2022年10月3日月曜日

江戸城再発見(4)〜江戸城の遺構を愛でる 「櫓」編〜

 江戸城遺構探訪「櫓」編

元々「櫓(やぐら)」は中世から戦国にかけての山城、砦、居館では。土塁の隅や峰の頂上、あるいは門の上に設置された物見台が起源であった。その後、近世になってからは石垣の隅に設けた見張りや、門・石垣を守るための構造物を「櫓」というようになり、近世城郭の欠くべからざる構成要素となった。特に江戸時代に入り、徳川幕府の許可のもと構築された城に多く設けられ、姫路城や熊本城、金沢城などの櫓が現在もその美しい姿を今に伝えている。櫓は二層か三層構造が多い。天守閣を除くと城郭の美しさを表現する重要なエレメントが石垣とこの櫓である。江戸城にも櫓がかつて19あった(確認できていない櫓を含むともっとあったと言われている)。しかし、火災や、明治の廃城令に伴う破却で、現存するのは富士見櫓(多聞櫓を含む)、伏見櫓、巽櫓のわずか3つのみである。


1)富士見櫓/富士見多聞櫓

本丸の東南隅に位置し、現存する江戸城内最古かつ唯一の三重櫓。明暦の大火で天守が全焼し、その後再建されなかったので、富士見櫓は城内で一番高い建物であった。どこから見ても同じ形に見えることから「八方正面の櫓」との別名も。かつてはここから富士山はじめ、筑波山や秩父連峰、江戸湾が見えた。将軍の両国の花火の見物場所であったとも言われている。しかし、ここも本来は本丸防衛のための隅櫓の一つであることに変わりはなく、堅牢な石垣と石落としが設けられている。関東大震災のときにも櫓は損壊したが、石垣はびくともしなかった。加藤清正の築造と言われている。そういえば熊本地震のときの熊本城飯田丸五層櫓の「奇跡の一本石垣」も清正の手になるものであったと言われている。戊辰戦争のときには大村益次郎はここから上野寛永寺の炎上を確認した。また明治になると新政府はここを本初子午線の基準にし、最初の三角点をここに定めた。現在の富士見櫓は、本丸(東御苑側)や坂下門から入った西の丸(乾通り)からしか見えない。皇居外苑からもみえるが、樹木に視界が遮られて全容がよく見えないのが残念である。

富士見多聞櫓は、本丸の松の廊下付近に現存する唯一の多聞櫓。多聞櫓は本来、石垣の上部に連なって設けられた櫓で、普段は武器庫や侍所(一種の兵舎)として用いられていた。こちらも坂下門から入った乾通りからはよく見えるが、皇居外苑(皇居前広場)からは見えないい。

皇居外苑から見た富士見櫓
今では木立に囲まれていて見えにくいのが難点


巽櫓と桔梗門の向こうに富士見櫓がチラリと見える


本丸側(東御苑)からみた富士見櫓
広場が設けられて三層構造が見やすくなった
(内部は非公開)


富士見多聞櫓と高石垣
乾通りからの展望


富士見多門櫓
本丸側入り口

江戸時代末期の富士見櫓古写真



2)伏見櫓

二重橋の奥にそびえる伏見櫓。「皇居といえば」の代表的な景観だ。寛永年間に京都の伏見城の櫓を移築したと伝えられる。明暦の大火も免れた貴重な櫓だが、関東大震災で大きく損壊した。その後は解体修理により往時の姿が復元された。大きな軒反りが優美な唐破風と入母屋破風の二重構造屋根。なんとも古風な美しさを今に残している。ここからは見えないが背後には十六軒多聞櫓が連なっている。それにしても二重橋(正門石橋+正門鉄橋)と富士見櫓のコラボレーションは壮麗で美しい。江戸城の面影と皇居正門のコラボレーションと言ってもよいだろう。


伏見櫓

二重橋


3)巽櫓(桜田二重櫓)

桔梗濠にそびえる別名、桜田二重櫓。巽の方角を守ることから巽櫓と呼ばれることが多い。江戸城に唯一現存する隅櫓である。この隅櫓の役割は本丸、三の丸、二の丸の防御と外敵の監視が目的で、大手門の左角に位置している。江戸城にはこのような隅櫓が角角に備えられていて、防備の役割を果たしていた。したがってこの巽櫓にも鉄砲狭間や石落しが備えられている。東京駅丸の内赤レンガ駅舎から真っすぐ伸びる行幸通りを皇居に向かって進むと、和田倉門の噴水公園の先の右手に見える。この巽櫓と、桔梗門、富士見櫓(先述のように木立に覆われて見えにくいが)が並んで見えるポイントが観光客には人気がある。また丸の内、大手町のオフィスビル群との新旧景観コラボレーションが東京の代表的な景色の一つとなっている。


巽櫓と桔梗門、富士見櫓(ちょっと見えにくいが)

近代的なオフィスビルとのコラボレーションは東京を代表する景観の一つ

千鳥破風の屋根の下には鉄砲狭間と石落しが見える
防御施設であることがわかる


(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4、Leica SL2 + Vario Elmarit 24-90)