2021年11月4日木曜日

二つの聖堂を結ぶ橋「聖橋」から湯島聖堂とニコライ堂を巡る 〜現代都市の大海に飲み込まれる台地のランドマーク〜

 

湯島聖堂

ニコライ堂


東京の街はびっしりとビルが建て込んでいるため、土地の高低差がわかりにくい。まるで平坦な土地に高さまちまちのビルが建っているような錯覚に陥る。しかし、江戸開府以前のこの辺りは台地と河岸段丘が織りなす高低差のある土地柄である。したがって地名にも、「ナニナニ台」とか、「何々谷」、「なになに坂」が多い。神田駿河台は、その名の通り確かに高台である。御茶ノ水駅に降りたつとそこは台地の上であることがわかる。今は周りに高層の建物が立ち並んでいるので見通しは効かないし、高みにいて周囲を睥睨するというわけにはいかないが、そこから南西へ向かうとかなりの坂を下ることになる。明治大学、日本大学、法政大学、中央大学など、明治の頃に設立された「法律学校」由来の大学が並ぶ文教地区、「日本のカルチェラタン」と呼ばれる所以だ。かつてはニコライ堂が台地のテッペンにそびえていたが、今やビルに囲まれて姿が見えなくなってしまった。坂を下り切ると日本の出版業界、書店が集積する世界にも稀有な街、神田神保町だ。さらにはお城の堀端の神田一橋。現在の学士会館、一橋講堂のあるあたりは東京大学、一橋大学、東京外国語大学の発祥の地である。一方、お茶の水駅に戻って、深い谷(実は人工的に開削した)となっている神田川にかかる聖橋を渡って北東へ向かうと、すぐそこには湯島聖堂や神田明神がある。江戸時代初期には駿河台と湯島台地は地続きであったが、神田川開鑿で台地が二つに分かれてしまった。湯島聖堂も高台にあり、ここから秋葉原方面に向かう道も勾配の下り坂になっているのがわかる。湯島聖堂は徳川綱吉の時代に創設された孔子廟を起源とする儒学の聖堂だ。のちに江戸幕府直轄の昌平坂学問所。昌平黌が設けられた。明治になってからはこの地が、東京帝大学、旧東京教育大学、筑波大学、お茶の水大学発祥の地となる。現在の湯島聖堂の隣には東京医科歯科大学がある。元は聖堂の敷地であったところで、かつてはかなり広大な敷地を有していたことがわかる。

先述のように、駿河台と湯島台地は江戸初期には地続きであった、神田川開鑿後は、駿河台から小川町界隈はそれほど大きくない大名や旗本の屋敷地となり、維新後は駿河台上の旗本屋敷街跡に学校が創設されるようになる。また明治3年にはロシア正教の宣教師が、函館のハリストス教会に続き教会を創建した。これがのちにニコライ堂と呼ばれる。一方の、湯島台地側とは水道橋、昌平橋で繋がっていたが、聖橋がかけられるのはずっと後世のこと。河岸には湯島聖堂の敷地が広がっていて、幕府直轄の聖堂や昌平黌などの学問所の広大な敷地が占めていた。近代国家としての高等教育発祥の地として発展していくことになる。高台は世俗とは離れた聖なる場所。信仰と学問と思索の場所であった。この駿河台を開削して通された神田川にかかるアーチ橋は聖橋(ひじりばし)と呼ばれている。関東大震災ののちに、二つの聖堂、湯島聖堂とニコライ堂を結ぶ「聖なる橋」と言う意味で命名された。しかし、いまや湯島聖堂もニコライ堂も。東京という現代都市の街並みに呑み込まれてしまい、かつてのような威容を誇るランドマークではなくなってしまった。二つの聖堂を結ぶ橋「聖橋」に立ってみても、その姿を展望することは難しい。


1)湯島聖堂

1690年(元禄3年)徳川綱吉により創設された孔子廟が起源。のちに1797年(寛政9年)寛政異学の禁により、幕府直轄の学問所、昌平坂学問所(昌平黌)となる。明治維新とともに幕府学問所は閉校となり、明治4年に開成学校(幕府蕃書所を起源とする)と医学校(幕府種痘所を起源とする)となり、開成学校は神田一橋(今の学士会館の地)へ移転する。そのこの後工科大学校、医科大学校などの大学校を経て東京帝国大学へ改組されることとなる。また東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学)、東京女子高等師範学校(お茶の水大学)がここから生まれた。かつての湯島聖堂の敷地の大半は、現在は東京医科歯科大学のキャンパスとなっている。

現在の建物は、1923年(大正12年)の関東大震災による被災の後、1935年(昭和10年)に建て直されたもの。震災復興建築である。鉄筋コンクリート造りで、伊藤忠太の設計、大林組施工。聖堂創建時は朱塗であったが、昌平黌の時に黒塗りとなった。現在の建物はこの時の黒塗りを踏襲した。なかなか重厚で荘厳な建物で、仏教寺院とはまた異なる佇まいだ。敷地内の孔子像は戦後に台湾から寄贈されたもので、世界一背が高い孔子像だそうだ。敷地内は都心には稀有な緑の宝庫であるが、周辺は高層ビルで囲まれており、聖橋から眺めると昌平坂沿の築地塀がそれとわかるくらいで、現代都市の街並みに呑まれている。特に東京医科歯科大学や順天堂大学の高層建築が聖堂を見下ろす形になっている。



仰高門

入徳門


杏壇門



大成殿




孔子像

階樹(かいのき)


湯島台地から万世橋/秋葉原へ下る相生坂(昌平坂)
湯島聖堂の後ろのビル群は東京医科歯科大学




2)聖橋

神田川にかかる聖橋は、震災復興橋梁として1927年(昭和2年)に完成した鉄筋コンクリート造りのアーチ橋。山田守(京都タワー、日本武道館の設計者)、成瀬勝武のデザイン、設計による。名前は東京市が公募し、湯島聖堂とニコライ堂の二つの聖堂を結ぶ橋という意味で「聖橋(ひじりばし)」と命名された。江戸時代初期には、駿河台と湯島台地は地続きであったが、幕命で伊達政宗が外堀と合わせた新しい神田川(江戸川)流路設置の治水工事の一環として台地を開削し、人工的な水路を設けた。こうした経緯からここお茶の水駅あたりの神田川は「伊達堀」とも言われる。明治以降は鉄道がこの神田川に沿って敷設され、中央線の終着駅は万世橋であった。現在は聖橋寿命化工事が終わり、夜間ライトアップも再開されるようだ。


聖橋とJR御茶ノ水駅

1932年(昭和7年)小泉発巳男の木版画
水路交通が盛んであった頃で、船から見る聖橋が一番美しい

地下鉄丸の内線が地上に現れるスポットとして鉄道ファンに人気。
ニコライ堂のドームがチラリと見える


聖橋の相生坂(昌平坂)アンダーパス
左が湯島聖堂敷地


3)ニコライ堂と駿河台の大学街

東京復活大聖堂が正式名称。ニコライ堂は通称。日本ハリストス正教会の首座教会(総本山)英文名はOrthedox Church of Japan。1891年竣工 ミハエル・シチュールポフ原設計、ジョサイア・コンドル実施設計。原設計とコンドルの設計との間にどのような変遷があったのか不明である。1929年震災復興設計 岡田信一郎。清水組施工。1962年国指定重要文化財。

1871年(明治3年)、ロシアからニコライ神父が正教布教のため来日。函館ハリストス教会に続き、神田駿河台に教会を創建した。正しくはロシア正教会の教会ではなく、日本正教会の本山である。正教会は国ごと独立している。

この聖ニコライの名を冠したニコライ堂は、かつては駿河台に聳える一番高層な建物で、文字通りこの地域のランドマークであったが、いまや周辺を高層ビルに囲まれて、近くまで行かないとこの荘厳な教会堂を見ることができない。ここも湯島聖堂と同様、東京という現代都市景観に呑み込まれてしまっている。駿河台の大学街も、あの威容を誇る明治大学本館が取り壊されて久しい。その跡地に高層タワーの校舎が建設されるなど、街の有様が大きく変わった。日大の理工学部の旧館が保存活用されているのがせめてもの慰めだ。大学もキャンパスがない代わりに高層ビルになる時代なのだ。心なしかかつての学生街の趣が薄れ、どこか都心のオフィス街の雰囲気を漂わせている。


コロナ対策で内部の参拝、見学はできなかった

かつての正面

戦前の絵葉書
周辺に建物はなく駿河台上に威容を誇っていた。

明治大学リバティータワー

明治大学三代目の本館の威容(1928年創建、1995年取り壊し
Wikipediaより)も今は昔の物語


日大理工学部図書館
こうした伝統的な建物はメッキリ少なくなった。
隣の医学部校舎、病院は高層ビルに建て替えられている。

商法講習所、東京商科大学跡。一橋大学発祥の地
隣には如水会館(同窓会館)
こちらもネオゴシックの兼松講堂が取り壊されて高層ビルになった

学士会館
開成学校、外国語学校跡。東京大学、東京外国語大学発祥の地



(撮影機材:Leica SL2 + Sigma 24-70/2.8 DG DN )







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