2020年6月17日水曜日

鎌倉鶴岡八幡宮参拝 〜古事記に出てこない八幡神とはどのような神なのか?〜


拝殿から展望する若宮大路
八幡宮の「八」の字が鳩の形になってることをご存知か?




日本各地に神社は数あれど、日常生活の中で接することが多くて親しみやすい神社は八幡さまだろう。他にはお稲荷さんと天神さまも親しまれている。町には必ずと言って良いほど八幡神社がありその境内は子供の遊び場や、地域の寄り合いの場となっている。また稲荷社は、街角やビルの屋上、屋敷内にもあって商売繁盛の神様としていつも手を合わせる。全国にこうした八幡宮は約44,000社、稲荷社は約32,000社あるとと言われている。

なのに、日本の神様の由来、系譜を詳細に記述する古事記には八幡様もお稲荷さんも天神様も出てこない。なぜなのか?このことは後で解説するとして、今回、鎌倉の鶴岡八幡宮を参拝してきたのでまずは、八幡様のお話をしよう。関東で八幡様といえば鶴岡八幡宮。三ヶ月ぶりに外出自粛要請が解除されて鎌倉へ出掛けた。義父の墓参が目的であったが、久しぶりの散策である。いつもは参拝客で混雑する鶴岡八幡宮の参道、段葛も今日はゆったりとしている。インバウンド客もほぼゼロ!いつもこれくらいの人出だと鎌倉も来やすいのに、と観光産業に従事する地元の方々のことも考えず勝手に妄想する。ともあれこの参拝を機会に、鶴岡八幡宮、そのルーツの石清水八幡宮、さらにそのルーツの宇佐八幡宮、その本宮の穂波大分(だいぶ)八幡宮、その遷宮の筥崎八幡宮について概観してみよう。


鶴岡八幡宮 相模国

鎌倉の町の中心を由比ヶ浜から一路に貫く若宮大路、その終点の山上に鎮座ましましているのが鶴岡八幡宮だ。創建は1063年、近畿の河内地方を本拠地とする河内源氏の二代目源頼義が奥州平定に出陣する時に石清水八幡宮にて戦勝祈願し、平定を終えて鎌倉に帰還した時にその加護に感謝して創建した社に始まる。最初は由比ヶ浜に若宮八幡社として創建され、石清水八幡/河内壺井八幡から神々を勧請し祀った。河内源氏三代目の源義家(八幡太郎義家)が、再び奥州征討に向かうにあたって若宮八幡を整備したという。その後、1180年、その河内源氏の子孫、伊豆に流されていた源頼朝が源氏再興をめざして挙兵。その時に八幡太郎義家ゆかりの社を由比ヶ浜から現在地に遷した。1191年、鎌倉幕府開設に向けて幕府宗社にふさわしい社殿を整え、武家の守護神「八幡大菩薩」、関東総鎮守、国家鎮護の神として祀った。翌年、頼朝は征夷大将軍に叙任され鎌倉幕府を開いた。ご祭神は応神天皇、比売(ひめ)神、神功皇后である。旧社格は国幣中社。

概観するとこんなところが鶴岡八幡宮の由来であるが、このように、東国武士団をまとめ、武家の棟梁として幕府を鎌倉に開いた頼朝は、河内(現在の大阪府羽曳野市あたり)を本拠地とする八幡太郎義家を頂く一族の子孫である。一族のルーツ、父祖の地には、石清水八幡や河内壺井八幡、さらには応神天皇陵(誉田古墳)がある。まさに鶴岡八幡宮はその出身地の氏神、そして応神天皇を祭神とする。


石清水八幡宮(男山八幡宮) 山城国

鶴岡八幡宮の神々はこの山城国の石清水八幡宮から勧請された。その石清水八幡宮は、さらに遡ると平安時代初期859年、南都大安寺僧侶行教(空海の弟子)が八幡神の神託を受け、豊前国の宇佐神宮の神々を都に近い山城国男山に勧請し、860年に男山にあった石清水寺に清和天皇が創建した社である。遠国の宇佐神宮にかわり二所宗廟として朝廷の崇敬を集めた。また都の裏鬼門を守る社としての役割を担った。院政時代に入ると、力を蓄え始めた清和源氏、桓武平氏などの武士団の崇敬を集め、(先述の)河内源氏の三代目、義家が元服し「八幡太郎義家」と名乗ったところでもある。河内の壷坂八幡宮は、この地を本拠地とする河内源氏三代(頼信、頼義、義家)の氏神として石清水八幡より勧請した社である。御祭神は八幡大神、すなわち誉田別(ほんだわけ)命(応神天皇)、比咩(ひめ)大神(宗像三女神)、息長帯姫(おきながたらしひめ)命(神功皇后)。旧社格は官幣大社。


宇佐八幡宮 豊前国

宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮である。社格は旧官幣大社。御祭神は八幡大神(応神天皇)、比売大神、神功皇后である。しかしその創建時期などは不明である。記録にあるのは欽明天皇の時代(571年)に託宣があり応神天皇を主祭神とした。また712年には官幣社に。749年に東大寺大仏開眼供養の時には宇佐神宮の御宣託があり式典の無事が祈られた。769年の称徳天皇の「宇佐八幡宮神託事件」がある。創建の起源、由来が明らかでない点が多いが、平城京遷都後は、都から遥か遠く離れた地に鎮座するにも関わらず、朝廷の重要な祖霊神(皇祖神)として尊崇を集めた。こうした八幡神はどのように生まれ、国家/朝廷の重要事項を決める神託を執り行うようになったのか。八幡神は、もとは地元航海民の首長(豪族)宇佐氏の氏神であったと考えられる。このような地域豪族の氏神や祖霊神が、のちに朝廷の崇敬の対象となり、それを主宰する地元豪族が朝廷祭祀を担うことになる例としては、筑紫の地方豪族胸形氏の宗像三女神(こちらももとは航海神)の例がある。宗像三女神は記紀にその皇祖神天照大神との関係が記述されており、胸形氏は朝廷の主宰する国家祭祀(沖ノ島の祭祀遺跡に見られる)を担う。宇佐氏の八幡神については記紀には記述されていないが、8世紀初頭の記紀編纂時期以降に朝廷との繋がりが強くなり、応神天皇を主神としているので皇祖神と見做されている。ちなみに宇佐八幡宮は九州最大の荘園領主であった。

(参考ブログ)2012年2月8日「豊の国 宇佐神宮と六郷満山」


筥崎八幡宮 筑前国

宇佐神宮託宣集によれば、宇佐神宮の本宮は筑前国穂波郡大分八幡宮であると言われる。その穂波大分八幡宮は現在の福岡県飯塚市にあったが、921年に八幡神の御宣託により玄界灘沿岸に遷宮して、現在の福岡市東区の地に鎮座し筥崎八幡宮となった。ご祭神は応神天皇、神功皇后、そして玉依姫(比売神にかわって)。いずれも九州筑紫と朝鮮半島にゆかりの神々である。元寇の時には亀山上皇御宸筆の「敵国降伏」の扁額を掲げ、調伏の祈祷を行った「八幡大菩薩」国家鎮護の社であった。一時、上陸した元/高麗軍に占拠されたが奪還した(筥崎浜の戦い)。国際貿易都市、博多の東隣に広大な神域を有していた。現在は筑前国一宮。旧社格は官幣大社。


八幡神とはどのような神なのか

さて、なぜ八幡神は古事記にも日本書紀にも、その神系譜に記載されていないのか。その前に、八幡神と言っても一神ではなく、多くの八幡社は応神天皇、比売大神(あるいは玉依姫)、神功皇后の三柱を祀っている。その祭神の一柱、比売大神は(記紀に記載のある)宗像大社の宗像三女神であると考えられている。宇佐氏は三女神をまとめて比売大神として祀ったのではないかと言われている。すなわち胸形氏と宇佐氏の間には同じ神を奉斎する何らかの同族関係、地域連携があったのではと想定できる。宗像三女神も比売大神も大陸との航海を生業とする北部九州の海人族/航海民(胸形氏。宇佐氏)の神だった。もとは皇祖神や国家祭祀とは関係なく地元の豪族、首長の祖霊神であり、一族を守る氏神であった神々を、のちにヤマト王権による国家統一の過程で皇祖神、国家祭祀との関係を再定義し神系譜の中で整理されていったものだ。もともとは比売大神が主祭神であったのだが、北部九州の地元首長や豪族にとって、朝鮮半島との通交、交易に大きな貢献のあった応神天皇の事績を顕彰して主祭神と位置付けたと考えられる。もちろん後に朝廷との関係を重視して主祭神を応神天皇に変えたと言う事情もあったであろう。さらに、8世紀に記紀が編纂されて、神功皇后が応神天皇の母と位置付けられ「三韓征伐」伝承、応神天皇を筑紫の宇美で産んだことが記述されたので、あらたに神功皇后を祭神に加えたのであろう。

このように八幡神は元は北部九州の地方豪族、海人族宇佐氏の神であった。しかも古事記編纂時には、まだヤマト王権(のちの朝廷)との関係が評価されず、それ故に記紀には採録されなかった。しかし、胸形氏の神(三女神)と同様、大陸との通交上の重要性がまし、また南九州隼人の征討の最前線としての重要性もあり、記紀編纂後、奈良時代に入ると、朝廷の崇敬を得て重視されるようになってゆく。とりわけ八幡神が評価されることになったきっかけは、奈良の東大寺大仏開眼の時と言われている。この時の宇佐神宮の御宣託で仏法による鎮護国家を進める朝廷に接近、皇室との関係を深めていった(後に神仏習合して東大寺境内に手向山八幡宮が設けられる)。奈良時代には宇佐八幡宮は伊勢神宮とともに朝廷の崇敬を得て、特に「託宣を行う神」として重視された。朝廷の重要な意思決定に際して宇佐神宮に勅使を出して「ご神託」を聞いてくるというプロセスが成立する。既知の通り、称徳天皇の時に起きた和気清麻呂託宣事件で一躍歴史上クローズアップされた。また八幡神は朝廷の仏教による鎮護国家政策に寄りそう「神仏習合」が最も進んだ神でもあった。このような朝廷にとって「遅れてきた神」八幡神の皇祖神との関係、国家祭祀へ参画のプロセスを見てゆくと、古事記神話の神々(出雲の神々、三輪山の神々、葛城の神々、宗像の神々、安曇の海神神、物部氏の神など)の統合と天照大神を頂点とする神系譜の体系化のプロセスもこのような祭祀に関わる形で評価し、取り入れられていったのであろうと類推することができて興味深い。


なぜ武家の守護神になったのか

鶴岡八幡宮から遡り、宇佐神宮へと八幡神のルーツを追いかけてみた。しかし、八幡神が朝廷にとっての重要な神となっただけでなく、武家にとって守護神として崇敬を集めるようになったのはなぜなのか。おそらく石清水八幡宮が始めであったと考えられる。平安時代末期、それまでの天皇を中心とした公家による摂関政治にかわり、上皇中心の院政が始まると武力を持つ武士団(侍)が京都で力を持ち始める。臣籍降下した清和源氏や桓武平氏と言われる武家集団である。清和源氏は石清水八幡を氏神として崇敬した。天照大神が王朝の皇祖神であったのに対し、八幡神は武家の最高神となっていった。天慶の乱で平将門は八幡神の神託により東国の「新皇」であると称した。やがて清和源氏の庶流であった河内を本拠地とした河内源氏三代(頼信、頼義、義家)は奥州征討(前九年・後三年の役)への出陣で名を挙げ、一躍歴史の表舞台に躍り出た。その際、先述のように、朝廷や清和源氏がが尊崇する石清水八幡神に戦勝祈願と一族の加護を祈り、やがて東国の本拠地となった鎌倉に石清水八幡の神々を勧請し鶴岡八幡宮を建てた。頼朝によって鎌倉幕府が開かれ、東国の鎌倉が武家政権の中心となると、鶴岡八幡宮を中心として神仏習合し「八幡大菩薩」となった八幡神が武家の守護神仏となっていった。中世以降、武士が各地に八幡神(八幡大菩薩)を勧請し全国に八幡神信仰が広まっていった。


皇祖神系譜との関係

このように、八幡神が古事記に記述されていなかったのは、記紀編纂以前には皇統につながるような評価を受ける地方豪族の祖霊神とは認識されていなかったからだが、これは渡来系氏族の秦氏の氏神である稲荷神を祀る伏見稲荷大社についても同様である。その後古事記の神系譜に載せる努力を重ね記述に成功するが、稲荷神はいわば皇祖神とは独立神である。また熊野大社(熊野三山)も地元の山神三柱を祀る社であったが、古事記成立後に皇祖神との繋がりを主張して、王統を助ける天照大神の国津神、親戚神であるとした。同様に八幡宮も、先述のように、もとは一族の氏神、比売大神が主祭神であったが、のちに朝廷との関係を重視して応神天皇を主祭神としている。このように記紀編纂後も、引き続き朝廷との関係を重視して、地域豪族はその祖霊神を皇祖神の親戚や臣下として神系譜に記録されることでヤマト王権/朝廷内の地位や権威を維持しようとした。ちなみに天神様は、平安時代の実在の人物菅原道真を神として祀った(太宰府天満宮、北野天満宮はじめ全国の天満社)もので、朝廷に祟りをなす雷神(怨霊封じ)、のちには学問の神という新しい神として崇拝したものであった。また、歴史上の人物が死後に神(神号を与えられる)になる、例えば、豊臣秀吉は死後「豊国大明神」となり、徳川家康はその死後「東照大権現」として日光東照宮はじめ、全国の東照宮に神として祀られるなど、皇祖神とのつながりや皇室の祭祀とは別の神が登場することになる。


(参考1)
「三大八幡宮」とは宇佐八幡宮、筥崎八幡宮、石清水八幡宮(どれも旧官幣大社)をいう。最近は鶴岡八幡宮を入れることがある。

(参考2)
これらの八幡宮は神仏習合により「八幡大菩薩」としてそれぞれ境内に神宮寺を併設していた。あるいは神宮域と寺域が混在し境内には多くの仏殿、塔、僧房や仏塔などが建てられていた。しかし、いずれも明治政府の廃仏毀釈の中で仏教色が廃され、多くの堂宇、仏像が破却され、僧侶は還俗させられてしまった。

宇佐八幡宮には弥勒寺があり、その傘下に国東半島の真木大堂、富貴寺など多くの仏教寺院が栄えた。宇佐神宮はいわゆる「六郷満山」の仏教文化の守護者であった。。
筥崎八幡宮には弥勒寺ほか複数の僧房があった。創建当時は三重塔や多宝塔があった。
石清水八幡宮は、もともと男山の石清水寺が八幡宮となり、後に護国寺と称した。
鶴岡八幡宮には鎌倉時代には25もの僧房があった。江戸時代には大塔が建立された。





二の鳥居

段葛

三の鳥居

拝殿に向かう石段

拝殿から若宮大路を展望する

社殿

倒壊した大銀杏


新しいミュジアムがオープン

小町通り
まだまだ人出は少ない
(撮影機材:Leica Q2 Summilux 28/1.7 ASPH)