地域であった北部九州の筑紫(奴国、伊都国や邪馬台国があった)がその地であると考える方が合理的であろう。
「神武東征」伝承の意味するところは?
こうして古事記の記述は、天孫降臨の地は、倭国文化の発祥の地である北部九州筑紫であることを示していると考える。初期ヤマト王権を打ち立てた(纏向の王、崇神大王)勢力は筑紫こそが自らの故地だと称え、古事記編纂時の天武/持統大王もそう認識していただろう。もっとも8世紀初頭の古事記編纂時には「倭国大乱」、邪馬台国卑弥呼の治世から500年以上経っているので、どれほどの記録と記憶が稗田阿礼や太安万侶の手元に残っていたのかは不明である。また崇神大王の時代に起こったと考えられる筑紫からの東遷の記憶が、のちの6世紀初頭の継体大王の時代以降に成立したであろう帝紀や旧辞に記述されていた可能性はあるが、これら資料は滅失し今となっては確かめる術もない。一方で記紀編纂当時、中国の史書、魏志倭人伝は既に成立していたから、そこにある「倭国大乱」の記述、その乱後の卑弥呼邪馬台国連合の成立、魏王朝への朝貢/冊封の記事は目にしていただろう。ヤマト王権の故地である筑紫における出来事の記憶を蘇らせることができたのであろうか。ただし、何度も述べてきたように古事記や日本書紀の成立の背景は、あくまでも「日本」は天神(高天原)の子孫「天皇」が建国した国(葦原中国)であって、けっして中国や朝鮮半島からの文明の移入に依って成立した国ではない。まして中華王朝の朝貢/冊封体制下にある東夷の国(筑紫の奴国、伊都国、邪馬台国のような)ではない。中国皇帝の支配する「中華世界」とは別に、独自に成立した天皇の「日本型中華世界」である。古事記も日本書紀もこうした国家の成立ちの主張と政治的意思表明の文書であるから、そのルーツが北部九州筑紫であることは認識しつつ、あえてその出自は(中華文化の影響の色濃い)北部九州ではなく、また袂を分かって出てきた邪馬台国連合でもなく、その北部九州と対立してきた隼人の地(かつての狗奴国)、未だまつろわぬ民の南九州の「どこか」ということにした。神話をより神秘的にする演出、それが日向高千穂であったのだろう。しかし出自の認識の根底には北部九州筑紫の故地があり、「韓国(からくに)に向かうところ」とニニギに言わせたところが「謎かけ」である。
ちなみに、古事記では朝鮮半島諸国(特に新羅、伽耶)についての言及はあるが中国王朝に関する言及はない。換言すれば中国王朝を意識していない。魏志倭人伝や後漢書東夷伝に関する言及も一切ない。この点が日本書紀との大きな相違点だ。天皇支配の範囲が列島と半島に及ぶという認識を示し、中国王朝との関係に「敢えて」触れないという姿勢に古事記の「世界観」「歴史観」が現れている。日本書紀は、それでは対中国王朝との関係で日本の存在感を示せないという政治的、外交的な意識が強く表明されていて、魏志倭人伝や後漢書東夷伝、晋書、宋書などの引用は(参照した形跡はあるが)避けられているものの、すなわちかつての倭王権の王たちの朝貢/冊封には触れないものの、中国王朝との交流(渡来人の活躍、遣隋使や遣唐使など)については詳細に記述している。古事記は漢字を用いた和語で国内豪族や朝鮮半島を意識して記述された「天皇の書」であるが、日本書紀は漢文で書かれた外交(対中国)を意識した国の「正史」である。記紀と一口に言うが、両書の歴史観、政治表明には大きな相違がある。
答えは出たのか?
さてここまで「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」という「謎解き」をやってみたが、お気づきの通りこれは歴史の解明とは言えない。推理小説の「オチ」に過ぎない。それは言い過ぎだとしてもあくまでも「仮説」の域を脱しない。神武天皇や神功皇后が実在でないことは歴史研究では定説となっているが、「神武東征」伝承に何がしかの歴史的な出来事が潜んでいるのか。あるいは口承で受け継がれる記憶に何らかの暗喩があるのか。まだまだか解明はできていない。まさに「諸説在り」なのだ。明確な証拠(新たな史料や考古学的発見など)が出てこない限り素人歴史探偵の推理に過ぎない。これを書くにあたって以前書いたブログを読み返してみたが、今回とほとんど同じ「推理」で、大きな進展が見られていないことに愕然とした。だがこれからは、さらにこの「仮説」の検証の旅を続けねばならない。やはり日暮れて道遠しだ。。
上巻)国生み神話、出雲神話、天孫降臨神話
中巻)神武天皇の東征(東遷)〜応神天皇まで
下巻)仁徳天皇〜推古天皇まで
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