「フローニンゲン新地図帳」オランダ語版 1791年 表紙 亜欧堂田善の模刻 |
オルテリウス「世界の舞台」英語版 1606年 表紙 |
コメリン「オランダ東インド会社史」1646年 表紙 |
千葉市美術館の「亜欧堂田善」展 没後200年記念、江戸の洋風画家・創造の軌跡 を鑑賞してきた。先週のNHK「日曜美術館」でも「日本に生まれたオランダ人」として紹介された。この亜欧堂田善の作品140点と、彼の画業に関する日欧の作品250点が一堂に展示されるという圧巻、充実の企画展である。
亜欧堂田善(あおうどう でんぜん、本名は永田善吉 1748年寛延元年生まれ、1822年文政5年没)は現在の福島県須賀川市生まれ。47歳のときに白河藩主松平定信の命を受けて腐食銅版画技法を習得し、主君の庇護のもと、日本初の銅版画による解剖図「医範提鋼内象銅版図」や、幕府が初めて公刊した世界地図「新訂万国全図」などを手がけた。いっぽうで西洋版画の技法を取り入れた江戸名所シリーズや肉筆油彩画も手がけるなど、多くの傑作を残している。 須賀川の商家に生まれ生来画を好んだという田善は伊勢国の画僧・月僊の画を学ぶも、絵師としては生計を立てられず、兄とともに染物業を営んでいた。田善に転機が訪れたのは、1794年に白河藩主の松平定信に見出されたときだ。以後、定信が重用する谷文晁に師事し、画業の道を歩むこととなる。画号の「亜欧堂」は、藩主松平定信が、アジア(亜)とヨーロッパ(欧)を眼前に見るようだ、と称賛して彼に与えたと伝わる。
やがて、田善は江戸に召し出されて本格的に銅版画技法の習得を命じられる。当時を伝えるものとして注目したいのは、田善の《洋人曳馬図》(1802)とヨハン・エリアス・リーディンガー《トルコの馬飾り・諸国馬図》(1752)の比較展示だ。《トルコの馬飾り・諸国馬図》は田善が最初に目にした西洋版画のひとつであるが、田善がこうした西洋版画から構図をはじめ多くの引用をしながら絵馬や画を制作していたことがわかる。
田善は銅版画技術の習得のみならず、その過程で透視遠近法や陰影法といった手法も西洋画から学んだ。油彩画においてもその力量が発揮され、例えば、透視図法を用いた絹本油彩の《江戸城辺風景図》(1789〜1801頃)は、江戸城の石垣と堀の描写が、独特の空間表現として見るものに強い印象を残す。いっぽう、重要文化財である《浅間山図屛風》(1804〜18頃)は江戸時代最大の油彩画と言われているが、本作で田善は西洋画法をよく理解しながらも、ただ模倣するのではなくあえて写実性を排して装飾的な迫力を表現している。
華やかな浮世絵とはまた異なり、実利実用の側面も強かった田善の仕事だが、その技術の高さや多彩な表現を豊富な作品群で見ることができる。「美術」という言葉がまだなかった時代のひとりの絵師の多様な仕事を、いまに生き生きと伝える展覧会だ。
(以上、「美術手帖」ウェブサイトから一部を引用)
千葉市美術館における「亜欧堂田善」没後200年記念展についての詳細については我が畏友のブログ「東京異空間」をご参照いただきたい。
銅版エッチング作品について
今回は特に。西洋銅版画との比較で、田善の腐食銅版技法を駆使した作品に注目した。先述のように、白河藩主の松平定信に、西洋で作られた世界地図や解剖図のような実用的な銅版画の製作技術を身につけるよう命じられたことから始まった。田善は、そのためにはということで西洋絵画を学び、油彩画にも取り組んだ。そして銅板エッチング作品に取り組んだ。その結果が、多くの絵画・版画作品を生むこととなり、最終的には世界地図と解剖図を完成させることで藩主の期待に応えることができた。そのプロセスで生み出された様々な作品に見られる模写、模刻の力は卓越しており、モノマネが得意な日本人、コピーがうまい日本人、と揶揄されるのも故なしとは言えないと感じるが、それにしてもこれだけ高度な模写・模刻できる技術・技量は驚嘆に値し、誰もがまね出来ることではない。もちろんヨーロッパに留学したわけでもなく、オランダ人画家・版画家に手ほどきを受けた訳でもない。鎖国下の日本での話である。長崎のオランダ商館を通じて得られた限られた西洋画や書籍を見ながらの模写・模刻であるから驚きである。寛政年間には司馬江漢など一部で腐食銅版画の制作が成功していたが、松平定信から見るとまだ細密さにかけており、満足の行く出来ではなかった。田善は卓越した技法を身に着け、銅版画の創始者は江漢であるとしても、その大成者としての地位を確立した。それ故に司馬江漢をして田善を「日本に生まれたオランダ人」と言わしめたほどである。更にそれにとどまらず、田善自身の感性による銅板版画の咀嚼と止揚で、遊び心に満ちた独自の世界を生み出した。まさに日本文化の「受容」と「変容」プロセスの典型例だとも言える。
さて、ヨーロッパで刊行された17世紀から19世紀中までの書籍には、その挿画に銅版エッチングが多く用いられた。肖像画や、建物、風景、地図、または装飾的な表紙のイラストなど、油彩画や木版画と異なり、小さな画面に精密に描写できること、繰り返しプリントできることから書籍の出版に適しており、写真がない時代のビジュアルメディアとして重宝がられた。成熟期のエッチング作品は、工芸品、更には芸術作品としての価値も高く、著名な作者も現れて作品としても洗練されていった。故に、現代まで愛好者、コレクターが多く、ロンドンなどの古書店でも古プリントとして取引されている。ちょうど日本の浮世絵のような存在と言ってよいだろう。透視遠近法や陰影法が用いられていて立体感があり、奥行きのある写真のようなリアリティを感じる作品が魅力的である。私もこうした銅版エッチング作品の魅力に虜になった一人である。であるからこそ、日本の江戸時代(文化文政年間)の田善のエッチング作品との出会いには衝撃を受けた。
今回の展示の、腐食銅版画技法、透視遠近法、陰影法を用いた、西洋版画の模刻作品は、本家の原画を凌ぐほどであり、先述の解剖図「医範提綱内象銅版図」やわが国初の世界地図「新訂万国全図」の完成度は、田善のいわば技術者としての到達点を示している。一方、その実用的版画の完成域に到達する過程で生まれた、数々の版画・油彩画作品は、個性的な造形や構成力を遺憾なく発揮しており、芸術家としての田善の力量を示している。特に、小型の銅板エッチング作品である「東都江戸名所図会」には、新鮮な驚きを感じる。これまで広重や北斎の多色刷り木版画の浮世絵の世界に慣れ親しんできた我々にとって、同じ風景、同じ構図、同じテーマであるにも関わらず、全く違ったモノクロの世界で、より精密で、透視遠近法、陰影法を駆使したリアリティーあふれる江戸の街の風景が再現されていることに驚く。また、その空の描き方、雲の処理は、西洋の銅版画のそれを江戸時代の日本に復元したもので、「泰西名画」的なエキゾチシズムすら漂う。また、やや時代を下る幕末、明治初期のベアトや上野彦馬が写し出した江戸の古写真をも彷彿とさせる。日本の浮世絵が19世紀ヨーロッパの芸術運動・アールヌーヴォーに与えたインパクトと同様、西洋の銅版エッチング画が、19世紀初頭の江戸・文化文政期に、浮世絵に与えたインパクトも大きかったはずだ。しかし、これまで田善の画業があまり顧みられなかったことは不思議に感じる。今改めて彼の作品に光が当てられることは嬉しいことだ。この亜欧堂田善:AEUDOO DENZENの画業がヨーロッパでどのように評価されるのか。次の企画展をぜひオランダあたりでやって欲しいものだ。
以下に、田善の作品と、同時代の私所有のイングランドの銅版画作品を比較鑑賞してみたい。
(田善の掲載作品は展示会場で撮影許可されたもの)
油彩画「江戸城辺風景図」 寛政年間(1789〜1802)後期から文化年間(1804〜18)前期 |
「浅間山図屏風」六曲一隻 文化年間・1804〜18年ころ |
Black's Travel Guide Book 1856 スウォンジー市内鳥瞰図 |
Black's Travel Guide Book 1856 エジンバラ市街地図 |
彩色エッチング「ドーバーの白い壁」 1804年 銅板エッチングに水彩で彩色したもの |
彩色エッチング「ロンドン・グリニッチ公園」 1805年 |
Dictionary of Geography 1856 「江戸図」 誰が描いたものか興味がある |
Dictionary of Geography 1856 ロンドン・ウェストミンスター宮殿とテムズ川 |
4)ロンドン街角ガイドブック ”Up and Down The London Street 1867”より
Charing Cross |
New Hall Hospital |
Guildhall |
Royal Exchange |
St. Paul 聖堂内 |
Piccadilly |
エリザベス一世肖像 |
シェークスピア肖像 |
5)江戸鳥瞰図
亜欧堂田善「東都名所図」 銅版画 |
鍬形蕙斎(1764-1824)「江戸一目図屏風」東京都立中央図書館 木版画 |