2022年3月29日火曜日

それでも桜の季節がやってきた 〜パンデミックと戦争の間で〜

 今年は東京の桜の満開は3月27日。コロナパンデミックも3年目。さらにウクライナでの戦争が始まった。どちらも収束の見通しが立たず、先の見通せない混沌とした時代だ。そんななかでの桜の開花。「知恵の実を食べた人間」の傲慢と愚かさにもかかわらず自然は毎年桜を艶やかに咲かせてくれる。彼の国の戦争で子供を含む多くの無辜の市民や、駆り出された兵士が殺されているその惨状を思うと、こうして桜を愛でることができることををありがたいと考えなくてはなるまい。しかし迫り来る予見不能な未来に漠然とした不安を感じざるを得ない。しかし、この戦争は国と国との戦い、民族と民族の戦いではなく、専制主義と民主主義との戦いだ。すなわち専制的な独裁者と国を超えた市民との戦いである。ウクライナの人々が武力に屈せず勇敢に戦うのは家族を守る、故郷を守る、民主主義を守る「大義」があるからだ。独裁者に駆り出されたロシアの若者は「なぜこんなところで死ななけりゃいけないんだ」、「何から誰を守ろうとして戦うのか」わかっていない。彼らに戦いの「大義」はない。これは悲劇だ。市民は国を超えて連携し、市民を戦争へと駆り出す専制的権力と戦わねばならない。功罪は色々あれど、マスメディアに代わってネットが世界中の市民が連携するツールとして情報の共有とフェイクニュースやプロパガンダに惑わされないことに役に立つことは、今回の戦争が教えてくれた点の一つだ。停戦交渉が始まっているが、この「大義」のための戦いに妥協や取引があってはならないように思う。しかし一方で、この戦争に巻き込まれた人々にとっては一刻も早い戦いの終結が願いだ。もうこれ以上の殺戮を止めたい。故郷の破壊を止めたい。正義の感情を納得させることと人の命とのジレンマだ。

もう一つの人類への挑戦、コロナパンデミックもなかなか終息しない。東京では「マンボウ:蔓延防止措置」は解除になったものの、感染者数は減少は緩やかで、ここ数日は再び上昇傾向に転じている。いつ果てるともないコロナとの戦い、いや付き合いに、生活のスタイルもこれまでのようにはいかない。非日常が日常になっている。いや、3年も経つと何が日常であったかそろそろ忘れ始めている。かつての日常を取り戻すのではなく、新しい日常に慣れていかなければならなくなっている。外出や人との集まりが憚られる事態は解消していない。ましてこの時期の「お花見乱痴気騒ぎ」なんて、いつの時代の話だったか。昭和バブルの話か、はたまた北斎漫画の世界の話であったか... 

我が家の今年の桜は、こうした「自粛ムード」に加えて連れ合いが足の骨折というアクシデントに見舞われたため、遠出はせずにご近所散策と洒落込んだ。桜はこの季節、街の景色を一変させる。いつも通る街角や公園のなんの変哲もない裸の樹が一斉に花を咲かせて別世界の景色を生み出してくれる。日常の中の非日常。こういう非日常は気分を変えてくれて良いのだが、本当はこの頃、平凡な日常がいかに大切かを思い知らされている。桜が咲いたことで「非日常」を感じる平凡な日常が愛おしい。今回はそんな心境で撮った写真を淡々と眺めていただきたい。余計な能書き無しにして。


1)大森水神公園














今年もブルーシート「お花見」パーティーは自粛




ご近所の児童公園の夜桜見物もまたオツなものだ



2)目黒川(品川、大崎、五反田界隈)







ホント、カメラ持ってる人がいなくなってしまったなあ!

まだ花筏は無い





Sakura Reflections








3)御殿山(3月30日追加)
















(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)

このモンスターマシンNikon Z9の威力はすごい。こうした近所の桜ハンティングにも活躍してくれる。以前のブログで「Z9をご近所ブラパチに持ち出すのは、ベンツSクラスでコンビニに買い物に行くようなもの」と自嘲気味に書いたが、使ってみるとこうした日常の撮影にも取り回しが非常に良いことに気がついた。決して重すぎずバランスが良いし、縦位置グリップが役立つ(前言を節操もなく翻すことをお笑いください!)。特にNikkor Z 24-120/4との組み合わせは最高。いつも持ち歩きたくなるパートナーだ。ベンツでコンビニに買い物に行くのも悪くない。食わず嫌いは偏見の元だと気付かされた。