2020年9月5日土曜日

ウィリアム・アダムス(三浦按針)の江戸屋敷跡を探す 〜William Adams, the first Englishman who once settled in Japan〜

日本橋室町1−10にある按針屋敷跡の石碑


今年はウィリアムアダムス(William Adams)/三浦按針没後400年である。

これまでもウィリアム・アダムス/三浦按針の業績やその生きた時代についてはブログで何度か紹介してきた(2020年7月12日「世界史と日本史の遭遇」2009年12月28日「ウィリアム・アダムスの生きた時代」)。アダムス/按針は私が最も興味を抱く歴史上の人物の一人である。私が英国で学生生活を送り、仕事でも長く滞在し、大の英国文化好きになってしまったこと、そして彼の生まれ故郷ケント州に住んだことがあるという奇遇もあるが、なによりも16世期末から17世紀初頭に西欧と日本を繋ぎ、歴史を作った稀有な経験を有した人物であるからである。しかもそれは航海者として冒険者としてであり、けっして王侯貴族や宣教師、大商人や武勇に優れた将軍としてではなく、一人の市井の民として奇しくも歴史に名を残すこととなった。極めてドラマチックな人生であり、それゆえに多くの小説の主人公にもなっている。ここまでの展開を彼は想定してはいなかったであろう。

これまでは、主に書籍によりアダムス/按針の事績を追ってきた。しかし彼の日本における足跡を追いかけて、実際にその現場を訪ねてみたいとの思いに駆られるようになった。それこそ「時空トラベラー」の本領である。まずは身近な東京に彼が徳川家康から与えられたという日本橋の屋敷跡をぜひ確認しておきたいと思い探し始めた。ところが、これが意外に見つけるのに苦労した。これだけ歴史の教科書にも出てくる人物で江戸/東京に縁のある英国人なのに、その住まいを辿ることがこれほど大変なことになるとは思っても見なかった。というのも東京都や中央区の観光案内にも三浦按針やこの屋敷跡を示す石碑の存在については出ているが具体的な場所やアクセスの表示がなく、またGoogleMapで検索してもにも出てこない(下記のサイトを参照願いたい)。結局いくつかの個人のお散歩ブログなどを参照させてもらい、ようやく通称「按針通り」のこの辺じゃないかと目星をつけることができた。つまりブログに掲載されている石碑の写真に写っている周囲のビルや看板などで推理して、今日ようやくたどり着いたというわけだ。

その場所は中央区日本橋室町1−10である。と言っても実は広いブロックになっているのでまだこれだけでは場所をピンポイントで特定はできない(下記GoogleMapの表示のとおり)。日本橋三越新館前から中央通りを渡ると、まっすぐ東へ進む「按針通り」がある。昭和初期までは実際の地名として使われていたようだが、今の町名は日本橋室町となっている。この短い通りの途中に石碑があることまではわかったのだが、ここからが分かりにくい。結局は海苔屋さんと、宝石屋さんのビルに挟まれた谷間(隙間)にひっそりと石碑が鎮座しているのを発見した。これが三浦按針邸宅跡の石碑である。見つけてみればなんということもないのだが、あたりにはまったくそれを示す表示もなく、路駐の車が並んでいるので視界が遮られ、ただ歩いているだけではそれと気づく人はいないだろう。もう少し親切な案内表示でもあればと残念に思う。とまあ、いきなり場所探しのぼやきから始まって恐縮だが、石碑自体は小さいが立派なもので英文と和文で刻まれている。「1951年5月に数人の日本人により再建された」とある。この頃の地元の人々のアダムス/按針に寄せる想いを感じさせる。「再建された」ということから、以前には別の石碑でも建っていたのだろうか。震災、戦災や戦後の区画整理の影響だろうか。


以下、石碑の記述を原文のまま引用。

(英文)
IN MEMORY OF WILLIAM ADAMS, KNOWN  AS MIURA ANJIN, THE FIRST ENGLISHMAN TO SETTLE IN JAPAN, COMING AS PILOT ON BOARD THE CHARITY IN 1600 WHO RESIDED IN A MANSION BUILT ON THIS SPOT. WHO INSTRUCTED JYEASU, THE FIRST TOKUGAWA SHOGUN, ON GUNNERY, GEOGRAPHY, MATHEMATICS, ETC., AND CONSTRUCTED FOR HIS SEVERAL SHIPS ON THE EUROPEAN MODEL. WHILE RENDERING VALUABLE SERVICES IN FOREIGN AFFAIRS, AND WHO MARRIED A JAPANESE LADY MISS MAGOME AND DIED ON APRIL 24, 1620 AT THE AGE OF FIFTY SEVEN YEARS.

REBUILT BY SOME JAPANESE, MAY 1951.



(和文)
ウィリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生まれ。慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船、砲術、地理、数学等に業績をあげ、ついで家康、秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)1月24日平戸に歿した。
日本名三浦按針は相模國逸見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで按針町と呼ばれた。




1600年、豊後臼杵佐志生に到着(漂着)したオランダ船リーフデ号の乗組員は、イングランド人ウィリアム・アダムス(William Adams, 1565~1620)の他、オランダ人のヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn, 1556?~1623)やメルヒオール・ファン・サントフォール(Melchior van Santvoort, 1570?~1641)、ヤコブ・クワッケルナック(Jacob Quaeckernaeck, ?~1606)など7〜8名が江戸や浦賀近辺に屋敷を与えられて定住したと言われている。知られているようにヤン・ヨーステンはアダムスと同様に家康に重用され、江戸に屋敷を拝領している。今の八重洲という地名は彼の名前から来ている。このように家康にとって、眼前の関ヶ原の戦いや、その次の豊臣家との最終決戦である大坂の陣を控え、僥倖とも言える形で転がり込んできた、西欧の最新の知識や技術をもったいわばテクノクラート集団は貴重であった。航海士は航法だけでなく数学や天文学、地理の知識を持ったイノベーティヴな技術者である。もちろん世界の海を航海してきた実績を有す。そしてそのほかにも砲術師や船大工も得難い人材である。しかも大量の大砲や鉄砲とともにあるわけだ。彼らは漂着直後は疑いの目で見られて牢獄に繋がれたが、解放され浦賀に曳航、係留されていたボロ船リーフデ号に集団で暮らしていた。やがて彼らは洋式帆船の建造に駆り出されて家康に重用される。また当時はスペイン/ポルトガルの宣教師たちが海外情報をほぼ独占していた時代である。これに危機感を持っていた家康にとって布教に関心を寄せない(しかもヨーロッパにおいてカトリック国に対抗しているプロテスタント国出身だという)あらたな情報ソース、海外ウィンドウは外交戦略的にも有用であった。この頃から彼らにはそれぞれに屋敷が用意され、日本への定住を促すために配偶者を世話されるようになる。アダムスやヨーステンのように旗本に取り立てられ「サムライ」となるものも出てきたわけだ。その一方、彼らは容易に帰国が許されない状況になってゆく。

アダムス/按針には日本とイングランドに家族がいた。江戸の日本橋に屋敷を拝領したころに結婚したようだ。相手は大伝馬町の下級役人「馬込勘解由」の娘「おゆき」とされるが、確かな資料は残っていないようだ。その妻「おゆき」との間に長男ジョセフと長女スザンナの二人をもうけた。そのほかに平戸に婚外子がいたというが、その詳細は不明だ。ジョセフは父の仕事を継ぎ、平戸を拠点とする朱印船貿易に従事した。またアダムス/按針の死後、母とともに三浦半島の逸見の領地の相続を安堵され、また日本橋の屋敷も保持していたようだ。ジョセフは英国商館長コックスのサポートを受け、父、三浦按針の名を継ぎ、いわば「三浦按針2世」として朱印状貿易に従事した。英国商館が平戸から1623年に撤退するとコックスも日本を離れ、後ろ盾を失ったジョセフは、オランダ商館や末次平蔵、茶屋四郎次郎などの日本人豪商とともに平戸や長崎で貿易商人として活躍した。しかし、晩年の消息は明らかにはなっていない。いわゆる一連の鎖国政策のもと、多くバテレンや外国人、その家族となった日本人や子供たちが国外追放された苦難の時代へと転換していったことから、日本には残らなかったのかもしれない。しかし英国へ渡ったという記録も残っていないようだ。あるいは日本人と認められ日本に残った可能性もある。だとすれば現在まで血統が続いていて子孫/末裔がいるのかも。ただ三浦半島の逸見の領地はその後別の旗本の領地になったので、ジョセフは他界し、相続する子孫もいなかったのかもしれない。私人としての生涯を物語る記録がない。またイングランドに残してきた妻メアリー・ハインとの間に二人の子がいた。長女デリヴァランスともう一人男の子がいたようだがこちらは消息がわかっていない。娘のデリヴァランスはその後結婚し子をもうけた。アダムス/按針の孫だ。したがってその末裔がイングランドにいた(いる)可能性がないとは言えない。現在、イングランドにはアダムスの子孫であると自称する人が複数いるそうだが、いずれも言い伝えで確かな証拠があるわけではない。こうしたアダムス/按針の家族のことは平戸の英国商館を通じた手紙や商館日誌で断片的に知られているが、どれもそれ以上の詳細な状況はわかってない。特に商館長のコックスはアダムス/按針と親しく、アダムス一家(アダムス夫人、ジョセフ、スザンナ)とも家族ぐるみで交流があった。江戸参府時には日本橋の按針屋敷や三浦半島逸見の館を訪問している。しかし、平戸の商館撤退後、コックスは帰国途上のインド洋上で病死し、故国イングランドには帰りついていない。したがって日本でのアダムス一家の状況を故国に伝えることは叶わなかった。今後、アダムス/按針の子孫、末裔に関する新たな資料や情報が発見されることを期待したいものだ。

このようにアダムス/按針は日本で家族を持ったが、片時もイングランドに残してきた家族のことを忘れたことはなかったと言われている。せっせと妻メアリーに手紙を書き、生活費を東インド会社を通じて送金し、平戸に寄港する母国の船にこれらを託した。そして機会あるごとに帰国を望んだ。しかし結果的には彼の生まれ故郷、家族の待つケント州ギリンガムに帰ることは叶わないまま平戸に没した。波乱万丈、劇的な生涯である。確かにイングランドに戻っても、日本にいるときのような領地/領民を与えられ、旗本としての特権的地位を与えられるという、まるで(若き日の彼にとって無縁の存在であった)イングランド貴族のような生活は望むべくもない。また、困難は伴うものの航海者として冒険的商人として、平戸を拠点に東洋の海を駆け巡る仕事は魅力的でもあっただろう。一方、望郷の念止みがたし。残してきた妻や子供たちへの想い絶ち難し。彼が奇しくも果たした歴史的な役割の重要性とは別に、一人の人間としての苦難と懊悩、ジレンマは、我々の思いの及ぶところではない。

アダムス/按針にゆかりの地は、このほかにも三浦半島の逸見に領地を与えられたので、京急辺見駅、安針塚にゆかりの地がある。ここには夫妻の墓がある。また、アダムス/安針が家康に請われて洋式帆船を建造した伊豆伊東の松川河口にもドック跡と記念碑がある。そしてその後移り住んだ肥前平戸では朱印船貿易で活躍し、オランダ商館のほか、彼も一時期所属した英国商館など多くのゆかりの場所がある。望郷の念に駆られつつもついに帰国することなく「さむらいウィリアムス」として生涯を終えた終焉の地である。ここに彼の墓がある。もちろん彼の数奇な運命の始まりとなったリーフデ号漂着の地、豊後臼杵の佐志生にも記念碑がある。また彼の生まれ故郷であるイングランド・ケント州ギリンガムにも、それぞれぜひ訪れてみたいものだ。


(参考文献)
「三浦按針 その生涯と時代」森良和著 東京堂出版  2020年
「SAMURAI WILLIAM The Englishman Who Opened Japan」Giles Milton  Farmer, Straus and Giroux  2002



石碑の全体
小さいが立派なモニュメントだ
英文と和文で彼の事績が刻まれている


江戸古地図には「あんじん丁」とあるが、その後昭和初期までは「按針通り」。そして現在は日本橋室町と改称されている。「按針通り」は通称として使用されている。



ビルとビルの間にひっそり佇む
これじゃあ見つけにくい

按針通り
正面は日本橋三越
折しも「三越英国フェアー」開催中である

日本橋三越
1673年(延宝元年)伊勢の商人三井高利が日本橋に開いた呉服店「越後屋」を起源とする



江戸初期にあったと考えられる三浦按針の屋敷の位置は古地図上で確認できる。これは文化12年(1815年)の「古代御江戸絵図」である。このころは古地図の復刻ブームであったようで版元は江戸の蘭香堂である。もとの地図はは寛永9年(1632年)「武州豊島郡江戸庄図」。これを複製したものであり、「明暦の大火」以前の江戸の姿を伝える現存の江戸全図としては最も古いものと言われている。地図には消失前の江戸城の天守閣も描かれている。日本橋あたりをクロースアップしてよく見ると「日本ばし」の右に「あんじん丁」の表示がある。現在の石碑が設置されている場所である。1632年といえばアダムス/按針が平戸で亡くなった1620年から12年ほど後の地図である。この屋敷がその子ジョセフに相続され、実際に住まわれていたが、いつ頃まで「按針屋敷」であったのか不明である。少なくとも町の名前としては残っていることがわかる。

(参考文献)
「地図で読む江戸時代」山下和正著 柏書房 1998年初版



寛永9年(1632年)の「武州豊島郡江戸庄図」
復刻版「古代御江戸絵図」文化12年(1815年)


ウィリアム・アダムス:William Adams
三浦按針肖像
いつの頃のものか明らかでない



Google Map: 東京都中央区日本橋室町1−10「按針通り」