2020年10月12日月曜日

クラシックカメラ遍歴(8)Leica Copy Cameras 〜本家を超えた偉大なるライカコピーたち〜

Leica IIIa
高速シャッター1/1000を装備
本家本元のライカカメラ

レンズはSummarit 50mm f.1.5
当時としては驚異的な高速レンズ

Leica Pistol
底に速写用ワインダー、ライカピストルを装着できる

まずは本家本元のLeica IIIaをとくとご覧あれ。1935~1950年、すなわち戦前にドイツのエルンスト・ライツ社:Ernst Leitz GMBHで製造された戦後まで続いた板金成形のバルナック型ライカだ。III型に始まり、高速シャッタ1/1000を追加したIIIa、ファインダーを改良したIIIbへと進化した。他社の追随を許さないと言われた最高峰カメラである。唯一の競争相手は、同じドイツの老舗光学機器メーカー、カール・ツアイス社:Carl ZeissのContax Iだけだと言われた。そのLeica III型をモデルにした(コピーした)各国のライカ型カメラの代表作を三点ご紹介しよう。

戦時中、交戦相手であったドイツからLeica IIIが入らなくなり、困ったイギリス、アメリカ、日本が製造したのが「ライカコピー」と言われるカメラだ。カメラは個人の趣味の道具ではなく、特にライカのような小型、高性能なカメラは重要な軍用機材であった。英米は開戦初期はライツ社製の高性能カメラを確保するために、中立国や第三国から輸入したり、国内の研究機関や市民などのライカ所有者からの供出に頼ろうとしたが、それでは間に合わず、やがてライカを分解して研究し自国でコピー製品を製造しようとした。これがコピーライカの始まりだ。やがて戦争が終わり、イギリスは占領中のドイツ、エルンスト・ライツ社のウェツラー本社から設計図を接収したり、海外のライツ社の特許の無償公開を利用して製造を進めた。またアメリカでは米国子会社のニューヨークライツ社による全面的な支援があり、英米両国で「ライカ」の国産化を進めた。一方、ドイツからカメラの製造設備を接収したソ連(ロシア)が大量のライカコピーやコンタックスコピーを製造した(ハッキリ言ってどれも粗悪品ばかり。コレクターアイテムにはなっているが)。日本は持ち前の器用さで数多くのライカコピーやレンズシャッタカメラを作り、戦後の外貨稼ぎの柱となった。そうしたいわば草の根のカメラブームが日本のカメラ業界の発展の基礎となった。

この戦後間もない時期のライカコピーは、戦前の板金加工ボディーのLeica III, IIIa, IIIbをベースに行われた。したがってその形状はIII型とウリ二つ。ところが、コピー製品の方はダイキャスト成形の高剛性ボディーで、かつ仔細にみると様々な改良が施され、本家のライカを上回る出来ばえの高性能カメラに仕上がっている。戦後のこの頃には本国ドイツでは(戦争中、戦後の荒廃の中であるにもかかわらず)次世代モデルであるダイキャスト成形のIIIcが開発済みであったが、ライカコピーは全て戦前型(板金加工型)のIIIa型のデザインを踏襲していたのである。こののちライツ社はドイツの戦後復興と共にIIIc, IIId、そして究極のバルナック型ライカ(スクリューマウント)となるIIIfを市場に投入してくる。ライカコピー製品の命脈は、その成立の事情から考えてもは徐々に絶たれてゆく。

ここでは代表的なライカコピーカメラ、英国のリード、米国のカードン、そして日本のニッカを紹介しよう。


1) 英国製 Reid + Taylor-Hobson 50/2

Reid & Sigrist Ltd. Leicester England

イギリス軍の要請により、レスターにあった航空機関連の精密機器を製造するリード・シグリスト社に白羽の矢が当たりライカコピーを製造開始。ということでReidはLeica IIIb(高速シャッタ1/1000搭載、ファインダー改良)をモデルとし、軍用として製造された。やがて民生用としても売り出された。民生品としては1947年に発表され、実際の市場には1951年に登場して、1964年まで発売された。すなわち、戦時中の軍の要請に始まるのだが、戦後に比較的長く販売された。ライカに倣ってスタンダードなI型と高性能なIII型の二種類があった。I型は主に軍用に納品されたようだ。

今回取り上げたReid IIIは3機種の内、仕上げが一番洗練されている。ボディー角やノブ類の面取りなど、掌に馴染む仕上げとなっている。エルゴノミクスはLeica IIIbよりも優れている。シャッター軸にはボールベアリングが使われ、滑らかな駆動。貼り皮も滑りにくい材質。ダイキャスト成形も薄型で、のちのLeica IIIcのそれよりも出来が良いかもしれない。シャッター巻き上げやレンズ距離計のスムースな動きも秀逸だ。ボディー正面にストロボ用の接点が用意され利便性もオリジナルを上回っている。いかにも「英国製ライカ」という佇まいだ。

沈胴、直進ヘリコイドの50mm(2 inch) f.2の標準レンズがついてくる。このレンズはテーラー・ホブソン社製で、シャープで秀逸な名レンズである。その姿形も工芸品と言って良い上質なものである。付いてくるレンズキャップのエレガントさはまさにMade in Englandだ。イギリスには、この他にもロスやダルメイヤーなどの優秀なレンズメーカーがある。ライカLマウントレンズの他、英国製カメラ用(アドボケイト、エンサインなど)にずいぶん作った。



フィルム巻き上げノブ、巻き戻しノブは角が面取してあり、またボディーも全ての角がアールが取ってあって手触りが良い。
ダイキャスト成形のボディーも薄く仕上がっていて、しかも剛性感がある。
ストロボ、フラッシュ用接点が正面に設けられている

メッキ、貼り皮の質が高く美しいシルエットだ

軍艦部のレイアウトはLeica IIIbと同じ
「Reid」のロゴが誇らしく彫られている

レンズはTaylor-Hobson Anastigmat 2 inch f.2
鏡胴の作りも高品位

レンズキャップのロゴが美しい


2) 米国製 Military Kardon + Kodak Ektor 47/2

Premier Instrument Corp. USA

カードンは、戦時中、交戦国ドイツからライカが入って来なくなったので、アメリカ陸軍によりニューヨークのプレミア・インストルメント社に製造が委託された。アメリカでは戦前からコダックなど、大手のカメラメーカーがあり、軍用のシグネットや、スピードグラフィックスなどのカメラが製造された。それに加えてライカ型の小型高性能カメラへの軍需ニーズが高かったことから製造に着手した。こちらはLeica IIIaをモデルとした。戦後は、ニューヨークのライツニューヨーク社の全面協力もあり製造が進み、カードンは軍用から転用して民生用として売り出された。もっともカードンの製造台数は限られており、軍用、民生用合わせて2500台ほど。日本のように大量にライカコピーが製造されたわけではない。またイギリスのリードのように戦後長く販売されたわけでもない。戦後はドイツからも本家のライカが入るようになり、さらには戦後復興が急速に進んだ日本からは、安価なライカコピーが輸入されるようになった。一方でドイツコダック(戦争中も存続した)のレチナなどがアメリカで大量に販売されたこともあり、カードンは民生用としては普及しなかった。したがって現在中古で出回っている数にも限りがありレアものとなっている。軍用と民生用で(後述のように)形状が異なっており、これは軍用のカードンである。

軍用は堅牢でヘビーデューティーな作り。メッキは光沢が無く、マットな感じでエッジがたった無骨さがある。使用感はややゴリゴリ感があり、洗練された工芸品というよりは、ロバストな実用品としての工作精度を感じる。当然、軍用であるので、戦場での使用に配慮した様々な工夫が施されている。なんといっても手袋をはめたままでも操作しやすいように多くの改造が施されている。大型のフィルム巻き上げノブ、背の高いシャッターボタン、低速シャッターダイアルのレバー、レンズの距離計ダイアルにはギアーが付いており、フィルム入れ替えの底蓋のロックレバーは、開けやすいようにスプリングで半分浮き上がらせている(アメリカとは思えない細やかな配慮!)。全体としてはメカニカルな「武器」のような風合いのカメラだ。陸軍信号部隊用である旨のシリアルナンバーと機種名プレートが背面に付いている。

レンズはコダック社製のエクターだから写りが悪いはずがない。アメリカ製のエクトラやハッセルブラッドなどのハイエンドカメラに採用されている名レンズ。黒いリングがレンズ先端に取り付けてあり、Made in USA by Eastman Kodak Co. Rochester, N.Y.とある、鏡胴側の絞りリングにはPremier Instrument Corpと刻印されている。ライカの形をしているが、これはアメリカ製であると、アメリカの製造業の基礎体力の充実ぶりを主張しているようだ。



大型フィルム巻き上げダイアル、シャッターボタンはトール型、レンズには距離計ギア、低速シャッターダイアルには突起が付いていて手袋のまま操作しやすくしてある。
無骨で堅牢な作りだ

フィルム交換のための底蓋開閉ノブは半分浮かせてあり、
手袋のままでも操作できるようになっている
ここにまでUSAの刻印が

米陸軍信号部隊用であることを示すプレート
シリアルナンバーが打刻されている
製造メーカーはPremier Instrument Corp.


軍艦部のレイアウトはLeica IIIbと同じ
メッキの質はマット調で工芸品的な美しさはないが、堅牢でロバストな仕上がり
「Kardon USA」のロゴもシンプル。シリアルナンバーなどは打刻されていない

レンズはKodak Ektar 47mm f.2
アメリカが誇る名レンズがついている



3) 日本製 Nicca + Nikkor-Q 50/3.5

Nicca Camera Co.Ltd Tokyo, Japan

1940年、キャノンの前身である精機光学でハンザキャノン製造に携わっていた技術者が立ち上げた光学精機がニッカの前身。戦時中は1942年に軍用に「ニッポン」というライカコピーを作った。これは軍の命令で特許無視で製造したものだ。戦後、1947年に社名をニッカと改称し、民生用に転換して、Leica III(1/500シャッター版)のコピー、Niccaを製造した。以降、改良を加えながらシリーズ5まで製造され、最後はヤシカに吸収されて消滅した。

戦後はニッカの他にも、レオタックス、チヨタックス、タナック、ミノルタ、キャノンなどのカメラメーカーがライカ型のカメラを製造した。1950年代に入るとさらに数多くのライカコピー機(中小のメーカーが多かった)が登場した。日本くらい多品種なライカコピーが作られた国はない。もっともライカコピーとは言っても、外見だけがライカ風で中身はレンズシャッターの廉価版カメラや、なんちゃってライカのトイカメラを含め、ほぼ無数と言って良いほどの機種が生み出された。しかしそれを基礎とし、その中から改良型の高付加価値型のカメラが出回るようになり、やがてMade in Japanカメラとして戦後の輸出花形商品となっていった。その中でもニッカはそれなりの精度と高品位な仕上がりを持つ「本格的なライカコピー」として人気があった。海外でも本家のライカよりははるかに安くて(当時のライカは家一軒買える価格と言われた)、その割には高性能な「日本製ライカ」が売れた。レオタックスと共にライカ型カメラの一時代を形成した。原型モデルのコピー、その改良版、量産化(高品質で安い)という日本のモノ作りの原点がここにある。そうした歴史的な「産業遺産」としても興味深い製品である。しかし、この頃はすでにドイツの本家ライツ社はダイキャスト成形の軽量かつ高剛性ボディーに、高性能な光学ファインダーを搭載したLeica IIIfを市場投入しており、これに比較すると戦前のIII型をモデルにした板金ボディーのニッカはさすがに見劣りするようになっていった。しかも、ライツ社は1956年にはが距離計連動ファインダー付きの、全く新しいライカM3を出し、とうとう日本のカメラメーカーは追いつくどころか突き放されてしまった。ニッカはこの時にはヤシカに吸収され、ヤシカブランドのカメラがやがては世界を席巻することになる。ところで、この究極の距離計連動レンジファインダーを搭載したライカM3のインパクトは強烈で、なんとかライカについてゆこうとしたニコンはこれに追いつけないと観念し、一転、一眼レフカメラに転換して、ついに世界のニコンFになった話は有名。

このニッカのレンズはそのニコンの日本光学のNikkor 50m f.3.5。標準レンズとしてキット化されている。この他にもf.2やf.1.5の高性能レンズもラインアップしていた。この時期、ニッカは日本光学(海軍)のレンズ(ニッコール)を、レオタックスは東京光学(陸軍)のレンズ(トプコール)をつけていた。このニッコールは光学性能が非常に優秀で、欧米市場でもライカレンズに匹敵する高い評価を得始めていた。しかもレンジファインダーの最短撮影距離1mという限界を超えて近接撮影ができる。実際には距離計連動しないので、近接撮影用のスタンドに取り付けて撮影する。ちなみに最近のデジカメに装着すると簡単に30cmくらいまで寄れるので便利だ。日本光学は、秀逸なニッコールシリーズを次々と市場に投入し、ライカと競い合う製品となる。のちにライフ誌のカメラマン、ダンカンによってニッコールが絶賛されて、一眼レフカメラ、Nikon Fと共に世界的にな成功を収めることとなる。このニッカにキットされた標準レンズは、その初期の記念すべきニッコールであった。


上質なメッキと貼り皮
戦後の物資不足の時代の製品とは思えない仕上がり

シャッター速度は500分の一までのIII型初期
Type-3やIIIの刻印がない

軍艦部レイアウトはLeica IIIと同じ

レンズはNikkor 50mm f.3.5
ライカのElmar 50mm f.3.5をモデルにしたが沈胴ではない
この他にもf.2, f.1.5があった

Nikkorはレンジファインダー機の最短撮影距離3.5 feetよりもさらに1.5 feetまで寄れる。
近接撮影モードが特色だが距離計ファインダーには連動しない。
(1.5 feetに設定した状態。鏡胴が伸びている)


こうして振り返ってみると面白い。その後、イギリスもアメリカもカメラ製造事業は縮小してゆき、その一方で日本は世界市場を席巻していった。そのスタートポイントが「憧れのライカ」に追いつけ追い越せで、そのコピーを作るところから始まったことは先述の通りだ。そのライカは、とうとうニコンやキャノン、ミノルタなどの日本のカメラメーカの後塵を拝することとなり、伝統のエルンスト・ライカ社はついにスイスの会社に買収され、創業の地ウェツラー本社を失う事になる。やがて時代はデジタルカメラ時代へ。レンジファインダーカメラから、一眼レフカメラへと進展していったカメラは、ミラーレスカメラへ。コンパクトカメラはスマートフォンにその座を奪われる。さしもの日本のカメラメーカーも勢いを失いはじめ、次々と事業縮小し、ブランドを他社に売却してカメラ事業から撤退するところも現れている。そしてあのライカが、臥薪嘗胆、そろそろと伝統のブランドを生かして復活してきた。Leica Wetzlar本社と赤バッチを復活させた。そうブランド資産は強い。そして今度は宿敵、ニコンやキャノンをミラーレスで追撃し始めている。一方でふと気がつくと家電メーカーであったはずのソニーやパナソニックが、半導体や電子技術やデジタル技術を駆使してデジカメ市場で台頭してきているではないか。カメラ業界の栄枯盛衰。すべてはライカコピーから始まった。その本家のライカはこれからどこへゆくのか。ニコンやキャノンはどう戦うのか。まさか第二の「ライカコピー」時代に入るのではあるまいな。奢れるものは久しからず、盛者必衰の理あり。

(参考文献:「世界のライカ型カメラ」カメラレビュー・クラシックカメラ専科45巻)

(撮影機材:Leica SL2 + Apo Summicron SL 50/2 ASPH)