2021年7月23日金曜日

緊急事態宣言下の東京2020オリンピック開幕! 〜1964年とどう変わった?後世どのように評価されるのか?〜

1964年10月10日東京オリンピック開会式(朝日新聞アーカイブスより)


2021年7月23日の空


残念ながら五輪はすぐに風に流されてしまった

無観客、と言われてもね〜...
自宅でテレビ観戦が今回の王道?

一見、無観客に見えない会場。隈研吾マジック!こうなること予想してたのかな?

青い地球が浮き上がる演出
ドローンを使っているとか

大坂なおみが聖火点灯

聖火も点灯!大団円!ということでお開き


1964年10月10日、秋晴れの雲ひとつない青空の下、東京国立競技場でアジアで初のオリンピックが開会式を迎えた。あの真っ青な秋晴れの空にブルーインパルスの編隊飛行が描く五輪のマークがくっきりと浮き出た、今でもその光景が目に焼き付いている。古関裕而のオリンピックマーチが耳の底に響く。ワクワク、ドキドキする感動を与えてくれた東京オリンピック。中学生であった私に今でも鮮やかな記憶として残っているあの日。

19年前の惨めな敗戦から目覚ましく復興し、高度経済成長が始まった1964年の東京でのオリンピック。首都高速や環七、モノレールや豪華ホテルが次々現れる首都改造、新幹線開業、国立競技場、日本武道館やオリンピックプールなど華麗なオリンピック競技場が次々に建設され、日本が輝いていた時代だった。世界に誇れる「一等国」になったと皆がナイーブに信じた。世界に恥ずかしくない「公徳心」とか「公共マナー」が話題になり、ゴミ捨てマナー、整列乗車、交通マナー、公衆衛生など「民度」の向上にも努めた。舗装道路が少なく砂ぼこりまみれで交通渋滞が激しく、ゴミが散乱する汚い街東京が変わるきっかけになった。今は東京は世界一綺麗で安全な大都会だ、なんて言われているが、昔は違っていたのだ。その一方、古い東京、江戸の面影は消えてゆき、江戸下町の人情も紙のように薄くなってしまった。まあ、日本が一生懸命前進しようと頑張り、そのためには街が壊されても、自分の家が取り壊されても、掘割が埋められて水都江戸が姿を消しても、そして人情が薄くなっても「やむを得ない」と諦めた。オリンピックが大義となって全ての破壊も挑戦も許された時代だ。みんなが前を向いて進むことしか知らなかった。与えられた目標にむかってみんなで突っ走る。日本人の得意とする「集団成長モデル」が確立した瞬間だ。開高健の言葉、「満員電車で通勤して夜遅くまで働くので勤勉かと思えば朝からパチンコ屋が満員!」「近代的なビルがあると思えばその横には小さな建物が苔のようにびっしりへばり付いている」これが1964年頃の東京であった。

 そして東京2020オリンピックがついに今日、2021年7月23日に開会式を迎えた。1964年のオリンピックから57年後のことである。コロナパンデミックによる一年の延期という前代未聞の事態をへて今日を迎えたわけだが、今年になってもコロナは一向に収まらないどころか、変異株の登場で新たな感染爆発に見舞われる世界。こんなパンデミックのさなか、開催か、中止かとの論議の末(開催ありきであまり議論したとも言えないが)、IOCの恫喝と政治の思惑により開会強行(というか、なし崩しで開催)とあいなった。国民の55%が開催には反対。70%が政府の説明に納得しない、といっているのも関わらずだ。ただし観客を入れない無観客という前代未聞のオリンピックになってしまった。この間、開催国国民の不安と疑念をよそに、政府の思惑、IOCの独善性が露呈し、「そうだったのか!」が次々と明らかになる事態を目の当たりにして、頑張ってきたアスリートには気の毒だが国民のオリンピック熱はすっかり覚めてしまったようだ。「こんな時に何故オリンピックやるんだ?」「誰のためのオリンピックなのか?」という疑問符と、このオリパラを機に感染拡大中のパンデミックはどうなるのか?医療は大丈夫か?という不安と。公道での聖火リレーはほとんどが中止。とても歓迎ムードやお祭りムードでないことだけは確かだ。64年の時のワクワク、ドキドキはどこへいってしまったのか。

感染者数はここへ来て東京で千人を超える日が続き、22日時点で1979人。全国的にも急速に感染が拡大し、再び5000人を超えた。ついに第5波到来である。世界的にインド由来の変異株中心に爆発的な感染拡大が始まり、日本でもオリンピック期間中、開催都市である東京で4度目の「緊急事態宣言」: State of Emergencyが発令となった。しかも選手他オリンピック関係者の感染者も次々と確認され22日時点で106人となっている。しかし、それでもオリンピックはやる(IOCコーツ副委員長は「緊急事態:State of Emergencyでもやる!」と恫喝)。日本はワクチン接種が遅れていて。いまだに国民の20%しかワクチンを打っていない。急速に進めてきた接種は、突然ワクチン供給不足を理由に、急ブレーキ。にもかかわらずオリンピックはやる。オリンピックやりたいというなら、何故それに合わせてワクチン接種を進めなかったのか?誰でもわかることができなかったのは何故?「頭の良い人たち」が集まって下した「頭の悪い結論」の結果だ。一番の課題は医療体制の崩壊の危機だ。感染しても入院して治療してもらえない人の数が急増する。自宅で適切な医療処置がないまま死亡する人が現に出ている。保健衛生や医療の現場にとってはオリンピックどころではない戦時体制といって良い状況だ。そんな事態なのにオリンピック関連の感染者や熱中症患者の受け入れ要請をしてくる組織委員会に医師会は反発している。国民の命と健康を守れない可能性が高まっている。政治家も行政も医療専門家も口では危機感を言い募っているが、実際の意思決定と行動はその危機を回避する方向にはなされていない。「オリンピックはやる!」という意志だけは明確だが。

どうしてこんな合理的とはとても言えない意思決定ができるのか、みんなが「おかしい」と言いながら、コトはズルズルとなし崩しで進んでいく。街は今日から始まったオリンピック4連休の人出で溢れかえっている。わざわざこの時期に設定した4連休。新幹線や飛行機も久しぶりに帰省客で混雑状況だ。無観客の開会式が行われる国立競技場の周りは、少しでもオリンピックの雰囲気を味わおうと大勢の群衆が取り囲んでいる。東京は8月8日まで緊急事態宣言中じゃないのか?県を跨る移動は「自粛」するんじゃないのか?出かける人の意識が低いというのか?無観客なのに何故オリンピックだからと言って4連休にするのか?そうしておいて「不要不急の外出は控えよ!」と同じ人物が言うのは何故?全く支離滅裂としか言いようがない。

そもそもこのオリンピックは招致の時から混乱の極みであった。政治主導の迷走劇。方針の撤回と、運営責任者の辞任の連続。運営責任者に人権、人間の尊厳と歴史観への理解と配慮がない人物が多すぎる。結局は面白おかしいお笑いネタのノリでイベントとして捉える人間が中心のプロデュースに成り下がっていたわけだ。それが世界に通用すると思っている。しかもそれをチェックするマネジメントの見識も体制も責任者も不在(いや責任者はいるのだが、その適否を判断できる人ではなく丸投げ)。さらに用意周到とは無縁の粗雑なプロセス。日本品質はどこへいったのだろう?

国立競技場設計デザインの変更(2015年)

オリ/パラロゴエンブレムデザイン盗用疑惑で差し替え(2015年)

東京招致贈収賄疑惑で竹田JOC会長辞任(2019年)

暑さ対策でマラソン、競歩の札幌開催への突如変更

コロナパンデミックで開催の一年延期(2020年3月)

総合プロデューサー野村萬斎辞任(2020年3月)

森大会組織委員会会長の女性蔑視発言で辞任(2021年2月)

開会式演出プロデューサーの女性タレント容姿揶揄問題で辞任(2021年3月)

開会式直前に楽曲担当の過去の「いじめ」問題で辞任(開会式3日前)

反ユダヤ揶揄で開会式ショーディレクター解任(なんと開会式前日!)

まさに迷走の末の傷だらけのオリンピックだ。

「そんなこと言ったって始まってしまえばみんなオリンピックを楽しむんだよ」という人の心を見透かしたような米国三大ネットワークの一つ、NBCの会長の言葉。それがオリンピック放映権を牛耳る金権黒幕の言葉であるだけに、なんともやりきれないが、人々は結局はアスリートの活躍に狂喜乱舞し感涙するのは間違い無いだろう。開会式のお祭り騒ぎがが始まっただけで、スイッチがコロナからオリンピックに切り替わったような反応がSNS上に表れている。頑張るアスリートが悪いわけではない。素晴らしい競技に感動するのが悪いわけではない。祭りを求める庶民が悪いわけでもない。複雑な気分だ。1964年の時も、オリンピックに懐疑的であった作家、評論家も、一旦始まってしまうと「感動」を書き綴り始める。「テレビに齧り付いている民衆を見て「自立した抽象性」が人々を感動させる」と、芥川作家石川達三が書いている。東洋の魔女のストイックな戦いをテレビで観戦した有吉佐和子もその感動を激白している。まさに無観客、自宅でのTV/ネットでの観戦が主体となる今回の大会においては、その「自立した抽象性」に感動し酔いしれる人が増えるのだろう。しかもSNSで感動を共有するという、57年前には無かった事象が出現する。それが現代のリアリティーだと感じさせるデジタルテクノロジーの進化なのだから。しかしそれはそれでリアリティーを喪失した世界に別の危惧を抱かせるように思う。本来なら競技場でアスリート/観客一体となって感動を共有するはずのものなのだが。

選手団や関係者が続々と来日している。しかし、組織委員会が用意する検疫体制や日本人との接触を徹底的に避けさせる「バブル」と称する感染隔離対策に色々問題が発生している。基本は来日した選手/関係者をオリンピック選手村とホテルに隔離し、複数回のPCR検査を実施し、陽性者は出場させない。濃厚接触者も一定時間試合から隔離する。基本的に競技会場との間を行き来する以外、外出を許さない。違反すると関係先入場IDを没収する。報道関係者も同じ隔離政策が適用される。ところがこの措置に対する関係者の批判が相次いでいる。電車やバス、タクシーなど公共輸送機関に乗れない。コンビニで買い物すらできない。特に報道関係者は開催国の街の様子の取材ができないとクレームが。しかし一方で当然こんなルールなどものともしない連中は必ずいる。日本人のように言われたことを粛々とやる人間ばかりではない。マスクもしない、ワクチンも打たない。ルールで強制されることを絶対拒否する人間が必ずいるのだ。実際に外出やショッピング、飲食を楽しむものが出ている。逃亡して日本で働きたいと姿を消した選手も出てきた。いちいち組織委員会も監視などできないのだし。それに対し事務局はGPSによる監視体制の強化で対抗する。もういたちごっこの喧嘩だ。そして、想定通りというかオリンピック選手/関係者に感染者/陽性者が相次いでいおり、すでに100人を超えている。。

この来訪者をめぐる事態は我々日本人にとって、ある時代の混乱と迷走をデジャヴとして蘇らせる。すなわち幕末に黒船来航で開国したが、外国人を居留地横浜に押し込め、外出を制限し、日本人との接触を制限したやり方を彷彿とさせる。外国人を歓迎してに門戸を開いたのか、それともやはり本音は鎖国なのか?幕府のやり方は右顧左弁して徹底せず、それでも外国人はどんどん日本へやって来るし、来れば居留地にじっとはせず外へ出かけ、時に日本人とトラブルを起こす(その際たるものが生麦事件だ)。しかも、開国とともにコレラや天然痘などの感染症が日本に蔓延し、生活物資の買い占めなどで物価高を引き起こし、こうしたことが庶民を不安にしていった。これが開国反対、外国人襲撃という「攘夷」の根底にあった。攘夷は何も「神国日本を夷狄に蹂躙されてはならぬ」という尊王攘夷思想とか、「みやこに夷狄を入れるなんてもってのほかや」という孝明天皇の御意と関係なく、庶民にもわかりやすい形で不安と脅威を与えた。まさかこのグローバル時代の現代に!そんな攘夷だなんて、と思うかもしれないが、日本人に根強い「ウチとソトの二分法」による区別という思考様式が、こういうことをきっかけにムクムクと蘇り、外国人を見たら警戒せよという理不尽なルールがまかり通る瞬間である。あるホテルが「外人用」「日本人用」とエレベータを分けたことから大騒ぎになった。現在のオリンピック選手、競技関係者、報道クルーにたいする「バブル規制」はまさに現代の居留地である。コロナパンデミック、緊急事態だから仕方ないだろうという意見もあろうが、そもそもそんな状況で世界から人を招いてお祭りイベントやろうというのだから無理がある。その無理筋の結果、また「日本は特異な国」という悪評が蘇ることにもなりかねない。海外からの観戦者を受け入れないという決定はしたものの、本来海外からの歓迎すべき賓客であるはずが、まさかの「不良外国人」扱いされて「攘夷」の対象と化している。どこが「おもてなし」なのか?つまらないいざこざを惹起してコトをあらぬ方向に持っていってしまう。こんな異常な状態で開催強行するコトで、オリンピックが目指す本来の「平和の祭典」「友好の祭典」「多様性の祭典」で無くなってしまうのでは開催の意義はない。本当に「誰のためのオリンピックなのか?」残るのは不信感と後味の悪い思い出だけなんてごめんだ。

我々日本人が1964年に感じた東京オリンピックへの高揚感、ワクワク感、選手の活躍の感動、憧憬、スポーツの果たす役割といったものが、この56年でどこかへいってしまい、利権と政治の手段に堕してしまった感のあるオリンピックへの倦怠感があるのも事実だ。このきっかけとなったのはロスアンジェルスオリンピックだ。商業主義によるオリンピック興行成功は当時評価されたが、金と権力は腐る。結局はこうした世界がパンデミックに見舞われても金と政治を優先する。IOCは金儲けと政治プロパガンダを請け負う興行主に成り下がってしまった。IOCが近代オリンピックの原点に戻らないのであればもうオリンピックはいらない。クーベルタンはあの世で嘆いているだろう。どうも今回の一連の事態がIOC(ともう一つWHO)の評価を決めたようだ。一方で中国の新華社は北京冬季オリンピック開催を前にして、「日本は国威発揚の機会を失った!」などとコメントしているが、これこそオリンピックの開催意義を履き違えた国家の時代錯誤を露呈させてしまったようなコメントだ。彼らにとって北京冬季オリンピックは、結局「偉大なる中国共産党」の威光を世界に遺憾無く発揮するための政治的なプロパガンダの場なのだ。そうして人民の愛国心と党への忠誠心を高める。そのためには(前車の轍を踏まないよう)絶対成功させなくてはならないと言っている。我々日本は違う。「国威発揚」なんて時代はおかげさまで何十年も前に通過した。ナチスドイツのベルリン大会じゃあるまいし。戦前の日本の「お国のための愛国心」じゃあるまいし。あくまでも世界中から集うアスリートの活躍を祈るのみである。

1964年の東京オリンピックは日本にとって一つの時代のプロローグであった。戦後復興が終わり輝かしい未来に向かう「高度経済成長」と「グローバル化」という、日本にとっての右肩上がりで前進あるのみの「ある時代」の幕開けを飾るにふさわしい国家的イベントであった。新幹線、高速道路などの社会インフラ整備、建築遺産となりうる競技施設、ホテルなど、目に見えるレガシーを多く残した。しかし56年後の2020年の東京オリンピックはどうなのか?、皮肉にもコロナパンデミックがそれに加わって、その「ある時代」の賞味期限が来ても足踏み状態(空白の30年)が続き、それを乗り越えられないビジョンと目標を失った日本を象徴するイベントとなるように思えてならない。すなわち「ある時代」のエピローグである。実はコロナパンデミック、これこそ逆説的ではあるが現代に吹き渡る「神風」なのかもしれない。このオリンピックというノスタルジックな1964年の栄光の思い出に浸り、それに現代の状況を重ね合わせながら強行する東京2020。それにコロナパンデミックという先行きの見えない危機が覆い被さったこの嵐がまさに「神風」なのだ。しかし、この「神風」は、日本人が大好きな「根拠のない僥倖による奇跡」を引き起こしてくれるものではない。ようするに「八百万の神々の警告」だ。普段、日本の神は教えを説かないが、今回は国難に際して「災い転じて福となせ」「それはあなた自身がやることだ」と説いている。このエピローグは新しい時代の始まりを予感させるものでなければならない。東京2020が残すレガシーは決して新幹線や高速道路や競技会場などの物理的構造物ではないだろう。日本の政治体制にも、幕末の徳川幕藩体制と同様の運命が待ち受けている。攘夷から討幕へ。庶民の鬱積した感情のマグマが動き始め、やがては大きなパワーとなって噴出する。コロナパンデミックと変則オリンピックは日本に混乱をもたらすが、同時に中期的には変革をもたらすだろう。成熟国家への道といっていいかもしれない。黒船騒動は、最初は徳川幕府の緊急事態への対応の混乱が問題となったが、のちにそれが幕藩体制そのものが抱える根本的な問題に関わっていることに人々は気づいた。今回もこれを機会に「ある時代」の旧弊を捨て去り、「来るべき時代」を創造するムーヴメントに繋げなくてはなるまい。黒船が攘夷を引き起こし、やがてそれが倒幕という旧体制の打破へと転換し、新しい時代を創造する明治維新へと転変していったように。

とは言いつつも、オリンピックの喧騒が終わり、いつしかコロナも終息すると「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。諸々の迷走と混乱は人々の記憶から消え去る。まるで何事もなかったかのように。人は歴史に学ばない。カミュの「ペスト」の最後は「ペストは消え去らない。人間が忘れた頃、思わぬところで再び人間を襲う」。そのように結ばれている。